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第五章 狂躁の話 虎之助と麟

 一年前のあの日。

 宝満山登山道入り口――そこに、二人はいた。

 約一時間、空を飛びっぱなしで、流石に麟は疲れたようだ。虎之助の肩を借りて、ぐったりとしている。自動販売機で大量に購入したスポーツドリンクを嚥下する。麟も既に500mlを二本空けている。

「大丈夫か?」

 虎之助が問いかける。

「うん、うちは大丈夫。虎之助は?」

「馬鹿、俺は走ってないけん、疲れるわけないやん」

「そんなことないやろう。うち、虎之助から魔力もらっとるけん、虎之助も疲れたやろ」

「大丈夫、疲れとらん」

「うん、うちも大丈夫」

「俺に寄りかかっとって、どこが大丈夫とね?」

「しゃあしか、うちが大丈夫っつったら大丈夫や」

「そうかい」

「そうたい」

 風は気持ちいい。はっきり言えばこのレース、風見たちに利がある。太宰府市に入り宝満山へと辿る道が坂になっているからだ。強化型が一番道路環境の影響を受けやすい。その代り融通が利く走り方だ。平坦な道であれば、飛行やライドと引けを取らない。魔力消費の効率もすこぶるいい。しかし上り坂などが出てくれば、大幅に魔力を消費してしまう。下り坂も決していいとは言えない。リズムを崩され、結果的に無駄に魔力を消費する。

 その点飛行型は坂など関係がない。

 その代わり、魔力の消費は強化型の比ではない。飛行で走れば大幅に減る。

 だから五十キロも飛行で走れる道理がない。特にアズハルではMP制限が存在する。

 高校のインターハイでは、一日目は2500MP。このMPでは五十キロを飛行で飛び続けるのは無理だ。現に今、二十五キロを走っているが、麟は2500MP消費し、虎之助はその倍、5000MP消費している。

 何とか調節する必要がある。

「おい、麟……?」

 麟は微睡んでいるようだった。虎之助は溜息を吐く。起こすのも可哀想だ。少し寝かせようか。そう思ったところに、来客があった。二年生の先輩だったはずだ。

ちょっと驚く。彼らは二年生だったはずだ。あの三年より速いんだな、という驚きである。

 あの三年生がてんで大したことなかったので、二年生はあれ以下だろうと思っていた。彼らはそこそこのタイムで登ってきたようだ。ちらりと時計を確認する。一時間十六分が経っている。虎之助と麟がこの折り返し地点に着いて六分後か。

「よお」

 虎之助が手を挙げる。

「何をしている」

 江崎が訊ねた。少なからず怒声が籠っている気がした。

「何って、休憩しとるだけや。でも、もう行こうかな。ちょっとここ冷えるし」

 虎之助は麟を揺する。

「ん? 何……?」

 麟が起き上がる。その間先輩たちは既に、走り始めていた。

「先輩たちに追いつかれた」

「まじ?」

「まじ」

「行くぞ」

「はあい」

 うーんと、麟は伸びをする。

「じゃ、捕まって」

「おう」

 虎之助はがっしりと麟を抱きしめる。いつものことだ。でも恥ずかしいという気持ちが消えることはない。恥ずかしいことだ。汗でぐっしょりになった体操着にしがみ付く。麟の匂いがする。柔らかく大きな胸が目の前に来る。魔法走をやるうえでは邪魔な胸だ。足もがっちりと絡ませる。

「じゃあ、行くね」

 麟は魔法の詠唱を始める。

 虎之助は自身の魔力層を開く。魔力が出ていく。麟がそれを受け取る。麟の中に吸われていく。己の体の内側から、全てが出ていく。それは麟の中へと注ぎ込まれ、そして麟と一つになる。いっそうこのまま融合してしまえばいいのに。

 そう思う事もある。

「――飛翔する、飛行する、虎と麒麟は空を駆ける」

 麟が魔法を唱えた。それは飛行するための、二人のオリジナルの魔法詠唱だった。

 二人の体が浮く、虎之助はより一層力強く麟の体を抱きしめる。

 この時、虎之助は魔力層の穴を開け魔力を麟に供給しながら、同時にある魔法を秘密裡に唱えていた。紫外線から麟の体を守る魔法だ。麟には秘密にしているが、とっくにそんなのばれている。だが麟は何も言ってこない。虎之助もだから何も言わない。

