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第九章 ばらばらな話 麟と虎之助

 強烈な風が、吹き付ける。鳥瞰風景(ちょうかんふうけい)はいつ見ても心がスカッとする。空っぽな心を埋めてくれる。風見麟は空を飛ぶのが好きだった。

 部内レース――今は折り返しから五キロ地点くらいだろうか。通算三十キロ走った計算だ。

 虎之助が力強く麟にしがみ付く。その感覚が気持ちいい。抱きしめられている、その感覚が高揚感とそして安心感を与えてくれる。

 虎之助だけは、裏切らない。世界のどんな男が、いやどんな人間が麟を裏切っても、彼だけは麟の味方なのだ。

 虎之助は麟にとって愛おしい弟で、鳥瞰風景(ちょうかんふうけい)と同じく空っぽの心を埋めてくれる存在だった。

 


その日、風見麟は、風見竜二に裏切られた。麟はそう思った。

「何でだよ」

 虎之介が激昂(げっこう)する。麟はただ呆然としただけだった。

「何でだやろう……」

 竜二は、そう悄然と呟いた。

「嘘でしょう?」

 麟はそう呟く。思わず呟く。いや、果たしてそうだろうか?

 思わず呟くというふりをしなければならない、そう思い込んでいたのではないだろうか?

 風見麟、お前は何も感じちゃいないだろう?

 裏切られると、本当は確信していただろう?



 静。

 それが母の名前だった。もう、前の名字は忘却した。

「へえ、お前に似て、可愛い顔しているな」

 誰かが言った。彼は、二人目の父だ。

「ありがとう」

 答えたのは静だった。

 麟は何とも思わなかった。たぶん彼も、前のとおんなじだと思ったからだ。

「麟ちゃんっていうんだ、よろしくね。おれは、君の新しい父親だよ」

 男はにっこりと笑う。彼の名前は既に忘却した。

 ああ、嘘の笑顔だな、と麟は見抜いた。

 どうして母親は、こんな嘘の笑顔の男と一緒に居のだろう。

 その男、殴るよ。お母さんを殴るよ。麟も殴られるよ。

 麟は、既にそう確信していた。



 針を刺されたことがある。右足にだ。

 それは一番目の父親だったか。二番目の父親だったか。たぶん二番目だ。母親はその事実を知らない。その日静は家に居なかった。パートに出ていた。

 麟は家の中で父親と一緒だった。

 父親はタバコを吸いながらテレビを見ていた。

 麟は人形を持って遊んでいた。走り回る。父親は無関心だった。ただテレビを、無意志に見ていた。

 麟は(つまづ)き、転ぶ。音が響く。麟が(つまず)いたのは、母親の裁縫箱だった。

 裁縫箱の蓋が開き、中の針が飛び散る。可愛らしいキャラクターものの待針や、チャコペンがカーペットにぱらぱらと散らばる。

 父親はその音に気づく。麟の方を向いた。

「うるせえよ」

 そして、麟に近づき、床に落ちた針を拾った。

「あーあー、お前、片付けとけよ」

 麟はびくびくしながらも頷き、それらを拾い集める。

 そして。何の予告もなく、突然、余りにも自然な動作で、男は針を麟の足に突き刺した。

 右足にだ。

 所詮裁縫の小さな針で、血が少し出ただけで、たいしたことはなかったけれども、途方もない恐怖が麟を支配する。殺されるのだ、と思うと、怖くて悲しくて、どうしようもない感情が心に(あふ)れる。大声で、(わめ)くように泣いた。

 そうしたら張り手が飛んでくる。麟はそのまま、吹き飛んだ。

「うるせえよ、見せてみろ……ほら、たいした血は出ていない、さっさと片付けておけ」

 彼は、麟を見下ろし、そう言ったのだ。



 三人目の父親は風見獅恩(かざみしおん)といった。彼を見た瞬間理解した。ああ、一人目と二人目と同じだ。この人は殴る人だ。

 一目で分かった。

 どうして母は、こんな男と幸せそうに笑っているのだろうか。理解できなかった。

 でも、もう(あきら)めていた。母親がどんな男と一緒になろうが、関係ない。自分はただ殴られるだけの存在なのだ。たぶん、母親は、そして自分はそういう運命の(もと)にいるのだ。そう理解する。

