第四章 共想の話 江崎と橘
江崎悟の前の、猛スピードで二人の人間が抜いていく。曉を抱えた東だ。
その二人組を見送る。二人は、瞬く間に遥か先へと行ってしまった。
その姿を見て、江崎は失望感に苛まれた。
(お前もそう思うだろう?)
心の中で江崎は橘に問いかける。無論声を出しているわけではない。橘の返事はない。ただまっすぐ前を見て、先に行ってしまった二人を追いかけている。
■
夢を見ていたのはいつからだろうか。
夢などそもそもは見てはいなかった。人生において何かの分野で一番どころか、十番以内に入るような偉業を成し遂げたことは彼の十数年の人生で一度もなかった。そしてこれからも無いだろう。そう思っていた。
小学五年生から魔法走というものを始めた。面白い競技ではあったが、それで頂上を取ることはおそらく無理だろう。江崎はそう思っていた。所詮凡夫なのだ。天才ではない。秀才でもない。
だが、魔法走の面白さに、江崎はどんどん惹かれていく。中学時代、本気で魔法走に取り組んだ。己が凡夫ならば、人の百倍努力すればいいだけの話じゃないか。そう思っていた。並々ならぬ努力をし、様々な競技に参加した。魔法に関する知識も身につけた。
小さな大会で優勝できるようになった。でも、そこで御仕舞だった。結局凡夫は凡夫なのだ。どれだけ努力しても越えられない壁がある。そう、己は凡夫なのだ。
高校に入り彼はアズハルという競技を知った。その中でもサポーターという役割に惹かれる。アズハルの中でもサポーターは人気が然程無い役割だった。
何故ならサポーターは走らない。チームの消費MPや走行距離の情報が送られてくるだけだ。それを見ながらチームの走りを指揮する。MP消費のペースを分配する。
それが役割だ。指揮者といえば聞こえがいいが地味なポジションだ。しかし重要なポジションでもある。
江崎がそこを目指したのは、可能性がまだある気がしたからだ。競争率は高くない。重要なポジションであることは間違いないのだが、やりたがる人は少ない。
だから選んだ。それに、分析をし作戦を立てるのは好きだった。性にあっている。そう思った。
なら夢を持ったのは、その時か?
自問する。
いいや違う。
夢を持ったのは、こいつに出会ったからだ。併走する橘の小さな背中をみた。
こいつが居たから夢を見ちまったのだ、と、改めて思い出した。
江崎が橘に出会ったのは宝満高校の一年の時だ。
中学はそれぞれ別で、お互い初対面だった。
ただ、江崎は名前をそれなりに知っていた。彼は中学時代長距離の部で負けなしのランカーだったのだ。
彼こそが天才だった。だから、自分は彼のサポートに徹し、彼を優勝に導くのだ。
江崎はそう思っていた。
■
二人の姿はまだ見えない。時間にしては、十分程度経っただろうか。本屋「蔦屋」を通り過ぎる。飲食店が立ち並ぶ。それを横目に走っていく。平日の夕方、交通量は多い。北上すれば福岡の都心部、福岡市内へ行く道である。また今、宝満高校の魔走部の部員たちが下っていく方向をまっすぐ行くと、久留米市へとたどり着く。北九州程ではないにせよ、久留米も工業地として有名だ。ICもあり、都心へと向かう県道は、車が多い。県道は、二車線ある。対向と併せれば四車線。緩やかなカーブとなっている。平坦ではないが斜度が激しいわけでもない。
見晴らしはいい。しかし二人の姿は見えない。焦りはなかった。彼らは必ず速度を落とす。あんな無茶な走り続くわけがない。
だがそれは仕方ないかもしれない。彼らはずっと魔力受け渡しの調節に費やしてきたからだ。本格的に走ったのはこれが初めてではないだろうか。
「まだ、速度はあげなくていいのか?」
橘が訊ねる。
「まだだ、この先の信号を右に曲がる、そこをすぎたら速度をあげろ、落とすな。陸橋があるから、急な登りになる」
「イオンの先だな」
「そうだ」
■
でもそれは幻想だったのだ。所詮。
全国のレベルには届かない。一番などなれるはずがなかったのだ。
先ず部活が強くなかった。先輩たちの意識はインターハイなど全く想定になかった。県大会に出られればそれで御の字という態度であった。
それに失望する時間はなかった。一年生は一年生で団結し、練習を重ねていく。先輩など無視だ。
だが、そう言った強固な考え方は必ずしも賛同を得られたわけではない。最終的に残ったのは、マネージャーを除けば橘と、長距離の高里だけだった。