 抱き合った二人はそのまま滑空する。強風が二人を煽る。

 車のことを考え、高く飛ぶ。

 体中から魔力が搾り取られる感覚が、常に虎之助を苛む。快感にも似ている。

 木々に囲まれた山道を降りていく。竈神社を通り過ぎる。

 開けた空間に出る。

 一面に広がるのはまばらな家やカフェ、田園風景、山、道路――

「居たね」

 麟が言った。先輩たちがいたのだろう。だがしがみ付いている虎之助にはそれが見えない。首を動かすには辛い態勢だからだ。無理に見ようとも思わない。

 虎之助はただ魔力を供給し続ける。それだけだ。それがタンクの役割だ。

 滑空は続く。風が吹き付ける。汗も噴き出る。それは麟も同じだった。体中から汗が噴き出る汗と汗が絡み合う。

「先輩、お先です。うちら行きますね」

 どうやら追いついたようだった。二人の先輩と視線が合う。

 先輩の一人はぎょっとしたような視線を送る。もう一人は冷ややかな視線だった。

 別にもう、慣れている。

 羞恥心はある。だが慣れている。嫌でもない。麟は虎之助にとっての最高のパートナーだ。だから、嫌ではない。むしろ――

「うおっ!」

「きゃあっ!」

 一層強い風が二人を煽った。バランスを崩す。だがすぐに立て直す。

「麟、高度を落せ。見渡しがいいから、車を警戒する必要もない」

「了解」

 二人は高度を下げて行く。

 ゴールまであと二十キロというところか。何とかMPは持つだろう。

 こうやって麟と抱き合って、飛んでいる時感情がハイになる。性的興奮や快楽とはまた別次元のものだ。いわゆるランナーズハイというやつだ。でも単なるそれではない。麟と抱き合うという一体感、それに加わる性的な興奮と、加えて飛ぶという行為に酔いしれる。虎之助は今幸せの最中に居た。



 二人は双子という事にした。

 四年前の話だ。

 虎之助の父は、風見獅恩と言った。虎之助の虎は獅子と対になるようにという意味で付けたそうだ。助けるは恩との類縁性から付けたと言っていた。

 母親は物心ついた時から知らなかった。父親ははっきり言えばクズだった。虎之助はそう思っている。酒もたばこも競馬もパチンコもした。虎之助はいつも家では一人だった。掃除も洗濯も料理も全て虎之助の仕事だった。虎之助はそれらを問題なくこなしていく。

 深酒した父親は時々暴力的になる。それがたまらなく嫌だった。父親は巨漢だ。しかし虎之助はチビだった。力で勝てる道理がなかった。

 そんな父親が再婚した。相手は会社関係の部下という話だった。

 その義理の母親は、弱弱しそうな優しそうな女性だった。

 その女性は、女の子を一人連れてきた。それが麟だった。

「あんた麟ていうんだ」

「うん。そうよー」

 答えながら麟は溜息を吐く。

「どうしたん?」

「超憂鬱。だって、うち風見麟になってしまったとやろ?」

「俺は風見って名字好きばい。まあ、親父は嫌いやけど」

「だって学校に、うち転校して行ったら、風見が二人やろ? なんて言われる? お母さんが再婚して、こっちにきました? 風見虎之助の義理の妹です? そう言わないかんやん」

 何だそれ、そんな事かと虎之助は呆れた。

「じゃあ双子にすれば? 生き別れの双子で、最近こっちに戻って来たとか」

「えーなにそれ、超うける。双子? てか何月生まれなん?」

「俺? 八月」

「え。何日?」

「八月三日やけど」

「まじで!」

「うん? なして?」

「だってうちも八月三日」

 虎之助は吃驚した。まさか同じ誕生日だとは。

「何時?」

「え?」

「何時生まれなん?」

「確か、夜の二十時」

「ならうちがお姉ちゃんやな、うちは午前五時や」

「まじかーお姉ちゃんやったんか」

「そうたい。じゃ、うちら今から双子ね」

「本気?」

「うん」

 こうしてその日、二人は双子という事になった。そう決めたのだ。

 風見獅恩は再婚して、少し落ち着いたようだった。酒の量が減り、暴力が減った。虎之助はそれを喜ぶ。今更父親にいい感情は抱いていなかったし、新たな母親を好きになろうとは思わなかった。ただ新しくできた双子の姉には懐いた。それ故、父親の暴力が姉へ向かうのを危惧したのだ。だから、父親の暴力が減ったのは喜ばしい事だった。

 でも長くは続かなかった。中学生になる直前、小学六年生の十月のある日、家に帰ると、家の中が静まり返っていた。虎之助はその日小学校の男友達と遊んで、帰るのが遅くなったのだ。

 双子の姉、麟とは、学校ではあまり関わっていなかった。囃したてられるのがめんどうだからだ。双子の姉が転校してきたということで、学校中の同学年の生徒からいろいろ奇異の目で見られた。教師たちも首を傾げていた。再婚した連れ子ではなかったのか……? と。

 ともかく、それ故学校では距離を取っていた。

「ただいま」

 返事はなかった。父親と母親の気配はなかった。玄関に二人の靴はなかった。

 どこからかすすり泣く様な声が響いていた。

 どこだ? 虎之助は家じゅうを隈なく探す。と言っても、狭いアパートの部屋だ。台所と部屋が二つ、あとはトイレに風呂があるだけだ。虎之助と麟は同じ部屋だった。

台所には居ない。じゃあ、自分たちの部屋か? 

虎之助は自分の部屋に入る。

 部屋は荒れていた。プリント類が霧散している。虎之助の学習机がひっくり返っていた。

「麟」

 叫ぶ。だが返事はない。

 どこだ?