 その日、初めて風見の家に上がる。2LKのマンションだった。

「いらっしゃい」

 風見獅恩は、にっこりと笑って、麟と静を迎えた。

 獅恩はしゃがみこみ、「こんにちは」と麟の背の高さで語り掛ける。その笑みは、いかにも優しそうで、偽善染みている。

「あっちの部屋に、俺の息子がいるんだ、遊んでおいで」

 獅恩のそのいかにも優しそうな口調に、麟は、ただ不快な感情しか抱かない。

 麟は頷き、扉をノックする。

「どうぞ」

 ぶっきらぼうな、男の子の声が返ってきた。

 中に入る。

 同い年くらいの男の子が椅子に座っていた。

 目つきが鋭い。怖そうな男の子だ、と思った。

 結局、こういう運命なんだ。自分と母親は。暴力者の男から逃れられない。

 籠の中の鳥だ。いや翼をもぎ取られた鳥だ。

「こっちこいよ」

 男の子は言う。麟は頷いた。

 部屋の外で、何か大きな音がした。もう母親はあの男に殴られたのだろうか。

 いやそんな音ではなさそうだ。もっとやわらかい音だ。

 男の子は溜息を吐く。それからクッションを二つ持ってきた。

「座ってろ」

「うん……」

 男の子は、突如、その二つのクッションを麟の耳に当てた。力いっぱいだ。

 何をするんだろうか。麟はきょとんとする。

 痛い。痛いけど、殴られるよりは幾分ましだ。

 何でこんなことを? 普通に殴ればいいのに。そう思った。

 でも途中で気づいた。微かにだが、何か音が聞こえてくるのだ。

 それは、母親の嬌声(きょうせい)だ。

 ああなるほどな、と思った。この男の子は、暴力を振るうつもりではなくて、部屋の向こうで起きている母親と男のセックスを悟らせないようにしているだけだったのだ。

「ごめんな」

 男の子が申し訳なさそうに謝る。クッション越しに、その声が聞こえた。

 麟はクッションを振り払った。

「あ、おい……!」

「別にいいよ。うち、慣れとるし。あんたも慣れとるん?」

「そうなんや。うん、慣れとる。俺虎之助っていうんだ、よろしくな」

「うちは麟」

「あんた麟ていうんだ」

「うん。そうよー」

 答えながら麟は溜息を吐く。

「どうしたん?」

「超憂鬱。だって、うち風見麟になってしまったとやろ?」

 憂鬱、とは言いながら、その実そう言った感情はなかった。むしろあるのは嬉しさだった。こうやって打算なく気遣いを受けたのが初めてだったからだ。

「俺は風見って名字好きばい。まあ、親父は嫌いやけど」

「だって学校に、うち転校して行ったら、風見が二人やろ? なんて言われる? お母さんが再婚して、こっちにきました? 風見虎之助の義理の妹です? そう言わないかんやん」

 虎之助は呆れたような顔をして、それから突拍子もない提案をする。

「じゃあ双子にすれば? 生き別れの双子で、最近こっちに戻って来たとか」

「えーなにそれ、超うける。双子? てか何月生まれなん?」

 麟は笑った。

「俺? 八月」

「え。何日?」

「八月三日やけど」

 虎之助の答えに、麟は吃驚する。

「まじで!」

「うん? なして?」

「だってうちも八月三日」

 八月三日の誕生日、この一致を、麟は運命だと思った。その刹那顔が上気しているのが分かった。

「何時?」

 気恥ずかしい感情がむくむくと起き上がって来たので、何か話さなければと、質問を続ける。

「え?」

「何時生まれなん?」

「確か、夜の二十時」

「ならうちがお姉ちゃんやな、うちは午前五時や」

「まじかーお姉ちゃんやったんか」

「そうたい。じゃ、うちら今から双子ね」

「本気?」

「うん」

 虎之助が笑う。麟も笑う。そうか恋人とかじゃなくって、双子か。

 でもそれもいいかもしれない。そう思った。可愛い可愛い弟が、出来たのだ。麟は幸せだと、心の底から思った。幸せと言う希望を見出した。



 麟と虎之助を引き取った風見竜二は、その外見は、とても優しそうな人で、獅恩の弟とは思えなかった。

 彼はアミュレットなどの魔術具のメーカーに勤めていた。

 でも、麟は、彼に会ったときも、たぶん彼も殴る人なんだろうな、と思った。

 麟にとって四人目の父親となった。母親はいない。

 別に何の問題も感じなかった。虎之助と一緒だったから、全てがうまく動いているように感じた。虎之助は絶対に裏切らない。麟はそう思っていた。

 虎之助は、「竜二さん」と呼んだ。だから麟もそれに倣った。

 竜二はとてもいい人を演じ続けていた。小学六年生の一年間、彼はいい人なのだと錯覚しそうになるほどに。彼はいい人だった。

 でも、と麟は、思慮深くその「いい人だ」という幻想を封印する。

 虎之助を除く男性は、皆おそらく屑なのだ。

 その戒めを、忘れなかった。

 中学生一年になる。麟と虎之助は一緒の部活に入った。

 竜二は相変わらずいい人を演じ続けていた。一年、一年半、二年……ずっとずっといい人を演じ続けていた。

 麟は知らず知らずのうちに、竜二に惹かれていた。彼は自分の本当の、真実の父親足りうるのではないか。そう思うようになっていく。

 だが、だがだが。戒めを絶対に忘れない。

 竜二は物静か温厚な人だ。今まで麟や虎之助を怒鳴ったことがない。

 だが、彼は独身だ。なぜっ結婚をしていないだろうか。

(例えば、竜二さんはロリコン趣味で、中学生のうちを手籠めにしたいとか?)