三年の先輩が卒業したのち、一年の八月の時点で、その三人しか残らなかったのだ。そんな状況を二年の先輩たちは嘲笑った。
だがもはや、江崎たちは先輩たちには何も思わなくなっていた。自分の代で、何とかインターハイに行こう。
そう決心した。
江崎は、無意識のうちに目標を下方修正していた。インターハイ優勝でもなく、インターハイ何位でもなく、インターハイの出場だった。
「俺は、あくまでインターハイ優勝目指すよ」
二年にあがる直前、江崎は橘にインターハイ出場の目標を伝えたとき、橘はそう答えた。
「優勝か、それは勿論、大会に出場する以上私も目指すが、まずはインターハイにでなければ話にならん、そのためには、人数も必要だ」
「それじゃあ、先輩たちとどこが違んだ?」
力強く橘は言う。
橘の体は小さい。江崎の方が遙かに大きい。競技上、体格の大きさも関係してくる。面積の大きさはそれだけ、最大MPの大きさに深く関わってけるのだ。無論、小柄な中にも強大な魔力、底なしの魔力を持つものもいないわけではない。しかし一般論として言えば、小柄な体型は不利なだ。
その、小柄な彼は、しかし力強く、江崎の背中を支えるように言っのだ。優勝を目指すと。
「しかし、私と橘と、あとは高里が走るとして……残り三人はどうする? 今の先輩に居ないし、新しい一年も無理だろう」
それでもまだ江崎は優勝など絵空事で、出場あたりが現実的な落としどころだと考えていた。言い訳を、江崎は並べ立てる。
「お前は走るな」
弱気な江崎に橘はそう言う。江崎は混乱した。
部内で、もっとも速いのは橘だ。では二番目に速いのは誰かと考えたとき、それは二年の先輩ではなく、江崎なのだ。あるいは高里の可能性もあるが彼はアズハル組ではない。ともかく江崎は部内で二番目か三番目に速い。その己が出ずにどうするというのか?
「お前は、サポーターだろ」
不安そうにする江崎に、橘は笑っていう。
「お前がサポートしてくれて、俺は初めて早く走れる。他は要らない、お前がサポートしてくれれば俺だけでゴールする、後は今の二年なり新しい一年なり適当でいいさ、やれる二人なら」
橘の言葉に江崎は、目から鱗が落ちたような気がした。
そうだ、自分はサポーターをすると、決めたではないか。
何を弱気になっている。天才の百倍努力して届かない凡夫なら、千倍努力すればいいだけの話だ。
一番だ。夢を見るのだ。一番になるのだ。
江崎は再び夢を抱く。
その夢の実現には、橘が不可欠だ。
自分と彼の二人は、インターハイで優勝するのだ。そう心に誓う。
■
武蔵交差点にくる。このまま右に曲がればICがあり、高速だ。そこから、北上して都心部の福岡市なり、南下して熊本方面なり行ける。
江崎たちの目的地は反対側、左に曲がった方面にある。左に曲がる。
「MPをあと倍程度使っていい」
江崎はすかさず指示を出す。
「五十キロ持つのか?」
橘が訊ねた。
「持つ、余裕だ、M3を見てみろ」
「いや、いい。数字を見ても実感がない、サポーターはお前だ」
橘と江崎は足をさらに強化する。
時速で言えば六十キロ程度か。景色が鈍化する。いや、否。感覚が鈍化する。
汗が吹き出る。全身を伝う。
脱力感、いや、疲労感と爽快感が相混ぜになり、足を鷲掴む。
景色が通り過ぎる。風が気持ちいい。
数年前にできた大型ショッピングモール「イオンモール」を通り過ぎる。田舎であるこの周辺では、「イオンモール」が中高生のたむろ場所となっているし、家族連れも多い。そういえば、自分はまだ一度しか行ったことことがなかったな、と頭の片隅で江崎は思った。
斜度がかなりある陸橋手前にさしかかる。上り坂は距離こそ短いので、一気に駆け上がる。
大学付属の病院を横目に駆け抜ける。
息は荒れていない。
橘の体調も問題なさそうだ。
すぐさま下り坂が見えていた。その先に信号がある。国道三号線と十字に交わる交差点だ。単なる十字路ではなく、斜めに道が一本繋がっているため、信号も複雑になり、長い。
「ここから飛ぶぞ」
「ああ」
信号待ちなどはして居られない。休憩するとすれば、水分補給の時だけだ。
橘も江崎も飛行型ではなく強化型である。しかし飛行すること自体はさほど難しくない。ライドも不可能ではない。
