第三章 共走の話 曉と東
一か月慣れない学校生活を送る。
授業は中学のものと内容が異なるので、戸惑いしかない。朝課外というのがきつすぎる。
そして何より魔走部の練習を苦痛に感じていた。
曉に課せられた練習は、東との調整だった。如何に東が、曉の魔力層の穴をうまく制御するか――それに専念させられた。
常に東と一緒に居る。
ほかの部員たちにも事情は話してあるから、部内であらぬ誤解をされることはない。ないが……いい気分ではない。
それに……四六時中一緒に居れば、付き合っているのではないか、と錯覚してしまう。事実、もうクラスではそんな噂が立っていた。
彼女は……東佳奈は可愛い。だから、逆に辛い。東にとって、自分は貯蔵庫でしかないのだ。
授業中も背後から視線を感じる。東は授業中でさえ、曉の魔力層の穴を視ているのだ。
既に慣れたものだ。しかし、嫌な感じがすることは確かだった。
その日も六限目現代文の授業中、背後から視線を感じた。
勉強は大丈夫なのだろか。曉は黒板をノートに書き写しながら、思った。
「それじゃあ、この意味分かるやついるか? 手挙げろ」
現代文の先生――、かつ担任の先生である貝が問いかける。
担任の先生は、身長が高く痩せ型だ。眼鏡を掛け、角ばった輪郭をしている。長方形のような顔だ、と曉は思っている。まだ独身と言っていたっけ。年齢は確か三十過ぎ。
「お、なんだ、曉。じゃあお前な」
しまった、と思った。貝先生と目があってしまったのだ。
「え……あ、はい……」
しかし一応分かる問題だったので、答えようとする。現代文の単元は「山月記」だった。中島敦著の、短編小説だ。一応一通り小説を読み終え、ストーリーのアウトラインを確認して居る所だった。
質問内容は、主人公が何に変身するか、というものだった。教科書を読んでいれば中学生でも分かる質問だ。
「虎です」
曉はそう答えた。
「そうだ、その通りだ。座って宜しい」
貝先生の言葉に、曉は座ろうとした。
だがその刹那、体中に激しい負荷がかかる。そして激痛が、右腕に走った。
「ひゃあ」
咄嗟に曉は、素っ頓狂な声を上げた。突然の事態に理解が追い付かない。
クラスの視線が、一気に曉へ集まった。なんであんな声を上げたんだ、と気恥ずかしさで押しつぶされそうになる。
「どうした?」
貝先生が不思議そうに訊ねた。
「何でもないです」
慌てて席に座る。
(今のは何だったんだ?)
気恥ずかしさで俯いて、曉は顔を上げられなかった。どこからともなく失笑が曉の耳に届く。クラスの誰かが笑っている。
(畜生)
心の中で毒ずく。
突如の痛み。心当たりは……一つしかなかった。東だ。
何をしたかはわからないが、東しか居ないだろう。
「授業中なんだから、魔法の練習なんてするなよ、曉」
貝先生はそう言って、教科書の内容に戻る。
その言葉が決定的だった。何かはわからないが、魔法を使ってしまったのだ。貝先生はそれを見抜いた。あるいは東が魔法を使ったのか。ともかく、東が何かをしたのは間違いない。
後で文句を言わなければ気が済まない。部活の時にそうしよう。
曉はそう思いながら、現代文が終わるのを待っていた。
■
「ねえ、話があるんだけど」
六限が終わり、すぐさま高木聡美に声を掛けられた。
「話?」
高木はきっと睨むような表情というか、どこか不快げな雰囲気を漂わせている。少なくとも愛の告白ではないだろう。
「部活の前に、中庭で」
短くそれだけ言う。曉は返事をするに至る前に、高木はさっさと自分の掃除場所へ行ってしまう。
「何なんだよ……」
あまりいい予感はしない。高木聡美――いったい自分に何の話があるというのだろうか。彼女と曉は同じ中学だった。三年時、同じクラスでもある。しかし、二人の間に交渉はほぼなかった。だからどんな高木聡美がどんな女か曉は知らない。
何か魔法系の部活をしているのは知っていた。しかし、それが魔法走とまでは知らなかった。短い髪でいかにも選手然とした人だ、と曉は記憶している。
クラスでは、彼女は浮いていたような気がする。あまりクラスの女子と話しているような印象はない。それは彼女が部活にのめり込んでいたからだろう。
いったい何の話なんだ。気になり掃除中も上の空だった。
「どうしたんですか?」
