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第一部

Requiem〜pray for the souls of the dead〜


            プロローグ


 遠い日の記憶。さほど昔でもなく、最近でもない日の記憶。途絶えた記憶。なくしてしまった思い出。

ただ、暗くて冷たい感触だけ覚えていた。

『闇に見初められた者よ・・・。どうかそなたの意志の中に我を住まわせてはくれまいか・・・。その代わり、そなたに救いを与えよう。』

 虚ろな意識の中、確かに俺は、死にゆく者だったはずだ。だけど・・・。声が聞こえた。ひどくおぼろげで儚い。しかし、それは夢ではなかった。

『再び世に生きる希望を与えよう。その代わりに、我が闇の運命を背負ってくはれまいか・・・。』

 そうして俺は目を覚ました。俺は何も変わらなかった。すべては元通りとなったはずだった。心の中に住み着いた何かを除いては・・・。

 その正体を知るのはそれから数週間のことになる。つらい日の思い出がその時まさに産声を上げたのだ。しかし、それもまた新たな思い出の一つとなった。

 それは、ひとえに罪悪感に思い悩みながらも、ただそれを享受するしかない自分の無力さに絶望するような思い出にすぎなかったが・・・。

 それも俺の思い出の一つなったのだ。

 人は止まることなく変わってゆく、俺も変わっていく。だけど、一つだけ変わらないものがある。それに気がつくには多くの時間が必要だった。

 思い出そう。遠きあの日のことを。今の俺には気の遠くなるほどの時間が用意されている。

思い出そう。俺が最も幸せだったあのころを。

 幸せな記憶・・・真の思い出を・・・。流されるだけではない、自分の足で歩んでいくことを学んだあのころを・・・。



第一部 眠れない夜(sleepless night)


(1)


 ・・・朝か・・・?

 皇磨御剣(こうま みつるぎ)は窓から差し込む日の光をまぶしそうに見上げた。カーテンの隙間からは朝を告げる木漏れ日に混じって鳥の鳴く声が子守歌のように聞こえてくる。

「・・・寒いな・・・。」

 彼は、そう、ひと言呟くと、再び布団をひっつかんで頭までかぶってしまった。

 ほどよく体を圧迫する布団が心地よい。

「何だってこんな日に学校なんて・・・。」

 彼は更にうずくまろうとして身を縮み込めようとすると、腹の辺りにフサフサとしたものがあることに気がついた。

 彼は、それを捕まえる。それは、生き物のように身をよじってその手から逃れようとジタバタしていた。にゃーにゃーと機嫌の悪そうな声を上げながら。

「なあ、お前もそう思わないか・・・。ミカエル・・・。」

 布団から取り出したのは、黒猫のミカエルだ。あまりの寒さに耐えきれず、布団の中に潜り込んできたのだろう。

「そうだよな・・・。こんな日はゆっくり布団の中で・・・。」

 再び微睡み夢の世界へ・・・。今度は、さっきみたいないやな夢も見ないだろう・・・。どんな夢を見たのかはすっかり忘れたが・・・。

「お兄ちゃん!起きてよー!朝ご飯できてるよー!」

 そんな彼を一気に現実の世界に引き戻すほどの元気な声が響いた。しかも、ご丁寧にドアをたたき壊すつもりでもあろうかと思うほどのノック音と共に。

「早くぅー。こないだも遅刻して先生に怒られたっていってたじゃない!学校ー。」

 妹よ・・・。そこまでしたらいいかげん拷問になるぞ・・・。

 彼は、耳を両手で塞いだ。しばらくすればこの無法者もあきらめ、再び安息が戻ってくるだろう。それまで耐え切れれば・・・。

 しかし、ドアをたたく音は、弱まるどころか、逆に強くなっていく一方だった。その音は振動となり、彼の頭を揺さぶるようだった。

 次第にそれは痛みとなって彼の頭を責め立てていく。

「うるせー!」

 彼は、妹・・・皇磨美雪(こうま みゆき)の不必要なまでの元気な声に負けないほどの声を張り上げると、布団を蹴り飛ばしながら起きあがった。

 その布団と共に黒い毛玉のようなものが天井に舞い上がったことは、いうまでもない。

「何よ!人が起こしてあげてるってのに!」

 バタン!と、ドアが勢いよく開かれ美雪が姿を現した。

 形の整った卵形の顔に背を覆い隠すほどの長い黒髪が揺れる。それが怒りに頬を赤く染め上げているのは確かに可愛いといえなくもない。

 しかし、そんなことは今はどうでもいい!

「別に頼んじゃいねえよ。」

 御剣は憤然と立ち上がると憎まれ口を叩いた。足下でなぜか爪を立てて怒っている黒いものを足でけっ飛ばしながら・・・。

「美雪はお母さんから頼まれてるんだもん!」

 美雪は口をとがらせた。

「はっ!だからどうした?第一お袋がいつ頼んだってんだ?俺は聞いちゃいねえぜ・・・。それに・・・。イッテェ!!」

 美雪は驚いて御剣の足元を見た。そこには、なぜか毛を逆立てて御剣にかみついているミカエルの姿が映った。

「このバカネコ!」

 ただでさえ寒い朝に無理矢理起こされて腹を立てていた御剣の怒りが頂点に達した。彼は反対の足でミカエルを思いっきり蹴り上げた。

 ミカエルは、「にゃーん」と、情けない声を上げながら、勢い余って窓の外に放り出され、屋根をごろごろ転がっていった。

「あ、あああああ!ミーちゃん!」

 美雪はあわてて窓から身を乗り出した。しかし、既に時遅し、ミカエルは、もうすでに下に落ちてしまったようだ。

「ひどいよ・・。お兄ちゃん。」

 美雪は恨みがましく御剣をにらんだ。

「あいつは、化け猫だからな。不死身なんだ。大丈夫だよ。」

 それに対して彼は平然としていた。

「そういう問題じゃないよぉーー。」

 御剣は、その話題に飽きたのか短いため息を吐くと、

「さあ。着替えるからとっとと出て行け。それとも、着替えがみたいか?」

 美雪は、フンとそっぽを向くと、ドアを乱暴に閉めながら部屋を出て行った。

「お兄ちゃんのバーカ!」

 などと置きみやげを残して・・・。

 あとで泣かしちゃる・・・。

 御剣は密かに毒づいた。

 目が覚めてしまった以上もうやることは決まってしまった。結局美雪の思惑通りになってしまったのが気にくわないと思いつつ、彼は手早くパジャマを脱いで制服に着替え、乱れがちな髪を適当に櫛を通して整える。鏡などないが別にそんなことは気にすることではない。そして、鞄をつかみ部屋を出ようとして・・・ふと、踏みとどまった。

「おい、行くぞ・・・。」

 そう一声かけると、いつの間に登ってきていたのか、黒猫のミカエルがとことこと御剣の後に続き部屋を出た。

 階段を下りてリビングにはいると、すでに美雪が朝食のパンをムシャムシャとかぶりついているところだった。

「あ、おにひひゃん・・ほはよふ・・・。(あ、お兄ちゃん。おはよう)」

 口の端にジャムをつけながら美雪は兄に挨拶したが、口にパンを含みながらだったためあまりにも舌足らずだった。

「口にものを詰めながらしゃべるな。」

 御剣はあきれながらも美雪の横に座ると、自分の分のトーストにバターを塗りたくり、ホットミルクをマグカップに注ぎ、砂糖を入れた。

 不意に、リビングの扉が開く音が響いた。

「おはよう・・・・。ふぁーーあ。」

 二人にとってはおなじみの声に振り向くと、いま起きたばかりなのか眠たそうに目をこすりながら二人の母親・・・皇磨美沙があくび混じりにリビングに姿を現した。

「おはよう・・。お母さん。」

「おはよう・・。」

 二人は、呆れ混じりに適当な挨拶を交わすと、トーストを口に運んだ。

「ずいぶんゆっくり食べてるのね・・・。今日はいいの?」

 朝は、ブラックコーヒーを飲むのが日課の美沙はコーヒーメーカーからコーヒーをカップに注ぐと、一口飲んだ。

 二人は、ふと時計を見た。いまは、8:10・・・。ホームルーム開始が8:25で、学校まで歩いて20分ぐらいかかるから・・・。

 御剣と美雪は、がたんと音を立てながら殆ど同時に立ち上がった。

「やべ!遅刻するじゃねえか!」

「お兄ちゃんがはやく起きないから!」

「うるせえな。だったら、もっとはやく起こせ。」

「お兄ちゃん、起きなかったじゃない。美雪はちゃんと起こしたもん!悪いのはお兄ちゃんでしょ!!」

「なんだと!?」

「なによ!」

 いつもの兄妹喧嘩が始まりそうな勢いだったが、今はそうもしてられないことは二人とも分かっていた。。

「あなた達。さっさとしなさい。本当に遅刻するわよ。」

 正直なところ、全力疾走しない限り遅刻は決定だ。いや、全力疾走したところで、間に合うかも微妙なところで・・・。

 二人とも遅刻ぐらいどうということはない、などと言い切れるような性格ではなかった。

「「行ってきます!」」

 二人の声が重なり、先を争うように玄関を出て行った。

 美沙は、やれやれとため息を吐くと、余った口の中にコーヒーを注ぎ込んだ。

「やっぱり、朝はこれに限るわねえ。」

 二人の喧嘩もいい目覚ましになるわね・・・。と心の中で細くほほえんで、カラになったマグカップに再びコーヒーを注いだ。


      ※


 ・・・やばかった。はっきり言ってぎりぎりセーフだった。息を切らしつつ、教室に入った瞬間、始業ベルが学校中に鳴り響きホームルーム開始という運びだったのだ。

 美雪は、一つ下の階だからまあ、大丈夫だろう。

 しかし、よもやこんな冬の日に汗をかくとは思わなかった。

 そのおかげで、一限目はダウンして二限目には微妙に差し込む暖かな光にうとうとしてしまい、三限目はほどよい空腹に襲われ。ようやく落ち着いたのは昼休みに入ってからだった。

「おーい。御剣ぃ・・・今日はどうしたんや?・・・。」

 この関西弁を操るのは御剣の友人(悪友ともいう)の神崎塔矢(かみさき とうや)だ。相変わらずニヤニヤした笑みを浮かべながらながら彼に近づいてきた。彼の手にはしっかりと弁当が握られている。

 朝起きて自分でつくってるっていうんだから、人は見かけによらないというものだ。

「うるせーな。いろいろあったんだよ。」

 気がついたら、弁当を忘れてきていた御剣は、机にうつぶせになって睨みつけた。催促するような腹の音が妙に恨めしい。

「いろいろってなに?私、興味あるなあ。」

 突如彼の背後から声がした。普通なら驚くところだが、もういい加減この登場の仕方には慣れた。

「なんだ。優紀か・・・。何でもねえよ。」

 彼の幼なじみの緑野優紀(みどりの ゆうき)はイタズラっぽい笑みを浮かべると、

「美雪ちゃんと喧嘩でもした?」

 御剣は目をそらせた。

「してねえよ。」

 と、そのぶっきらぼうな物言いはいつまでたっても変わることがない。

「だめだよ。美雪ちゃんを怒らせたら。ご飯、食べさせてもらえなくなっちゃうよ。」

「う・・・・。」

 それを言われると彼も辛い。料理長を怒らせることは、そのまま死につながることでもあるからだ。

「うふふふ・・・。」

 優紀は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。

 優紀と皇磨家は親の世代からの知り合いで、当然、御剣も優紀もお互いをよく知っている。

 だから、優紀は、御剣がこうは言っても美雪のことにはめっぽう弱いということはよく知っているのだ。

「お兄ちゃん!」

 突然、教室の入り口から元気な声が響いた。それが御剣の妹、美雪だということはクラスの誰でも知っている。

 美雪は知っている場所のように勝手に教室に入り込むと御剣の席にやってきた。

「美雪ちゃん。どうしたの?」

 優紀は笑顔で彼女を迎えた。御剣の対する態度の違いに不満を覚える御剣だったが、いまに始まったことでもない。放っておこう。

「あ、優紀お姉ちゃん。こんにちは。今日は、お兄ちゃんにお弁当を届けに来たの。」

 お使いを言い渡された子供のような幼い笑顔にファンは多いらしいが、兄としてはどうも聞き逃していられないような気もしないでもない。

 御剣は、複雑な顔をしながら美雪の手には自分のともう一つ、美雪自身の弁当箱も抱えられていることに気がついた。

「よう。みゆっち、よう来たな。まあ。座れや。」

 それに気がついたのか。塔矢は側にあったイスを美雪に譲りながら、自分も席を探して座った。

「結局。俺のところで食うことになるのかよ。」

 見ると、優紀も御剣の机に自分の小さな弁当を広げていた。いつのまに椅子を持ってきていたのだろうか?

「やれやれ・・。ちゃっかりしてら・・・。」

 とりあえず無言で、というより、わざと不機嫌な態度で、御剣は弁当を受け取った。

 美雪はいつも二人分の弁当をつくっているので彼女が忘れるわけはない。今朝は、わたすチャンスがなかっただけだ。

 その要因が御剣自身なので、彼は何も言えない。

「なあ。早う食おうや。腹が減って死にそうや。」

 塔矢は、これぞ学校唯一の楽しみ、といわんばかりの満天の笑みを浮かべて手を合わせている。・・・律儀なやつ。御剣は苦笑を浮かべた。

「お前はいつでも腹減ってんだもんな・・。」

「朝練があるとな。」

 塔矢はニッと笑った。

「良くやるぜ。たかがスポーツにあれだけがんばれる奴の気が知れねえ。」

「お前もやればええやんか。結構おもろいもんやで?やってみたらな。」

「遠慮しとく。」

 塔矢は陸上部に所属している短距離の選手だ。今日も早朝から練習をしていたらしい。彼のがんばりはクラスでも結構有名で、次の大会が期待されているアスリートなのだ。

「次の大会はどう?うまくいきそう?」

 二人の会話を聞いていた優紀は興味津々に聞いてきた。

「せやな。まあ、ぼちぼちちゃうか?」

 ぼちぼち・・・と彼が言うときは自信ありということに他ならない。

「そうか。まあ、がんばれよ。」

「言われんでもな!」

 そんな他愛もない会話を楽しみつつも彼らは昼食を終えた。

「ん・・・?」

 御剣の耳に鈴の音が響く。

 御剣はふと、窓から校庭の隅を見た。何か黒い影がうごめいたような。何かの気配が感じ取られたような気がした。ふつうなら見逃してしまいそうなかすかなものだったが、御剣には確かに感じられたのだ。

「あいつ・・・。来てるのか?」

 誰の耳にも入らないような小声で彼は呟いた。

「どうしたの?御剣君。」

 優紀がお茶を飲みながら御剣を見た。湯気と共に甘い香りが漂ってくる。彼女のお気に入りである林檎の紅茶だろう。

「ん?いや。別に・・・・。ちょっと用事を思い出した。」

 理由としては陳腐なものだったが彼は後ろを顧みずにさっさと席を立ち、教室を出ようとした。

「あっ?お兄ちゃん・・・。どうしたの・・・?・・・・いっちゃった。」

 美雪が振り向くが、御剣は既に廊下に出て行ってしまっていた。

「お兄ちゃん・・・・。」

 美雪は置き去りにされた猫のような表情を浮かべる。

「なんか、あいつ、たまーにミステリアスやんな。」

 塔矢はのんきにジュースを飲みながら弁当をたたんだ。実のところ、こういうことはまれではないのだ。

「何か秘密を持ってるって感じよね。」

 優紀はわざと意味深な笑みを浮かべた。

「なんやろな?秘密って。」

 塔矢は別段気にもせずに会話を続ける。

「美雪ちゃんは何か知らないの?」

「・・・・。」

 しかし、美雪はどういうわけか御剣の出て行ったドアを見つめていた。

「ん・・・?どうしたんや?」

 さすがの塔矢もそんな彼女の雰囲気を不審に思い、椅子にのけぞりながら視線を美雪にほうに泳がせた。

「・・・え?なに・・?」

 美雪は驚いた様子で二人を見た。

「せやから、御剣の秘密っちゅうんは何なんやろなって話や。みゆっちは何か知っとんのか?」

「・・・秘密・・・?知ってると思うけど・・・いえないかも・・・。」

 美雪は意味深なことを口走った。優紀のわざとらしい笑みと違いそれからは明らかな重みを持っていた。

「まあ。秘密なんて誰でも持ってるもんよね。」

「ん?なんか含みのある言い方やな?優紀にも何か・・・。あ、いや、詮索するのも野暮やな。まあ、この話題はもうしまいや。ええか?」

 二人ともうなずいた。

「それじゃあ、美雪はもう帰るね。優紀お姉ちゃん。神崎先輩。また今度。」

 二人分の弁当箱を包み込むと美雪は席を立った。

「おお。またこいや。」

「それじゃ。またね。」

 手を振る二人を後ろに見ながら美雪は教室を出て行った。扉が閉められる音が響く。

「美雪ちゃんにも何か人には言えないことがあるのかしら?」

 優紀は塔矢の表情を伺った。

「ん?まあ。せやな。その話題はもうやめよや。」

 塔矢はいかにも興味を失ったようなそぶりを見せると、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そうね・・・。」