ただMP消費が見合わないのだ。飛行型ならば飛行に特化した訓練をしなければならない。ライドも同様だ。ライドはメジャーな走り方の一つではあるものの、MP効率が最も悪く、高校生レベルではそう居ない。また走り方の一つとして、極稀にオールラウンダーも存在する。本当に極稀だ。
今回のように市街地や信号の多い場所を走る場合、オールラウンダーは有効だが、実際のレースでは道が封鎖され、信号もない、悪路もない。そのため、オールラウンダーになる意味はほぼない。
だがライドや飛行型でないからといって、それを出来ないわけではないのだ。短時間であるならば不可能ではない。
二人はアスファルトを蹴り、飛ぶ。
風がより強固に二人を襲う。
「表面積を少なくしろ」
江崎が橘に指示を出す。
橘は無言でしたがう。体と地面が垂直になるような角度になるのだ。これで風の抵抗を減らせる。
交差点は高架道路と交じりあっており、二人はその上を越えている。眼下には多くの車が往来していた。
それから直ぐ左手側に「ゆめタウン」というショッピングモールが見える。こちらは、かなり前からあるショッピングモールだが、歩いて十分圏内に先ほど通過した「イオンモール」が出来ているため、利用者は年々減っているそうだ。
「着地するぞ」
橘に声をかける。
二人は着地し、再び体全体に魔力を纏わせ地を蹴る。そのダッシュの瞬間、強烈な風圧が襲う。飛んでいる時の風も気持ちよかったが、やはり、こちらのほうがしっくりくる。硬いアスファルトをける感触。足に掛る心地よい負荷。飛んでいるとそれがない。地に足がつかないというのは、気持ち悪い感覚だ。
「ゆめタウン」を通り過ぎる。
「見えたな」
橘が言う。視界には、東が居た。曉を抱き上げて走る、東の姿が。
「追いつくぞ」
江崎は言った。
橘も頷く。
山家道まであと三キロ、四キロというところか。
徐々に、曉や東と距離が縮まっていく。
目が合った。東は気づいていないようだが、抱きかかえられている曉と目が合う。
曉は、東に何か耳打ちをする。
東はこちらを一瞬振り返った。一瞬だけだったが、盗み見たその表情は焦りだった。
(そうだ――お前はまだ未熟だ、東)
東と曉の付き合いは、まだ一か月足らずという。その程度の時間ではタンクとして組むに値する時間ではない。インターハイ本番まで、あと三か月を切っているが、三か月という時間でも無理だろう。
曉が初心者だ、ということもある。やはり、東は東独りで走らせた方がいいのか、と江崎は考えていた。
あと百メートル――
橘も江崎も、二人を捉える。
あと五十メートル。
手を伸ばせば届きそうだ。
ここから先は徐々に道が狭くなっていく。
この段階で抜いておけば、楽だ。逆にいえば、この先抜くのは少々面倒なことになる。
「ここで抜く」
江崎は、橘に指示を出す。既に数メートル圏内。今の言葉は、東や暁に聞こえたかもしれない。
そして他愛もなく、二人は暁と東を抜く。
暁も東も、苦悶の表情で、それを見送っていた。
ああ、他愛ない――
あの自己紹介の時、麟が、タンクとして紹介したものだから、江崎は心が逸った。東が、あの有名な道貞の娘だ、と聞いたときもそうだ。
風見姉弟再来だ、と思った。
だが、現実はこの通りだ。
仕方ないのだ。暁は初心者で、東と暁ペアは結成していまだ一ヶ月。だから仕方ない。
だが……それでも残念な気持ちが、江崎の心を占める。
風見姉弟の時のような、希望と期待を抱いてしまったのが、間違いだった。
風見姉弟……
彼らの、出現こそが、江崎に夢を見させた、二人目の人物だった。
■
四月になり、江崎たちは二年生に進級した。
魔走部は完全に二分された。
アズハルでインハイを目指す二年生と、然程情熱を抱えていない三年生――その二つに二分される。人数的に言っても学年的に行っても三年生のほうが有利だった。
その事を嘆きはしたが、致し方なかった。出来るだけ真面目な、優秀な一年を集めようと躍起になった。
その結果かどうかは分からないが、存外多くの部員が入る。
十三人――
上出来だ。少なくともこれでアズハルに出場できる。
そう思った。
自分がサポーターになり、高里と橘が選手として出場する。高里はアズハル選手ではないが、長距離・短距離でそこそこ成績を上げている。あとは適当に一年を見繕えばいいだろう。十三人もいれば、経験者もいるだろう。
新入生の中でも一際目立っていたのが、風見姉弟だった。