東が不思議そうに尋ねる。出席番号が一つ違いのため(暁が一番、東が二番)、掃除場所も同じなのだ。掃除場所は曉たちの教室のとなりの階段だ。それは曉にとっては忌々しい事だった。部活に授業に昼食に……四六時中べったりと東がくっついている。辟易している。
「ねえ、どうしたの?」
「何でもない」
曉は東を箒で叩く。
先ほどの仕返しだ。現代文のときは本当に、本当にこけにさせられた。曉は今しがたのことを思い出し、急に憤怒の感情がありありと湧き上がった。
「きゃつ! な、何……さっきのこと?」
東が叩かれた頭を押さえながら言う。
そうだよ、チビ。心の中でそう毒吐き、曉は執拗に箒で叩いた。
「二人仲いいよね」
「だよね、やっぱ付き合ってるの」
同じ班で同じ掃除場所担当の女の子二人が笑う。
「違う違う、付き合ってない、ていうか、俺が苛められているんだ、さっきの現代文もこいつの仕業」
曉は慌てて訂正する。
「そうなの? 曉君不良っぽいから、顔を赤らめてかっわいー!」
「でも、はたから見たら付き合ってるよ、それ。でも東さんはお嬢様っぽいし、なんか、でこぼこカップルだね」
二人が囃したてる。だから付き合ってねーよ。そう言い返したかったが、言葉が出てこない。
それよりも別の単語に、ドキリとした。
不良か……
曉はさほど善良な生徒でなかった。苛めや万引き、恐喝などそう言った犯罪には手を突っ込んではいない。しかし、中学時代はもはや途中から魔法の無才さに絶望し、心がすさんでいった。校則など守ろうとも思わなくなった。
そして一度事件を起こし、魔闘部を部活動停止に追いやったこともある。
一部の魔闘部員には全く関係のない関わりの無い事だった。曉はますます、あの世界、魔法の世界、中学の中での魔法の世界で居場所を失くした。そしてとうとう完璧に、魔法に関しては一切合財を捨てたのだ。
そういった事もあり、曉は余り真面目な生徒とは言えない。
現に髪も伸び放題で、色も茶色だ。風紀指導の先生からは、来週までに染めてこい、切って来いと言われている。曉は糞くらえ、と思っているので、黒染めするつもりも短く切るつもりもない。
「東がお嬢様っていうなら当たってるぜ。こいつの叔父さんは、医者だ、それに親父は、魔闘士の日本トップ、世界ランカーだし」
「ええええ? もしかして東道貞?」
女の一人が声を上げる。
「アミちゃん、誰それ?」
もう一方の女は知らないようだ。
「きいちゃん知らないの? 東道貞と言えば、魔闘士で超絶有名な人だよ! 世界ランク、今七位。だけど、次の世界大会では、必ずや一位もしくは二位確実って人だよ!」
アミちゃん――加藤阿澄が熱のこもった声で力説する。
どうやら詳しいらしい。もう一人のクラスメイトきいちゃんこと鬼頭きいろはさほど詳しくないようで、はてな、と首をかしげていた。
加藤阿澄の視線が東へと向かう。東はどうやらあまり父親のことに触れられて欲しくないらしく、慌てて掃除道具を片付けにいった。
ちょうどチャイムが鳴り、曉や加藤、鬼頭も掃除用具を片付けに行く。教室に戻り際、恨むみます、という目線で東が曉を見てきた。それはこっちの台詞だ、と曉は思った。
HRも早終わり、中庭へと向かう。いつも東と一緒に部活に行っていたので断りを入れて行こうと思っていたが、東は加藤阿澄に捕まっていたため、曉は何も言わずさっさと教室を出た。
まあ、加藤の気持ちも分からんではないな。
もしも暁が、まだ中学の最初や、小学生時代であれば東と友人になりたいと素直に思っただろう。憧れの人の娘なのだから。
中庭にはまだ高木は来ていなかった。曉は教室扉のすぐ近くの席なので、曉が早く中庭に着くのが道理だろう。
中庭には誰もいない。放課後になり、部活に行く生徒は一旦下駄箱へ向かう。下駄箱から校門に行き下校するにせよ、部活に行くにせよ、中庭は通らない。
ベンチが設置してあるのでそこに座る。
ややあって、高木が現れた。
まだ体育着には着替えていないようで、制服だった。
彼女はやはりどこか怒ったような、気難しい表情をしていた。そう言えば部活動に入部した初日も睨まれた記憶がある。
「で、話ってなんだよ」
曉は立ち上がり訊ねた。
「……中学時代から、同じクラスだったのに、ほとんど話したことなかったわね」
「ん? そうだな」
高木はすぐさま目的を言わなかった。曉は心の中で首を傾げる。
「で、なんだよ」
「……あのさ、部活を辞めてくれない?」
突然の言葉に曉は言葉を失う。部活を辞めろ?