 優紀は口直しの紅茶を一口飲んだ。甘い香りとほどよい渋みが体の中に染み渡るようだった。


    ※


 教室を抜け出た御剣は廊下を早足で抜け、階段を下りて校庭に出た。そして、周りを見回しながら校庭の一角へと身を寄せる。

「いるんだろ?ここには誰もいないぜ。」

 御剣は一握の茂みに向かって声をかける。

 校庭の一角の薄暗い場所。ふだん、何者も訪れることのない闇が昼間であるのに漂っていた。

 おそらく、そう感じられるのはここに太陽の光が差し込んでいないことだけではないだろう。それはそこに、いたのだ。

「ふむ。そのようじゃな。」

 闇の中から少し低めの声がしたと思うと、闇から産み落とされるように、一匹の黒猫が姿を見せた。それは他でもない御剣の飼っている猫、ミカエルだ。

 それ以外に人の気配はない。

 では、先ほどの声は誰が発したものだったのだろうか。

「それで。今度は誰だ?」

 それでもかまわず御剣は問いかけた。やはり、周りには人の気配がない。彼は、まるで、ミカエルと、猫と会話をしているようにも見える。

「この間のばあさんだ。」

 先ほどと同じ声が彼の足下から響く。

 その声はどういうわけかミカエルの口から発せられたかのように見える。

 いや、むしろそれが真実なのだ。

 それは、誰も知らないことであり、誰にも知られてはならないことでもあった。だから、ミカエルは普段、ふつうの猫として振る舞うようにしている。

 それに、誰も信じないだろう。この世に人語を解する猫がいることなど。いや、正確にはそれは猫ではなく、別の存在なのだ。ただ、人の目にはネコの姿に映るだけで・・・。

「そうか。とうとう逝ってしまうのか。」

 御剣は思い起こした。それは1週間前の夜のことだった。その夜、彼は一人の年老いた老婆の枕元にたっていた。彼のしたこと、彼はそこで老婆に死の告知をしたのだった。

 彼には誰にも言えないような秘密があるのだ。

 それは、どうしてもしなければならないこと。そのため、彼は人の死に深く関わることを余儀なくされてしまった。

 彼は、深くため息をついた。いつからだったか。自分がこんなことをし始めたのは。

 すでに7年以上がたっている。それを受け入れた日、自分の中のすべてが変わってしまった。

 認めたくなかった。しかし、認めざるをえなかった。

 あのときミカエルが彼のもとに現れて、言ったのだ。

 それを、彼は今も鮮明に覚えている。

『死神に見初められた者よ。私はそなたの行く末を見守るためにここに存在している。』

 最初に人の魂を天に返したときは途方にもない罪悪感に襲われ、しばらくまともに食事をすることはできなかった。

 どうしても死者の顔が、そして声が脳裏に浮かび、そして響く。もっと生きていたかった、死にたくない、なぜ自分が・・・、この死神め・・・、残された家族はどうなるのだ。、という言葉が。それは、死者の心からの叫び声だった。

 何度これは夢だと思いたかったことか。目が覚めればそこには普通の生活が待っているのだと信じたかった。それが夢だったらどれだけ気が楽だっただろうか。

 しかし、確かにそのものはいたのだ。御剣の中に息づいていた。

 死にゆく者の魂をその肉体より刈り取り、生きるべき者を死の運命から救う。それを何よりの使命とする存在、”死神”が。

「だけど・・・人が死ぬのはいやなことだな。」

 御剣はつぶやいた。死者の魂を天へと返すことに罪悪を感じない時は一度たりともなかった。

「しかし、魂を天に返さなければ、その魂は永遠にこの世を彷徨うだけだ。やがてその魂は、生きている者を憎み、災いをもたらすことになる。」

 ミカエルは、呟いた。

 いつも聞かされていることだった。

 死神は人に死を与えるのが使命なのではない。その実の使命は、大いなる意志によって死を運命づけられた者達の魂を天へと返すだけのことなのだ。

 死神の鎌は死に行く魂を肉体から刈り取るだけのもの。

 命のつながりを刈り取るものではない。死神には人を殺す力などないのだ。

 頭では理解できる。

 しかし、人の死に関わることはそんなに簡単なことではないのだ。

 御剣は再びため息をつくと、ゆっくりと起きあがった。

「分かった。今晩・・・するよ。」

 ミカエルは、うなずくと再び闇の中に消えていく。

「ふむ。言い忘れておったが、最近、悪夢の動きが活発になってきているようじゃ。注意するがいい。」

「???」

 御剣はきびすを返そうとした足を戻した。

 しかし、そこにミカエルの気配なかった。

「悪夢?なんだ?それは・・・。おい、ミカエル。」

 彼は周りを見回した。しかし、再びミカエルが現われることはなかった。

「悪夢だって?・・・ミカエル・・・お前は何を知っているんだ。」

 

        ※


 夕日の光が街を紅に染め、昼の終わりを予感させる冷めた風が吹く道。

 美雪と御剣は学校から帰路についていた。二つの長い影が並んで歩く。街の喧噪からはほど遠い、穏やかな静けさが漂っていた。

「お兄ちゃん。元気ないね?どうしたの?」

 美雪は心配そうな表情を浮かべながら、兄・・御剣の顔をのぞき込んだ。

 当然ながら御剣は、幼い頃からずっと美雪と同じ学校に通っている。進路が分かれる高校のときでさえも、美雪は彼を追うようにして同じ学校に入学したのだ。

 しかも、二人とも特に部活をしているわけではないから、よっぽど予定が合わないことがない限り一緒に登校して、一緒に下校している。

 たまに彼らはそろそろ兄妹離れをしたらどうだといわれるが、二人にとってはいつも一緒にいることがあまりにも自然になりすぎているのだ。

 この日も当然一緒に肩を並べて家に向かっていたのだが、実のところしょっちゅう喧嘩をしている二人に間に会話がないことは珍しい。

(そりゃ、元気なくすよな)

 御剣は、心の中で苦笑を浮かべると、くしゃっとした笑みを美雪に向けると。

「別に何でもねえよ。腹減ったなって思っただけだ。」

 別に嘘をついているわけではない。空腹を感じているのは事実だし、御剣は空腹になると機嫌が悪くなるというのも本当だ。

 ただ、今の憂鬱がそれだけが理由ではないということ。

「なーんだ。今日は、昨日買った残りがあるから。うーんと。コンソメのスープとご飯と、あと野菜炒めがあればいいよね。」

 美沙は外に働きに出ているので家事一般のほとんどは美雪が担当しているのだ。もちろん料理も彼女が担当している。

「肉はねえのか?」

「お肉?どうだろう?・・・・なかったかなぁ?昨日使っちゃったし・・。あ、だったら買っていこうよ。」

「そうだな。めんどくさいがしょうがないか。肉のためだ。」

 いつも行く角の肉屋に行くには、今晩行く家の前を通る。彼は、死神の仕事の前には必ず死にゆくものとその家を一度見ることにしているのだ。

 これから死に行くものが、今何をしているのか。それを少しでも知れば、ほんの気休めかもしれないが、少しは罪悪感から逃れられるような気がするのだ。

 現実逃避をするようだが、すべてを生で受け入れるには辛すぎる。彼は、たとえ、死神に魂を明け渡したといえ、まだ人間としての心を捨て切れてはないのだ。

 しばらく行くと一軒の古い家が姿を現した。

「どうしたの?」

 御剣が何かとその家の中を見ようとしているのに美雪は気がついた。

「いや。別に・・・。あのおばあさん。元気そうだなって思ったから。」

 美雪は、背伸びをしてその家をのぞき込んだ。さして広くない庭で一人の老婆が花の手入れをしている。

 夕日が差し込み、世界が赤く染まっている今、その花の色を伺うことはできないが。おそらく、純粋で美しい色をしているのだろう。

「本当ね。まだまだ長生きしそう?」

「どうかな・・・。」

 本当は、今晩死ぬんだけどね・・・。という言葉を飲み込むと、御剣は歩調を強めた。

「あ。待ってよー。お兄ちゃんってば。」

 美雪は、夕日に向かってかけだした。御剣の長い影をおうようにして。

(はたして俺は、今、幸せなんだろうか?)

 赤々とまばゆい光を見上げながら御剣はそんなことを考えていた。


     ※


 黄昏時も過ぎ去り、夜の闇が世界を覆い、月と星の僅かな光だけが、大地に降り注ぐ。まさに神聖な夜だった。

 御剣は、夜の静寂(しじま)を肌に感じながら、ベッドからゆっくりと立ち上がった。部屋が暗いため、その表情をうかがい知ることはできない。

「時間か・・・。」

 御剣は時計をちらっと見た。3時を越えたぐらいか。御剣は目を閉じると意識を何かに集中し始めた。

 しばらくの後、彼はゆっくりとまぶたをあげた。今まで光に満ちあふれていた彼の瞳は、今は深い深い闇が浮かんでは沈んでいく。

 まるで、彼の身体から闇が生まれてくるように彼の周りは夜よりも深い闇に飲み込まれていった。

「さて。行こうか。ミカエル。」

 月明かりに照らされた彼の顔には、表情がないようにも伺える。

 この世にいないような、存在自身が不透明なような。そんな不思議で不気味なな雰囲気が漂っていた。

「うむ。」

 ベッドの脇でうずくまっていた黒い固まりが、すっくと起きあがり、御剣の肩に飛び乗った。

 彼は、いつの間にか死を思わせる漆黒のマントで身を包みこんでいた。

 彼は死神に自らの存在を明け渡しているのだ。

「手早くすませよう。」

 耳を澄ませると、隣の部屋から美雪の穏やかな寝息が聞こえてくる。

「そうだな。」

 ミカエルの声が御剣の耳元でささやかれる。

 この二者の会話が人間に聞き取られることはない。人は、自分の存在を肯定するために、彼ら、死神の存在を感じ取ることはできない・・・と言うより、無意識的に彼らを意識のうちに入れることを拒否しているのだ。

 死者は、より死神に近い存在なので、彼らを関知することができる。

 古来より、死神は人に死を与えるものだと言われているのはそれが故なのだ。しかし、死神が直接人に死を与えることはできない。

 繰り返そう。

 死神は、あくまで、死にゆくものの魂をその肉体から刈り取り、生きるべきものを死の運命から救うのが、何か大きな意志によって与えられた使命なのだ。

「それじゃあ。さっさと行くか・・・。」

 御剣は、屋根にでた。窓から外に出たのではない。そう、まさに壁をすり抜けたのだ。死神にとって、現実的なものは一切用をなさない。

 闇に沈む街の空を二人は飛び回る。飛んではまた違う家の屋根に降り、そしてまた空にその身を躍らせる。

 もし、彼らの姿を感じ取れるものがいたらこう思うだろう。「まるで、夜の街を舞台にした壮大な物語が繰り広げられているようだ。」と。

 二人は、街を飛び回り、そして、音もなくその場所に降り立った。

 御剣が夕方美雪とともに通った場所。夜になってもその雰囲気はまったく変わらない穏やかな場所。

「・・・・・。」

 御剣は月を仰ぎ見た。星々の輝きの中にいて、天と闇を支配する神々しきもの。古来の人間が、それを神とたとえたのも分かる気がした。

「月は常に夜を見守ってきた。それは、死神も同じことだ。」

 御剣の肩の上でミカエルはそうつぶやいた。

「月・・・。月読の神か・・・。彼も黄泉の国の支配者だっけな。」

 御剣もつぶやいた。

「黄泉の国などありはしない・・・人が死ねばただ天に帰るだけだ。死後の世界など、思い浮かべるだけ無駄なこと・・・。」

 ミカエルは何度となくそう言った。

 彼のいうように死後の世界など存在しない。そこにはひとえに静寂の支配する闇が待っているだけだ。そこには何もあるはずもない。

 だが、人は、それでも死後の世界を夢見ずにはいられないのだ。死後の世界を夢見ることにより、今生きている世界にも希望を見いだす。そんな人間もいるのだから。

「分かってるよ・・・。行こうか・・。」

 御剣はミカエルの背中をなでながら屋根の下、死に行く者の眠る部屋へと意識をやる。

 彼らは屋根をすり抜け、部屋の中へ降り立った。

 老婆が布団をかぶって寝ている。穏やかな寝顔だった。まるで、これから自分に降りかかる運命を知っているような。何かを悟ったような顔だった。

 御剣は少し安心を覚えると、その場に跪いた。

「起きてください。お迎えにあがりました。」

 御剣は、声にならないような声でその老婆に話しかけた。

「ああ。この間のお方ですか・・?ようやく、私にもお迎えが来てくださると、心安らかにお待ちしておりました。」

 その声は本当に穏やかだった。

「ええ。存じております。さあ。もうお時間です。」

 老婆は起きあがったように見えた。しかし、それは、魂が肉体から出てきただけで、彼女の体は、未だ安らかな寝息を立てていた。

「最後に何か、思い残したことはありますか?一つだけ、その願いを伝えることが許されています。」

 しかし、老婆は首を振った。

「私には、なんの未練もございません。先立たれたあの人に会えると思うとうれしいぐらいです。さあ、私を涅槃(ねはん)へ運んでください。」

 魂の行き着く先に涅槃もなにもない。という言葉を彼は飲み込んだ。

 魂はだた天に帰り、再び新たな命としてこの世に降り立つ。ただそれだけ。

 だが・・・・。

 御剣はその思いを振り払った。

「では。お運びいたします。」

 御剣は、マントの裾から巨大な鎌を取り出し、それを老婆の魂と肉体が接しているところにあてがった。

『さようなら・・・』

 彼は、躊躇を振り払い、魂を肉体から刈り取るように鎌を一気にひいた。

 一瞬の光の閃きは残滓も残さずに消えていった。

 魂が天に帰っていったのだ。

(どうか安らかに・・・)

 御剣は、息を引き取り、限りなく穏やかな顔を浮かべている老婆の亡骸を見つめ切に祈った。

 たとえそれが死神としてあるまじきことだとしても、彼は、そう願わずにはいられない。

 人の死ぬ瞬間をかいま見るのは、これで何度目だろう。

 この儀式を済ませ、次の日に行われる葬儀に参列するものたちの悲しみに満ちた顔を見ると、彼はいつも心を痛めていた。

 しかし、彼は、この儀式を済ませた人の葬式を、たとえ遠巻きだといえ、必ず見るようにしている。

 そうすることで、自分の中で何かけじめがつけられるような気がするのだ。それもまた、逃避なのかもしれないと心の中で思いながら・・・。

「終わったな・・・。・・・戻るぞ。」

 ミカエルは、そう言いながら再び御剣の肩によじ登った。

 御剣は、そうだな・・とだけ言葉を残し、再び夜の街に身を躍り出す。

「俺は、いつまで続けるんだろう・・・。いつまで続けていればいいだろう・・・。なあ・・ミカエル?」

 巡る景色を眺めながら御剣はふと漏らした。

「終わるまでだ。すべてが・・・。」

 ミカエルの答えはあまりにも無慈悲だった。

『これは、俺に課せられた運命なのか・・・。その運命から逃れられることはできない。だったら。いつ終わると言うんだ?・・・俺が死ぬまでか・・・?』

 御剣はふと思いとどまった。

『死神の俺が”死ぬ”か・・・。』

 月は、西の空に消え、街はさらなる闇の底深く沈んでいく。

 それは、一時の街の死だった。


      (2)


 子供の泣き声・・・?

