第十三章 ゴール直前の話
ああ、気持ちいい。
間もなくだ。ゴールまであと一キロないくらいだろう。
絶頂、とは今この感覚の事を言うのだろう。
だが、そんな彼女に水を差すように、二つの影が、彼女を追い抜く。
一つ目の影は、江崎橘ペアだった。橘副部長が江崎部長を背負っている。
それは、あたかも鉄球を嵌められ足を引きずる奴隷に思えた。
そして、次に、東曉ペアだ。
追いつかれた……!
だが彼女、高木聡美に動揺はなかった。今は澄み切った気持ちで、前に進んでいるだけだ。
背後から、更なる気配を感じた。
五木……それに、宗像だ。
二人も高木に差し迫る。
そして、最後は……空を飛ぶ夫婦鳥。風見姉弟だ。風見姉弟は、高木を遂に抜いた。
走者は九人。
それはインターハイでもなく、インターハイを決定する県大会でさえない、そもそも試合ですらない、ただの部内でのちょっとしたレースだった。
今は、既に三時間ほどが経過し、ゴールは間近だった。あと七百メートルないだろう。あるいは五百メートルを切ったか?
このゴールに意味はさほどない。
果たしてそうか?
彼女、高木聡美は自問自答をする。
このゴールにさほど意味はないなど、そんな事はない。どんなゴールにも意味がある。たとえ小さな部内のレースだとしても、このゴールには大きな意味がある。だから走るのだ。いや、むしろ、もはやインターハイ出場なんてどうでもよくなっていた。ただ走る。気持ち良いこの感覚のために走る。
高木聡美は「先に行くよ、ここまでありがとう」と、他の一年に声をかける。
「僕たちも負けないよ」
宗像が答えた。
「俺たちが一着にゴールする」
曉が、声を荒げる。高木はにっこり微笑する。それでいい。これはレースだ。そして、二年や三年を抜くのだ。
二年生も三年生も早い。化け物じみた速さだ。
おそらく勝てない。
でも、でも、ゴールまであきらめない。
空を仰げば、一対の夫婦鳥が飛んでいる。素早く空を滑空している。いや、あれは、墜落しているという表現が適切か?
道の遥か先には、足を引きずるように走る人が居る。その右足には重たい鉄の鎖が付いている。鎖の先には重たい鉄球が付いている。そんな鉄球捨てればいいのに。そう思うが、あの転がるしか能のない鉄球と一緒でなければ意味がないのだろう。
背景が、風景が、鈍化する。「マクドナルド」「ファミリーマート」「ソフトバンクショップ」「P2」「スターバックスコーヒー」「ベスト電器」そういった、店舗風景を通り過ぎていく。
幾台も通り過ぎる車を横目に高木美里は駆け抜ける。
迸る汗。アスファルトの地面を濡らしていく。西日による影が、縦長く伸びる。
ゴールまであと少し。福岡県県道三十一号線――この先にゴールがある。
鉛のように重い脚。
しかし、進むしか道はない。
ゴールはその先にあるのだ。
■
光が見える。校門が見える。夫婦鳥は、地に落ちる。
麟と虎之助はそのまま校門のアスファルトの上に倒れ込んだ。
「お疲れ様」
マネージャー井上愛子の声が降り注いだ。
彼女がタオルとスポーツドリンクを、二人に渡す。
二人は答えることが出来ず、ただ肩で息をしていた。
■
県道三十一号線を抜け、宝満高校に至る小道へ入る。
すぐさま校門が見えた。そこにはすでに、風見姉弟が居た。抜かれたのか……橘はただ茫然とした。そして校門の中に入る。校門に入ってすぐ、虎之助と麟が倒れているのが見えた。橘も江崎もそれに倣い、倒れ込む。
「畜生、勝てなかった!」
橘は叫んだ。
マネージャー井上が、タオルとドリンクを渡す。二人は風見姉弟とな同じく、もはや何も喋れない。
■
体が重い。早く楽になりたい。そんな気持ちが支配した。
過酷なレースだった、とそう振り返る余裕も余韻もない。