「何でだよ、……突然なんだよ」
「何でだよ? って。それは、私がアズハルで真剣だからよ」
説明になっていない。曉が部活を辞めることと高木がアズハルに真剣なことがどう関わってくるというのか。
「何、訳が分からないって顔しているわね。でも私から言わせれば、ここまで言ってピンとこないのが分からないわ」
「……」
本当に曉には心当たりがなかった。何も言えず、押し黙る。頭の中で何か高木に嫌な事でもしたかなと思い返すが、心当たりは見つからなかった。
「ムノウシャ」
突然彼女の口が動く。だがそれは日本語をなしていない。
いや、曉には、理解できない。
「何だと!」
反射的に手が出ていた。理解できていない言葉のはずなのに、瞬時に馬鹿にされたのだと理解できた。高木の胸ぐらをつかんだ時、理解できていないのに馬鹿にされたと理解するのはおかしいな、と冷めた自分が心の内でそう思っていた。
だがかっとなった体は止まらない。
「二度とそれを口にするな!」
曉は怒鳴った。
ムノウシャ――無能者――中学時代の曉の綽名の一つだ。ほとんど魔法を使えなかった曉の、部活の中での綽名だ。
「事実じゃない、放してよ」
高木が言った。そして口の中で、高木は二言三言呟いた。
その刹那、曉の体が宙に舞う。地と天がひっくり返ったような、そんな奇妙な浮遊感に襲われ――あ、浮いているのか――と気づいた時にはそのまま地面に叩きつけられた。
激しい痛みが襲う。何か魔法を使われたのだ。
「東さんは天才よ。そして、風見先輩たちも天才。本当にこの部は、宝満高校の魔走部は、アズハルでインターハイを狙えるの。それを邪魔されたくないの」
「糞、説明になってない。なんで俺がいちゃだめなんだ」
「何故? あんた馬鹿? あなたが中学時代、魔闘部で何やったかもう忘れたの? 公式戦に去年出られなくなったんだから!」
そういう事か。それで納得がいく。
「そうか、そういう事か。悪かったな。それは、そうだ。だが、あれは……あいつらが悪い。巻き込んでしまったのは悪かったけど」
「……日本はね、連帯責任なの。そういう世界なの。私も糞みたいだと思っているわ。そういう制度。監督が責任を取るっていうならそれはまだ分かるけど、何で同輩や後輩まで責任を取るわけ? 意味わからないわ。糞みたいな日本の連帯制度よ。ごめんね曉君。あの事件は、確かに仕方なかったかもしれない。けど、日本のその糞みたいな風習のせいで、台無しになってしまうの。だから今のはちょっと八つ当たりに近かったかもしれない……けれどね、もう一つ理由がある。もしもあなたと東君がいっしょにインターハイに出るなら、絶対に勝てない理由があるの」
「なんだよ、俺は……ようやく魔法が使えるんだ。部活に居させてくれよ。なんだよ、絶対に勝てない理由って? 俺が魔力制御疾患だからか? でもそれなら東が何とかするさ。タンクだって、俺がタンクで、そのパートナーが東なんだ。それで何とかなるんだろう?」
「ならない」
だが、高木は決然と冷徹に言い放った。
「あなた、アズハルのルール知らないでしょう」
「……三日間あるんだろう? 全部で約百五十キロ。一日約五十キロ。チーム戦で、六人構成。一人がサポーターで走りはしない、違うか?」
「あってる。でもね、制限があるの」
「制限?」
「そう、制限。一日目は個人に制限が課せられ、二日目はチームに制限が課され、三日目はその制限がなくなる、そういったルールなの」
「なんだよ、制限って」
「MP制限よ。アズハルレースがチームレースである所以でもある、一日目個人で使える最大MPは2500よ。二日目チームで使える最大MPは30000。三日目はそれがなくなる。分かる? あなたはあなた自身が体からあふれ出る魔力を制御できていないでしょう? 一時間2400MP消費するんでしたっけ? そうすると、一日目のレースで、もうあなたはアウトよ。分かる?」
「そんな制限が……でも、魔力消費は、東が抑えるし、俺と東は今その練習をしてるんだ」