 俺は虚ろな意識の中、誰かの泣き声を聞いていた。

『なんの夢だ・・・?』

 俺は意識を泳がせる。気がつくと俺はモノクロの部屋の中にたたずんでいることに気がついた。

「もう泣かないの。男の子でしょう?」

 聞き覚えのある声・・・そうだお袋の声だ。そうか、泣いていたのは俺だったのか・・・。

「だけど、だけど。お父さんが・・・。」

 思い出した、あの日、親父が死んだ。これは、親父の葬式の日の記憶のようだ。あの日、俺はずっと泣いていて親父の葬式に参列することはなかったはずだ。

 お袋が俺の肩にそっと手を置き、幼い俺の目をのぞき込もうとする。しかし、俺はその目を合わせることはなかった。

「美雪も我慢しているんだから。せめてお父さんに、バイバイって言いなさい。」

 夢の中の俺は激しく首を振った。

 親父が死んで、この世からいなくなってしまって、本当に悲しかった。

 だけどその悲しさはそれだけじゃない。

 俺は、その時すでに死神だったのだ。

 親父の魂を天に帰したのは紛れもないこの俺だったんだ。親父の最後の言葉、今でも覚えている。親父は最後の最後まで家族のこと、そして死神となってしまった俺のことすらも心配していた。

 普段は不器用な性格で自分の気持ちを表に出すことのなかった親父が・・・。

 幼い俺はしゃくり泣きをやめなかった。大粒の涙が膝に落ち、大きな水滴を作ったていく。

「僕のせいなんだ。父さんが死んだのは僕のせいなんだ。僕さえいなかったら・・・。」

 お袋もただ俺を見つめているだけだった。お袋にしていえばなぜ、俺がこんなにも自分を責め続けていたのか分らずに困惑していたのだろう。

 あの時、俺は自分自身のすべてに絶望していたように思えた。あることをきっかけとして自分自身の中に死神が住み着くようになってしまった。

 そうして、初めてその使命を果たした。その使命とは自分自身の親の魂を天へと返すこと。

 今ならある程度なら割り切れることもできるだろうが、そのころの俺はその罪悪感に押しつぶされそうになり、いつも俯いていた。

 しかし、お前は悪くない。ただおまえは、親父の魂を救ったんだ。お前がそんな悲しい思いをしなかったら、親父はこの世界にとどまり続けることになっていた。それは、死ぬよりも辛いことなんだ。

「あなたのせいじゃないわ・・・。」

 お袋は、幼い俺を抱きしめた。お袋も泣きたかったんだろう。しかし、俺の前で涙を流すわけにはいかなかった。お袋は誰よりも強かった。

 俺は、俺の頭に手を置いた。

『お前のせいじゃない。お前はよく頑張った。お前のせいじゃないよ。』

 俺は、幼い俺に言っているのではなかったのかもしれない。

 ただ、俺がそう思わなくては、今の俺すらも罪悪の海に沈んでしまうような気がして・・・・。

 そう・・・。俺は、繰り返した。

 俺が死神である以上、人の死に関わらなくてはならないのは俺の運命なのだ。

 もし皆が、俺が死神だってことを知ったら。はたして俺は、許されるのだろうか・・・。許されてよいのだろうか・・・。

 夢は消え去り、俺の意識はさらなるまどろみに陥っていく。

 深い、深い闇の中へ・・。


     ※


「お兄ちゃーん!朝だよー。」

 夢と現実の狭間でまどろんでいた御剣を美雪の元気な声が引き戻した。御剣は、ゆっくりと起きあがって窓の外を見る。

「雨か・・・。」

 朝日は、雲に遮られ、雨音がまるで大地をいたわるかのように降りしきっていた。御剣は、この雨の音が好きだった。昔からこの音を聞くと、まるで子守歌を聴いているようで、なぜか心が落ち着いた。

 雨が大地のみではなく、自分自身の心さえも癒してくれるような。そんな感じがするような。

「懐かしい夢を見てしまったな。」

 御剣は今まで見ていた夢を思い起こした。辛い日々の記憶、すでに記憶から薄れつつあるが、夢に見ることはできる。

 そして、夢から覚めれば心に疼きを残して消えてしまう、そんな夢だった。

 彼は胸に手を当ててみる。静かな心臓の鼓動が伝わってくる。しかし、そこには痛みはない。いつしか、疼きすらも消えてしまった。

「冷え切っているな・・・。もう、俺は心まで死神になっちまったってことか。」

「違うな。」

 御剣は反射的に振り向いた。

 いつの間にか、布団の中に忍び込んでいたミカエルが、彼を見上げていた。

「そういう夢を見る限り、お前の心は冷え切ってなどいない。まだまだ、お前は完全な死神になりきれていない。」

「完全な死神か・・・。何の悲しみも感じなくて、しかも、心が痛まないんだったら。そうなった方が幸せかもな。」

「うぬぼれるな。」

 ミカエルは言った。

「お前が、人としての肉体を持っている以上、完全な死神になどなれるものか。」

 いつにもなく強い口調で。

「お兄ちゃん?どうしたの?そこに誰かいるの?」

 聞き覚えのない声を聞いたのか美雪がドアの外でそういっている。

「ミカエル。ベッドの下に。」

 御剣がそういうと、ミカエルは、何も言わずベッドの下に潜り込んだ。ミカエルが、人語を操る猫だと言うことは誰にも話していない。もちろん家族にも。

「あれ?一人?話し声が聞こえたと思ったんだけど。」

 御剣は、ベッドに腰掛けると、

「気のせいだろう。」

 極力自然な感じを装った。

「そうかな・・・。」

 美雪は不思議そうに部屋を見回すが、御剣以外誰もいない。ベッドの下でミカエルは、おとなしくしていた。

「変なの・・・・。あ。そうだ、ごはんできてるよ。」

 御剣は”すぐ行く”と答えると、立ち上がった。まだ寝間着のままだったのだ。「すぐにね!」

 美雪は、朝っぱらから元気な声でそういうと、どたどたと階段を下りていった。「あの元気はどこから出てくるんだろうな?」

 御剣は誰となくそういうと、着替えだした。

「元気なことは結構なことだ。」

 ミカエルは狭いベッドの下からはい出してくると、思いっきりのびをした。

「お前、オヤジみたいだぞ。」

 着慣れた制服に袖を通し、一つずつボタンを留めながら、御剣は苦笑を浮かべる。

「やかましい。それに、私はお前たちの年齢にしてみればもう60歳を超えているのだ。」

 御剣は、イタズラっぽい笑みを浮かべると、

「悪い悪い、オヤジじゃなくて、ジジイだったか。」

「だまれ!」

 ミカエルは、むっとすると、御剣をにらんだ。

 御剣は、”へへ・・”っと笑うと、部屋を出た。いつものようにミカエルもそれについて行く。

「なあ、ミカエル。」

 御剣はそっとミカエルを抱き上げ、ささやいた。

「・・・・?」

 ミカエルは目で、”なんだと”聞き返してきた。

「お前はいったい何者なんだろうな。」

「それは、聞かない約束だ。時が来るまでな・・・。」

 ミカエルは、顔をかく仕草をしながらそうささやいた。

 それは、ふれてはいけないことなのかと、聞きたかった。しかし、御剣は何も言わなかった。

 時が来ればきっとミカエルの口から聞き出せる。御剣はそう信じることにした。

 廊下には、パンの焼ける香ばしいにおいが漂っていた。


      ※


「今日は、遅刻しなくてすみそうだね。」

 美雪は、晴れ渡った青空を仰ぎながらそういった。朝に降っていた雨は、家を出る頃にはすっかり晴れ、今は柔らかな太陽をのぞかせている。

「皮肉のつもりか?」

 御剣は、その美雪の少し後ろを歩きながら苦笑を浮かべた。

「そんなんじゃないけど。・・・まあ、半分は・・・。」

「おいおい・・・。」

「だって、お兄ちゃん。いつもおきるの遅いし・・・。」

「そりゃそうだけど。遅刻はしてないだろう・・・。」

「・・・そういえばそうだよね。」

 美雪は、くるっときびすを返し彼の隣に並んだ。

「おーい。二人ともー!」

 突然二人の後ろから、美雪に負けないほどの元気な声が朝の寒い空気を押しのけるように響いた。

「あ!優紀お姉ちゃん。」

 見ると、優紀が大きなショルダーバックを肩に提げて駆けていた。

 彼女は全力で走っているようだが、意外と足が遅いのか、なかなか近づいてこない。

 二人はお互いの顔を見て苦笑を浮かべると、彼女の方に歩き出した。

「おはよう。御剣君、美雪ちゃん。」

 優紀は息を切らしながらそういった。ときおり胸を押さえている。

 そんなに苦しかったのだろうか?それほど長く走ったわけでもなさそうなのだが。

 御剣はわざとらしいため息をつくと、

「お前、本当に体力ねえな。」

 ここぞとばかりに優紀をからかった。優紀はムッとした表情を浮かべると、

「仕方ないよ。昔からこうなんだもん。」

 拗ねたような声を上げるが、本当に気を悪くしているわけではなさそうだ。

 御剣は、”そうだったか?”と、昔を思い浮かべようとするが、薄い靄がかかったようにうまく思い出せなかった。

 しかたなく、本人がそういっているのだからそうなのだろう、と思い直し、

「じゃ、行こうか。」

 と言って促した。優紀の息も直ってきたようで、いつもの朗らかな笑みを浮かべると、

「うん!」

 と、元気に返事をした。

 美雪は優紀と並んで歩き出した。御剣は例によって二人の後ろを歩く。いつもこんな感じだ。前を歩く二人の後ろを御剣が見つめるように見守るように歩く。

 だが、御剣は時折、ふと思ってしまう。「こんな関係がいつまで続くのかな?」と。

 もしも、美雪と優紀に恋人とかができたら、やはりこういう関係は自然となくなってしまうのかなと思ってしまう時があるのだ。

 二人はそんな彼の思いなど知らぬように、最近のはやりの服とか、テレビ番組やタレントの話題で、会話を盛り上げていた。

 ときおり、御剣の名が出てくるのだが、彼は気にしなかった。いちいち気にしていたら疲れてしまうし、反応するのも面倒だ。

 坂道を上ってしばらく行けば駅前の商店街にでる。そこを抜けたところに彼らの通う学校がある。その学校も少し小高い丘の上にあるのだから、この街はずいぶん坂が多い。

 その商店街というのも少し風変わりな構造をしている。

 中央に噴水のある広場があることは別段珍しいことではないが、その広場から大通りが放射線状に延びているのはそうそうお目にかかれないだろう。

 その町並みはまるで、ロンドンやパリを彷彿とさせる。

 というのも、この商店街の創始者がなかなかに趣味的な人物だったらしく、商店街の発展と客寄せ、そして何よりも自分の趣味の一環としてこういう風な町並みにしたらしい。(もっとも、自分の趣味ということに一番重きが置かれたというのが専らの噂だが)

 唯一のネックと言えば、方向音痴には厳しい町並みだということだろう。

 いつもは穏やかなその町並みも中央に来るにつれ、次第に喧噪の渦が巻きあがってくる。その日は何かが違っていた。

「あれ?何だろう?」

 優紀は、歩みを止めた。見ると、道路の周りに人だかりができている。

『ん?・・・なんだ?』

 御剣は一瞬めまいがした。なにやら頭に浮かんでくる漠然とした映像。それはなにやら懐かしいような、思い出したくないような・・・。

「御剣君?」

 彼は、優紀の声で正気に戻った。頭を振って意識を保つと心配そうな目で彼の顔をのぞき込んでいる優紀が目にはいる。

「大丈夫?」

「どうってことないよ。」

 そういって優紀から視線をはずすと御剣はその人だかりを改めて見つめた。人の会話が飛び交っていて正確なことは何も分らない。

 ただ何か尋常ではないことが起こったのは確かなのだが。

「何かあったのかな?」

 優紀はそわそわしながらそう言う、

「警察も来てるみたいだな。何か事故でも起きたんじゃないか?」

 御剣がそういいながら人混みを眺めている隙に、優紀は、自分の好奇心に負け、早速聞き込みを始めた。

「待った。聞き込みなんて、警察の仕事だろうが。なあ、美雪。」

 御剣は、あきれながら美雪の方を向いた。美雪は、なぜかうつむいて寂しそうな顔をしていた。

「どうした?」

 彼は、美雪の肩を少し揺さぶらせながらそういう。美雪は、はっとして御剣を見た。その目には明らかに動揺と哀しみ不安など、いろいろな感情が揺れては消えていった。

「別に・・・何でもないよ・・・。・・・先、行くね・・・。」

 彼女は、御剣の手をやんわりとふりほどくとまともに彼と目を合わせないうちにかけだしていた。

「美雪・・・どうしたんだ?いったい。」

 御剣が放心しかけると、優紀が神妙な面持ちで近づいてきた。

「車の事故だって・・・。」

「そうか。運転手は?」

「・・・・。」

 優紀は静かに首を振った。

「そうか・・・。」

「うん・・・。」

『??変だな。』

 御剣は、引っかかるものを感じた。

「あれ?、美雪ちゃんは?」

 優紀は初めて美雪がここにいないことを知った。

「ああ、美雪は先に行ったぜ。」

「そうなんだ。」

 ・・・・・。沈黙が重苦しい。

「なあ。優紀。」

「なに?」

 ・・・・・。周りから少しずつ野次馬が散っていった。救急車の音が近づいてきている。

「先に行っててくれないか?」

 道路には、事故の名残か赤いどろっとしたものがシミのようにこびり付いている。

「どうして?」

 道ばたの残り雪に飛び散ったそれは、夕焼けよりも赤く、どす黒い色を放っていた。

「何でもだ。」

 救急車が到着した。救急車の隊員はいそいそと毛布にくるまれた何かを抱え、車の中に戻った。

 人の大きさほどのそれが何かということを想像するのはさほど難しいことではない。

「そう・・・。わかった。」

 喧噪が消えた。目を覆い隠すもの、口を押さえるもの、目を背けるもの、毛布に向かって手を合わせる者。誰の反応も一様ではなったが、死者を悼むという意味では、皆共通していた。

 優紀は、寂しそうな顔を浮かべつつもその場を立ち去った。

 御剣は、救急隊員が抱える毛布を一瞥すると、暗い裏路地に足を進めた。

 裏路地には誰もいなかった。

「ミカエル。出てこいよ。」

 御剣は、いつも自分の後ろにいるミカエルの存在を感じながらそういった。別に姿を現さなくても彼の言葉は届くのだろう。しかし、御剣はいつも彼に姿を現させてから話すことにしている。