 そんな想像をする。

(あるいは、温厚な竜二さんの、溜まりに溜まったストレスが爆発して、大きな暴力を振るうとか)

 そんな妄想もする。

(それとも……、保険金を掛けて殺すのかな……)

 ともかく、たぶん彼は、麟を裏切るはずだ。優しさは見せかけで、その奥底に、なにかとんでもない裏切りを用意しているはずだ。麟は強迫観念のように、そういうふうに、そういうふうに考えていた。

 ある日彼を試すことにした。

 虎之助はともかくとして、血のつながりが全くない麟を引き取ったことには何か魂胆があるはずだと考えたのだ。ならばやはり体が目当てだろうか?

 中学三年のある日。それは虎之助が友人の家に泊まりに行った日。

 麟は竜二と二人っきりになる。

 化けの皮を剥がすのだ。麟はそう息巻いていた。

 夕食を竜二と二人で食べる。作ったのは麟だ。三人で交代して料理を作っている。虎之助の時の料理が一番酷かった。逆に、竜二はずっと独身だったためか、作る料理はどれもおいしかった。

「ん? 虎之助は?」

 仕事から帰宅した竜二は鞄を置き、上着をハンガーに掛ける。

「友達んところ、今日は帰ってこんね」

「そうか」

「そうよ」

「ん? 赤みそ?」

 椅子に座り、麟が用意した味噌汁に口を付けた竜二が反応する。

「うん、みそきれとった。スーパーに赤みそしかなかったけん。まずい?」

「いいや、おいしいよ。赤みそもたまにはいいね」

「ありがとう」

「いやいや、麟の作る料理はおいしいよ」

 竜二ははにかんだ。

 麟は恥ずかしそうに笑った。

 全部偽善のやりとりだ。麟の心の芯は、喜びも恥ずかしさも、感謝も感じていない。ただ、竜二の観察をしている。

 竜二はその日、缶ビールを飲んだ。

 酔っているならなおさらその欲望をさらけ出しやすいだろうな。麟は思う。

 本性を見てやろうと思った。

 風呂上りで下着姿の麟は、そのままリビングへと行く。下着姿なのはよくあることだ。竜二はいつもそれを苦い顔をして、上を着なさい、と言うのだった。でも今日はどうだろうか。

「竜二さんは、どうしてうちも引き取ったん?」

 ソファーに座ってテレビを見ている竜二の隣に、麟は座った。

 竜二はちらりと麟を見る。そして苦笑した。

「風邪ひくぞ。もう十月やん」

「いいじゃん」

 麟はわざと竜二に擦り寄る。

「で、なんでうちまで引き取ったの?」

「虎之助と麟は双子なんやろう?」

「でも血は繋がってないやん。うちは赤の他人やん」

「そうだな……」

 どこか遠くを見るように竜二は目を細める。

「俺は、もうずっと独身で、お金が結構溜まっとったけん、一人も二人も変わらんやろ。そう思っただけたい」

 違うだろう。理由はそれだけではないはずだ。

「そう、なんだ……ありがとう」

「急にどうしたん?」

 竜二は怪訝な顔で、麟を見る。



 意識が、白濁とする。

「麟!」

 声。

 声? 誰の?

「麟、しっかりしろ、何意識飛ばしているんだ!」

「え?」

「レースの最中だ、先輩たち、追ってきている。去年と同じだ!」

 視界が開けた。道路がずっと続いている。

 田園風景や、まばらに並ぶ家々。

 レース? 何のだ?

 虎之助はぎゅっと麟を抱きしめた。暖かい体温が伝わる。

 頭がすっきりとする。白濁とした意識がはっきりとする。霧が晴れるような感覚だ。

 そうか、レースの最中だ。でも何の? アズハルではない。

 ああ、そう、アズハルではない。

 これはただの部内で、走っているだけだ。新入生達と一緒に走っているんだ。

 また意識が飛んだんだな……時々そう言ったことがある。ふと意識が飛ぶのだ。

 今は、五月。インターハイまであと三か月か?

 飛びながらも、振り返る。

「本当だ……」

 橘先輩と江崎部長が、後ろに肉薄している。

「負けるわけには、いかないもんね」

「おう」

 そう、絶対負けられない。これはインハイですらないのだ。

 今年は絶対、インハイで優勝するのだ。だから、県大会で敗北するわけにはいかないし、部内のレース如きに負けられない。

 去年は……県大会で敗北した。完璧にペースを把握していなかった。県大会のアズハルは一日レースだ。前半二十キロで、個人に1000MP制限が課される。残り三十キロは無制限だ。