部活に入ってもう一か月が経とうとしていた。その間、魔法を使い走る練習はほとんど行っていない。東が曉の魔力を引き出したり、魔力層の穴を塞いだり、あるいは東の力を借りて、曉が魔法を使ったり……そんな練習ばかりしている。
「無駄よ。いい、タンクていうのは、一朝一夕で出来るような芸当じゃないの。風見先輩たちは姉弟よ、双子のね。ずっと一緒にやって来た二人だから出来る事なの。他人へ魔力を供給するっていうのは、百パーセント受け渡しが出来るってわけじゃないの。必ずロスが生じる、しかも、東さんは常に君の魔力層の穴を塞ぐんでしょう、当然塞ぐためにも魔法を使うわ。だからさ、辞めろとは言わない。その代りあなたはインターハイに出ないで。邪魔をしないで。本当はやめてほしいという気持ちはあるけれど」
捲し立てるように、高木は言う。
それは、曉が考えたことが無い事でもなかった。魔力のやり取りにロスなしで行う事が出来るのだろうか。疑問だったことだ。
だが、東はそれを承知の上で、曉に声をかけたはずだ。
本来なら諦めた道だ。止めるならそれでもいい。「止めてやるよ」と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。
神様は、残酷だ。希望を与えておきながら再び絶望の谷間へと、曉を突き落そうとしている。曉はふと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の童話を思い出す。あれは残酷な話だ。
悪さをし、地獄へ落ちたカンダタが、生前唯一した蜘蛛の救済にかこつけて、仏が救済の蜘蛛の糸を垂らす話だ。それに縋り、地獄から這い上がろうとするが、その蜘蛛の糸にたくさんの亡者が縋りつく。カンダタは叫ぶ。「これは俺の蜘蛛の糸だ」と。その刹那、糸は切れ、カンダタは再び地獄の底へと落ちてゆく。
今まさにその状況ではないのか?
曉は思った。
魔力制御疾患という、魔法を志した己にとってみれば地獄みたいな状況だ。それに、東という糸、魔法走という糸が垂れてきた。ならばさしずめ、高木聡美はその蜘蛛の糸に群がる亡者か――
「嫌だ」
出た言葉はそれだった。
「俺が決める事じゃない」
「そうね、そうね。分かった、知っている。でも釘を刺したかった。何があっても、部活動停止に追いやる事なんてしないでね」
「分かっている」
曉はそう返事をする。
話が終わったのか、高木はくるりと踵を返す。しかし、そのまま硬直した。
「随分勝手な事を言うんですね」
高木の目線の先には東が立っていた。
「東……!」
曉も気づかなかった。身長が低いため、高木の背中に隠れてしまったのだろう。
「ちょうどいい機会ね。聞くけど、魔力制御疾患を抱えた人とペアを組んで、インターハイを制するなんて出来ると本気で思っているの?」
「出来ます」
「曉君は初心者なのよ、魔法走の、いや、魔法もね……魔法においても初心者の彼が――」
「高木さんだってアズハル初心者でしょう?」
高木の言葉を切って捨てるように、東は被せて言う。
「……そうね、そうだわ……いいわ、実力で分からせてあげる」
「ふうん、楽しみだ。わたしから見れば、あなたの魔力も大したことないですけどね」
不穏な空気が漂う。
曉は固まった。なんだ、こいつ。そもそも東がそう突っかかる意味が分からなかった。それに東は変に頑固なところがあるな、と改めて思う。
東の言葉に、高木は舌打ちをし、そのまま部活棟へと向かう。
「じゃあ、わたしたちも行きましょうか」
東は事もなげに言った。
「お、おう」
曉はそう返し、東の後ろをついていく。
■
いつもは、東と曉だけ別で特別なメニューをこなしていたが、その日は校門に集合がかかる。
校門の前に、アズハル組の部員たちが集まっていた。
更に個人組の五木樹里と宗像一もそこには来ていた。
風見虎之助、風見麟の風見姉弟。部長の江崎悟。副部長の橘宗治。そして高木聡美。東佳奈。曉翼。それに個人組の五木、宗像。それにマネージャー井上愛子。
総勢十名が校門に集う。
「今から走るぞ。五十キロ」
部長が藪から棒に言った。
「二人はこれを腕に」
東と曉にリストバンドのようなものが渡される。
(腕時計……?)