「ここにいる。」

 路地の奥からひときわ黒いものがモソモソとはい出てきた。

「どういうことだ?」

 それは、次第に猫の形を形成してゆく。それは黒猫、ミカエルだった。

「私にもわからん。」

 ミカエルも、御剣と同じように憎々しげに言葉を吐いた。

「こんな近くで人に死が訪れたというのに。俺は何も感じなかった。まったく予期してないことだった。」

「・・・・・。」

 ミカエルは何も言わない。承知しているということなのか。

「死神である俺にさえ死を予感させないような人間なんているはずがない。どういうことだ?」

 御剣は、ミカエルをつかむと自分の目の高さにまで引き上げた。その目は妖しい光に満ちて、見る者の背筋を凍らせてしまうようだった。

「考えられうることは一つ。」

 ミカエルはあくまで冷静だった。

「・・・・。」

 御剣はそんなミカエルの目をじっとのぞき込んだ。

「悪夢の仕業だとしか考えられない。」

「また、悪夢か・・・。いったい、悪夢ってのはなんなんだ?」

「敵だ。我々のな。」

「敵?死神の敵ってことか。」

「その通りだ。」

 御剣は、ミカエルを解放した。ミカエルは空中で一回転すると見事なバランスで地上に着地した。

「悪夢か・・・。あの運転手は、本来死ぬはずじゃなかったんだな?」

 ミカエルは、はっきりとうなずき、

「うむ。悪夢によって死の運命を背負わされてしまった者だ。」

「俺は・・・。救うことができなかったんだな?」

 ミカエルは、うなずいた。そして、

「これからが大変だぞ。」

 重々しい口調でそういった。

「分かってる。」

 御剣もうなずき返した。

・・・・どちらにせよ。もう俺は逃れられない。死神をこの身に受け入れたときからな。

 青空はまるでこれから起こる数々の悲劇を予感するようにどんよりと曇っていった。


        ※


 校庭には雨が降りしきっていた。

 美雪は教室の窓から雨に濡れる校庭を放心したように眺めていた。普段の彼女を知っている者は、何事かと思うだろう。

 昼食もあまりとっていない。”ダイエット中か”と聞かれて”まあね。”と曖昧な笑みしか浮かべられなかった。そのことが周りの者にさらなる不審を抱かせる材料となることも知らず。

 授業終了のベルが鳴った。教室全体が一気に空気が抜けたように脱力するが美雪はノートを開けたまま窓の外を眺めるだけだった。そのノートには何も書かれてない。

 そんな彼女は自分に近づいてくるものの存在に気が回らなかった。

「美雪ぃー。どうしたの?先生が呼んでも返事すらしなかったじゃない。」

 美雪の親友、森野譲葉は心配そうに彼女の顔をのぞき込んだ。

「あ、譲葉・・・。」

 美雪はゆっくりと顔を上げる。その口調は限りなく弱々しい。

「何よ。ほんとにもう。美雪らしくない。」

 譲葉はそういいながら近くにあった椅子に腰を下ろして、彼女を見つめる。しかし、美雪は目を合わせようとしない。

「ひょっとして・・・。あの日?」

「・・・・ばか・・・。」

 美雪はいつもはそんな冗談など言わない譲葉を見て、ようやく少しほほえんだ。それでも表情は硬かったが。

 譲葉はしばらく”うーん・・・”と悩んだが、何かを決心したように席を立った。

「分かったわ・・・美雪。何で元気がないかは追求しない。だけど。今日、放課後、一緒に買い物に行きましょう。」

「え?」

「こういう日は、パーッとなにか買い物でも何でもして気分を晴らすのよ。いい?」

 美雪はあまりにも強引な譲葉を見て驚いた。いつもなら彼女の方から誘ってくることなどなかったのだ。

 美雪は彼女の心遣いに胸が暖かくなるようだった。

「授業のベルが鳴るぞ。席に着け!」

 いつの間にか教室には教師が教材を抱えて入ってきていた。

「先生。いつもはやすぎですよ。休み時間ってのは休むためにあるんですよ。」

 生徒の一人がそう文句をたれるが、

「俺の時計ではとっくに授業が始まってんだよ。」

 教師に似合わず少々ぶっきらぼうな口調だが、それも生徒たちからの人気の秘訣だ。

「先生の時計、壊れてるっすよぉー。」

 また別の生徒がそんなヤジを飛ばす。

「やかましい。俺の時計は世界一正確だ。」

「先生のが世界一だったら俺のはパルサー並じゃないですか!」

 最後に誰かがそういうと教室は爆笑の渦に包まれた。それとともに、授業開始のベルが鳴った。

「よし。委員長。号令だ。」

 教師はそういって教壇に教材を乗せるとそういい放つ。

 降りしきる雨はさらに勢いを増すように、雨音がさらに強くなっていく。雪の季節は終わり、春の到来を告げる、そんな雨だった。


      ※


「ねえ。御剣君。今日の放課後ヒマ?」

 ようやく小雨になりつつある空を眺めていた御剣に優紀が何気なく話しかけた。

「ん?何か用事でもあるのか?」

「そうじゃないけど。たまには、一緒に帰らない?」

 御剣はしばらく考えるが、すぐに面を上げて首を横に振った。

「悪いな。今日は病院に行く日だ。」

 病院?と、優紀は一瞬だけ考えるが、

「ああ、鈴音先輩のお見舞いね。」

 御剣の知り合いがずっと入院中であったことを思い出した。いや、正確には知り合いではない。鈴音は御剣の彼女なのだ。

 今日は、その見舞いに行く日だったのだ。

「どう?先輩、良くなったの?」

「医者が言うには回復に向かってるって言うけど。どうだろうね。まあ、死ぬことはないだろうから安心してるけど。」

 御剣は少しばかり頬をゆるめていた。彼女のことを話すときはいつもこんな風にうれしそうな優しい表情をする。

 優紀は、そうね・・・と少し複雑な表情で微笑むことしかできなかった。

「私も行っていい?」

 なぜそういってしまったのかは彼女にも分らなかった。この言葉は彼女の口から自然に漏れだしていたのだ。

「ああ、いいぜ。」

 御剣は何も考えずに即答すると、

「んじゃ。行こうか。」

 鞄を取って教室から出ようとする、

「待ってよ。もう・・・せっかちね。」

 優紀も御剣の後に続いて教室を後にした。

 昔からそうだった。

 いつも目が前にしか向いておらず、ともすれば一人で突っ走ってしまう御剣の後を追いかけるだけ。

 それが優紀のポジションだった。優紀はそれが不満だったわけではない。ただ、いつかは自分も彼の横で歩けるようになれたら・・・。

 それが彼女の希望だった。

 だが、彼は見つけてしまった。自分の隣で一緒に歩いていける女性を。それは優紀ではなかった。

「もう。御剣君はあいかわらずだね。」

 少し息を切らしながら優紀は彼の横を歩き出した。

「ん?そうか?」

「そうよ。昔から全然変わっていない。」

「そうか・・・。」

「うん。いつも前しか見ていない。」

「猪突猛進?」

 優紀はがくっと膝を折りそうになった。

「そうじゃなくて・・・いい感じに前向きというか・・・。」

 思いもよらなかった言葉に少し混乱しつつも彼女はたどたどしく言葉を紡いでゆく。

「お前は猪突猛進だよな。」

 御剣はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。

「もう!ほっといてよ。そういうことを話しているんじゃないんだってば!」

「まあ。そういうお前は好きだけどな。」

「え?」

 優紀は一瞬自分の耳を疑った。まさか、彼の口からそんな言葉が出てくるなど・・・。

「見てて飽きない。」

 一瞬にして彼女の淡い期待はチリとなって消えてしまった。

「あう・・・意地悪なんだから!」

 優紀はわざとらしく額を抑えながらうなった。

「今に始まったことじゃないだろう?」

 彼はにやにやした笑い顔を浮かべながらなおも優紀の顔をのぞき込んでくる。

「それは・・・そうだけど・・・。」

 優紀はふっと窓の外を見た。まだ細い雨が校庭に降り注いでいる。

「いい人だよね。鈴音先輩って。」

 ふっとそんな言葉が口をついたように漏れだしていた。

「どうしたんだよ。急に。」

 御剣は突然そんなことを口にした優紀を見た。

「別に・・・。先輩だったら御剣君を任せてられるなって思って。」

「なにいってんだか。」

 やれやれと、御剣はため息をついた。照れたり困ったりすることがあればそうするのが彼の癖だ。

 それは昔から変わっていない。

「変わらないよね。御剣君って。」

 御剣は少し息をのんだ。

「俺は変わらないさ・・・。たぶん、死んでも変わらないだろうな・・・。だけど、それが俺の運命なのかもしれない・・・。」

 優紀は驚いた。何気なく言った言葉に御剣がこんな反応をするなど、考えてもいなかったのだ。

「えっと・・・御剣君・・・?」

 小雨の音が響く。弱いながらも生きる強さを感じさせる音だった。

 下駄箱で下靴に履き替えた二人は校庭を眺めた。所々に大きな水たまりができている。

「まだやみそうにないな。」

 御剣はぱらぱらと降りしきる小雨に手をかざした。雨はかざした手をぬらし、水滴となってしたたり落ちてゆく。

「私、傘持ってきたよ。」

 優紀は鞄から小さな折りたたみ傘を取り出した。こういうところはしっかりしている。

「御剣君も入る?」

 優紀は少しの期待を込め、上目遣いで御剣を見た。

「別にいい。こんなの、降ってるうちにはいらんからな。」

 そういいつつ、御剣は歩き始めた。雨は制服のブレザーを濡らしていくが、そんなことはお構いなしに、彼はずんずん歩いていく。

「だからぁ・・待ってってば。」

 優紀はいそいそと傘を広げると、御剣を追った。

「ところで、美雪ちゃんは?」

 ようやく追いついて一息つくと、優紀はいつも一緒に下校している美雪が今日は一緒じゃないことに気がついた。

「森野と買い物らしい。」

「へー。譲葉と・・・。仲いいもんね。」

 優紀は部活動で彼女の先輩だったので、彼女とは面識がある。

「ああ。」

 再び沈黙が二人の間に漂う。

 優紀は空を見上げた。細々とした雨の滴がまだ空から降りしきっている。

「そういえば、先週までは雪だったよね。」

 傘の間からそっと空を見上げた。

「そうだな。だいぶ暖かくなってきたわけだ。春も近づいているってことだな。」

 御剣も空を見上げた。

「さて、少し急ぐか。あんまり濡れたくないからな。」

 そういうと御剣は歩調を強めた。

「だったら、私の傘に入ればいいのに。」

 そういいながらも優紀は彼の後に付いていく。

・・・いっか別に、私はこの位置で落ち着いていられるんだったら。

 そうすることで御剣君と一緒にいられるんだったら。それも悪くない。

 春を呼ぶ小雨は大地をぬらすだけではなく、人の心をもいやしてしまうものなのかもしれない・・・。


     ※


 聖イスラフェル学園付属病院はきれいな中庭のある広い病院だ。

 倉前鈴音はベッドの上から雨の降りしきる中庭を眺め、そしてため息をついた。その膝には、”ユリウスの見解”という分厚い本が広げられている。

 読書家である彼女のために御剣があげたものだ。古い作品で、名探偵と呼ばれたユリウスが不思議な力を使って事件を解決していくというミステリー小説だ。原本もやさしめの英語で書かれているため、訳本とともにそれなりに人気が高いものだ。

 鈴音は再びその本に目を落とす。

 すると突然、トントンとドアをノックする音が部屋に響いた。鈴音は、本に栞をして閉じると、

「はい。どうぞ。」

 と、一言声をかけた。

「失礼するよ。」

「失礼しまーす。」

 二人の男女がその声に続いて部屋に入ってきた。それを見た鈴音はとたんにうれしそうに微笑んだ。

「いらっしゃい。御剣君。それに・・・。」

 優紀は、鈴音が自分を見て不思議そうに首をかしげていることに気がついた。御剣や美雪の話で彼女は鈴音を知っていたが、鈴音のほうは彼女を知らなかったのだ。

「あ・・。えっと。緑野優紀っていいます。」

「ああ。御剣君の友達の・・・。私は、倉前鈴音。よろしくね。」

 鈴音はそういうと微笑んだ。そのほんわかとした笑みは見るものを安心させるような力があった。

「その本、まだ読んでたのか?」

 御剣は、鈴音の膝の上に見知った本があることに気がついた。

「うん。もう読むの、三回目よ。」

 鈴音は恥ずかしそうにそういうと本の上に手を置いた。

「はは・・。鈴音らしい・・・。今日はちょっと軽いものをって思ったが・・・。必要ないみたいだな?」

 そういうと御剣は鞄からその本より遙かに小さい文庫本を取り出してひらひらさせた。

「え?また持ってきてくれたの?」

 鈴音は子供のように目を輝かせた。

「前、読みたいって言ってたよな。」

 御剣はその本を差し出した。鈴音は大切なものを受け取るようにその本を手にした。

「わーい。ほんとだ。御剣君大好き!」

 御剣は”知ってるよ”といいながら頬をかいた。

「そんなに本が好きなんですか?」

 優紀は、その二人のやりとりを複雑な笑みを浮かべながら見ていた。

「うん。昔からずっとベッドの中だったから本は友達みたいなものよ。」

 優紀は”あ、そうか・・。”と少し自分の配慮のなさを悔いる。しかし、鈴音はまったく気にせず早速、本を開いて冒頭を読み出した。すると、病室のドアが開かれる音が響いた。

「倉前さん。検温の時間ですよ。」

 振り向くと若い看護婦が病室に入ってきていた。

「もうそんな時間か。」

 御剣は備え付けの時計を見た。

「くるのがかなり遅かったからね。」

 優紀は心なしかほっとした様子でそういった。

「それもそうか。それじゃあ、まともに話もできなくて残念だが、帰ることにするよ。」

 今来たばかりなのにもう帰らなければならないのは残念だがそうもいってられない。

 御剣はそんなことを思いながら鈴音に別れを言う。別れというには少し大げさかもしれないが。

「うん。またね。」

 鈴音は満天の笑みを浮かべ二人を見送った。わざわざ手を振っているあたり、鈴音らしいな。御剣は微笑を浮かべ、

「鈴音も、あんまり夜更かしするんじゃないぞ。」

 と、いいながら病室を後にした。優紀は軽く会釈をして彼の後に続く。

 二人が部屋を出て行ったので、看護婦は脇に抱えていたケースから体温計を取り出し、鈴音に手渡した。

「それじゃ。脇に体温計を入れてね。」

 その指示通りに鈴音は本を棚に置くと渡された体温計を脇にしまい込む。

「今のはお友達?」

 鈴音の血圧を測りながら看護婦はそう聞いた。

「うん。」

 鈴音はにっこりとして答えた。

「ひょっとして片方は彼氏だったりして。」

 そういう話が好きなのか、彼女はイタズラっぽい笑みを浮かべながらそういった。

「うん・・・。まあ。そう、かな・・。」

 鈴音は頬を染めながら答えた。

「ふふ・・。いいわね。」

 彼女は、血圧計を見ると、”異常なし”といいながら書類にそう記した。

「体温計も出していいわよ。」

 鈴音は何も言わずに言うとおりにした。

「体温も平熱の36度3分。」

 これも異常なしね。といって、血圧の横に体温も記した。その表には同じような数字が並んでいる。

「だいぶ落ち着いてきてるから。この調子だったら。うまくいったら外泊もできるかもしれないわね。」

「ほんと?」

「だけど、春になったら。外はまだまだ寒いわ。」

 今日こそ雨が降ってはいるが、先週まで雪が降っていたのだ。春はこつこつと近づいてきているもののまだまだ遠い。

「春が待ち遠しいな・・。」

 鈴音がそういうと、看護婦も”そうね”と微笑むと、

「それじゃ、また夕方来るわね。」

 といいながら彼女は、病室を後にした。美鈴はまた手を振りながら見送る。

 病室は、雨音以外は鈴音一人になってしまった。この雨の日には中庭で遊ぶ子供も誰もいやしない。

 鈴音はゆっくりとため息をついた。先ほどまで浮かべていた暖かな笑みは姿を消している。

 無理をしているというわけではない、彼女と話しをすることは楽しいし、御剣が来てくれた時には本当に幸せな気分になれる。

 だが、一人になるとどうしても理不尽な憂鬱がわいてきてしまうのだ。だから彼女はいつも本をそばに置いている。本を読むことで少しはその憂鬱が紛れるように思えるから。

「春がこれば外に出られるかもしれない。だけど、私が本当に自分の足で春を踏みしめられるのはいつになるのかしら。」

 発作は一年に2回から3回やってくる。その時はまるでこの世界の終わりが訪れたような苦痛が襲いかかり、彼女は幾度も死を覚悟したこともあった。

 いつか、その手首にカッターを入れようとしたことすらあった。

 しかし、その時、ふと御剣の顔を思い浮かべたのだ。一度だけ、二人で学校の文化祭を見て回ったときのことだった、彼と初めてであったとき、・・・その時の御剣の笑顔が彼女の心に歯止めをかけた。彼女は涙を流しながら笑っていた。そして、気がつくと刃を持つ手の力抜けていたのだ。

