第二章 三
蛤に、ことのいきさつを説明する。
野狐は、昨日あの場に居なかったから、日向子が横から補った。
どうにかぼんやりとは伝わったようである。
『そういうこと』
伝わったのならば、断らないだろう。
そう思い込んでいる野狐は、思わず身を乗り出す。
『だから――』
しかし、その勢いは全てを言い切る前に挫かれてしまった。
『駄目。あの人との約束があるのよ』
あの人、と言うだけで名は出てこなかったが、野狐にはそれで誰だか見当が付いたようだった。
『……もう相手は死んだだろ。大目に見ろ』
『そうはいかないわ。台所に入って良いのは、私だけ』
『……旦那が嫁を貰ったらどうすんだよ。例えば、ほら。ヒナコが嫁に来たら。そうなったら、今のうちに』
野狐としては、これ以上はない、蛤を頷かせるためのはったりだったのだろう。
しかし、蛤は呆れをこれでもかと訴えるような溜息をついた。
『あなたねえ。桐彦さんがお嫁さんを貰っても、台所に立つのは女中でしょう。つまり、私よ、私』
『いや、でも、お前。旦那が嫁貰ってもここに居座るのかよ』
『居座るなんて人聞きの悪いこと言わないで頂戴。そもそも、この家に嫁ぐのなら、家業のことは知っているでしょう』
それは正論で、無理を通そうとする野狐は何も言い返せなくなった。
『あの桐彦さんのことだわ。何か考えがあるんでしょう』
『……やけに旦那を持ち上げるんだな』
『愛想はないし、口も悪いし、相談の選り好みもするけど、腕は良いもの。あんたと違ってね』
『うるせえ。今度七輪で焼いて食うぞ』
『桐彦さんに怨まれてもいいなら、そうなさいな。私の手料理が食べられなくなると、もっと機嫌が悪くなるわよ』
『その方が、ヒナコが台所に入れるから良いかもしれねえなあ』
「そんな、駄目ですよ、野狐さん」
恐ろしいことをしかねない様子に、慌てて止めに入る。
止められた野狐は口惜し気に歯噛みし、蛤は得意気に笑った。
『ごめんなさいね、日向子さん。台所を追われると、私も行く所がないの』
「いえ、そんな。私も、蛤さんみたいに美味しい料理は作れませんから」
『可愛いわあ。素直なのは良いことよ。今日の夕餉は腕を振るうからね。楽しみにしておいてちょうだい!』
蛤はひらひらと手を振り、戸を閉めた。
『ったく、融通のきかねえ女だな』
戸に向かって野狐が悪態をつく。
蛤にも聞こえているだろうが、戸が開くことはなかった。
代わりに、蛤の弾んだ声がする。
『化け狐ちゃん、今日は何も食べなくて良いのね』
それを聞き、さあっと野狐の顔が青くなった。
『ま――待て、蛤!』
縋るように戸を叩くが、蛤はそれ以上何も言わない。
『飯……飯が……』
野狐は声を絞り出しながら、戸を引っ掻くようにして崩れ落ちる。
その背中が酷く悲しげで、何か声を掛けなければいけない気持ちにさせた。
「野狐さん、私の夕餉を半分ずつしましょう」
量は少ないが、ないよりもましだ。
顔を上げた野狐の目は、つい今しがたまでの悲壮な声が嘘のように輝いていた。
『良いのか? 良いんだな? 本当に食うぞ?』
「はい。お腹が空くと辛いですから」
聞いているのかいないのか、日向子の手を握り何度も上下に振る。
確かに、食事抜きは辛いものだから嬉しい気持ちも分かる、と納得しかけたが引っかかるものがあった。
「そういえば。あやかしも食事をするんですね」
言葉を喋る、食事もする。矢張り、人間と同じではないか。どこが違うのか。そう思うのだが、当たり前だと一笑に付された。
『猫も犬も、朝昼夜、食うだろ。稲も、水がねえと枯れちまう。あやかしだって、飯くらい食うさ』
「確かに、それもそうですね。皆、私達と同じものを食べているんですか?」
『俺様は、人間と同じものを食うけどな。あやかしの飯はそれぞれあるもんさ。例えば、蛤は飯は作るが食いはしねえ』
「じゃあ、何を食べるんですか?」
けれど、その先の答えを用意していなかったらしく、首を傾げる。その後に続いたのは、
『海の水……か?』
そんな、曖昧な返事だった。
兎にも角にも、あやかし、と一口に言っても様々なのだ。
食事だけでもこんなに違う。
感心する日向子だったが、じろりと野狐に睨まれていることに気付いた。
「な……何か」
『それで』
「はい?」
『飯の支度をあっさり譲っちまったが』
「私、あんなに美味しい料理、作れません」
不味い料理を出せば、それこそ即刻出て行けと言われかねない。蛤から断ってくれたのは、寧ろ幸いだった。
『そこは、押し切れば良かったんだ』
あそこで押し切って日向子が作ったとする。
すると今日の夕餉は日向子が作ったものになる。
野狐も食べるだろう。
間違いなく後悔していた筈だ。
料理の腕がどの程度か、知らないからこそ言えるのだ。
だが言った所で、また、やってみなければ分からないと押し切られそうだから黙っておく。
一度も包丁を握ったことがないのだ、やってみなくとも分かることはある。
「それに、誰かとのお約束もあるようでしたから」
そう。最後まで名前は出なかったが、あの人との約束があると言っていた。
『ああ……あれなあ』
少し渋る様子を見せはしたが、ややあって、仕方ない、と諦めるように呟いた。
矢張り、知っているのだ。
「あの」
『うん?』
「あの人って、誰ですか?」
蛤の居ない所で勝手に聞いてもいいものかとも思ったが、興味の方が勝ってしまった。
ちらりと、蛤を伺うように戸を見る野狐に、慌てて言い添える。
「いえ、その、無理に聞こうと言う訳ではないので」
『皆、知ってることだから気にすんな。蛤も、ヒナコが気になるように思わせぶりに言ってんだ』
それで、少し気持ちが軽くなった。
『先代のことだよ。俺様も聞いた話だがな。蛤の奴、惚れちまってんだ』
先代――つまり、桐彦の祖父のことだったか。
すると、それは――どういうことだ?