やや大きめの時計と言った感じか。数字が書いてある。数字は上から四つ並んでいた。今は全てが0の表示となっている。
「測定器よ。通称M3。Moves and Magic Meterが正式名称、て言っても商品名だけどね。上から、走った距離、速度、消費MP、チーム全体の消費MPを測定するの。高性能のやつになると、MP消費速度とか時間毎の消費MPも表示してくれる」
「ふーん」
東が小声で解説をする。そういう便利なものがあるのか、と感心し、腕にはめる。
そういえば高木がさっき言っていたな、と思いだす。競技の日によって、使えるMPが決まっていると。だからこういった用具が必要なのか。入部した日に東が説明していたのはこれのことか。……そういえば、暁には必要ないと言っていたっけ。それは多分、MP管理を全て東がするという意味なのだろう。
「大会では使えないから、これは、練習の時だけね」
続けて東が説明する。
「なら、本番はどうするんだ?」
「特別なM3を付けるんだ、インハイ本番は。それはただ消費MPを記録するだけ。その情報を見られるのはサポーターだけだ」
小声で東に訊いたつもりだったが、答えたのは部長の江崎悟だった。
「さて、アズハルに出たことない人も居るし、初心者もいるから、説明しておこう。大会本番は、こう言った類の機器の着用を一切認められていない。じゃあ、どうするかというとサポーターだ。サポーターがすべてを知らせる。選手には魔力を感知する機器だけが与えられる。これよりも小型でディスプレイもない。それは単に消費MPを検知するだけの機械だ。ただその情報は、チームのサポーターに送られる。サポーターはそれを見て、選手に指示を出す。まあ、アズハルはそういったレースだ。今日は練習だからこれを使う。自分で自分の、数値を確認しろ。サポーターもいない。では、コースの説明に入る」
コースの説明を江崎部長が行う。
「ゴールはここ、宝満高校の正門だ。コースは、ここから福岡県道三十一号線を西にずっと下っていく。筑紫野市を通り過ぎ、筑前まで行く。そこから緩やかに北上し、宝満山を目指す。ああ、登山はするな。山頂までは行かず、登り口のところで折り返しだ」
井上愛子が地図を広げ、赤いマジックでコースに線を引いていく。
「あの、わたし、ここ出身じゃないので、よく分かりません」
地図を凝視しながら、東が部長に訊ねた。
「大丈夫だ。君はタンクで曉と組むんだろう? 曉に教えてもらえばいい。風見姉弟もタンクで、組んで走る」
部長はそう説明し、東を安堵させた。
片道約二十五キロ……相当きつい、というのは曉にも分かっていた。宝満高校から宝満山麓までは、そもそも直線距離で七キロ程度だ。普通に行けば、十キロ程度で済む。それを大きく回り道をしての二十五キロだ。無論平坦な道ではない。
「はい、でーえーっと、本番のレースでは補給ポイントとかがあるんだけど、当然用意できないから、各自自販なりコンビニで買ってね」
続けてマネージャーの井上がそう説明した。
「え、いいんですか? そんな事して?」
五木がおどおどと訊ねる。
「無論だめですよー。部活中に買い食いなどは高校が許していません。しかし、仕方ないんですよ」
井上は笑いながらいい、お金を、九人の走者に渡していく。
「あ、ポイ捨てはだめですよ。あと余ったら返してね」
曉がお金を受け取った時、井上は思い出したようにそう言った。
金額は二千円だった。スポーツドリンクが一本百五十円としても、十本は余裕で買える。
「それから一応地図ね」
お金と一緒に、地図も渡された。
「さて、用意も出来たんでしょう。とっとと走りましょう」
「おう、待ちくたびれたぜ」
風見姉弟がスタートラインに立つ。
他の皆もスタートラインに立った。曉も地図とお金を小さく折りたたみ、ポーチに入れた。肩から掛けるタイプの密着型の小型ポーチだ。走っていても邪魔にならない。