 鈴音は目を閉じて、御剣の顔を思い浮かべた。彼の笑顔、困ったときの仕草。そのどれもが彼女の心に安らぎを与えてくれる。

 鈴音は、心が温かくなる気がした。

 そう、今の鈴音にとって御剣だけが心の支えであり、御剣も彼女の支えとなろうと心に決めているのだ。

 好きな人に大切に思ってもらえる。鈴音は、たとえ自分の病気が不治の病だったとしても、その幸せを糧にして生きていられる。

・・・いつか、御剣君の横で歩くことができるのなら。私は、どんな辛いことでも耐えることができる。

 彼女は強く心に思った。それがかなう日を夢見て・・・。


(3)


 夜。三日月が宵闇を支配し、星々が淡い光を瞬かせ、街が闇に沈む頃。

 御剣は夜の病院の一室にたたずんでいた。誰も彼を認識することができない。彼は”死神”に身体を明け渡していた。

「お迎えにあがりました。」

 今はもう息をしていない中年の男に彼はそっと声をかけた。包帯にくるまれた顔からは彼が死ぬ以前はどのような容貌であったかを推し量ることはできない。

「・・・・・。」

 男は起きあがり、虚ろな眼差しで周りを見た。

 一瞬のことだった。

 わずかな気のゆるみが引き起こした事故は、それこそ一瞬で一つの命を奪い去っていってしまった。

 だから彼は自分がどんな状態にいるのかさえ理解していない。自分が死んだということさえも・・・。

 それは今まさに肉体から離れ出ようとする魂。人であった頃の記憶が人の形をさせている、ただそれだけの存在だった。

「分りませんか?あなたは死んだのです。私は、あなたの魂を送るために来ました。」

 御剣は何の感情も込めずにそういった。

「俺が死んだ?バカ言うなよ。俺はここにいるじゃねえか。そうだろう?俺が死ぬなんて・・・そんなことないよな?な?」

 誰だって自分が死ぬのを認めたくない、死んでなおこの世にとどまりたいのは人として当然のことだ。しかし、それは悲劇しか生まないことは御剣はよく知っていた。

 そして、この世にとどまったとしても、そのうち自分が死んだことをいやでも自覚せねばならない時が来る。

 そうなってしまえば、やがて生きているものを恨むようになり、様々な厄災を振りまくこととなる。

 だから、御剣は辛くとも、あえてこういうのだ。

「いえ。あなたは死んだのです。あなたの足下をご覧なさい。」

 魂はゆっくりと自分の足下を見下ろした。

 そこには横たわった自分の身体。すでに生気を失っている死者の肉体。

「そんな・・・。これは、俺・・・なのか?」

 男の魂は自分の顔に触れようとするが、それはもうかなわない。魂がこの世のものにふれることはできないのだ。

「おわかりいただけましたか?」

「俺は・・・死んだのか?」

 彼はゆっくりと面を上げた。

 自らの死を現実に突きつけられ、その絶望はいかなるものなのだろうか?そこには希望などかけらも見つけることはできない。人の死とはそんなものだ。

「はい。あなたは死んだのです。私は、あなたの魂を送るために来ました。」

 御剣も同じことを繰り返し彼に言う。

 そして、そんな絶望を与えることが使命である死神の持つ苦しさはいかなるものなのだろうか?

「お前は・・・死神なのか?」

「はい。私は・・・死神なのです。」

 それを聞いた瞬間、男はぐっと歯を食いしばった。

「お前がおれに死をよこしやがったのか?!」

 その言葉は御剣の心に深く突き刺さる。幾度となく浴びせられた言葉・・・お前が自分を殺したのか・・・御剣はその言葉にどれだけの深い悲しみを覚えたか。

「それは・・・。」

 人としての心があふれてくる。彼は、必死になってそれを押しとどめようとした。そうしなければ、自分は死神で居続けることはできない。今は死神でいなければ・・・。

「そうだよな・・・死神だもんな当たり前だよな・・・。」

「・・・・。」

 御剣は何も言わない・・いや、いえなかった。死神は本来人に死を与えることはできない。しかし、死者にすれば死神とは間違いなく死神なのだ。

 そう思われても仕方がないのだ。

「とっととあの世におくりなよ。もう、お前の姿を見たくない。最後に見るのが死神の姿だなんて・・・最悪だ。」

 それはいわれのない中傷だったのかもしれない。しかし、それでも御剣は死神の使命を果たさなければならない。

 彼は、かつて人間だったものの魂にしっかりとした眼差しを向けると口を開いた。

「最後に一つだけ願いを聞き入れることが許されています。あなたには何か未練がおありですか?」

 死神はいかなるものにも最後の希望を与える。それがいかにちっぽけなものであっても、その願いはその人の心からの願いなのだから・・・。

 魂は少し考えるようにその口をつぐんだ。人が最後に願い、望むこと。それはそのものの今まで生きてきたことを意味づけることにもなる。

 重苦しい沈黙が続いた。

「家族に・・・最後の別れを・・・。せめてそれだけは・・・。」

 そして、それの口から紡ぎ出された言葉はごく平凡なものだった。

 御剣は何度同じ願いを聞いて、そしてかなえてきたことか。やはり、死者の最後の願いは親しい人への別れなのだろうか。愛するものとの永遠の別れ。それは他の何よりも辛く苦しいことだ。

「分かりました。その願い確かに聞き入れました。」

 御剣は黒い鎌を取り出した。

「あなたの意志は確かにお届けします。」

 その鎌は月の光を受けてもひかりもしない。

 彼は、魂と肉体の付け根にそれをあてがった。

 魂はじっとそれを見つめていた。

「痛みは・・・感じねえんだな・・・。」

「はい・・・あなたはもう・・。」

 死んでいるのですから・・・という言葉を彼は飲み込んだ。

「そうだな・・・・悪かったな。」

「え?」

 不意に御剣は面を上げた。魂は申し訳なさそうな表情で彼を見ていた。

「さっきは言い過ぎたよ。そうだよな。お前もこんなこと、好きでやっているわけねえよな。」

「・・・。」

 彼は絶句してた。死神に謝る人間、死神に誹謗中傷を浴びせるものは少なくない。だが、今までその死神に謝る人間などいただろうか?

「何だかな。心がクリアーになったって言うのかな・・・。今はお前の気持ちってのがよく分る気がする。」

「・・・。」

「俺は・・・いわゆる仕事人間ってやつでさ。家族や人間関係なんて面倒なものとしか考えていなかったんだ・・・。だけど・・・。はは・・・死んでから気がつくなんて俺もとんだバカ野郎だな。人の心はこんなにも暖かなんだって・・・。」

 彼は、まるで遠くを見るような眼差しで話していた。彼の目には何が映っているのだろうか?友人?家族?それとも、今までであったすべての人たちなのだろうか?

「人間とは・・・いいものです。」

 御剣は微笑んだ。死神が微笑む。それは、ある意味死神としてはあるまじきことなのかもしれない。しかし・・・御剣はそれでも微笑みたかった。

「ああ。そうだ。だからこそ、もっと生きていたかったが・・・いや、もういいか・・・。」

「ごめんなさい・・・。」

「謝るな!お前は何も悪いことはしていない。だから・・・謝るな。」

「・・・・はい・・・。」

 御剣は、魂に鎌を突き刺した。魂には何の痛みもない。彼はただ目を閉じてその時を待つだけだった。御剣は目をそらしつつも鎌を持つ手に力を込める。

 鎌はいともあっさりと魂を肉体から刈り取っていた。

 一瞬のまばゆい光の瞬き。後に残ったのは死んだ肉体と、魂が人間だった頃の思いだけが、鎌の周りを行く当てもなくただ彷徨っていた。

「さあ、思う者のところに行くがいい。」

 御剣はその”思い”に行く道を指し示した。それは、ゆらゆらと病室の窓を抜け、夜の闇の中に消えていった。

 人は死んだら魂魄となってこの世を彷徨うと言われているが、彷徨うのはあくまで人の思いだけ。人の魂は天に帰っていくのだ。

 この夜も一つの魂が天に帰った。多くの哀しみと思い、そして再びこの世に帰ってくる希望を残して。

 悲しいのは送られたものでもなく、送ったものでもない。残されたものたちなのだ。それは、誰もがよく知っている。

 御剣は病院を後にした。

 街は、さらなる闇へとその身を沈めてゆく。

 それはまるでこの世の終わりのようにおもえた。


         ※


 御剣はゆっくりと目を覚ました。鳥の鳴き声がまるで子守歌のようにさらなる眠気を誘う。

 彼は、だるそうに体を起こすと大きくあくびを一つついた。

「あーあ。なんだか暖かくなったな。」

 ついこの間までは身を切るような朝の冷え込みが、今ではすっかりと消え、いつの間にか、暖かな春の日差しが差し込む、とても居心地のいい季節となっていた。

「ふぎゃ!」

 御剣がベッドから降りようとすると、その下で丸くなっていたミカエルを踏んづけそうになってしまった。

「邪魔・・・。」

 御剣はそういうとあくびを交えながら無造作にミカエルを足でどかせる。ミカエルは怒ったような目を向けるが、御剣はまったく気にしていない。

「そんな顔するなよ。こんないい天気なんだからさ。」

 御剣はまたあくびをついた。

「起きるときぐらい足下に気をつけるがいい。」

 ミカエルは床に座り込んでそういった。

「仕方ねえだろ。あれの後はなんか異様に疲れるんだから。」

 あれ・・・死神としての活動のことだ。確かに、今までもそうだった。

「まだまだ未熟よのう。」

 ミカエルはいつも居間で見ている時代劇の口まねをしているが、御剣はやれやれとため息をつき、さっさと着替え始めた。

「そういえば、美雪のやつ。今日は起こしにこねぇな。」

 気持ちよく寝ているところにあの大声はきついが、それがないとどうも調子が狂ってしまう。

「たまには起こしに行ってやったらどうだ?」

 ミカエルはそういうが、御剣は”どうするかな”と言いながら制服に着替えた。

「ま、たまにはな・・・。」

 部屋を出て階段にさしかかったところで、彼は、”美雪のお部屋☆”という札がぶら下がった部屋を見ると、いつもの仕返しといわんばかりに乱暴にドアを叩いた。

「おーい。美雪。起きてるか?起きてるな?さっさと下に来いよ。」

 とだけ言い残すと彼は、ミカエルとともに一階のリビングに降りていった。

「そういえば、お袋いなかったっけ。」

 昨日そんなことをいっていたようなことを思い出すと、御剣は台所の食器棚から二人分のグラスを取り出し、冷蔵庫にあったパンをオーブントースターに入れてスイッチを押した。パンが焼き上がったら自動的に止まるものだから、そのまま放っておけばいい。

「おい、ミカエル。飯だ。」

 御剣は、リビングで寝そべっているミカエルをつま先でつつきながら、彼の前にミルクの入った皿をおいた。

 本当はそんなもの必要ないが、形だけでも猫をしてもらわないといけないという御剣の要求だ。それに、”このミルクというものも悪くない。”とミカエルはいつもいっていることで、まんざらいやそうでもないらしい。

 オーブントースターがチンという音を立てた。焼き上がったようだ。

 御剣はバターをこんがり焼けたトーストの上に塗りたくった。美雪はジャムがいいといつもいっているので、美雪の分は何もつけず、代わりにジャムを出して、トーストと一緒にテーブルにのせておいた。

「美雪のやつ。おっせえな。」

 御剣は上を見ながらそうつぶやいた。御剣はすでにトーストを半分以上食べてしまっている。時間的にはそろそろ出発の準備をしないと遅刻してしまいそうだ。

 彼は、立ち上がると階段を駆け上がり再び美雪の部屋に来た。

「おい、美雪。そろそろ降りて来いよ。」

 御剣は扉をさっきより強めにドンドンと叩いた。

「・・・・・。」

 しかし、部屋の中からは何の反応もなかった。御剣は”しかたねえな”とつぶやきながら、

「おい!入るぞ。着替え中でも文句をいうなよ!」

 そう断りながら部屋のドアを開けた。母親の教育方針から(もっとも美沙にそんなものがあったらの話だが)部屋には鍵をつけないことになっているのでいつでも部屋にはいることはできる。

 ガチャリ、とドアノブが回される音がして、扉が開かれた。

「美雪・・・?まだ寝てるのか?」

 部屋は思いの外薄暗かった。

「あ、お兄ちゃん・・・。」

 美雪はまだ布団の中にいた。薄暗い中その表情をうかがい知ることはできないが、御剣は美雪が自分を見ているように思えた。

 よくよく耳を澄ませると、ときおりゴホゴホと苦しそうな咳を漏らしているようだ。

「風邪か?」

「・・・・。」

 御剣は、歩み寄りベッドの縁に腰をかけると美雪の額に手を当てた。

 美雪は何も言わずにその手を受け入れた。美雪の額の熱が御剣の手に伝わってくる。それは、尋常ではないほどの熱がこもっていた。

「これは・・・完全に風邪だな。」

「・・・・うん・・。」

「まったく昨晩(きのう)、風呂上がりにアイスを3本も食うからこうなるんだ・・・。こんな季節に良くやるよ・・・。」

  まあ、自業自得というやつだ。

「だってぇ・・・。」

 今の美雪には言い返す元気すらないらしい。

「これに懲りたら次からは気をつけるんだぞ!いいな?」

「・・・うん・・。」

 思いの外正直にうなずいた。

「食欲はあるか?」

 ため息をつきつつも御剣はそう聞いてみるが、美雪は何も言わずただ首を振っただけだった。

「ないのか?」

 今度は首を縦に振る。

「しょうがないな・・・。」

 かなり重傷のようだ。

 今日は休むしかないかな・・・お袋もいないし。そう思うと、御剣はとりあえず学校に連絡を入れようと思い立った。

「学校には休むっていっとくからな。食欲なくても粥ぐらいは食えよ。」

「お兄ちゃん・・・。」

 部屋を出て行こうとする彼を引き留めるように美雪は声を漏らした。

「ん?なんだ?」

 御剣はドアノブに手をかけながら首だけ振り向いた。

「ごめんね・・・それと、ありがとう。」

「いいさ。」

 そう言葉を残すと御剣はいそいで一階に下り、玄関のそばにある電話の前に立った。

「確か、学校の番号は・・・。それと、お袋にも連絡しとかないといけないか・・・。そういえば、カゼ薬あったかな?」

 彼は、電話帳をぺらぺらとめくり始めた。この電話帳を書いた本人(美沙)がめんどくさがりやだったらしい、わざわざ50音のリストがあるというのにその項目をまったく無視して書かれているため、目的の番号を探すのに苦労する。

「あ、これか・・・。」

 最初のページから数えて5つ目にようやく学校の番号があった。そして、やっとの事で受話器を取ろうとすると玄関が開かれる音がした。

「ただいま・・・。」

 振り向くと、美沙が下駄箱に寄りかかりながら立っていた。明らかに疲れ気味のようだ。仕事で徹夜でもしたのだろうか?そのめの下には隈が浮き上がっていた。

「あ、お袋。早かったんだな。」

 御剣は珍しいものを見るかのような視線を彼女に向ける。実際、朝、彼女に会えることなど滅多にないことなのだ。

「御剣・・。あんた、学校は?」

 美沙は、時計を見ながらそう聞いた。いつもならとっくに家を出ている時間だ。”さぼるつもりじゃないでしょうね?”と、目が言っている。

 御剣は、ごく簡潔に(美雪がカゼひいて学校に休みの連絡しようとしていた途中だと)事情を話した。

「美雪が風邪ひいた?まったくしょうがない子ね。どうせ、お風呂上がりにアイスでも食べてたんでしょう?いつもやめておきなさいって言っているのに・・・。しょうがない子ね・・・。」

 ご名答、伊達に母親をしていない。美沙は、肩を叩きながらそういった。

 その仕草と外見が妙に一致しない。美沙はなぜか年の割に若々しく見えるのだ。まあ、今となってはどうでもいいことだが。

 少し口調が荒っぽいのは疲れているからだろうか。

 美沙は、御剣の肩をぽんぽんと叩くと、

「美雪の看病は任せておきなさい。あんたは学校いくの!」

 授業料がもったいないでしょ。と付け足した。

 御剣は、へいへい、といいながらリビングにおいてあった鞄をとると靴を履と、

「それじゃ、行ってきます。」

 服を着替えずに台所に引っ込んでいった美沙にそう言い残して、ドアを開いた。

「寄り道するんじゃないわよー!」

 冷蔵庫の開く音と一緒に美沙の声が御剣の耳に届く。御剣は苦笑を浮かべながら家を出た。

 明るい日の光が差し込み、御剣は手をかざした。

「本当に暖かくなったよなあ。」

 ほっと一息つくように彼はそうつぶやき、商店街に続く坂道を一人で歩きだした。

(一人で登校するのもなんだか久しぶりだな。)

 まだ雪の残る地面。透き通るような空気にさらされ、それでも街はかすかに春の兆しが見え始めていた。


          ※


 教室に入った御剣を迎えたのは、塔矢だった。

「およ?御剣・・・。今日は優紀と一緒やなかったんか?」

 御剣はうなずきながら周りを見回した。やはり教室にも彼女の姿はない。

「ああ、今日は一緒じゃねえよ。」

 いったいどうしたのだろうか?