無制限区域に出た途端、虎之助と麟はペース配分をなにも考えずただ突っ走った。それ故途中でMPが力尽きた。今年は絶対にそんなミスを犯してはいけない。

「虎之助、あと何キロ?」

「ん? 折り返しからまだ五キロしか進んでいない。あと二十キロ」

「そう、じゃあ、まず、虎之助、魔法使わなくていいよ」

「魔法?」

「うちに魔法かけとるやろ、紫外線から守る」

「……」

「ええから、無駄な魔力使わんで、勝んやろ? うち、別に肌が焼けてもいいし。それともうちが白い肌じゃないと嫌?」

「そんな事、ない」

「じゃあ止めて」

「分かった」

 勝つ。橘先輩や、江崎部長ごときに負けられない。

 そうだ、勝つのだ。

 そうしなければ。そうしなければ。

 そうしなければ。そうしなければ。

 りゅうじ、さん――



 父親の顔を、麟は覚えていない。でも、殴られた記憶はあった。

 二人目の父親の顔は辛うじて覚えている。針で刺された。

 三人目の父親の顔は覚えている。殴られた。

 四人目の父親は、竜二だ。彼は未だ殴っていない。でも、竜二は裏切った。麟と虎之助を裏切った。



 殴られた時、何を考えていただろう。最初は怖かった。恐ろしかった。そう、一番目の父親はひたすら怖かった記憶がある。

 二人目の父親。彼も、麟を殴った。怖かった。怖くて泣いた。


 ――違うだろう?

 

 麟。お前はそうではなかったはずだ。怖いふりをしていただけだ。そうすれば彼らは満足するから。

 そして三人目の父親。

 彼にも殴られた。

 あの時、麟は失望した。希望を抱き、それを裏切られた。虎之助と言う存在と、しばらくの平穏が麟を油断させた。


 ――違うだろう?


 殴るのは知っていたはずだ。ただ虎之助と言う存在は麟にとって予想外で、喜ばしいものだった。虎之助との出会いは、麟の人生にとって転換期と言っていい。

 そして四人目の父親。

 風見竜二。

(彼も、裏切り者。そうだろう? 虎之助)

 裏切られた裏切られた裏切られた。


 ――違うだろう、あれは……



 その夜、二人はソファーで横に並んでいた。虎之助は居ない。友人の家に遊びに行っていた。

 麟は下着姿だった。竜二は酔っていた。

「そう、なんだ……ありがとう」

 麟は言う。偽りの感情をこめて。

「急にどうしたん?」

 竜二は怪訝な表情を、麟に向けた。

 隣はそのまま竜二に体を預けた。

「うち、感謝しとるんよ、本当に」

「そうか」

 竜二は麟を抱きしめる。

 やっぱり。ついに本性を現したな。麟は心の内で。笑った。表情には出さない。

「お礼がしたい」

 麟は頬を上気させた。偽りの上気だ。

 全ては偽りだ。この男の本性を引きずり出すための、方便に、演技に過ぎない。

「お礼?」

「うん、お礼」

「別にお礼なんていらんけどなぁ……虎之助と一緒に、そうやね、高校に行って、大学に……まあ大学は行かなくてもいいけど、就職してくれたら、それで俺は嬉しいかな」

 嘘を付くな。もっともっと即物的な、願いがあるだろう。今まさに。


 果たして本当にそうか?


 こいつは必ず裏切る。自分はそれを知っている。麟は強迫観念的にそう思っている。

「優しいんやね」

「そんな事ないよ」

「うちね、竜二さんの事好き、好きみたい」

 これで剥がれるだろう。化けの皮が剥がれるはずだ。

「嬉しいよ。俺も、麟が娘でよかった」

 白々しい。白々しい。


 ――果たしてそうか?


(欲情しているのやろう? お前は、中学三年生の小娘に欲情する変態な、男やろう。そうじゃないの? 違うの? なら保険金?)

「どうした、何で泣いとる」

 竜二がぎゅっと麟を抱きしめた。

 何故だろう。ぼろぼろと麟は涙を零していた。

 ごめんなさい。

 麟は心の内で謝罪する。

 ごめんなさい、疑ってごめんなさい。なんで、こんないい人を疑ったんだろう。この人は、もうすでに三年半虎之助と麟を育てている。今まで一度も手を上げたことがない。それに、例えば学習教材などの面で不自由をしたことはない。負い目があるから、麟や虎之助は贅沢しようとは思っていないが、竜二はちゃんと新しい教材や文具を買い与えてくれる。魔法走のためにシューズやM3も買ってくれた。二人の誕生日には盛大に祝ってくれた。毎年ケーキを買ってきてくれる。高校も好きなところへ行けと言う。大学に行きたいならそのお金を出すという。いい人だ。彼は優しい人だ。それを疑った。中学生に情欲する変態とか、保険金が目当てだとか。だからごめんなさい。だから涙を流している。

 竜二はきょとんとして、麟の頭を撫でた。

 二人目だ。虎之助に続いて、二人目、心を許せる人間が出来た。

 父親だ。竜二は自分の父親なのだ。そう実感できた。

「なんでもない、嬉しくなっただけ。着替えるね」

「ああ、風邪ひくから着替えてこい」

 ソファーから立ち上がり、自分の部屋へと行く。竜二に背中を向ける。自分が自分の思惑の証明のために、竜二を誘惑したという、下劣な行為に対する後ろめたさが、あった。


 いいや、本当にそう思ってる?