「実際に走るのは初めてだね」
東が言う。
曉は自分が緊張しているのが分かった。
実際の練習は、曉はほぼ何もしていないと言ってよい。ただ東が、曉の体を調べ、そして魔力層の穴を閉じたり開いたりする練習を行っていただけだ。能動的な練習はほとんどしていない。一応、あれから魔力制御疾患についてリハビリの方法など自分で調べた。曰、自分自身でその魔力層の穴を知覚し、閉じるようにイメージするのがいいらしい。だが、そもそも曉はそういった魔力層の穴を知覚できない。本来、知覚できる人間はいないのだ。東が規格外なだけだ。
一応東に穴の箇所を全て教えてもらう。その穴の多さに、曉はうんざりした。全部で百七か所だ。一般的な疾患患者の十倍から十五倍の数だそうだ。
結局、毎日教えてもらった箇所の穴が閉じるイメージトレーニングをするも、全く進歩がない。手応えがまるでない。そもそも、リハビリや投薬で完治した例が極めて少数なのだ。多少の改善例とても、その数は少ない。重度の魔力制御疾患である曉はなおさら絶望的だった。
だから、もはや縋るものは魔法走での東とのコンビしかないのだ。
「同じタンクと戦うのは初めてやねえ、虎之助」
「そうやな、楽しみだ」
風見姉弟が嬉々として、東と曉を睨んだ。
「わたしも楽しみです」
東がそれに応える。
改めて風見姉弟を見るが、姉の麟は走るのには向かなさそうに思える。高木と比べれば一目瞭然だ。麟は長い髪をしている。今は後ろで結んでいるが、それでも結んだ髪は邪魔そうに思える。胸も大きい。性格はがさつそうに思えるが、しかし、端正な顔つきというか、白い肌をしている。日に焼けていない。
対する高木は短髪で、顔も小麦色に焼けている。炎天下の中、スポーツをしていることがはっきりとわかる。
もっとも風見麟の実力は既に体感済みだ。空を飛ぶのだから、胸の大きさや髪の長さなどは問題にならないのだろう。
「よお、お前がタンクか? よろしくな、お互い珍しい存在なんだ。タンクなんて、チーム競技のアズハルくらいしか居ないしな」
風見虎之助が曉に手を差し出す。曉はそれに答えた。
確かにそうだ。そもそも自分は、重度の魔力制御疾患なのだ。東とペアでなければ、存在意義など無に等しいだろう。
しかし……虎之助も品行方正な選手には見えない。部長などは短髪で黒髪でいかにも真面目然としている。しかし、虎之助はそれに比すれば、髪の色は派手な金色だ。曉の髪も染めているため他人のことは言えないが、あれほど派手ではない。それに髪の毛を立てている。
虎、というよりも獅子という風体だと曉は思う。
「では、走るぞ。位置につけ」
部長が大声を張り上げる。
「皆さん頑張ってね、何か困ったことがあったら連絡頂戴」
マネージャーの井上が笑って皆に声をかける。常に笑っている人だなと曉は少し見惚れた。
ふと、高木の方を見る。彼女は憎悪の籠った視線を曉と東に向けていた。曉は慌てて目を逸らす。
井上マネージャーの声がする「よーい……」
走るのか。そう思った刹那、体が浮く。
「は?」
曉は、気づけば東が抱えていた。お姫様抱っこというやつだ。
放せよ。そう言おうとした。だが、「これが一番速く走れる」と、釘を刺すように強い口調で東が言う。
「どん!」
井上の声が響き渡った。
東が一歩を踏み出す。大きな一歩だった。
激しい風が、曉を襲う。レースは始まったのだ。
「降ろせ」
「翼君は、前を見ていてください。道案内を」
ふざけるなと毒吐く。
「覚悟がなかったわけでもないでしょう? 結局わたしが、翼君をおんぶか抱っこして走るしかないんですよ」
何も言い返せなかった。東が曉の魔力層を塞ぐためには、なるべく密着している方がいいらしい。今日の現代文の授業の東のちょっかいも、距離を離したうえでの、曉の魔力層穴を塞ぐ実験だったらしい。そしてそれは失敗に終わっている。