 いつもなら、坂道のてっぺんあたりで出会うはずなのに、しばらく待っていてもくる気配はなく、仕方なしに彼は先に来ることにしたのだ。

 なぜか分らないが彼女がいないとどうも落ち着かない。

「もう、ホームルーム始まるで。」

「ん・・・分った。」

 それでも御剣は教室の入り口と優紀の席を交互に見ていた。

「心配しとんのか?」

「ん?ま、お前と同じぐらいにな。」

「お、俺は別に・・・。」

「心配してないっての?」

「そんなこと・・・。」

 『あらへん』といおうとした彼は口を紡ぐと、やれやれとため息をついた。

「・・・心配やなあ。」

 御剣は”だろうな”と頷きながら優紀の席を見た。そこには最初から誰もいないような妙にがらんとした気配が漂っていた。

 そんな二人を背に始業ベルが鳴り響き、教師が教室に入ってきた。

 今までバラバラに話し合っていた者たちは一度自分の席に戻る。

 御剣もとりあえず自分の席に着いた。

「起立。礼。着席。」

 委員長の決まりきった号令が終わると、担任が口を開く。

「今年度ももうそろそろ終わりに近づいている。諸君らも後数ヶ月で受験生になることを自覚して日々の勉強に励んでほしい。」

 担任は、もうすでに決まりきった言葉をただ口にするだけだ。

「もっと、気が楽になることでもいえへんのやろか。」

 塔矢は前の席の御剣にささやきかけた。御剣は無言でうなずくと、優紀の席をちらりと見た。まだ、彼女はきていない。

 皆勤賞をねらっているといっていたのに、今日はどうしたのだろか。見ると、御剣以外の生徒もちらちらと優紀の席を見ている。

『今日は美雪が風邪をひくし、優紀が遅刻するし。変な日だな。』

「おい、御剣!きいとるか?」

 突如、担任の教師が、よそ見をしてた御剣をにらんだ。

「聞いてまへーん・・・。」

 答えたのは彼の後ろの席に座る塔矢だった。クラスは一瞬笑いに包まれる。

「お前に聞いてるんじゃない。まあいい。春だからといってあまり気を抜きすぎるなよ。気を抜いていいのは花見の時だけだ。」

「先生。そりゃ、気を抜くやのうて羽目を外すってことやないですか?」

 さらに笑いがわき起こる。堅物そうに見えても結構ユーモアがあるこの教師は生徒の間にも人気がある。ある意味メリハリのきいた人とも言える。

「よし。今日も一日しっかりとがんばること。」

 そういって彼は、話を締めくくり、教室を後にした。そんな彼と入れ違いに優紀が教室に入ってきた。担任が何も言わなかったのは、遅刻すると連絡が入っていたからだろうか?

 御剣もやれやれとため息をついて脱力するように椅子に身を沈めた。やはり彼女がいると安心する。

「よう、優紀。遅かったやんか。寝坊でもしたんか?」

 塔矢は荷物を下ろした彼女に向かって手を振りながら軽口を交わした。

「そんな。御剣君じゃないんだから。」

「俺かよ!」

 塔矢は笑いながら、”そらそうやな!”と言い、盛大に笑いを買った。

「別に俺は寝坊しているわけでは・・・。」

 ふと、御剣は優紀の背後を見た。なにやら黒い影のようなものが陽炎のようにゆらゆらと立ち上っている。光の影にしては不自然すぎる。

・・・・!!!

 御剣は心臓が鷲掴みにされた気分を味わう・・・。

 それは、生きる運命にある人間にはあってはならないものだった。

 御剣は立ち上がると、いきなり優紀の腕をつかんだ。

「ちょっ・・・。御剣君?何するの?離してよ・・・。」

 優紀は困惑した瞳で御剣を見るが、彼の目は有無をいわせない強さがあった。まるで、その視線に射止められたかのように優紀はその手をふりほどけなかった。

「ちょっとつきあえ。」

 御剣はそう言い放つと優紀をぐいっと引っ張り、そのまま教室から連れ出そうとする。

「痛いよ。やだ・・・。はなして・・・。」

 もう御剣は何も言わなかった。確かめなければならない。優紀は知っているのだろうか。これから自分が歩む運命を。彼は、それを確かめなければならなかった。たとえ、この行為が何らかの誤解を招く結果になろうとも・・・。

 教室にいた者達もそんな御剣の変貌ぶりに、ただあっけにとられるだけで、誰も彼を止めることはできなかった。

「いったい何や?」

 後に残された塔矢はその場にいた者達の代弁をするかのように、ただ呆然とするだけだった。


       ※


 人気のない昇降口。白く塗りたくられたその場所はひっそりと沈みかえっていた。

 御剣は周りに人の気配がないことを確認すると、ようやく美雪の腕を解放した。

「まったく・・何なのよ・・。いつもの御剣君らしくない・・・。」

 優紀は未だに困惑していた。かなり強い力で握られていたのか、彼女は自分の手首をさする腕を止めない。

 そんな彼女を見て御剣は少し後ろめたい思いにとらわれたが、意を決して口を開いた。

「最近病院に行ったか?」

 優紀の手が止まった。

 彼女は御剣を見上げる、それは驚愕の眼差しだった。

 そして、その目がすべてを物語っていた。

「行ったんだな?怪我か?なんかの病気か?」

 優紀は再びうつむいてしまった。その口からは何の言葉も出てこない。何かを隠しているのか、それとも言うべきか言わないべきか決めかねているか、そんな表情にみえた。

「言えよ。医者には何を言われた?」

 それでも御剣は聞きたかった。

 ・・・自分が近い将来この世からいなくなってしまうことを知っているかどうかを・・・。

 優紀の背後にあるのは”死の気配”だったのだ。御剣は完全な死神でないために死の運命にあるものが、その命を散らす半年から3ヶ月前にならいと分からなくなっているのだ。

 彼は多くの死を見てきた。

 親しいものの死、そうでないものの死、肉親の死を。皆、死ぬ前には今の優紀と同じ、背後に”死の気配”を背負っていた。

 そうして、いずれはそういう者達に死の告知をしなければならない。

 彼の周りには常に死がまとわりついている。それも、死神として背負うことを余儀なくされた運命なのだ。

「・・・・心臓・・・。」

 うつむきながらもようやく優紀は口を開いた。

 御剣は、ドキリとした。その声は、まるで死者の声のように感じられたからだ。

「心臓の病気だって・・・・。後、半年持たないんじゃないかって・・・・。」

 優紀の声は今にも泣きそうだった。

 なんということだ・・・。

 世界が足下から沈んでいくような・・・、すべての終わりが訪れたような・・。そんな思いが御剣を包み込む。

 力の抜けきった足を引きずりながらも彼は優紀に歩み寄っていく。

「だめなのか・・・?もう、助からないのか・・・?」

 それは、彼本人が一番よく知っている。それでも、彼は聞かずにおれなかった。

 御剣は、優紀の肩をつかんだ。その力があまりにも強いものだったので、優紀は顔をしかめるが、御剣はその手をゆるめようとしない。優紀は彼の必死な気持ちを感じ取った。

 しかし、彼女はもう偽ることはできなかった。

「・・・・うん・・・・。もう。だめなんだって・・・・。」

 受け入れるしかない。彼女はいつもそう自分に言い聞かせてきた。そうしないと悲しみの奥底に沈み込んでしまう気がするから。

 優紀の肩にかけられた手の力が次第に抜けていく。

 去年の体育祭。来年こそは優勝しようと言ったとき、彼女が一瞬見せた悲しそうな顔。走ることが好きなくせに走るとすぐに息切れしていた彼女。先のことより、今の一瞬を大切にしたいといつも言っていた。

 そうだったのだな。すでに彼女はそこの頃から知っていたのだな。

「いつから・・・・、知ってたんだ?」

「一昨年・・・。貧血で倒れたとき・・・。」

 御剣は思い出した。体育の時間の時確かに彼女は一度貧血で倒れている。そんな時から優紀は自分の死を自覚し、それでも前向きに生きていこうとしていたのか。

 御剣は、脱力するように肩から手をおろした。

「お前は強いな。」

 今度は、優紀の目をしっかりと見つめてそういった。

「そんなんじゃないよ。ただ、あきらめてるだけ。私、強くなんかない。私は、臆病なの・・・。」

(私にもう少しだけ勇気があれば、きっと私の思いを伝えている。だけど・・。だめなの。)

(あきらめる・・・そうか。俺もあきらめていたのか・・・。運命だと言ってしまえば楽だものな・・・。)

 思いが交錯する。

 静寂があたりを包む。始業のベルはとっくに鳴った後で、彼らの周りに人はいない。

 たとえ、人がいたとしても二人は気が付かなかっただろう。

 事実、二人は気が付かなかった。物陰で二人の話を聞いていた者の存在に・・・。


          ※


 夕日に染まる校庭。

 後20分もすれば夜のとばりがあたりを覆い尽くすだろう。

 日に日に長くなっていく太陽もまだまだ短い。

 今日は久方ぶりに暖かく、まるで春の日のように過ごしやすかった。春も近いことを彷彿とさせるような一日だった。

「ん?」

 御剣はふと校庭を見た。既に部活の終了の時は過ぎているというのに、まだ誰かが校庭を走っているのだろうか。長々とした夕日の影が校庭を駆け抜けている。

「あれ?塔矢じゃねえか・・。」

 夕日に照らされてはっきりとは見えないが、そこにいるのは確かに塔矢だった。

 彼はまるで何かに取り憑かれたかのようにひたすらに足をふるっている。

「おーい!塔矢!」

 御剣はそんな彼に届くほどの大きな声を張り上げた。

「???ああ、なんや。御剣かいな。」

 しばらくあたりをぽかんと見回していた塔矢は彼を確認すると表情を和らげ、歩み寄ってきた。

「どうしたんだ?もうこんな時間だぜ。」

 荒い息をつきつつ首にかけたタオルで汗をぬぐっていた塔矢はそんな彼の一言を聞くと不思議そうな顔で校舎の時計を見上げた。

「なんや・・・もうこんな時間やったんか。もう、誰もおらへんやん。」

「ずいぶん走り込んでいたんだな?何かあったのか?」

 普段の塔矢はだいたい部活終了時間になるとさっさと切り上げて帰る準備をしているはずだ。

 それが今日に限ってこんな遅くまで、しかも時間を忘れ、周りの者達が帰ってゆくことさえも気がつかなかったということは、何かあったではないかと思うのは当然だろう。

「んーー。まあな・・・。そういうお前こそ今日は遅いんやな?」

 彼は曖昧に答えると、すぐに話題を変えるように口を開いた。

「今日は図書館で調べものをしてたんだよ。」

 御剣は嘘は言っていない。

「勉強熱心なことやな・・・。」

 塔矢はしばらく西の空に輝く夕日に目を馳せた。

「そうや、久しぶりに一緒に帰らへんか?話しときたいこともあるよって。」

 塔矢は思いついたような表情を一瞬浮かべると、さらに話題を変える。

『話しておきたいこと?』

 御剣は首をひねった。彼にはそんな心当たりはない。普段からお互いに思ったことは言い合っている仲だから今更話すことなどないはずだ。

「ああ、いいぜ。」

 しかし、塔矢がここまでして話しておきたいのであれば御剣には断る理由などない。

「すまんな。ほな、ひとっ走り着替えてくるわ。少し待っといてや。」

 塔矢は駆け出すと部の更衣室に向かっていった。

「ゆっくりでいいかなら。」

 しばらくして塔矢は大きなスポーツバックを肩に提げながら戻ってきた。

「ほな。行こか。」

「ああ。」

 夕日も沈み、彼らの周りには黄昏の気配が漂い始めていた。

「・・・。」

 二人の歩調はひどくゆっくりとして、お互いに口を開こうとしない。

 ようやく灯り始めた街灯はまるでそんな闇に穴を穿つようで・・・。

「なあ?」

 その沈黙を破ったのは御剣だった。

「ん?」

 塔矢はふと御剣のほうをみた。

 「黄昏」は「誰彼」とも書く。御剣はその文字通り、今塔矢がどんな表情をしているのかを察することはできなかった。

「何か話があったんじゃないのか?」

「ん?そうやったか?」

 塔矢はわざと目をそらした。その目の先に映るものは真っ暗な夜空なのか、それともまったく別のものだったのだろうか・・・。

「はぐらかすなよ。」

 御剣は少しいらだったような口調で問いつめる。これだけは聞いておかなければならない。なぜかそんな気がするように思えてならなかった。

「そうやなあ・・・さーて。どう切り出したらええんやろな・・・。」

「お前らしくないな。」

「そうやな・・・俺らしくないか・・・。」

 塔矢はしばらく俯いて黙っていた。まるで、いうべき言葉を必死にさがしているように。

「なあ、優紀のことなんやけど・・。」

 御剣はその言葉を耳にして心臓が跳ね上がる思いがした。

「優紀が・・どうかしたのか?」

 彼は冷静を装っていたが、果たしてそれが成功していたのだろうか。息苦しささえも呼び込む心臓の音はひどく彼から冷静さを奪っていった。

「優紀は・・もう手遅れなんか?」

 彼の言葉はあまりにもストレートだった。

『・・・ごまかしようがねえじゃねえか・・・』

 御剣はうなだれるように視線を地面に落とす。

「・・・どうしてそれを?」

 そして、ようやく絞り出した言葉がそれだけだった。

「聞いてしもうたんや・・・おまえらが話しとるところを。おまえらなんか変やったからな。好奇心につられて・・・つい・・っちゅうことや。」

「そうか・・・。」

 確かに、塔矢だったらそうするだろう。いや、それの方が塔矢らしい・・・。

「で、どうなんや?」

 塔矢は既にその答えを知ってた。御剣が次に発する言葉さえも。しかし、それでも彼は聞かずにはおられなかった。

 だから、御剣はもう隠したりしない。彼は意を決すると面を上げた。ようやく光りだした星の輝きをまぶしく感じながらようやく口を開く。

「後半年持たないかもしれないって・・・たぶん、3ヶ月か4ヶ月・・・もっと短いかもしれない・・・。」

 口の中が急激に乾いていくような感覚が襲ってくる。

「そうか・・・。」

「ああ・・・。」

 何か嫌なものがのど元からこみ上げてくる。

「あいつは強情で意地っ張りやからな・・。ほんまに可愛げのないやつや。」

「そうだな。」

 痛みが体中を駆けめぐるようだった。

「やけど・・・退屈はせえへんかったな。」

 塔矢はふっと表情をゆるめた。

「・・・・・。」

 御剣は答えなかった。

「なあ?そうやろう?」

 塔矢も分っていた。こんなことを言われても返す言葉など見つかるはずもないということが。

「ああ・・。まったくだ・・・退屈しなかった。いつでも笑ってられたよな。」

 御剣は歯を食いしばるように目を伏せた。

 二人の脳裏には今、何が映し出されているのだろうか?