 すすり泣きは相変わらず聞こえる。

 虎之助は耳を澄ます。

「麟!」

 襖からだった。襖を開ける。そこには膝を抱えて泣いている麟の姿があった。

 顔を膝に埋めている。何があったかおよそ見当がついた。

「麟……とりあえず家を出よう」

「家を、出る?」

 麟は顔を上げた。綺麗な白い肌、そこに赤い痣が出来ていた。三か所も。青い痣もあった。

「どうして?」

「あいつが帰ってくるかもしれない」

「……」

 麟は答えなかった。虎之助は財布を探す。それからハンカチを探し出し、麟に渡した。

「涙ふきい」

「……」

 麟は無言でそれを受け取り、涙をふき始めた。

「麟、お前の財布はどこにある?」

「……引き出しの中」

 虎之助は麟の学習机の引き出しから、財布を取り出す。それを麟に放り投げた。それから上着を取り出す。後必要なものを……と探すがこれ以上はない。

「お前は、他に必要なものあるか?」

「何にも、ない……」

「行くぞ」

「……」

 虎之助は麟の手を引く。

 麟はそれに従った。そのまま、二人は一旦隣町の公園へ行く。少なくとも父親や母親たちはここへ探しには来ないだろう。そこで所持金を確認した。虎之助の財布の中身は二千五百円。麟は千二百円。

「何があった、あそこで。想像はできるけど、一応聞いておく」

 それから虎之助は麟に何があったか訊ねた。

「打たれた」

「親父にか?」

 無言で麟は頷いた。心の底から憎悪がこみ上げて来る。

畜生。なんで自分は小さいんだ。こんなに小さな体なんだ。そんな怒りが込み上げて来る。

「あ……どうして、うちら公園におるん?」

「しっかりしい、家を出たやんけ。親父が帰ってきたらまずかやろ? また打たれる」

「ええよ……慣れとる」

「慣れとる? じゃあ、親父は、今日だけじゃなく、前から打っとったんか?」

 虎之助は唖然とした。そんな事気づかなかった。いや、しかしそれはおかしい。一緒に暮らしておいて気づかないなんてことはない。

(それに、俺は打たれてないやん……義理の娘を打っといて実の息子を打たんような奴か? そげんことないやろう……)

 唖然としている虎之助に、麟は首を横に振る。

「ううん、あのおじさんに打たれたのは初めて。いつもなの、うちのお父さんはいつもああなんよ」

「どういう意味だよ?」

「だから、うちのお母さんが連れて来るお父さんは、皆ああ。前もそうやったし、その前もそう。だから慣れとる。いいよ、気にせんといて……ただ、虎之助が居たから、この家は今までに比べて幸せやったんよ。だから、思わず泣いちゃった。幸せな分、思わず泣いちゃった。でも大丈夫、慣れとるから、何とかなるよ」

 訥々と語る麟の姿に、虎之助は心底憐憫の感情を抱いた。

「帰ろう」

 麟はそう言った。

「どこへ?」

 そう訊ねる虎之助の表情は、凍り付いていた。

「家に。大丈夫、うちは大丈夫」

「大丈夫なわけないだろう」

「大丈夫、うちらはまだ中学生にもなってないとよ……お父さんとお母さんがおらんと生きていけんやろう」

「……そんなこと、ないやろう」

「そんなことあるよ」

 麟はにこりと笑った。

 その姿があまりにも儚げだったから、虎之助は抱きしめた。

「止めてよ」

 麟が悲しげに言う。

 麟は泣いているようだった。

 虎之助は、もう一度強く麟を抱きしめる。

「止めてよ、期待しちゃうから」

「いいぜ、期待しろ。俺に期待しろ」

「あんた、弟やん」

 泣きながら麟は、言った。

「そうやけど、たった数時間の差やん」

「でも弟やん」

 虎之助はぎゅっと麟を抱きしめる。絶対守ろう。この姉を絶対に守ろう。虎之助はそう心に誓う。

 二人はそれから夜の街を流離った。遠くへ行こうと、駅を探す。何とか終電に間に合う。都心に行こう。都会であれば都会であるほど、人々は無関心だ。二人で博多行の切符を買う。

 でも宿どうしよう……いきなり家出計画は頓挫する。

「そいや、静さんは大丈夫なん?」

 虎之助はふと義理の母のことを思い出す。さほど心配ではないが、麟の母親であるのだからと気を使った。

「気遣わんでいいよ。うち、お母さんきらいなんや」

「そうか、俺と同じやな」

 二人はそれから自分がいかに親の事を嫌いか語り合った。電車が揺れる。

 風見獅恩は、麟にとって三人目の父親であったらしい。つまり義理の母静は三度結婚したことになる。

 そして、虐待についても聞いた。

 彼女はどの父親にも暴力を振るわれたらしい。母親は止めなかったそうだ。

「そうか、俺と似とる」

「え? そうなん? 虎之助のお父さんは、虎之助も打つん?」

「うん、静さんが来てからはおとなしかったよ。うん、ここ半年は大人しかった。でも、無理やったみたいやね。化けの皮がはがれた」

「ふーん、そうなんや」

 そうやってお互いの不幸自慢をしていく。傷を舐め合う。不安はなかった。

 先は真っ暗だった。そもそも博多についてどうすればいいのだろうか。泊まる場所がない。小学生二人でホテルには入れないだろう。ネットカフェも無理だろう。でも、不安はなかった。