しかし、これが己の憧れていた世界なのか? 曉は苦悶した。これでは恥さらしではないか。
通行人たちが驚きながら笑いながら、東と曉を指さす。
恥ずかしい事この上ない。女にお姫様抱っこされるなんて……逆じゃないか? 普通。そういう思いはあるものの、致し方ない。こうしなければ走れないのだ。
「同じですよ、風見先輩たちも」
「はあ?」
「魔力の受け渡しは、そもそも密着している方がいいんです。だからあの二人もわたしたちと同じですよ」
東の言っている意味がよくわからなかった。だが、すぐにその意味を曉は悟る。
「やっぱり早いね。今君らとうちらが先頭だよ」
声は真隣からだった。風見麟の声だ。
曉はぎょっとした。風見麟は浮いている。飛行している。それは体験入部の時、既にみた光景だ。しかし、風見麟の下には、風見虎之助が居た。虎之助はがっしりと麟にしがみ付いている。それはあたかも恋人同士が抱き合っているような光景だった。
抱き合った恋人が、空を飛んでいる。
相当滑稽な光景だと思ったが、冷静になってみれば、女にお姫様抱っこされている自分の方が滑稽だろう。
「じゃ、先に行くから」
麟がそう言って、県道三十一号線を飛んでいく。もはやはるか上空に彼女たちは飛び上がった。なるほど、あれならば地上の人たちには目立たないだろう。いや、そうだとしても……なんだあれは。茫然とするよりほかなかった。
しかし、その光景はやはりどう見ても恋人同士の抱擁じゃないか。魔法走という競技はなんなのだ。高校生にあるまじき姿ではないか――
しかしいくらそんな事を考えたところで、己の、自分より小さな女にお姫様抱っこされているこの状況の方が、よほど変ではないか。
空しい気持ちと、羞恥心が東の腕の中で、胸の中で相交ざりあう。己が希望を抱いたのは、こんな世界だったのか?
こんな……
「速いな」
その時男の声がした。
曉の視線の先には、副部長の橘先輩が隣に居た。東と並走しているのだ。
橘先輩は、東と同じくらいの身長だ。体格も似ている。ただ、髪の色が抜けている。白ではないがどこか痛んだ薄い茶色だ。
「でも、その程度だ」
「え?」
「全国レベルには届かない。俺より遅い。江崎よりも遅い。当然、風見たちには比らべられん。インターハイ本番は八月。三か月しかない」
橘先輩が言う。
「まだ、わたしと曉君は本気ではないですよ」
むっとした感じで、曉が言い返した。
「俺も本気で走ってはいない」
せせら笑うように、橘先輩が返す。
「なら勝負しましょう……」
東がそう提案する。
「勝負?」
橘が首を傾げる。
「面白そうな話をしているな」
背後から声がした。
「部長――」
江崎悟部長がすぐ橘の背後を走っていた。さっきまではいなかった。追いつかれたのだ。
「勝負しよう、そっちは二人だ。こっちも二人。私と橘で組む。そうだな……ここからおそらく八キロくらい先、山家道という交差点がある。そこまででどうだ?」
部長が提案をする。橘は口を挟まなかった。
「望むところ、いいね、曉君」
そう訊ねられるが、曉は答えようがなかった。東の態度は有無を言わせぬ感じだったからだ。選択権は暁にはないようなもんだ。
「じゃあ、勝負だ」
橘と江崎が、そう言う。二人は大きく一歩を踏み出した。
急に速度が上がった。二人の歩幅が大きくなる。大きく前に出た。
だが、それは東も同じだった。
風景に線が入ったように、流れていく。描写はただぼやけた色の塊が、曉の視界を流れていった。体中に激しい、風圧が襲い掛かる。車と同じだ。並走している。時速五十キロ――それ以上か。八キロ先など、十分足らずで付くではないか。
瞬く間に曉たちは、江崎、橘を抜く。
すれ違い狭間――曉は二人の顔を見た。
二人の顔は、それは、失望に塗れたような、そんな表情。いや、諦観か?
ともかくそんな表情だったのだ。
2018年1月29日修正