 優紀の笑顔?彼女と過ごした思い出?そのすべてだったのかもしれない。

 塔矢は空を見上げた。月の出を待ちわびるかのような宵闇が支配する空。

「後3,4ヶ月か・・きついなあ・・。」

 御剣もそんな彼につられるように空を見上げた。星々はまるで月の姿を待ちわびるように淡く切ない光を大地に与えてるだけだった。

「・・・・。」

 御剣は何も言えず、ただ夜空を見上げるだけだった。

「あかんな・・俺は・・・そんなこと知ってもたらあかんわ・・・。」

「そうか?」

 ふと、御剣は塔矢のほうをみた。ますます濃くなっていく闇の中で彼は大きくため息をついていた。

「まったく・・・なんでやねん・・・。何であいつが死なんとあかんのや・・・。優紀やで・・あいつは・・優紀なんやで。」

 御剣は塔矢の心の声を聞いた気がした。なんのことはない、御剣も今まさにそんな心境だったからだ。

「なあ?」

 御剣は言葉を発する。

「なんや?」

「後、3ヶ月か4ヶ月間・・・あいつと楽しくすごそうな・・・。」

「・・・。」

「最後なんだ、いい思い出を作ろうな・・・。」

 塔矢は黙って彼を見つめた。そして、ふっと笑みを漏らすと深く頷く。

「そうやな・・・楽しくやれたら・・ええな・・・。」

 一陣の寒々しい風が春の気配を吹きとばすかのように駆け抜けていった。


    ※


 聖イスラフェル学園付属病院。

 優紀は春の夜空を見上げていた。星空に月が浮かぶだけの、他愛のない情景だったが、彼女はこれが好きだった。

 今、彼女は定期検査のために入院している。

 薬の影響で今夜は寝つけられないだろうと担当医も言っていた。その言葉通りにまったく眠ることができなかった。彼女は仕方なしに夜の病院を歩き回っていたのだ。

 深夜2:45。

 宿直の看護婦がたまに廊下を歩く音だけで、あたりは静寂に包まれている。

 優紀の病室は鈴音の病室から一つ上の階なので、たまに遊びに行ったりもしていた。

 その時に話題になるのは、専ら御剣のことなのだが・・・。

「はあ・・・・。」

 夜の闇に沈む中庭を見下ろし、優紀はため息をついた。

 一人でいると、自然とため息をつく回数が多くなってしまう。特に、病院というのは自分の気を滅入らせる空間のように思えてしまう。

 昼間であれば多くの患者がリフレッシュのためによく中庭にいるのだが。今は誰もいない。

 ・・・・いや、今何かの影が動いたような気がする。

「・・・人・・・?」

 優紀は窓を開くと身を乗り出してそれを確かめようとした。夜のひんやりとした風が肌に気持ちが良かった。

 よくよく目をこらすと確かに人ようだ、真っ暗でよく分からないし足音も聞こえないが誰かが中庭を歩いているように見える。

 しかし、その姿は全身に黒い衣服をまとい、夜の闇に完全に紛れてしまっている。

「私みたいな人がいるってことかしら?」

 一陣の風が木々を揺らし、それによって遮られていた月の光が中庭を一瞬照らし出した。そこに映ったのは・・・、

「・・・御剣君?どうしてここに?」

 見まごうはずもない。まるで人としての感情が欠落しているかのような表情を浮かべていた黒い影。それは御剣だった。

 そして彼は屋上を見上げる。その先には何があるというのか・・・。その視線の先に一瞬気をとられた時だった。

「・・・?!」

 優紀は息を呑む。

 今までそこにたたずんでいたはずの彼の姿は煙のように消え去っていた。一瞬の出来事に彼女は驚愕し思考が止まってしまいそうだった。

「・・・・え?ど、どこに・・・?」

 それでも何とか動いている思考を呼び戻し、そして気がつけば別館の屋上を見上げていた。

 そこには、月を背にして、黒いマントをなびかせ、手には大きな鎌のようなものを持った人間が立っていた。

 それは、間違いなく御剣だった。

 優紀は駆けだした。驚愕が身体を凌駕しているのか、胸が苦しくなることを少しの間忘れることができた。

 なぜ、彼がここにいるのか。どうして急に煙のように消えてしまい、今屋上にいるのか。そんな疑問も今ではどうでもいい。

 別館への渡り廊下はいつも開いている。

 彼女は、なぜ彼がここにいるのか確かめたいという思いに駆られてただ走り続けていた。


      ※


 別館の屋上。御剣はそこにたたずんでいた。ただし、その身を死神に明け渡して・・・。

 今夜も一つの魂を天へと返した。その帰る途中彼は見たのだ、確かにここ、屋上に”何か”がいた。

 御剣はその姿を思い浮かべる。それは、赤い衣服を身にまとい、ただ彼を見下ろしていただけだった。しかし、その雰囲気は明らかにこの世のものではないように感じられた。

「今のは、いったい・・・。」

 御剣は肩に乗っているミカエルにそっと話しかけた。ミカエルはうなずくと、

「あれが、悪夢だ。」

 憎々しげに吐き捨てた。

「悪夢・・・。さっきのが・・・?」

 ミカエルは無言でうなずいた。

「悪夢とは死神の敵。これは以前にも話したな。」

「ああ。それしか知らない。」

 ミカエルは御剣の肩にうずくまると空を見上げた。煌々とした光を大地にたたえる月が彼らを見下ろしていた。

「そうだな。奴も姿を現した。そろそろ話すべきなのかもしれぬな。」

「・・・・。」

 御剣も空を見上げた。

「悪夢とは死神とはまったく逆の存在なのだ。」

「逆の存在?」

「うむ・・・。死神が死にゆく者の魂をその肉体より刈り取り、生きるべき者を死の運命から救うことを生業としている。悪夢とはそのまったく逆なのだ。」

「死にゆくものの魂をこの世に押しとどめ、生きるべきものに言われない死を与える存在・・ということか?」

「その通りだ。」

 夜の静寂が二人を覆い隠す。

 ふと、ミカエルは耳を立てた。

「誰か、人が来るみたいだぞ。」

 御剣は笑って、

「大丈夫だろう?どうせ、見えねえんだ・・・。どうってことねえよ。」

「だが、それが死に行くものだったらどうする?」

 死に行くものは、より死神に近い存在であり、そのものであれば、死神の存在を感じることができる。しかし、御剣は自嘲的に笑う。

「だったら、死の告知をすればいいさ。いつも通りに・・・。」

 ガチャリという音とともにドアが開かれた。御剣は目をゆっくりと向ける。そこに立っていたのは・・・。

「・・・・・!優紀・・・。」

 そこに立っていたのは、紛れもない優紀だった。そして、優紀は驚愕の眼差しを御剣に向けていた。

「やっぱり、御剣君だ・・・どうして?中庭にいたと思ったらいきなり・・・。それにミカエルちゃんも。」

 ミカエルは御剣の肩から降りて地面にたった。そして、優紀を見上げるとゆっくりと語り出す。

「そろそろ本当のことを話すべきかな。お嬢ちゃん。」

 優紀は、”きゃっ”と少し後ずさりした。

「ミカエルちゃんがしゃべった?」

 ミカエルは、そんな優紀の態度を見て薄い笑みを浮かべると、

「私は猫ではない。今は猫の姿をしているが。そして、ここにいる御剣もまた普段の御剣とは別物だ。」

 優紀は何がなんだか分からないという風な表情をしている。

「もういいよ。ミカエル。俺が言うから。」

 御剣は、ミカエルを抱え自分の肩に乗せた。闇夜のように黒い彼の体毛がマントと合わせて彼の肩と一体となる。

「今まで黙っていてすまなかったな。俺は、俺は本当は・・・。」

 優紀は目をそらさなかった。いや、そらすことができなかった。今目をそらせたら、これからずっと彼から逃げ続けなければならい。そう思えたからだ。

 しかし、彼女の心は叫び声をあげていた。

・・・いやだ、それ以上は聞きたくない!やめて、お願いだから・・・!

 流れ落ちそうになる涙を彼女は必死になって押しとどめた。

 しかし、御剣はやめなかった。

「俺は・・・死神なんだ。」

 普段なら、笑ってすませられたかもしれない。しかし、そうできなかった。笑い事ですませられるのであればそれに越したことはないのだろう。

「どうして・・・・?」

 優紀は自然とそう言葉を発していた。なぜ?ではなかった。彼女にとって、それはもうどうでもいいことだった。

「どうして、御剣君なの?どうして、他の人じゃだめなの?」

 それは、かつて御剣が思った同じことだった。

「分からないよ。だけど、俺だったんだ。それは、偽ることはできないよ。」

 御剣はうつむいてしまった優紀の頬にそっと手を添えた。

「だけど。御剣君にだったら。御剣君の手にかかって死ねるんだった。私はそれでも・・・。」

 優紀は御剣の手に自分の手を重ねると、ぎゅっとつかんだ。今は、人間ではないからなのか。御剣の手はとても氷のように冷たい。

「そうではない。」

 ミカエルは言った。

「死神というのは、人に死を与えるのがその役目なのではない。」

 優紀は顔を上げた。

「だって、死神って・・・。」

「死神というのは、死に行く運命あるものの魂を肉体から刈り取り天へと返し、そして、生きるべきものを死の運命から救うのが本当の役割なのだ。」

 御剣は、優紀の目をまっすぐ見つめた。

「大丈夫だよ、優紀。お前の魂は俺が天に送ってやるから・・・。」

 それは、死神らしからぬ優しい声だった。

「うん・・・。」

 優紀はそういうと御剣の胸に顔を埋めた。ひどく虚ろな感触。この感触が彼は人間ではなく死神なのだと言うことを物語る。

 優紀は次第に意識がぼやけてくるのを感じ、そして、彼の胸の中で夢の世界へと落ち込んでいった。

「優紀。起きたら、おそらくこのことは忘れてるだろう。だけど、お前は最後まで一人じゃないんだ。それだけは分かってくれよな・・・。」

 月は、山の向こうへと隠れつつある。これからいよいよ夜の闇が世界を支配する時間となるのだ。

 御剣は、優紀を病室へと運ぶと、夜の闇にとけ込むように病院を後にした。


          ※


 そう遠くない未来、私に死が訪れる。

 そのことを知ったのはさほど昔のことではない。

 しかし、それを肌で感じるようになったのはいつの日からだっただろうか。今になっては明瞭な答えが出てくることはない。

 それを自覚したとき、私は途方にもない恐怖と絶望にうちひしがれ、人知れず涙を流したこともあった。

 私がもう先が長くないことを告知したのは弟の優輔だった。優輔にはどんなことでも、私に関する重要なことは偽りなく話してほしいといつも言っていた。

 自分はそれを忠実に実行しただけたど、彼はいっていた。

 だけど、私が優輔の立場だったら、私ははっきりと口にすることができただろうか。血のつながった家族が、今、死の淵にたたされているということを・・・。

 ・・・できるはずがない。私は弱いから・・・。そして、私はその時初めて優輔は私より強いということ自覚した。だから、私は後悔しなかった。優輔に伝えてほしいと言ったことを。後悔したくなかった。

 その日からかな。私の中で何かが変わったのは、御剣君のことをあきらめることができたのは。

 御剣君には鈴音先輩がいる。わたしの入れる隙間など最初からなかったのだと。


 優紀は虚ろな意識の中、そんなことを考えていた。それは、夢だったのかもしれない。

 季節は夏。

 7年の時を隔て、ようやくこの世界に姿を現した蝉たちが喚起の歌を歌い、草木は青々と茂る、生命あふれる季節となった。

 しかし優紀の命は確実に終わりに向かいつつある。

 生まれ出でる命と、散りゆく命。

 それは一見背反しているようにも見えるが、実のところひどく酷似しているのではないだろうか?

 優紀はゆっくりとベッドから起きあがった。二日ぶりだった、彼女がベッドから起きあがってきたのは・・・。

 今日は、一学期の終了の日。学校は終業式が午前中にあって午後からはそのまま夏休みにはいる。

 解放される日だった。

「学校・・いかないと・・・。」

 最近は歩くことすらままならない。体力はもうほとんど残されていないのだ。

 だが、

「何でだろ・・。もう、怖くない・・・。」

 死の足音を感じるにつれ、優紀は心が穏やかになっていくことを感じていた。これが、死ぬということなのかどうかは分からない。

 だけど、いいようのない不安と恐怖にうちふるえていたあのころより今は幸せなのかもしれない。

 優紀は重い身体を何とか動かして制服に着替えた。

 もどかしく震える指。ボタンの一つをはめることすらできなくなってゆく。

「あ、姉さん。今日は大丈夫なのか?」

 部屋を出た優紀にはじめに話しかけたのは優輔だった。彼女をを哀れむのでもなく、特別視するのでもない。

 今は彼のクールな態度が優紀に救いを与えている。だから彼女は笑うことができる。

「うん。大丈夫。それに今日は終業式だからね。」

 気を抜けば砕けてしまいそうになる足を何とか動かして彼女は階段を下りようとする。優輔は、何も言わずごく自然にそれを助けた。

「あら、優紀。今日はいいの?」

 リビングに入ると彼らの母親が笑顔で出迎えた。優紀は弱々しくもしっかりとうなずいた。

「そう・・・。」

 一瞬、母親の見せた表情には深い悲しみが込められていた。その表情に優紀はやるせなくなる。こんな表情をさせているのは他でもない私なのだと・・・。

 優紀は、久しぶりに親子で朝食を取った。ほとんど食べ物を口にすることはできなかったが・・・。それでも暖かい食卓だった。

「姉さん。俺、姉さんの学校を受けることにしたから。」

 優輔は今年高校受験を控えていた。このことは母親ともよく相談して決めたことだ。少し高嶺の花だが、狙う価値はあるだろうと、今はここにいない父親がいっていた。

「そう・・・。優輔、だったら・・大丈夫・・・だと・・思うわ。」

 優紀は苦しそうに息継ぎをすると最後にがんばってねと言った。優輔は、顔には出さないが、その言葉をとても嬉しく感じ、そして同時に悲しく思った。

 とりとめのない会話を打ち切ったのは、呼び鈴の音だった。

「御剣君が来たようね。」

 母親は、そういうと玄関に赴いた。もう一度呼び鈴が鳴らされると、玄関のドアが開かれる音がして、”おはようございます”という御剣の声がリビングにも響いてきた。美雪は来ていないようだった。

「それじゃ。私、行くね・・・。」

 優紀は優輔の手を借りて立ち上がり、鞄を取るとゆっくりとした歩調で玄関に歩いていった。

 御剣と母親の助けを借りて靴を履く。二人は何の煩わしさも感じていない。

「さて。いくか。」

「うん!」

 御剣は極力普段通りに振る舞おうとした。彼は目をそらしたかったのかもしれない、日に日に濃くなっていく優紀の死の気配から。

 しかし・・・、御剣は思った。

「はあ、なんだが暑くなってきたわね。」

 優紀は蝉の声を聞きながら、ぎらぎらと照りつける太陽を仰ぎ見ていた。

 御剣はもう一度思った。

・・・見届けなくちゃいけない。最後まで・・・逃げちゃいけないんだ!