双子ということでも、珍しい存在だ。姉の風見麟は肌が白く、髪が長く、競技をしているようには見えなかった。
弟の方は、髪の毛が金色で髪を立てている。如何にも不良然とした恰好だ。
とてもこの二人が真面目に部活に取り組むような存在には思えなかった。
ともかく走ってみない事には二人に実力は分からない。
「おいおい、真面目にやる気あんの?」
三年の先輩が、風見虎之助の髪を見て笑い出す。
自己紹介の時、風見達はアズハルで走ると言っていた。アズハルは魔法走の中でも最も過激で、きつく、そして花形の競技だ。ちゃらちゃらした感じの風見姉弟に先輩たちでさえ、呆れたのだろう。
だが江崎は心の内で、「お前たちの方が真面目にやる気あるのかよ」と、思っていた。
その先輩の言葉に風見虎之助は笑う。
「ありますよ、速いっすよ俺達。先輩たちはアズハルですか?」
虎之助が三年の先輩に訊ねる。
「いいや、三年は皆、長距離か短距離だ。アズハルは二年生の二人だ」
先輩が答える。
部内は冷戦状態だった。二年生がアズハル、と言っても実質橘と江崎の二人。そして三年生が短距離・長距離だ。残りの二年の高里は、二年と三年の仲介役のような事をしていた。
「そうですか、まあ、二人おれば、俺と麟とあと一年生適当に見繕えば出れるなあ」
「そうやね」
風見虎之助と麟は、いきなりそんなやり取りをする。随分生意気な奴らだなぁ、と江崎はぼんやりと思ったが、怒りなどは不思議と湧かない。
「余裕やな、一年坊主、お前ら、速いんか?」
三年生の先輩はどうやら違ったようだ。表情が憤怒に塗れている。
「速いですよ、ちかっぱ速いですよ。俺達というより、麟が激速」
虎之助が笑う。
麟が速い? 色白でとても外で走っていた体とは思えなかった。魔法走歴は長いと、自己紹介で言っていたが、俄に信じられない。
「ふうん、どれくらい?」
「さあ? 知らんけど、この中で一番速いんじゃない?」
三年の先輩の言葉に、挑発的に答えたのは風見麟だった。
「はあ? 舐めてるんじゃないよ、一年ボーズが!」
「じゃあ、聞きますけど、先輩最大MPはどんくらいですか?」
「ッチ、なんだよ藪から棒に。七千くらいだよ」
七千は、魔法系のアスリートとしてまずまずのMP値となる。
「そうですか、虎之助は一万五千です」
一万五千……?
江崎はぎょっとする。一万五千万と言ったら成人男性の平均最大MPの三倍。
江崎自身の最大MPも7000を少し超える程度。
「馬鹿な、嘘言うな」
「嘘じゃないっすよ。走ってみます? ちかっぱ速いですよ、俺達」
今度は虎之助が答える。その表情は自信に満ちていた。
「何キロ走ります? 十ですか? 二十? 三十?」
「五十だ」
答えたのは江崎だった。
見たくなったのだ、この、風見姉弟の走りを。
「おい、勝手に進めるな」
異議を唱えたのは、三年の先輩だ。
「いいじゃないですか、どうせ、アズハル組と個人組は別練習なんです、俺達は俺達でやりますよ」
笑って、橘が言った。
「じゃあ、一年でアズハル組は集まって。校門のところな。走るぞ、五十キロ」
江崎もそれに続き、指示を出す。
橘が先導を取り、校門の方へ歩く。風見達がそれに続く。
「おい、橘、勝手にするな」
「まあ、まあいいじゃないですか。練習別にやってるのは事実だし」
高里が先輩を宥めた。
江崎は心の中で高里に礼を述べながら、部室を最後に出る。橘についていった一年は風見姉弟の二人以外には三人だけだ。橘、江崎、一年の五人で合計七人か。まあいいだろう、七人いれば高里の力を借りず走れる。
外に出ると風見姉弟が、未だ部室の前で動かずにいた。
「どうした?」
「いや、先輩は走しらんの?」
風見麟が部室の内に居る三年の先輩に声をかける。それは別段挑発するような感じでもなく、単なる疑問のようだった。
「舐められたもんだな、一年風情が。そこまで言うなら走ってやるよ、いいだろう佐藤」
「……止めても行くんでしょう?」
三年の佐藤先輩は、溜息を吐き答えた。
佐藤先輩は三年の中で唯一話が分かる先輩だった。言ってみれば高里と同じ立ち位置だ。この部の部長でもある。
リーダシップがやや足りないのが欠点か。その為にこの部の分裂は起きてしまったと江崎は思っている。
「江崎、お前にも分からせてやるよ、実力の差を」
三年の先輩――渕上明が江崎を睨み付ける。
江崎は心の内で笑った。実力の差?
