第二章 二
膳を下げ、広縁を覗くと、野狐がぽつんと座っていた。
その背を見るだけで、不貞腐れているのが伝わってくる。
黙って、隣に座った。
ちらりと見ただけで、何も言わない。
暫くの沈黙の後、拗ねた声で問われた。
『……良いのかよ』
行儀見習に行くことか。
良くはない。
だが――。
「仕方ありませんから」
どうしようもないではないか。
そう言い聞かせ、納得するしか手はないというのに。
『諦めるのか?』
その言い方が腹立たしい。
まるで、日向子が何もしていないように言う。
昨日、あの場に居なかった野狐が言えるのか。
つい、語調が荒くなる。
「嫌だって言いました。でも、聞いてくれなかったんです。仕方ないじゃないですか」
“何を考えているか分からない”桐彦なのだ。
それを野狐だって充分、分かっているだろうに、無茶を言う。
『そんなの、無理矢理頷かせるもんだろ。俺様だって、付いて来るなって言われたのを、無理矢理付いて来て、居座ったんだ』
野狐はそれで良かったのかもしれないが、日向子がそんなことをしては、桐彦の機嫌を損ねるだけではないか。
『大体、あのガキ。俺様をそこいらのけものと同じように扱いやがって……』
結局は、実能が気に入らないのだ。
野狐らしくて、笑ってしまった。
ぶつぶつと不満を呟いた後、何を思い付いたのか日向子に向き直る。
『行儀見習いなんざ、行かせねえからな』
「いや……でも」
『絶対、行かせねえ。あの坊主の良いようにさせてたまるかってんだ』
「ここに居ては、黒瀬さんに迷惑をかけるでしょう?」
『迷惑? 何でだよ』
「私、何も出来ないし……だから、行儀見習いで家から出そうっていうことだろうと」
だから、これ以上恩を仇で返すようなことにならないため、行くのも止むなしと思い始めていた。
『何も出来ねえのは俺様も一緒だ。でも、一度も出て行けなんて言われてねえよ』
「それは、野狐さんが役に立っていないと思っているだけで、実はとても力になっているのではないでしょうか」
『そんなことあるか。大丈夫だって。ヒナコはここに居て良いんだ』
そうはっきり言ってくれるのは野狐だけだ。
今までそう言ってくれる者は誰も居なかったのだから喜ぶべきであるのに、どこか寂しく引っ掛かる。
他でもない、桐彦に出て行けと言われたからだ。
「ありがとう……ございます」
『俺が何とかしてやる。大船に乗ったつもりで居て良いからな』
「でも……」
桐彦が何と思うか。中々、首を縦に振らない日向子に、野狐の堪忍袋の緒が切れた。
『ここに居てえんだろ? だったら黙って付いて来い!』
「は――はい……」
もう、頷くしかなかった。それを見て、野狐は満足気である。
「で――……では、早速。どうしましょう」
何か案があるのだろうと訊ねてみたが、野狐の目が泳ぐ。
『あ――……あ――……』
しばらくの後。
『とりあえず、今日は休みだからゆっくりしようぜ』
そんな経緯で、明日へ持ち越しとなった。
何をするでもなく一日が終わり、床に就いた。
野狐が力になると言ったが、果たして上手くいくものか。
そもそも、あの桐彦の考えを変えられるとは思えない。
答えの出ないことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
何もしていないのに気ばかりが張っていたのか、夢も見ないほどに深い眠りだった。
名を呼ぶ声に、起こされた。
『ヒナコ、おい。ヒナコ、起きろって』
目を開けると、野狐の顔がぼんやりと見える。
何度かの瞬きの後ようやく輪郭を結んだ。
「もう、夕餉の時間ですか?」
まだやけに眠い。
のそのそと身体を起こし、欠伸を噛み殺しながら訊ねる。
すると、呆れた声が返ってきた。
『食い意地の張った奴だな。違うよ。まだ旦那も起きちゃいねえ』
外を見ると、なるほど。
確かにまだ日は高い。眠い筈である。
「でしたら……」
何故、と問い掛ける言葉を飲み込む。
全てを誰かに訊く前に、少し考えろ、と桐彦はいつも言っていた。
言われるままになるな、と。それを思い出したのだ。
何故、野狐がいつもより早い時間に起こしに来たのか。
何か問題でも起きたのか。だが、それにしては落ち着いている。
ぼんやりする頭に活を入れ考えてみたは良いが、答えは出ない。
日向子の眉間の皺が増えた辺りで、野狐はにんまりと笑った。
『ヒナコが行儀見習なんぞに行かなくて済む良い方法を考えた』
それで一気に目が覚めた。
「ど、どんな方法です」
『旦那は、ヒナコが世の中を知らねえから行儀見習に行かせるって言ってんだろ』
「そうです」
『だったら、これだけ知ってんだって所を見せりゃ良いだけだ。役に立つ所を見せるんだよ』
「役に……立つ、ところ」
『そうだよ。そうすりゃ、旦那も考えを変えるだろ』
役に立ちたい。
行儀見習を抜きにしても。
桐彦に受けた恩を、少しでも返したい。