「ねえ、虎之助」

「ん?」

「うち、虎之助のこと好きだわ」

 心臓がどくりと跳ねる。表情が凍り付いた。

「はあ、なんだよ藪から棒に」

 そう返事をしたものの、顔は笑っていただろうか。自信がなかった。

「うん、思っただけ」

「そっか……」

「うちのこと嫌い?」

「いや、嫌いじゃないけど、……」

「けど?」

「俺達双子やん」

「そう言えば、そう言う事になったんだっけ」

 声は落ち込んでいた。

 虎之助は混乱した。

 自分は麟の事をどう思っているのだろうか。自問自答する。

 答えは出なかった。

 こっそりと麟の横顔を盗み見る。可愛い横顔、長く綺麗な神、白い透き通った肌だ。だからこそ、赤い痣が一層目立ってしまう。

「ん?」

 目が合った。ダークブラウンの瞳だ。とても可愛らしい顔をしていた。そうとしか形容できなかった。知らず知らずの内に、麟の頬に手が伸びる。打たれて腫れ上がった部分に触れていた。

「好きかも」

 虎之助はそう答えた。

「え?」

「うん、俺も麟のこと好きみたい」

「そっかーでもうちら双子になったけんねー」

「そうやねー、しゃあないね」

「しゃあない、恋人にはなれんな」

 そうだな、と虎之助は心の中で思う。でも、絶対守ろう。そう心に誓った。

 電車が博多に着く。虎之助と麟は電車を降りる。

 しかし二人は呆気なく警察に捕まった。補導されたのだ。それも当然だった。時刻は二十三時を過ぎていた。そんな時間に小学生が二人、博多の街を彷徨っていたのだ。警察が声を掛けないはずはなかった。彼らの家出は僅か四時間で幕を閉じる。



 風が気持ちよく吹き付ける。

「あ、先輩ちーっす」

 途中、三年の先輩とすれ違う。その表情は屈辱に塗れたものだった。当然だろう。一年生に大差を付けられて負けたのだから。距離にしてもう十キロも差が開いている。遅すぎるのだ。同様に一年生集団とすれ違った。彼らもまた遅すぎる。

 まともなのは、後ろから追ってきている二年生の二人か。確か橘と江崎という名前だったか。

 視界には入っていないが、おそらく後ろから追い上げてきているだろう。気配を感じる。

 まだ自分と麟のMPは残っている。高校まであと十五キロといったところか。そこまでは余裕で持つはずだ。

「虎之助!」

 麟が声を荒げた。

「分かっている、安心しろ、下りだから差を詰められただけだ。まだ大丈夫、俺達が勝つ。落ち着いて、MP消費を抑えろ」

「分かった」

 虎之助は麟の胸に耳を当てる。動悸は正常だ。大丈夫、落ち着いている。

「どう?」

 麟が訊ねる。

「うん、正常だ。MP消費もこの調子でいけば、高校までちゃんと辿りつく」

麟の胸の動悸を聞き、体調やMP消費を把握する。

 もっともMP消費は、虎之助の中から出ていく魔力から算出できる。

「このペースを落とさなくていい、速めなくてもいい」

 そう、麟に指示を出す。

広がる風景は田園風景だ。相変わらず風景がゆっくりと流れていく。感情の高ぶりがそうさせるのだ。あふれ出るドーパミンが脳中枢を刺激する。

 ああ、生きている。自分たちは今、風に包まれ、生きているのだ。

 だが――

「来る――」

 麟が呟く。

 強烈なプレッシャーが、背後から迫ってくる。

「まじか、やべーなー、でも麟スピードを変えるな」

「うん、分かった」

 そうは言ったものの、背後から掛るプレッシャーは無視できない。

 虎之助は背後を見る。

 居た。

 二人が迫っている。一人は……長身の男。確か江崎と言った。

 その後ろには橘が居る。

 江崎が……道を作っている。

「麟、あいつらもペアで走っている!」

「どういう意味?」

「江崎先輩が、身長の高い先輩が前を走って道を作っている」

「つまり?」

「魔法の道だ、江崎先輩が魔法で道を作っている。無風で……おそらく疲労を和らげる道を敷いている」

 虎之助は再び麟の胸に耳を当てる。

 動悸が逸っている。荒れている。

「でも、それってめっちゃ非効率やない?」

 麟が訊ねた。確かに走りながら魔法で道を敷くなど非効率極まりないが……

「そうやな。いや、そうでもないかも……江崎先輩の作る道はすぐに消滅しとる……橘先輩が通った後、すぐさま消えよーみたいや」

「そんな器用なことが出来るん?」

「いや、むしろそっちの方が簡単。魔法を持続させる方が難しいけん」

「あ、言われてみればそやね」

 だが、そう言いつつも、自分の走った背後に魔法を這わせ道を作るのは、言うほど簡単ではないと虎之助は思った。

 自分の認識が行かない背後に、魔法を行使するのは至難の技だ。

 魔法はイメージが重要である。魔法を行使する際、視覚も重要な一つの要素である。視覚とイメージのしやすさは直結している。そのため、行使する魔法の放出方向は前方か、あるいは円形で全方向か。

 円形であれば、イメージが容易になる。だが走りながら、そう言った魔法を使うのはいささか無理がある。走りながら円形で自分の周囲に魔法を張るのは、イメージに合わない。常に円形が置き去りにされる形になってしまう。それではMPが無駄に消費されてしまう。

 だからこそ背後にのみ魔法を行使している?