 麟は小走りで、自分と虎之助共同の部屋に入り、扉を閉めた。



 走って居る時は何も考えなくていい。

 特にアズハルの競技をすると決め、虎之助とペアになって、空を飛んでいるときは、幸福感だけが麟を支配する。

 二人は中学時代部内で、いや、地域で瞬く間に、有名な飛行型のアズハルプレイヤーとして注目された。高校に入ってもアズハルを続けるつもりでいた。だから当然アズハルの強い高校チームを探す。

 だが、二人が高校に進学するにあたって、問題があった。

 通える範囲の高校で、アズハルが有名な高校は、男子校と女子高がそれぞれ一校ずつあったにすぎなかった。虎之助と麟が分かれることになる。それでは意味がなかった。二人は一緒でなければ、意味がない。だから二人は、アズハルで有名な高校を探すのを諦めた。二人が走れればそれでいい。ならばむしろ弱小高校に行っても、問題はないだろう。そうして二人は公立である宝満高校への進学を決めた。



 風見獅恩に殴られた時、どうして自分は淡い希望など抱いたのだろう、とそう思った。

 獅恩は癇癪を起したように暴れまわった。麟は四回殴られた。(あざ)が出来た。

 それから獅恩は家を飛び出した。母の静は家を飛び出し、獅恩を追いかけた。

 麟は押し入れの中に入った。そこで泣いた。

 しばらく幸福であったので、久々の暴力にびっくりしたのだ。

 だから悲しくて泣いているわけではなかった。希望など抱だくべくもない運命の中に、自分は居るのだ。だから……

 

 違うだろう? お前はそんなこと思っちゃいない。そういうふりをしているだけだ。


「ただいま」

 声が響く。

 麟はその声で、はっとする。ここはどこだ? 自分は何故こんなところにいる。

 涙がぼろぼろと零れていた。

 いつの間にか意識がなくなっていた。思い出そうとする。

 確か……三人目の父親に殴られた。父親は飛び出していった。それから、母親が出て行った。

 麟は押し入れの中に逃げ込み、泣いた。

 そうか、それだけのことだ。

 声は……虎之助か。虎之助が帰ってきたのだ。

「麟」

 虎之助の叫び声が聞こえた。麟はどうしていいか分からず、その場でうずくまって泣く。

「麟!」

 視界に光が差した。

 襖が開いたのだ。虎之助はしばらく茫然としていたが、やがて

「麟……とりあえず家を出よう」

 と提案した。

「家を、出る?」

 麟は顔を上げた。

「どうして?」

「あいつが帰ってくるかもしれない」

「……」

 麟は答えなかった。頭の中で、あいつとは誰の事だろう、と考えていた。二人目の父親? いや、今しがた出て行ったのは三人目の父親だったか。

「涙ふきい」

 虎之助がハンカチを渡す。麟は驚いたが、素直にそれを受け取り涙を拭く。

「……」

「麟、お前の財布はどこにある?」

「……引き出しの中」

 虎之助は麟の学習机の引き出しから、財布を取り出す。それを麟に放り投げた。それから上着を取り出す。

「お前は、他に必要なものあるか?」

「何にも、ない……」

 何もない。この部屋に、この世界に必要なものは何もない。

 麟は今、どきどきと心臓が高鳴っているのが分かった。必要なものがあるとすれば、それは虎之助の存在だ。

「行くぞ」

「……」

 虎之助は麟の手を引く。

 麟はそれに従った。そのまま、二人は一旦隣町の公園へ行く。公園には誰もいなかった。麟はずっと虎之助の手を握っていた。暖かい手だった。

「何があった、あそこで。想像はできるけど、一応聞いておく」

 それから虎之助は麟に何があったか訊ねた。

「打たれた」

 麟は正直に答える。

「親父にか?」

 親父? 何人目の親父だっただろうか。なんだか頭がぼんやりとして、意識が白濁とする。

 ともかく頷いた。

「あ……どうして、うちら公園におるん?」

「しっかりしい、家をでたやんけ。親父が帰ってきたらまずかやろ? また打たれる」

 虎之助が悲しそうな視線を向けた。また打たれる……でも、それはどこに居ても同じだろう。麟は思った。どの男が父親になっても、叩かれるのだ。だから……だから問題はない、と思った。所詮そういう運命なのだ。小学生が、家出をして、そのまま生活できる道理が無かった。先ほどまでドキドキしていた心臓も、鳴りやんでいた。今はただ冷静に現実を受け止める自分が居た。

「ええよ……慣れとる」

 麟はそう言った。

「慣れとる? じゃあ、親父は、今日だけじゃなく、前から打っとったんか?」

 虎之助は唖然とした。

前から? その質問に麟は首を傾げる。思い出そうとする。

虎之助の父親は、麟にとって何番目の父親だっただろうか……確か、二番目? いや、三番目?