江崎は、本当に可笑しかったのだ。だから心で笑う。
渕上明は未だ、自分や橘より早いと思っているのだろうか。ならば可笑しさを通り越して哀れだ。
渕上先輩を加えた八人が校門に集合する。
橘がコースの説明をし始める。地図を渡す。お金も渡す。M3を備えたバンドも渡す。当然MPカウント機能や時計機能も付いている。
「じゃあ、行きますよ」
合図をマネージャーの井上に任せる。
位置についてよーい、どん。
マネージャーの声が、高く響き渡る。
声が酷く遅く聞こえた。全てが鈍化する。
一年達が走り出す。
だが、誰よりも前に飛び出たのは三年の渕上だ。渕上は全身に魔法をかけている。強化型の走り――
橘と江崎も遅れて飛び出す。
スタートダッシュに意味はない。ずっと平坦な道が続く短距離や室内競技とは違うのだ。最初の坂はスピードを出さなくていい。広い県道三十一号線に出た時、スピードを上げればいい。
そうして飛び出す。
だが、目の前には渕上先輩と橘、それに一年が三人しかしない。あの風見姉弟は?
振り返る。
だがスタート地点にはマネージャーの井上愛子しか居なかった。
風見達はどこに?
「上だ、江崎」
前を走る橘が、江崎に声をかけた。
上――?
江崎は上空を見上げる。一対の何かが県道上空を滑空していた。
その姿は何とも奇妙だった。二人の人間が抱き合っている。抱き合ったまま空を飛行している。
あれが、風見姉弟だというのか?
信じられないものでも見ている感じがした。
大体抱き合っていれば非常に飛びにくい――片方の魔力を温存している? そういう事なのか?
そうでなければ説明がつかない。あるいは、タンク。タンクだ。しがみ付いている方がタンクだ――確か、虎之助の最大MPは一万五千と言っていた。タンクの素質は十分にある。
「どうなってる」
橘が当然の疑問を口にする。
「タンクだ。そおらく、虎之助がタンク」
「何、……そういうことか。どうする?」
「どうもこうもない、私たちは私たちの実力をしっかり出せばいい。少なくとも渕上先輩よりは速いさ」
「分かった」
橘は頷く。だがやはり一年に負けるのは恰好がつかないな、と江崎は思う。何とか、追いつこう。
「よし、スピードを上げるぞ。もっと魔力を放出しろ」
江崎と橘はスピードを上げる。武蔵野交差点まで、県道三十一号線は緩やかで広い道だ。
ここで、一年や三年の渕上を抜いておくのもいいだろう。
瞬く間に固まっていた一年集団を追い抜いた。風見姉弟を除けば一年の実力は大したことなかった。皆スタンダードな強化型だ。
そのまま渕上に肉薄する。
「蔦屋」を通り過ぎ、高速道路の高架と交わる道を過ぎていく。それから武蔵交差点。そこを曲がる。――「イオンモール」が見える。
そこで、渕上先輩を捉えた。
開始七キロ――先輩を捕捉する。
短い上り坂。通り過ぎる大学附属病院。そして、五つの道路と、国道三号線に交わる信号。複雑な歩道と長い信号。
「飛ぶぞ」
江崎は橘に指示を出す。
橘は飛ぶ。江崎も、飛ぶ。
渕上先輩も空中に居た。だが、遅い。魔力の流れも悪い。素人目にそれが分かる。
飛ぶ練習を一度もしていなかったのだろう。必要ないから。
アズハルの場合もオールラウンダーに意味はさほどないが、天候等が大きくかかわってくる競技でもある。ライドや飛行の能力は、最低限必須となる。
空中、国道三号線と交わる場所、そこで、先輩を抜いた。