 虎之助は迫りくる二人を観察する。

 江崎先輩――彼は下を向きながら走っていた。

 ああ、彼は……、真下に魔法を行使しているのか。あれならばイメージし易い。わざわざ円形などと言う広い範囲の魔法を作らなくてもいい。

 橘先輩は、その江崎先輩の背後をぴったしついて行っている。

 そのため、魔法の行使は常に一瞬だ。一度作った道は、橘が通り過ぎた後消滅してしまっても問題がない。そのため一回一回の魔法自体に、然程MPは割かれていないのだろう。

 だが……おそらくそう長くは持たないだろう。

「落ち着け」

 虎之助は麟をぎゅっと抱きしめた。

「落ち着け、大丈夫。あのペースだと、必ず潰れる。先輩たちは追けん、追いつけても途中でアウト」

「うん、分かった」

 徐々に麟の呼吸が整われていく。動悸も落ち着く。

 大丈夫。負けはない。



 家出をした二人はその後、親戚の家で暮らす事になった。保護された時に、虎之助が虐待を訴えたのだ。その訴えにより、すぐさま調査が入る。

 虐待の事実は、簡単に明るみになった。

 存外簡単だったな、と虎之助は思う。

 麟を守るために虎之助はほとんど何もしていない。やったのは全て大人たちだ。

「今日から、ここで暮らしいね」

 引き取ってくれたのは、叔父だった。

 叔父は子どもがいない上に独身だった。既に中学生だった虎之助を引き取る親戚はどこにもおらず、加えて言うならば麟とセットだったためより難儀したそうだ。

 それに助け舟を出したのが叔父だった。だから虎之助は最初に訊ねた。

「なあ、叔父さん、何で俺達引き取ったん?」

「ん? 嫌やったか?」

「違う。不思議なだけ。だって、引き取るってもうすぐ中学生ばい、それが二人とよ? 大変やろ? 叔父さん子供育てたことないんやん。麟はそれに、親父の娘じゃないとばい?」

「うん、そうだね。何て言うか、そうだね……何から話せばいいかいな……分からんけど……簡単に言えば運命っちゅーやつかな」

「運命?」

「うん、説明するのが難しいけど、そうやね、小学生のお前らに、こういうのは残酷かもしれんけど、俺も正直言えば好き好んで引き取ったわけじゃないぞ」

「押し付けられたってことか?」

「そうともいうな。俺んとこ子供おらんしな、他の家は子供がいて手一杯。そうだろう」

「でも施設っていう選択肢もあったんじゃないか?」

「そやね、そうなんや。だけどな、俺は奥さんおらんし、もう四十で、このまま孤独に死ぬのは辛いな、って思ってね。今更結婚もなんか違うし。そう思っていた。そこへお前が来た。無論、麟もな。やから、引き取った。それが運命なんかな、と思ったんよ。納得した?」

「一応、納得しました。ありがとうございます」

 虎之助はしかし、心を許したわけではなかった。虎之助は親族ではあるが、麟は違うからだ。それに叔父の竜二は、つまり獅恩の弟という事だ。暴力を振る可能性だってある。

 だから今の話を聞いたうえで、警戒していた。

 だが竜二は、獅恩とまったく反対の人間だった。酒もしない、煙草もしない、ギャンブルもしない。そうなると逆に不安を覚える。いったいこの叔父さんは、何者なのか。人生の何を楽しくて生きているのか?

 一度その事を麟に相談した。

「虎之助は欲張りで業突く張りやね」

 麟は笑う。

「何で?」

「だって、いい人やん。竜二さん。それなのに、それ以上に何が欲しいの? お酒やってたらよかった? 暴力振るってくれた方がよかった?」

「そうじゃないけど、なんだか不気味で」

「ふーん、まあ、うちらには理解できない趣味があるんやない?」

「そういうもんか」

「だって、うちら竜二さんのこと全然知らんやろ」

「全然知らんね」

 叔父とは言いながら、引き取られるまで付き合いはほとんどなかった。

 獅恩は全く親戚付き合いをしておらず、そのため祖父母とも数えるほどしか会っていない。今は既に故人となってしまった。叔父の竜二とも、数える程しか会ったことがなかったのだ。他にも獅恩には妹と姉が居るらしいが、既に記憶にはない。竜二が言うには小さい頃に何度か会ったきりだから、覚えてないのもしょうがないそうだ。