 そうか、確かここ最近は、長らく打たれていなかった。だから、幸せだったのだ。思い出した。三番目の父親だ。彼が打つのは初めてだった。

 唖然としている虎之助に、麟は首を横に振る。

「ううん、あのおじさんに打たれたのは初めて。いつもなの、うちのお父さんはいつもああなんよ」

「どういう意味だよ?」

「だから、うちのお母さんが連れて来るお父さんは、皆ああ。前もそうやったし、その前もそう。だから慣れとる。いいよ、気にせんといて……ただ、虎之助が居たから、この家は今までに比べて幸せやったんよ。だから、思わず泣いちゃった。幸せな分、思わず泣いちゃった。でも大丈夫、慣れとるから、何とかなるよ」

「帰ろう」

 麟はそう言った。小学生が、家出なんてしてうまくいくはずがなかった。

「どこへ?」

 そう訊ねる虎之助の表情は、凍り付いていた。

「家に。大丈夫うちは大丈夫」

「大丈夫なわけないだろう」

「大丈夫、うちらはまだ中学生にもなっていないんよ……お父さんとお母さんがおらんと生きていけんやろう」

「……そんなこと、ないやろう」

「そんなことあるよ」

 麟はにこりと笑った。運命から逃れることはできない。

 所詮小学生が生きていける世界ではなく、この世界には暴力的な男しか蔓延していない。

 世界はそういうふうにできているのだ。

 だから――

 暖かい、暖かい体温に包まれる。虎之助が突然、ぎゅっと麟を抱きしめたのだ。

「止めてよ」

 虎之助だけは違う。

そうだ。違う。

 そう信じたい。でも信じれば裏切られる。そうでしょう? 麟は問う。


 本当に?


「止めてよ、期待しちゃうから」

「いいぜ、期待しろ。俺に期待しろ」

「あんた、弟やん」

 泣きながら麟は、言った。

「そうやけど、たった数時間の差やん」

「でも弟やん」

 虎之助はぎゅっと麟を抱きしめる。

 麟は、その時、本当に、心の底から彼を、信じることにした。

 そして家出が始まった。二人は電車に乗って、福岡県でも一位二位の都心、博多へと行く。

 幸せな四時間だった。本当に幸せな四時間だった。たった四時間だけれども。

 電車の中では他愛もない話をした。いかに自分たちの親が糞であるか、内緒話でもするように言い合った。他の乗客に聞かれるとまずいと思ったから、声は小さくなる。それから好きな食べ物の話。好きな色。学校の話。そんな他愛無い話。

だが、下車後すぐさま二人は警察に補導されることとなったのだ。

 その日、麟は、虎之助を好きになった。

 愛したい、と思った。

 幼心に芽生えた、恋心。

 あーあー、でも虎之助は弟なんだよね。残念そうに心の中で呟く麟だったが、その実、残念さなど微塵(みじん)も感じてはいなかった。



 夜。

 麟は涙を流しながら、寝ていた。自分の愚かさ、下劣さを猛省していた。


 違うだろう。お前は、そんなこと思っちゃいないはずだ。


 何故、あんな愚かな事をしたんだろうか。赤の他人の自分を引き取って、もう三年半も育ててくれた。そんな竜二を試すようなことをした。竜二は本当にいい人だ。たぶん虎之助の次に信頼できる人だ。あの人は麟を裏切らない。虎之助を裏切らない。だから麟はあの人に報いる必要がある。


 果たしてそうか? 嘘だろう? この世界の男は、虎之助を除いては、いいや、虎之助でさえも、お前を殴るために存在している。そう思っているだろう。裏切るんだ、皆麟、お前を裏切る。実の母親でさえ、お前を裏切ったじゃない。いいや、裏切るも何も最初から――



「畜生!」

 虎之助が叫ぶ。

 それは七月に行われた県大会が終わった後の話だ。

「そう荒ぶるな、来年絶対に勝つんだ」

 橘先輩が虎之助を宥めた。

「そうっすね……ていうか、すいません、俺達馬鹿でした。先輩たちの言う事全然聞いてなくて……」

 心底悔しそうに、虎之助は言った。

「いいさ、私も橘もお前達より遅いんだ」

 江崎部長が、これもまた心底悔しそうに言う。

「来年は絶対、勝ちます。インハイ、行きますし、優勝します、なあ麟」

 虎之助が麟の肩を揺すった。

「あ、うん。絶対勝つ、今日悔しかったもん」

(そうだ、うちは負けた)

 意識が白濁としていた。状況を徐々に理解する。

 そうだ、インハイへの出場切符を逃したんだ。とても悔しい思いをしたんだ。

 あれだけ飛んだのに……いや、ペース調整が出来ていなかった。正直調子に乗っていた。先輩たちの言う事なんぞ無視していた。六人チームレースの競技に二人で挑んだようなものだ。勝てる道理がない。

 その時は、麟は幸福を感じていた。

 大好きな虎之助と同じ学校だ。クラスは違うが同じ部活で、いつも一緒だ。先輩たちもいい人だ。それにクラスで友人もできた。ようやく自分に決定づけられた不幸な運命などという考え方を忘却しつつあった。