早くゴールしなければ。
もうすでに意識が薄れかけている。自分が誰を抜いて誰に抜かれたのか、あやふやだった。
今はただ胸の中に抱いている女の子のために、彼女に報いるために一刻も早くゴールしなければと思っていた。
足が鉛のように、重く。アスファルトと一緒に錆びついて、もう永遠に動かない。そんな錯覚すら覚える。
校門が見えた。あそこへ飛び込めばゴールだ。誰かが立っている気がする。女性が、立って、此方に手を振っている。何か叫んでいる。でももう、何も聞こえない。
ちらりと胸の中に居る佳奈を盗み見た。
ありがとう。
本当にありがとう。今日の僅か一日で、曉翼は、魔法と言う世界を体感した。
そして、これからもよろしく。
心の内で、そう、独り言ち、曉は校門の中へと入り、それから倒れ込む。
なんだ、五位と六位なのか。
深い溜息を吐きながら、先輩たちに倣うように、アスファルトの上で仰向けになった。
そして自然と笑い声が込み上がって来た。
ふと隣を見ると、東佳奈も同じように倒れ込んで、そして笑うのだ。
■
平凡だ。凡才だ。そう思っていた。それは事実そうだろう。
いや果たしてそうか?
五木樹里は自問自答する。
このレース、部内のちょっとしたレースのはずだった。しかし、その内容を振り返ればかなり内容の濃いものだった。白熱し、どぎまぎし、興奮し……
これが勝負なのか。
無理をする。無謀をする。そんなのが当然のレースだった。
校門が見えたゴールだ。
「ああ、糞ったれだな」
宗像が言う。
宗像と五木は並んでゴールをした。
既に先輩たちや、東、曉がゴールしていた。皆倒れ込んでいる。
「私はもうだめだ」
五木はそのまま、前のめりに倒れ込んだ。
誰かの近づく気配がする。井上先輩だった。
「お疲れ様」
そう言ってタオルとドリンクを手渡される。
隣では宗像もドリンクタオルを受け取っていた。横目でそれを見る。
ドリンクを飲みたいが、体が起き上がらない。力を振り絞って何とか仰向けになる。小さな石ころが口に着いた。だが振り払う気力もなかった。手も上がらない。
今はただ、走り切ったという感動を、享受して居たかった。
ありがとう、一。
五木は宗像に向かってそう言った。つもりだった。声には出ない。出せなかった。でも、満足だ。
■
ああ、ゴールしたのか。
高木聡美はゴールの瞬間を覚えていない。
ただ校内のアスファルトの上に寝転がる八人の姿が印象的だった。とてつもなく滑稽な八人だ。
「お疲れ」
井上先輩の声がかかる。そのまま先輩にしな垂れるように、高木は倒れ込んだ。
井上先輩がそれを受け止める。柔らかい肌に触れた。豊満な胸が高木を支える。
「先輩……私、私を放してください」
「何言ってるの、大丈夫だよ、ほら、飲んで」
井上先輩がドリンクを差し出す。井上先輩は相変わらず高木を支えていた。
「あの、私も寝転がりたいんです、皆のように」
「もう……皆、恥ずかしくないの? まあ、いいか。五十キロも走り切ったんだもんね」
井上は優しく高木を地面に寝かせた。高木は仰向けに寝転がる。
「ちゃんと、水分補給してね。さもなくば、死ぬよ?」
差し出されたドリンクを、高木は受け取った。大げさだな、と笑う。
汗がアスファルトの上にしたたり落ちる。
空を仰ぐ。空は既に、暗くなり始めている。
最下位か、という哀しみがあるにはあった。だが、今は哀しむより、この場のよく分からない満足感と幸福感に包まれていたかった。
■
そうして魔走部アズハル組九人は、アスファルトの上に寝そべる。帰宅する他部の生徒たちが、そんな九人を怪訝そうに見やる。
九人は、皆脱力し疲弊していたが、その表情は満ち足りていたのだった。