 それから二人は、中学に上がる。

 そこで魔走部に出会った。家に居てもすることがないし、叔父に出来るだけ迷惑かけないようにと思ったからだ。

 だが、虎之助に魔法の才能はなかった。それは小学生の頃より薄々感じていた。

 中学で魔走部に入って、それが明るみになった。

 他方、麟は天才だった。最低限の魔力消費で、足を強化する。魔力消費を抑えながら走る走り方は、魔法走では理想の走り方だった。

 虎之助はそれが出来なかった。持久力はある、魔力は続くのだが、器用に魔法を扱えない。大味な魔法ならば好きだし、得意だったが、魔法走においてそれはさして意味がない。

 強いて言えば短距離向きだが、短距離とても効率的なMP運用が求められる。

「すげえよな、麟は」

「ん? そう?」

「そうだよ、だって、天才じゃん、まじで。部内の誰よりも早いんじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ、あーあー羨ましいよ」

「大丈夫、うちら双子やけん、虎之助もきっと魔法走の才能あるよ、……そだね、部活終わった後、うちが魔法教えるよ」

「うん、頼む」

 中学一年の夏ごろから、虎之助は麟に魔法を習う。部活の練習が終わった後、公園で二人だけで魔法の練習をしていた。

「うーん、よく分からんけど、虎之助は変に力が入っている」

「そう言われてもね」

「魔法はイメージが大切なんよ」

「イメージね……」

 体全身を魔法で強化する。その時のイメージは何だろう。自分を包む泡か?

 試しに泡をイメージして体を包む。

 体全体をイメージする。そこに泡が入り込む――泡は丸く大きい。虎之助の体をすっぽりと覆う。

 虎之助は腕に嵌めている、魔法走用のM3を見た。

 全然だめだった。消費MPは80だ。話にならなかった。実際のレースでは、一時間以上走り続けるのだ。この魔法を持続させれば、一時間で4800の消費だ。一般的な成人男性の最大MP4000から5000といわれている。この魔法を使うだけでアウトだ。実際のレース中は様々な魔法を複合し使用し、臨機応変に対応しなければならない。つまり、4800+アルファの消費だ。

「だめだ……てんでだめ……」

「何をイメージしたん?」

「泡」

「泡?」

「そう、泡が全身を包むんだ」

「なにそれ」

 麟が可笑しそうに笑う。

「何がおかしいんだ?」

「だって、無駄だらけやん」

「そうか?」

「全身を包むってことは、体をはみ出るってことじゃん。でも、魔法走で使う魔法は、そんな広範囲の魔法じゃなくて、局所的でいいんよ。究極的に言えば、足と一部の筋肉だけ強化すればいいし」

「局所的か。でも、局所的ってどうイメージするん?」

「そうね、針で足を刺されるイメージとかはどう?」

 針?

 虎之助は一瞬固まった。

「そんなんイメージできんくない?」

 そう笑う。

 だが心の内は、そうではなかった。針で刺すイメージ。もしかしたらそれは、彼女が今まで受けていた『父親』からの虐待ではなかろうか。そんな、想像が働いたからだ。

 だが、もしもそうだとしたら……

 虎之助は、針をイメージした。それが両足に突き刺さるイメージだ。

 呪文を述べ、魔法を行使する。

 だが、魔法は不発に終わった。針のような小さなイメージは、定着が難しい。小規模に魔法を行使しようとすれば、どうも失敗する。やはり才能がないのか。

 次に虎之助は殴られるイメージを頭で働かせた。

 殴られる、蹴られる、あいつに殴られる……!

そのイメージで、自分の両足に魔法を行使する。

 だが、だめだった。針の時と同じだった。魔法はこの世界に具現化されず、消失する。

「だめだ、てんでだめ」

 虎之助は公園の土の上に寝転がる。

 汚い、と麟が言い、ベンチに座って、虎之助を見下ろして来る。

 虎之助は安堵していた。もしも、麟が言う針のイメージが、虐待からくるものであったならば……ぞっとする。しかし、自身にできているあのトラウマのイメージを魔法に具現させても、うまくは行かなかった。とするなら、麟の針のイメージはただ彼女が器用に魔法を行使するために編み出したものなのだろう。そういった虐待があったわけではないだろう。たぶん。