「先代に……というと、蛤さんは……奥さま?」
惚れている、とは矢張り夫婦だったのだろうか。
桐彦の祖父の妻となると、つまり。
「つまり――……黒瀬さんの、お祖母さま?」
ならば、桐彦は人間とあやかしとの孫となるのか。
必死に関係を整理する日向子の横で、野狐は可笑しそうに肩を震わせていた。
『どうしてそうなるんだ。連れ合いを亡くした先代に、蛤が勝手に惚れただけだ。旦那は人間だよ』
そうなのか。
『先代と蛤が、どんな風に知り合ったかは聞いてねえけどな。旦那がまだ小さい頃から、ずっとこの台所で飯を作ってるって話だ』
桐彦にとっては、幼い頃から慣れ親しんだ味なのだ。
あそこで押し切らなくて良かった。
『それよりも――だ。どうする? もう諦めるか』
そうだった。
元々は桐彦へ、日向子はこんなに役に立っているのだと示すことが目的だったのだ。
他に、何か方法はあるだろうか。
答えあぐねる日向子の横で、野狐が不貞腐れた声を上げた。
『俺様は嫌だぞ。ヒナコが出て行くの』
かといって、どうすれば良いのか。
日向子に何かできるとは思えないが、しかし折角野狐が考えてくれた案に対し、無理だできないばかりを繰り返すのも申し訳なくなってきた。
戸の前を離れ、とぼとぼと歩く。
日が沈んであやかしが集まる座敷に来て――名案を思い付いた。
「掃除! 掃除をします!」
これならば、料理よりも上手くいきそうだ。勢い込んで言ったものの、野狐は興味もなさそうに、ふうん、とどうでも良さそうな反応を示した。
それは良い、早速取り掛かろう、と応じてくれると期待していたから、興味の薄そうな返事はどうして良いのか困ってしまう。
「良いと思いませんか? 掃除」
同意を得るために、再度伝える。
『良いんじゃねえのか?』
相変わらず、どうでも良さそうな言い方に変わりはなかったが、気にしても仕方がない。
「でしょう?」
腕を捲り、さあやるぞとやる気を見せた。
『ただ、いくら頑張っても、旦那は気付かねえと思うが』
野狐の視線に促され、座敷を見る。
それで、ようやく乗り気でない理由が分かった。
そこは塵一つ落ちていなかった。
一気に燃え上がった気持ちは、落ち着くのも早い。
毎日見ているのに気付かないというのもどうかしているが、当たり前すぎたのだ。
「……そうですねえ」
そうとしか答えられない。
「これも、蛤さんが?」
『あいつも、しようと思えばできるんだが――これは、別だな。埃やら塵やらを飯にしてる奴らだ。今も、そこいらで食ってるよ』
視線の先をたどってみるが、埃一つない綺麗な床の間があるだけだ。
野狐の言うあやかしの姿は見えない。
昨日、桐彦が言っていた、野狐たちとは違う元の姿がないあやかしなのだろう。
この家は、本当に様々な者が暮らしているのだ。
日向子も知らず知らずのうちに世話になっていた。
『皆、旦那が小さい頃からここに居る奴らだ』
「そんなに昔から……」
『愛想もねえし口も悪いけど、孫みてえで可愛いんだろうな。蛤も、何だかんだで甘やかしてやがる』
そうだろう。
そうでなければ、毎日食事の支度をしてやろうとは思わないし、部屋を綺麗にしてやろうとも思わない。
『だから、旦那がヒナコを連れて来た時は大喜びだったんだぜ』
「私を?」
『滅多なことじゃ他人に興味を持たなかった旦那が、人の、しかも女の子を連れて来たって』
「でも――……」
結局、家から出そうとしている。顔を伏せた日向子の背を、野狐が力一杯叩く。
『何て顔してんだ。皆、ヒナコに居て欲しいんだよ。言わないだけで』
言わないだけで。
それは、桐彦も同じだろうか。
役に立つなら、置いておこうと思ってくれるだろうか。
野狐の言葉のおかげか、単に顔を上げたからか。
視界が一気に広がった気がした。
座敷には、箪笥と文机が置かれている。
床の間には、活けられたばかりの紫の花。
はっとなり、野狐に向き直る。
「箪笥の位置を変えると、気分も変わりますよね」
見える景色が変われば、気分も変わるだろう。そして何よりひと目で分かる。
『なるほど。それは良いな』
野狐が乗り気になってくれた。これで怖いものなしである。