先輩は絶望の表情で江崎と橘を見送った。
そして、二人の遥か視線の先には、風見姉弟がいる。飛んでいる。
「あいつら、まじで速いな」
着地しながら、橘が言った。
「深追いする必要はない、これから道が狭くなる。追いつくのは、道が広くなってからだ」
江崎は、追いつこうと魔力を開放し始めた橘に釘を刺す。
「分かった」
橘はあっさり江崎の忠告を聞き入れた。それでいい。
まだレースは始まったばかりだ。風見姉弟の実力はまだ分からない。所詮十キロ程度しか走っていないのだ。もうしばらくすれば山道になる。一見すれば、飛行系の彼らにとって有利な道だ。だが事実は違う。風が高ければ高いほど強く吹き付ける。遮蔽物がないだけ、風が吹いた時にバランスが崩れ、余計な魔力消費を強いる。追い風とても、必ず有利に働くわけではない。
抜くチャンスはまだ先だ。
■
山家道の交差点にたどり着いた。その近くにあるコンビニでスポーツドリンクを二本購入し、一本を飲み干す。橘も同じようにスポーツドリンクを二本購入し、飲み干す。
一本はポーチの中に入れておく。
「ふと、一年前を思い出した」
橘が言った。
「そうだな、私もだ」
江崎が答える。
一年前同じコースでレースをした。
一年達を抜き、三年の先輩を「ゆめタウン」手前の交差点で抜いた。その後山家道交差点近くのコンビニで水分補給をした。今年は、曉と東を「ゆめタウン」のほぼ隣の道で抜く。
そういった意味でいれば、曉東コンビは去年の渕上先輩よりも速いという事になる。なるが……レースは五十キロ。まだ始まったばかりだ。
「お、来たか」
東と曉が猛スピードで迫ってくる。
「追いつきましたよ、先輩」
東が息を荒げながら言う。
「そうだな、東。だが私たちは十分インターバルを取った。君たちもそうするといい。私と橘は今から、風見姉弟を追うさ」
「分かりました。わたしたちは、山家道交差点までのレースに負けました。でも、このレース自体は高校がゴールですよね。次は勝ちます」
「うん、俺達に勝てなければ、インターハイに出ても仕方ないからね。勝ちなよ」
橘が言う。
その言葉に、東は闘志の炎を双眸に燃やしていた。
それでいい。江崎は心の奥底で笑った。今回のインターハイにはおそらく間に合わないだろう。だが、来年のインターハイでは東の才能、東曉ペアの真の実力が存分に発揮されるはずだ。
今年は、自分と橘と、そして風見姉弟で行くしかないな。そう考えていた。
橘も江崎も走り出す。東や曉は江崎の助言通りコンビニで水分補給をしているようだ。
これから、宝満山の麓へ向け走り出す。しばらくは平坦な道が続く。
ここで、風見姉弟との距離を詰めよう。
そう思って走る。ここで、M3を見た。消費魔力は千を示している。
「千か……橘はどのくらい消費している?」
「八百九十二」
「そうか、ならまだいけるな。一気に加速するぞ、そして、風見姉弟に追いつく」
「了解」
二人は速度を上げた。
果たして自分と橘は風見姉弟に追いつくだろうか。それはおそらく難しい。彼らは天才だ。天才なのだから。
凡夫ではないのだ。
■
一年前。
あの日。ちょうど今走っているコースと同じコースを走っていた。
三年の渕上を抜いてから、十分が経過している。筑紫野市を越え太宰府市に入った。もう、山の麓まで来ている。あと少しだ。折り返し地点の登山口入口までは、五キロないだろう。
だが一向に風見姉弟の姿が見えない。二人はどこだ?