 聞けばいいのに、聞こうとは思わなかった。

「ねえ、虎之助」

 いや聞くのが怖いだけだ。

 覗き込む顔は、とても可愛くて、虎之助は双子の姉が本当に愛おしいのだ。

「虎之助」

「ん? 何?」

「虎之助の最大MPってどのくらい?」

「んー知らねーよ、麟は?」

「うちも知らない。だって、あれ、病院とかに行って検査しなきゃ分からんちゃろ?」

「そうだよ、ならなんで聞いたん?」

「いや、だって、今何時?」

「ん、十一時。まあ、そろそろ帰らないと、竜二さんが心配するか。それに補導されたらめんどうやもんね」

 虎之助は起き上がった。

「違うよ。今十一時でしょう? なら、虎之助は部活から合わせて七時間、魔法を使いっぱなしやん」

「そう言えば、そうやね」

「それってすごいんやない?」

「そうなん?」

「だから聞いたんやん、最大MPどのくらいって」

「ふーん……」

「いや、普通出来ないって。うちも無理よ」

「そうなん?」

「そうとよ、凄いんだって、絶対」

 麟は目をきらきらと輝かせ力説する。虎之助はいまいちピンとこない。

「とにかく帰ろう」

「それもそやね」

 さすがに夜も遅いので、二人は帰路に就く。

「ねえ、虎之助」

「ん?」

「うちらアズハルにせん、競技」

「アズハル? 一番難しいやつやん。麟はともかく、俺には無理」

「ううん、組むんよ」

「組む?」

「そう。うちと虎之助で組む。二人で一つの選手になる。だってうちら双子やん」

「いや、いいよ。俺足引っ張るよ、絶対」

「大丈夫だって、絶対できる。虎之助は魔力を沢山持っていて、それをうちが使うんよ。完璧」

「完璧ねえ」

 なんじゃそりゃ。そんな事できるはずがないだろう。虎之助は内心呆れていた。

「そう、完璧。だって双子じゃん、うちらはさ」

 そうだね、虎之助はにっこりとほほ笑む。

 双子か……もう、自分たちが双子になって一年が経つ。叔父の竜二には、詳しい経緯を話して居ない。でも、引き取られた初日、「俺と麟は双子になった」と言うと、きょとんと竜二はしていた。

なんで?

 竜二は不思議そうに聞く。

「誕生日が同じだからだ。年齢も一緒、双子にしといたほうがいいと思って」

「ふーん、なるほどね。分かった」

 そんな短いやり取りで竜二は納得したのだ。あれから双子の件については追及もなかった。

 もっとも詳し経緯というものは存在しない。そもそもなぜ、双子になってしまったのだろうか。

 最初は冗談だった。でもそれが現実になってしまった。誕生日が同じだから。咄嗟に話した、竜二への言い訳こそが、実際双子になってしまった本当の理由かもしれない。



「麟、落ち着け、先輩たちは、真後ろだ。でも、もう落ちる」

 山家道の交差点を既に曲がり終え、「ゆめタウン」を通り過ぎた。もう少しすればイオンが見える。それから武蔵野交差点を曲がれば、三十一号線に入る。そこからはなだらかな坂になる。高校手前三キロにはより急な坂もある。それ故、もう先輩たちはだめだ。

「でも、でも、……」

 だめだ。麟は冷静さを失っている。心拍数が上がっている。魔法もいつものようにスマートではない。MP消費も効率的ではない。

 だがそれでも虎之助は絶対の自信があった。先輩たちに負けることはない。

 ゴールまであとどのくらいか。おそらく十キロはない。

 相変わらず、江崎が前を走り魔法をかけ続けている。驚異的な持久力とMPだ。もしかしたら、彼も虎之助と同じく最大MPがかなりあるのかもしれない。

 今、後ろを走っている橘は、おそらくほとんど魔力を消費していない。

 足も溜めている。疲労もないだろう。ゴール手前で、一気に飛び出、麟と虎之助を抜くつもりだろう。だがそれはこちらとて同じことだ。

 もう、今はほとんど虎之助の魔力で麟は走っている。折り返し地点から後は、麟はほとんど魔力を消費していない。MPを温存しているのは、此方とて同じ。

 だから何の問題もなかった。

 虎之助に残された魔力はもう多くはなかった。いつでも切り離す準備はできている。魔力がつきた時、それが虎之助の切り離し時だ。

「麟、聞け、落ち着いて聞け。江崎先輩の後ろを走っている橘先輩は、魔力が残っている、元気だ。だが、麟、それはお前も同じだ。いいか、「ルミエール」あるの分かるな。「洋服の青山」とか、お好み焼き屋とかあのへんだ。あのへんで俺を降ろせ。あそこを過ぎたら、勝負だ。たぶん五キロないはずだ」

「え? 何言ってるの?」

「だから、「ルミエール」とか「ニトリ」がある場所分かるな、交差点だ。あそこで、降ろせ、俺を」

「何言ってるん」

 虎之助は唖然とする。パニックになったか? しかし、五十キロと言う距離は、今まで走ったことのある距離だ。問題のない距離だ。思ったよりも先輩たちが追いすがって来ただけの話だ。パニックになる理由がない。

「うちら、双子やろ」

「はあ? なんだよ麟、そんなの今更」

「二人で一つってゆーたやん」

「俺のMPはもう空だ」

 しょうがない、虎之助は自ら手に籠めた力を緩め、落ちようとした。少々危険だが、問題ない。全身を魔法で強化すれば、怪我をしないですむだろう。あと一度、その程度の魔法を行使するだけの魔力は残っているはずだ。

 だが。

 虎之助が力を緩めた瞬間、麟のその白い腕が虎之助をがっしりと掴んだ。

「麟?」

 力強くがっしりと、掴んだのだ。

「何してる。早く俺を降ろせ、じゃないと、先輩が――」

「――風見姉弟、私たちの勝ちだ」

 後ろから、いや……真下から声がした。虎之助と麟の真下。そこに、江崎先輩と橘先輩が走っている。そして、前を走る江崎先輩が高らかに勝利宣言をしたのだ。

 江崎先輩がそのまま、速度を落とす。江崎先輩はもはや走ること叶わず、歩き始め、遥か後ろの方への風景と化す。

 そして。虎之助の前方に橘先輩が飛び出ていた。

 まずい――負ける。

 早い。橘先輩は早い。予想通りの速さ。想定内の速さ。しかし、……

「麟、二人じゃ追いつけない。重いやろう、俺! 最近少し太ったんだ、早く降ろせ!」

「知ってるよ、太ったの」

 麟は力を緩めなかった。ぎゅっと虎之助を抱きしめたまま、滑空する。

「大丈夫、うちらは速さ。最強」

 にっこりとそう笑い。

 麟は虎之助を抱きしめたまま、滑空した。いや、墜落した。地面すれすれを飛ぶ。

 そのまま速度を上げる。時速――三十、四十、五十、六十……!