 優紀は御剣の腕にしがみつきながらも何とか自分の足で坂道を歩いている。ときおり立ち止まりつつも二人は無言で歩き続けている。言葉など必要なかった。

「御剣君。私・・・幸せだったのかな?」

 坂が下り道にはいると、優紀は枯れそうな声でそうつぶやいた。

「・・・・お前は、幸せだったのか?」

 これから死に行く者が幸せなはずがない。御剣はそう思ったがあえて口にしなかった。

「分からないけど。たぶん、もうそんなに時間はないと思うけど。私・・・幸せなのかもしれないね・・・。何でだろう・・・?こんなに苦しいのに・・・こんなに辛いのに・・・もう・・・何もできないというのに・・・・。」

 今にずり落ちそうになる優紀の肩を抱くと、御剣はぐいっと自分のほうに抱き寄せた。

「幸せって・・・何だろうな・・・?」

 御剣は優紀に聞こえないほどの小声でささやいた。優紀はそんな彼を見上げるが、彼は何も言わない。

 優紀は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸した。学校に行きたいという思いはある、しかし、もはや身体がついてこない。

(動いてよ・・・私の身体・・・。何で動いてくれいないの・・。私は、学校に行きたいの。いきたいのよ・・。)

 そんな思いもむなしく優紀は膝を折ってしまった。

 蝉の声が途絶えた。

 御剣も立ち止まり近くの木陰に優紀を座らせる。

「無理するなよ。明日から夏休みなんだから。今日は休めよ。」

 優紀は”ありがとう・・”と言いながら、それでも立ち上がった。御剣の腕にすべてを任せるように、弱々しく。

 そんなことを言われれば、もう何も言えない。

「今日は、学校に行きたいの。今日だけは・・・。」

 御剣は分かったよ、と言って再び歩き始めた。

「夏休み・・なにしよっか?」

 優紀は遠くを見るような目でそういった。

「お前はなにがしたい?」

 それは、御剣の精一杯の言葉だった。

「海に行きたいな・・・。キャンプもしたいな・・。それに・・・。」

 優紀は言った”もう一度、美雪ちゃんの手料理を食べたいな。”と。

 もう、何も言えなくなった。人の死と向き合うと言うことはこれほどまでに辛いことだったのか。本当は自分は今まで許されないことをしてきていたのではないか。

 御剣は歯を食いしばっていた。

「そうだな。できるといいな・・・。」

 学校が見え始めた。

「ほら。もう少しだぞ。」

 周りにはちらほらと生徒の姿が見え始めているが、二人を見て変な顔をする者はいなかった。

 二人は正門を抜け、前庭を横切り校舎に入った。二人のクラスは同じ校舎の三階にある。

 優紀はようやくクラスに到着した。

「優紀!今日は大丈夫なんか?」

 クラスにつくと、真っ先に塔矢が優紀に駆け寄ってきた。優紀は無言でうなずき返す。

「頼んだぞ。」

 御剣は優紀を彼に預ける、塔矢も無言でうなずいた。

「なあ、塔矢。夏休みに入ったら優紀と一緒に海に行こうな。キャンプもしような。楽しいこといっぱいしよう。」

 御剣は塔矢の背中に向かってそういった。

 塔矢は振り向いて、

「ああ、そうやな。みんな一緒や。」

 だが、彼らは分かっていたのかもしれない。その日はもう、永遠に訪れないということを。

 それでも彼らは、いつかそんな日が来ることを願わずにはいられなかった。

 御剣はきびすを返して自分の教室へ戻る。

「もう・・・今日が限界か・・・。・・・優紀・・・。・・・俺は・・・。すまない・・・。」

 彼は人知れず目尻をぬぐった。


        (4)


 御剣はただ待っていた。目の前には手術中の赤いランプの灯った緊急治療室。

 彼の横には、まるで何かに祈りを捧げているような、一つの親子の姿があった。時計はすでに夕方を過ぎてしまったことを示している。真っ赤に燃える夕日が街を赤一色に染める時。

 街が一日の終わりを自覚する時だ。

 廊下には静寂のみが支配する、時計の秒針が時を切り刻む音すらもその静寂を強調するようで・・・。

 既に六時間が経過していた。

 優紀が終業式の集会中に倒れ、ここ聖イスラフェル学園付属病院に運び込まれてから。

 集会が行われていた体育館は一時騒然となった。何人もの生徒がたむろする中、優紀は担架で医務室に運ばれ、救急車を迎えることとなった。

 魂の抜けたような青い顔をして倒れている優紀表情が御剣の脳裏から離れることはない。

 また、死神の使命を果たさなければならないときが来た。

 彼は、死神の力を使い学校を抜け出し、今この治療室に前にいるのだ。

 御剣はふと、横目で優紀の両親を見た。

 優紀の母親と父親はお互いに手を取り合っていた。

 優輔はただ窓の外をじっと眺めているだけで、何を考えているのかか分からない。いや、もう何も考えていない、何も考えられないのかもしれない。

 その窓の向こうでは細い雨が街を濡らしていく。まるでそれは空の流す涙のように思えてならなかった。

 彼らは御剣に気づいている様子はない。それもそのはず、生きるべき者には今の御剣を意識することはできない。

 御剣はすでに死神だった。そして、それは同時に認めたくないことすらも示唆していた。

 ・・・・もう、優紀は帰ってこないのだということを・・・。

 夕日が山の向こうに消えた。街を染めていた紅の光は次第に色を失い灰色となってゆく・・・。

 ・・・治療室のランプが消えた・・・。

 夫婦ははっとして立ち上がり、優輔は初めて治療室の扉を見た。重苦しい緊張が空間を埋め尽くす。一つの命が助かるか、それとも、永遠に失われるか。その答えがいま、皆の前に下されようとしている。

 扉がひどくゆっくりと開かれていく。それはさながら審判の門が開かれるような、異様な雰囲気を醸し出していた。

 優紀の母親は今にも気を失いそうな表情を隠さず、ただ、夫の手を握りしめるだけだった。

 そして、優紀の父親もまたその手を強く、強く握り返した。

(神様、どうか優紀を助けてください。そのためなら私は何でもいたします。だから、どうか・・・。)

 そんな心の思いが声となって彼の耳を振るわせる。

 白衣をまとった医者が重苦しい表情を浮かべて現れ、三人の顔を順番に眺めた。ふと、御剣の顔も見たように思えたが、それは彼の気のせいだった。

 さらなる静寂が流れる。時計の針もすでに音を消していた。

「・・・ご臨終です・・・。」

 その言葉は静かに、それでいてはっきりと頭の中を駆けめぐっていく。

「・・・姉さん・・・。」

 優輔はすべての力が抜けたように、どさっと椅子に崩れ落ちた。

「う、ううう・・・。うわあぁぁぁ・・・・。」

 優紀の母親も髪をかきむしりその場に崩れ落ちた。

 母親の慟哭だけが響く。

 医者は一礼すると看護婦とともにその場を去った。その表情は一人の人間の命を取り留めることができなかった自分への怒りだったのか、それとも絶望だったのか。

 医師も看護婦もまたあらゆる感情が入り交じった表情を浮かべていた。

 御剣は何度これをかいま見てきたか。そのたびに彼の人としての心が傷つき、それでも死神である以上、真に悲しむことができない自分をなじった。

 ・・・悲しみと絶望が吹雪(プリザード)のごとく吹き荒れていた・・・。


       ※


 治療室から出てきた彼らは皆、魂を抜かれたような顔をしていた。

 ・・・優紀が死んだ・・・。

 はたして彼らはそれを受け入れることができるのだろうか。

 いや、それはもうすでに本人たちの問題であって他人が介入することではない。御剣は死神としてそう結論を下した。

『それでも、俺は死神の使命を果たさないと・・・。』

 御剣は優紀の担当医と入れ違いに病室に入った。

 看護婦が洗ったのだろうか?優紀はとてもきれいな顔をして眠っている。もう誰にも起こすことはできない。

 死者とはどうしてこれほど穏やかな顔をしていられるのだろうか。

 これを見るだけでは、死というのは人間にとって唯一の安らぎなのではないか。

 そんなことすら彷彿とさせるほど優紀の表情は安らかだった。

 薄暗い病室の中、彼女の顔だけが薄ぼんやりと光っている。

 見ると、カーテンの間からはわずかな月の光が差し込んできている。星空に浮かぶ満月はなぜか寂しそうに大地を見下ろしているようだった。

 御剣はそっと優紀のそばに近づいていった。

「優紀。起きろ。さあ、起きるんだ。」

 まるで眠っている子供を起こすように、彼は優紀の亡骸に向かってそっと囁きかけた。

 優紀は目を覚ました。そして呆然とした様子で身を起こした。その姿は虚ろで儚い。既にそれは優紀ではなかった。今の今まで優紀の中で息づいていた魂そのものだった。

「・・・・私は・・・?」

 寝ぼけたように優紀は視線をあちこち動かす、自分がどこにいるのかさえまだ理解していないようだった。

「私は・・・死んだのかな?」

 理解できていることは、ひとえに自分は死んだのだという事実のみ。それを深層の中に理解させることが死神の行う死の告知なのだ。

「そう。お前はさっき死んだ。」

 優紀はその声に気付き。その声・・御剣の方を向いた。

「御剣君・・・そっか、今は・・・死神なんだね。」

 彼女はうっすらと笑っていた。

 御剣はいぶかしがりながらも神妙な顔つきを保っていた。今、心を表に出してしまえば、おそらく、彼は逃げ出していただろう。

 だから、心を露わにしてはいけないのだと、彼は自分に言い聞かせていた。

「お前の魂を天に帰すときが来たようだ。」

 そんな思いを知ってか知らないでか、優紀は”うん!”とうなずいて今度ははっきりと笑みを浮かべた。

「・・・何で・・・そんなに笑っていられるんだ?」

 御剣はついには、いたたまれない表情でそう聞いていた。

「分からないけど・・・。今は、笑っていたいの。だって、もう最後なんでしょう?」

 御剣ははっきりとうなずいた。偽ることはもうできない。そのために彼はこうしてここにいるのだ。

 優紀の魂を天へと返すために、彼はここにいるのだから・・・。

「だから、笑いたいの。泣いてお別れなんてそんなのいやだから・・・。」

 心なしか、一瞬、優紀の表情に影が映った。

 ああ・・・そうか・・・。

 御剣は悟った。

「優紀・・・。」

 その声は死神らしからぬ優しさに満ちていた。

「うん?」

 彼女は小首をかしげた。

「最後に一つだけ望みを叶えてもいいってことになってるんだ。何か思い残したことはあるか?」

 優紀は少し考え、そして首を振った。

「もう、お別れはすましたから。だけど・・・。」

 彼女はうつむいた。その顔に笑顔はない。

「泣けよ・・・。」

 それは現実味を帯びた声となり、優紀の耳へと届いた。

「え?」

 とっさにあげた顔、それには驚愕のまなざしが込められていた。

「自分を偽るなよ、最後の最後まで自分を押し隠そうとするなって。もう・・・遠慮することはないんだ・・・。もう・・・無理に笑う必要はないんだ・・・。ここには、俺しかいない。」

 御剣はそっと優紀の頬をなでた。その手は温かい。あの日、屋上でふれた彼はとても冷たかった。あのとき、彼は本当に死神だったのだ。死神に人のぬくもりなどあるはずがない。

 しかし、今は違う、それは本物の人のぬくもりだった。

 そのぬくもりは優紀の心に深く浸透していく。

 優紀はもう我慢ができなくなった。心のたががはずれ落ち、涙があふれ出してくる。

「御剣君・・・・私・・・私、生きたいよ。もっと生きていたかった。」

 優紀は御剣の胸に顔を押し当てる。

 御剣はなぜか少し安心した。

 最後の最後に彼は優紀の本当の姿を見ることができたのだからだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。

 今はこの優紀を受け入れていたい。これが・・・最後なのだから。

「御剣君と、美雪ちゃんと、塔矢と、もっといっしょに楽しく過ごしたかったよ。私は・・・私は・・・御剣君のことが好きだったの。ずっとずっと好きだったの。だけど言えなかった。それに、御剣君のそばにいられるのは私じゃないって分かったから・・・・。」

 もう止まらない・・思いがあふれ出してくる。

 それは幼い頃から自分の中にしまい込んできた暖かな思い。ときにはこれが彼女の重圧となってのしかかってきたが。この思いには偽りはない。

 優紀は、ようやくその思いを彼に告げることができたのだ。

 御剣は何も言わず、ただ黙って優紀の頭をなでていた。

「ごめんね。いきなりこんなこと言って。馬鹿ね、私・・・。死んでからじゃないと、本当に最後じゃないといえないなんて・・・。」

「・・・・・。」

 御剣はもう何も言えなかった。気づいていなかったわけではない。心の奥ではひょっとするとという思いもあった。

 しかし、彼が選んだのは別の女性だったのだ。

 だから彼は彼女の死んでもなお必死の思いに答えることはできなかった。

 御剣の心で理不尽なまでの罪悪感が雪嵐(ブリザード)のごとく荒れ狂う。

 優紀は御剣の胸から離れた。そして言った。

「もう、送ってほしいな。このままじゃ、未練だけが残っちゃうよ。」

 涙をぬぐいながらもその顔は笑顔に戻っている。いつも以上に穏やかで暖かな笑顔だ。

 御剣はその笑顔を救いに思った。

「もう・・いいのか?お前の願いは届いたか?」

「うん。お母さんにもお父さんにも優輔にも・・・みんなにお別れは言ってあるから・・・それに。私の思いは伝えたから・・・もう、いいよ。」

「分かった。・・・じゃあ・・・。さよならだ。」

 御剣はマントの裏側から黒光りする巨大な鎌を取り出し、魂と肉体の間にそれをあてがった。これを引けば、優紀の魂は天へと帰ってゆく。この世に再び生まれ変わる希望を抱きながら。

 鎌を握る手から今にも汗がにじみ出てきそうだった。

「さようなら・・・・御剣君。みんなによろしくね・・・。」

 御剣は目を閉じた。彼の脳裏には優紀とともに過ごした思い出の日々が走馬燈のように駆けめぐってゆく。

 ああ、そうだ・・・。優紀はいつも自分のそばにいて自分を見つめていてくれたのだ。

 そんなことになぜ今まで気がつかなかったのだろうか?

 なぜ、そんなことを忘れてしまっていたのだろうか?

 しかし、彼は今はその思い出を捨てなければならなかった。そうしなければ、御剣は死神の使命を全うできないだろう。

 今一時だけ御剣は彼女の優しさを忘れた。

「さようなら・・・。」

 御剣の沈み込むような声を聞いて優紀は薄く苦笑いを浮かべた。

「・・・また、あえればいいね・・・。その時を楽しみにしているよ・・・。御剣君。今までありがとう・・・。」

 一瞬の光のひらめき・・・・。

 優紀の輪郭は跡形もなく消えさってしまった。

 後に残ったのは抜け殻となった肉体と夜の深い静寂のみだった。

「なあ、ミカエル・・・。」

 ミカエルは病室の暗がりの中で息を潜めていた。

「死神は涙を流すこともできないのかな?」

 僅かに残る人の心が御剣の中で悲しみのブリザードを吹き荒らしていた。しかし、彼は涙を流せなかった。

「それが死神の使命だ・・・。死神には本来悲しみなど無用なもの・・・。」

 ミカエルの口調は変わることがなかった。

「そうか・・・。それが死神なんだな。だったら俺は、いったいどうすればいいんだ?」

 誰も答えを持っていない。ミカエルも何も言わない。

 御剣は思った。どうして俺は死神なんだろう?

 しかし、その答えは返ってくるはずもなかった。

 その答えは彼の中にのみ存在するべき者だった。御剣はゆっくりと病院を後にした。

 夜は更けていき、闇は街を支配する。

 だが、朝の来ない夜がないように、やがて光が闇から街を解放するだろう。

 しかし、御剣の中に生まれた闇は誰が消し去るのかだろうか・・・。


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