 竜二にも感謝をしていた。ここまで育ててくれてありがとう。だから麟は、いや麟と虎之助は魔法走で、竜二に恩返しをしようと思っていた。ゆくゆくはプロの道に入るのもありだと思った。だがとりあえずはインターハイ優勝だ。それを飾って、竜二を喜ばせるのだ。

 県大会に出場するという、その時点で、既に竜二は喜んでくれたっけ。麟はインターハイ出場がかなわなかったことを、竜二に報告するのが憂鬱だった。来年こそ絶対優勝を竜二に捧げよう。

 そう決意をする。

 麟は竜二を虎之助程ではないにせよ好いていた。

本当の父親として認めていた。

 その時は、幸せだった。



 記憶がおぼろげな頃。

 いや、物心がついた頃。

 いや、風見獅恩に殴られた頃。

 いや、いつも。

 麟は窓から雀を眺めて居た。鳥はいいな、と思う。羽ばたけばどこへでも飛んで行けるから。

 いつか自分も空を飛んで、そして誰もいない世界に逃げたい。そう思っていた。

 魔法と言う存在を知ってからは、父親と母親を異世界に飛ばし、自分一人になりたいと考えていた。だから必死で練習をする。テレビをこっそり見ながら……家の中に置いてあった本を読みながら……見様見真似で。

 でも無理だと悟る。幼い自分には空を飛ぶことも、異世界に父親と母親を消し飛ばすことも、あるいは殺してしまう事も出来ない、と気づいた。

 所詮子供なのだから。



 高校一年の冬。その日は土曜日だった。

 虎之助も麟も家に居た。その日は虎之助が料理を作る日で、麟は少し憂鬱だった。虎之助の料理はおいしくない。よっぽど自分が作ろうかと思ったが、やめておいた。面倒だと思ったからだ。

 虎之助の悪戦苦闘を背中に麟はテレビを見ていた。

 時刻は七時くらいだろうか。その日竜二は休日出勤と言っていた。こういう事はよくあることだったが、大体、いつも夕方六時や七時ごろには帰って来た。だからそろそろ帰ってくるな、たまには三人でご飯食べようか。そんな話を虎之助としていた。

 高校に入ってからずっと、部活で遅くなる日が続いていたため、竜二と会う時間はめっきり減ってしまった。食事当番も、土曜日が虎之助で日曜日が麟で、平日は全部竜二がやってくれるようになった。

「帰ってこないね」

 麟が言った。独り言のつもりはなかったが、テレビと鍋の火の音にかき消され、虎之助には聞こえて居ないようだった。

 その時家の交信機が鳴る。交信魔法の術式が組み込まれた固定型交信機だ。虎之助は料理に夢中だったため、麟はテレビを消して受話器を取った。

「もしもし、風見です」

「もしもし、風見さんの御宅? 君は……竜二の奥さん、ではないよね? 娘さんか?」

 聞き覚えのない声だったが、おそらく竜二の会社の人だろうと麟は考えた。

「そうです、娘です。父が何か?」

「家の人は、他にはいないのか?」

 変な事を聞く人だ、と思った。もしかして何か怪しい交信か? 麟は身構える。

「弟が居ますけど」

「三人家族か? 祖父母は居ないのか?」

 その声は興奮しているように感じられた。

 やはり何か怪しい。交信を切ろうかなとも考えた。

「そうです、三人ですけど……何か?」

「そうか……なら、弟さんも今そこに居るなら、今すぐ、家を出てタクシーに乗って、病院まで来てくれ。病院は――」

 病院?

 男は病院の名前を継げた。福岡市内の中央区にある病院だという。父の会社の近くの病院だった。全てがスローモーションとなる。頭が真っ白になる。意識が白濁とする。



 やっぱりね、裏切った。


 竜二は仕事中に血を吐いて倒れたらしい。夕方六時の事だった。同僚が病院まで連れて行ってくれたらしい。

 気づいたら麟は病院の前に居た。

 麟はその間の記憶がなかった。交信を貰って……その先の記憶がない。タクシーを使ったのか、それとも走って行ったのか。

 病院の入り口ではその同僚の男が待っていた。

「竜二さんは!」

「三○七号室だ!」

 男が叫ぶように言った。

その言葉を聞き、虎之助と麟はわき目もふらず病室へ急ぐ。

 病室は個室だった。中に飛び入る。

「竜二さん……無事なん?」

 その姿を見て虎之助は安堵の息を吐いた。

 やつれているように見えるが、元気そうにも見えたからだ。血を吐いたと聞いたので、その表情に安堵した。

「おお、すまんな、虎之助、麟」

 竜二は笑った。

 でもそれは嘘の笑顔だった。

 竜二は、それから泣いたのだ。謝罪をしながら、彼は泣いたのだ。



 簡単に言えば竜二は(がん)だった。

 その日、彼は全てを話した。

 胃癌だ。発見は四年ほど前の話。麟と虎之助を引き取ったあたりだ。

「すまんな、俺嘘ついとった。お金に余裕があって、お前らを引き取ったのは本当だし、運命と思って引き取ったのも本当だ。でもな、俺は寂しかったんよ。だから二人を引き取った。俺は四年前に、余命三年と言われた。末期やった。その時すでに病院で、治療受け取ったんや。薬飲みながら、治療受けながらだましだまし生きとったけど、もうだめみたい。余命三年と言われたけど、もう四年経って、結構長く生きた、けどもう無理。もって一年、早やければ半年って医者が。すまん、ごめん、許してくれ。俺は……寂しかった、寂しさを埋めるためにお前たちを引き取った。妻も子供もおらん俺だった。このままあと数年で、何も自分の生きた証を残さず死ぬと思うと、怖くて怖くて、悲しくて、だからお前たちを引き取った」