 どんどん速度が上がっていく。橘先輩との距離が詰まっていく。

 無茶だ!

 虎之助は心の中でそう叫ぶ。実際に叫びたかったが、猛風がそれを許さない。

 勝負は一瞬だった。

 ゴール前おそらく二キロ。そこで、橘先輩を抜く。そこから、もはや追撃を許さなかった。ゴールまで一直線。橘先輩との距離は縮まらない。圧倒的速さで、麟はゴールラインを越えた。橘先輩は、四分後……校門へ到着した。圧倒的な勝利だった。

「速いんだね、本当に、あーあ、負けたよ」

 ゴールに辿りついた橘先輩が、茫然と虎之助と麟に声を掛ける。

 虎之助は虎之助で茫然としていた。何か自分が道を誤ったような気がしてならなかった。麟は精神的に不安定すぎる。しかし、高揚もあった。あの場面で、重荷の自分を背負ったまま彼女は走った。そして勝った。圧倒的な速さだ。速さ。速さ。風見麟は早い。そして自分は、その風見麟を支える風見虎之助。自分だけが彼女を支えることが出来る唯一の人なのだ。

 そんな高揚が――



 麟は虎之助に体を預けていた。宝満山登山口のベンチに二人は座っている。一年前のことを思い出していた。ちょうど一年前、同じようにここに一番に辿りついた。

 一年前のレースは三年の先輩など目ではなかった。他の一年も同様だった。唯一二年の江崎・橘ペアが厄介だった。だが……それでも虎之助と麟が勝った。

 今年も同じだ。

 一年生に面白いやつがいたが、所詮虎之助と麟の敵ではない。まあそれでも、嬉しい。多少はまともに走れそうだ。インターハイ優勝へ手が届くかもしれない。いや、絶対に届かせるのだ。

「そろそろ行くか、麟」

「えーもう?」

「おい、去年ここで休みすぎたから、江崎部長と副部長が追い付いたやん」

「でも、まだ半分残ってるよ」

 麟はペットボトルに入ったスポーツドリンクを虎之助の目の前に掲げた。

「じゃあさっさと飲めよ」

 虎之助は溜息を吐く。

「まあ、いいじゃないか……インターバルは必要だ。私と橘もここで、水分補給をするさ」

「江崎部長……?」

 虎之助は振り返る。そこには確かに江崎部長が立っていた。後ろには橘先輩もいる。

 追いつかれた。まさか。去年は五分以上、差をつけて中間地点に来たのだ。今年は一分か二分程度の差しか開いていなかったという事か? そもそも去年、折り返し地点まではテキトーに飛んだ。虎之助も麟もどこか、先輩や同学年を見下した感があって、力が入っていなかった。後半、江崎や橘に追われることにより本気を出したに過ぎない。

 今年はもう遊びでやってはいなかった。最初から本気だった。それなのに。

「何を驚いている」

 江崎部長は眼鏡を取り、汗を拭った。

「いや、部長、速くなりましたね」

「憎たらしい後輩だな。だが嬉しいよ、天才の君にそう言ってもらえると」

天才? 違う、俺は天才じゃない。虎之助はふと橘を見た。

橘は肩で息をしている。会話には加わってこない。完全に体を休めているという事か。

 だがそれは麟とて同じ事だった。

「そろそろ行こうか麟」

「そうやね」

 麟は立ち上がる。

 虎之助も立ち上がる。

 その時、誰かがこちらへと近づいているのが分かった。

 足音がする。

「誰か来るな」

 そこで始めて、橘が口を開く。

「それならば我が部の部員しかいないだろう」

「まさか、あの一年達が追い付いてきたのか?」

「そういう事だ、おそらくね」

 部長はベンチに腰掛け、スポーツドリンクを嚥下する。

「行かないの?」

 麟が虎之助に訊ねた。

「……そうだな、いや、顔を拝んでから行こう。一年の誰が来るか。これは本格的に、インターハイが楽しみになってきた」

「そうね、今年は優勝しようね、虎之助」

 麟が笑う。そうだ、今年は優勝するのだ。そうでなければ、そうでなければ……そうでなければ、たぶん間に合わない。もっと早く知っておけば、去年絶対優勝していた。自分たちには必死さが、たぶん足りなかったのだ。今は違う。今は違う。

 だから、速い一年が居るなら、それはそれで歓迎すべきことだ。虎之助と麟と橘とそして江崎は、宝満山入口で来訪者をそこで待ち望んだ。


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