給水している姿も見えなかった。それほど先に行っているというのか? だが、そろそろ見えるはずだ。
そうして、二人は麓の竈神社を通り過ぎる。あとは、曲がりくねった山道を行くだけだ。登山者用の道だ。宝満山の入り口までつながり、そこまでは車で行けるのだ。その登山入口が折り返し地点で、そこから、あとは下るだけだ。
しかし、風見姉弟の姿は見えなかった。折り返しているならばどこかですれ違っているはずだ。
まだ折り返し地点についていないという事はないだろう。それとも道を間違えたか?
山道を上がっていく。途中車とすれ違う。一瞬風見達がライドに乗り換えたか? と思ったが、違った。
そしてとうとう宝満山登山入口に辿りつく。
そこにはベンチに腰掛けた呑気な風見姉弟が居た。麟はうつらうつらと微睡んでいて、虎之助に寄りかかっている。
「よお」
虎之助が手を挙げる。
「何をしている」
江崎が訊ねた。少なからず怒声が籠っている。
「何って、休憩しとるだけや。でも、もう行こうかな。ちょっとここ冷えるし」
虎之助が麟を揺する。その姿は恋人のそれであった。渕上先輩ではないが、怒りが込み上がってくる。
だが橘は冷静だった。
「走ろう、彼らはインターバルを取っていただけだ。俺達が、コンビニで水分補給したように」
江崎は無言で踵を返す。
橘の言う通りだ。後は来た道を走るだけだ。
江崎は走り出した。橘もそれに続く。ちらりと、M3を確認する。魔力消費は二千五百。
「おい、橘」
「ん?」
「魔力を使い切るぞ」
「何だって?」
「悔しいじゃないか、一年にあんな態度とられて」
「そうか、俺は別に。むしろ嬉しい。俺達は、インターハイを目指している。あいつらは強い。インターハイ優勝に近くなった」
「……そうだな、少し感情的になっているようだ。だが、やはり、全力だ。魔力を全部使い切る。残り二十五キロ……時速五十キロを保て。三十分で高校へ着くぞ」
「分かった」
無理な話だったが、橘は何も文句を言わず頷く。
瞬間的であれば時速五十キロを出すのは難しくない。だが、それを持続させるの難しい、というか不可能だ。魔力が底を尽き、体に強い負荷がかかる。
だが、やる。
大丈夫だ。保つはずだ。そんな、そんな楽観が、いや思い込みが江崎を支配する。
いや思い込むように、暗示をしているのだ。現実は持つはずがない。
ともかく、山道を下る。竈神社を通り過ぎ、太宰府市を下っていく。まっすぐ筑紫野市の山家道交差点を目指す。
体中から魔力がしぼり出ていくような錯覚を抱く。魔力が激しい勢いで減っていく。バンド上の数値は、2700、2900、3100……200MP/Mの消費速度だ。十分走れば2000MPの消費となる。今だからこのペースだが、時間が経ち、この速度を維持するならば、消費MPは増える。そうすると二十分走れば底を尽きることになるだろう。
だがこのペースは落とさない。逃げ切るのだ。逃げ切って一位二位でゴールするのだ。
あと、二十キロ――まだ下り道は続く。
体に掛る勁烈な痛みと疲労と負荷――それらを薙ぎ払い重い一歩を走り抜けていく。
だが。
「先輩、お先です。うちら行きますね」
橘と江崎の隣を、二人が通り過ぎた。麟と虎之助だ。
肌の白い女。長い髪が邪魔そうな女。外で走ったことのなさそうな肌。
髪の金色の男。スポーツなどやってなさそうな不健康そうな体。
何故?
「冷静になれ、あいつらも相当魔力を消費しているはずだ」
橘が江崎に声をかけた。
「それは、そうだろう……でも」
「走るぞ、それだけだ。お前はサポーターだろ? いつでも冷静にいろよ」
「ああ……でも」
そこで江崎は口を噤む。
これは、別に悲観すべきことではない。風見姉弟は速い。それが宝満高校の魔走部に入部しただけだ。それもアズハル組として。
これは喜ばしい事なのだ。そう、江崎は言い聞かせる。だから、これは喜ぶべきことなのだ、と。
「そうだな、冷静になるぞ。私は今から冷静になる。……橘、お前私の後ろを走れ」
「分かった」
橘は江崎の後ろに回る。
「逆転するぞ、お前が風見姉弟を抜くんだ」
江崎は高らかに宣言した。橘は黙って頷き江崎の背後に回る。
一年前のあのレース、最終場面。先行する一年の背中を、二人は追いかける。
そのまま二人は速度を上げていくのだった。