そして欲を言えば必要としてもらいたい。
しかし、気持ちだけではどうにもならないことはある。
「私に、できるとは思えません……」
『やってみる前からそんなんで、どうすんだ』
「でも」
自分のことだ。
できること、できないこと位は分かっている。
躊躇う日向子は気にせず、野狐は押し切るように続ける。
『この家の飯は、誰が作っているか知ってるか?』
「女中さんを雇っているんでしょう?」
それにしては姿を見たことがない。期待通りの答えだったのだろう、野狐の口は三日月を作る。
『旦那が、人間の女中なんざ雇うかよ。まあ――百聞は一見に如かず、だな。さっさと着替えて台所を見てみようぜ』
急かされながら着替え、階下に下りる。
家の中は、いつもと雰囲気が違っていた。
昼間と夕方と、少し時間がずれるだけで別の家に迷い込んだかのようだ。
目的の台所は、戸が締め切られていた。
他者が足を踏み入れることを頑なに拒んでいる。
「誰か居るんですか?」
『まあ、見てろって』
得意気に言うと、戸を乱暴に叩いた。
『おい、蛤。飯作ってんだろ?』
そう呼びかけると、戸の向こうで物音がした。
『え…え? もう、桐彦さん起きたの?』
聞こえたのは、艶やかで甘い女の声だ。
初めて聞く声である。
口ぶりから察するに、野狐は声の主を知っているのだろう。
蛤、と呼んでいたが。
まだ日向子が口を出す時ではない。
黙って成り行きを見守る。
野狐は女への返事もそこそこに、戸に手を伸ばす。
『違うよ。ちょっと開け――』
『やめて』
開けようとしたその刹那。女は鋭い声でそれを制した。
『今、夕餉の支度をしてるの。開けないで』
戸の前に移ったのだろう。
声が近くなる。
一枚、戸を隔てているというのに迫力があった。
気圧されて、野狐が後退る。
『いや、話を聞けって蛤。ちょっと、台所の隅を貸してくれりゃあいいんだって』
怒る所ではないだろう、と野狐なりに落ち着かせようとしたのだが、逆効果だった。
『どうして? 食事の支度は私の仕事よ。手を出さないで。大体、半人前の化け狐が何を作ろうって言うのよ』
刺々しい声が返ってきた。
下手に出ていた野狐だが、表情が強張った。
言い返す声は、震えている。
『お前……さらっと馬鹿にしやがったな』
『あら、違って?』
言い返そうと口を開きかけたが、ぐっと言葉を飲み込んでいる。
『俺様じゃねえよ。ヒナコが作るんだって』
それまで黙ってやり取りを聞いていたから、この時も聞き流しそうになった。
野狐が作るのではないのか、そうかそうか――と、そこでようやく気付く。
「え――……え? 私ですか? 私が料理をするんですか?」
『当たり前だろ。誰のために考えたと思ってんだ』
「そんな、無理です。無理に決まっています」
台所に連れて来られたのだから、落ち着いてよくよく考えれば分かったのだろうが、野狐に全てを任せすぎていた。
『大丈夫だって。旦那、味に煩くねえから。いつも黙って食ってるだろ?』
それは、出されたものが美味しいからに決まっている。
日向子たちのやり取りをよそに、戸の向こうはしんと静かだった。
耳を欹てると、ヒナコ、ヒナコ――と呟きが聞こえる。記憶を辿っているのだ。
『……あ、この前来た子ね?』
そう言って、あれだけ嫌がっていたのが嘘のように、勢い良く戸が開いた。
とは言っても顔を覗かせるだけの隙間だったが。
戸の向こうに居たのは、垂れた目元にある黒子が艶かしい女だった。
色白の瓜実顔で、少し開いた、ぽってりとした唇は、あの甘い声が紡がれるのも納得がいく。
先日の、首の長い女とは違った色気があった。
『挨拶しないままだったわ。ごめんなさいね。いつも美味しく食べて頂いてありがとう。蛤と申します』
女――蛤は細い首を傾げるようにして会釈をした。
何か理由があるのか、戸は少し開けてあるだけだが気にはならなかった。
そんなことよりも、所作が少女のように愛らしくて見惚れてしまう。
『こいつが、毎日飯を作ってくれてるんだ。光見えても、齢百は超えてんだぜ』
『失礼ね。年寄りみたいに言わないで頂戴』
『婆ァじゃねえか。あやかしの婆ァ。なあ、ヒナコ。――ヒナコ? おい』
野狐に肘で小突かれてやっと、我に返った。
「あ。は――……初めまして、飯守日向子です」
蛤は嬉しそうに、日向子さんね、と名を呼んだ。
その挨拶の後で、野狐が堂々と言う。
『こいつが、このヒナコが旦那の夕餉を作るんだよ』
『女中にするの?』
『そんな訳あるか!』
否定は、素晴らしく早かった。
『そういうのじゃなくてだな。ヒナコを、この家に残らせてやりてえんだよ』
『どういうこと?』
首を傾げて蛤は理由を求める。
野狐は黙って日向子を伺った。
話して良いか、と訊ねているのだ。
日向子では巧く説明ができないだろうから、代わってもらった方が有難い。
促す意を込めて頷いた。