 治らないの? 虎之助が訊く。

「無理やな……抗がん剤は飲みたくないし。魔法療法も、やってるんやけど、所詮、痛みを和らげたり、延命したりそれくらいやな。もう、俺は死ぬ、すまんな……」

「何でだよ」

 虎之介が激昂する。麟はただ呆然としただけだった。

「何でやろう……」

 竜二は、そう悄然と呟いた。

「嘘でしょう?」

 麟はそう呟く。

「嘘だと言って、嘘だと……!」

 泣きながら、麟は叫んだ。

「ごめんな……お金のことは心配せんでええから。保険で結構お金手に入るから……だから」

「要らねえよ!」

「要らない!」

 虎之助と麟はほぼ同時に叫ぶ。

「お願い、死なないで」

 麟は竜二に縋りついた。

 竜二は困ったような顔をして、そして涙を流す。

「うん、俺も死にたくはないな……俺は虎之助と麟が好きだ。虎之助は俺の甥っ子だし、麟は、親戚の子ですらなかったけど……俺にとってお前らは娘と息子のようなもんだ、たった四年間だけれども、俺は……」

「俺にとっても、竜二さんは父親だよ。俺の親父は、獅恩なんて糞やろうじゃない、竜二さんだけが俺の父親だ」

 そうだね。虎之助の言う通りだ。

 麟にとっても、竜二は父親だ。


 でも、彼は裏切った。ソイツは死ぬんだよ? 麟の心の中で、誰かがそう嘲笑う。



 何キロ走っただろうか。

 いや、飛んだだろうか。

 虎之助のべたべたな腕。それがねっとりと、力強く絡みつく。

「虎之助、あとどれくらい?」

「半分だ、十二キロ」

「先輩たちは?」

「後ろに居るよ、ついて来とる」

「ふうん」

 この勝負ごときに負けるわけにはいかない。インハイでも当然負けない。

「大丈夫、麟、俺達はもう負けない。そうだろう、負けるわけには行かない」

「うん、大丈夫。うちらは最強最速のコンビやけん。負けん、負けるわけない」

 麟は力強く頷く。

 そう、今年、インターハイで優勝を飾るのだ。

 そうしなければ、もう機会はない。

 竜二は今、病院で闘病生活を送っていた。もはや満足に歩くことも出来ず、今年の夏、越せるかどうか分からないと医者は言っていた。

 だから、今年、今年の夏、優勝するしかないのだ。優勝し、優勝を竜二に捧げるのだ。


 あの裏切り者に?


 違うだろう。竜二は、麟の事を、虎之助のことを愛している。


 違うよ、彼は裏切った。

 違うだろう。世界はそれほど酷くはない。虎之助と出会って、竜二と出会って、不幸な事など何もなかったではないか。


 違うよ、竜二は裏切ったじゃん。


 麟が目の前に居た。麟の目の前にいた。彼女は小さな女の子だった。その全身には痣があった。右足には針が刺さっていた。


「煩いな」


 麟は笑った。少女の麟を笑った。違う、お前はうちやない。うちは風見麟や。運命なんて糞くらえ。愛すべき虎之助がおって、愛すべき竜二がおって、その竜二が死に至る。悲しいことだけれども仕方がない。だから精一杯、竜二に勝利を捧げるのだ。それだけやん! 麟は心の内で叫んだ。だから、もういい。裏切るとかそういうの、もういい。

 そう叫ぶと、少女の姿がふっと消えた。

 そう、今年、絶対に竜二に勝利を捧げるのだ。そうしなければ、もう二度と竜二に恩返しが出来ない。この五年間の恩返しをする機会を逸してしまう。本当はずっと竜二の側に居たい。最後のひと時まで、竜二と虎之助と三人一緒に暮らしたい。

 でも決めたのだ。勝利を、一位を捧げると決めたのだ。

 だから、インターハイで負ける訳にはいかず、まただからこそこんな部内のレースで負けるわけにもいかない。

 上空、二十メートル。麟と虎之助は抱き合って滑空する。

 眼下に広がる家々――それらの景色が矢継ぎ早に変わる。

 そして。道の上に、這縋(はいすが)る江崎部長と橘副部長。

 たとえ部内の先輩でも、負けるつもりは毛頭ない。

「スピード上げるね」

 麟は決然と言い、それから速度を上げた。あと十キロ。それでゴールだ。

 その時、虎之助と麟に巨大な影が差したのだ。


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