第二章 一
何度目になるかも分からない寝返りを打った。
その度に布団は身体に絡まり、いつの間にかその姿は大きな蓑虫のようになっていた。
いっそのこと、蓑虫になってしまった方が楽なのかもしれない。
一生蓑に包まって生きていけば、嫌なことからも身を守れる。
いや、あの姿から成長するのだったか。
最後には蓑から出なければならないが――だが、どちらにしろ行儀見習なぞに行かなくて良い。
あれから――と、思い出す。
あれから。
桐彦は日向子の希望を受け入れてはくれなかった。
実能も、件の女をどうにかしてもらえるならと、耳を傾けようとしない。
日向子をそっちのけで話を進めている。
もう、何を言っても話を止めることはできそうにない。
黙って座敷を出た。誰の顔も見たくなかったから、与えられた部屋に篭った。
押し入れから布団を引っ張り出し、包まる。
嫌なことがあると、いつもこうしていた。
周りの声から耳を塞ぎ、涙を流す。
泣き声も涙も、布団が吸い込んでくれるのだ。
そのまま眠りについて――目を覚ませば、忘れている。
だからきっと大丈夫だ。
そう思ったのだが、いくら泣いても眠れなかった。
しばらくして、襖の向こうから桐彦の声がした。
「どうした。挨拶もせず出て行くものじゃない。……あれでも客だ」
「……」
相手がどう思うかを考えろと言ったのは桐彦であるのに。
少しも分かっていない。
返事もせずにじっと黙る。桐彦は襖を開けたようだった。
「起きているんだろう」
「……」
しばらく待っても返事はしなかった。桐彦は仕方なさそうに言う。
「話をしても、聞いては貰えないんだろうな」
何を言おうとしているか知らないが、しかしあまり良いことではない気がした。
大仰な溜息の後で襖が閉められた。
桐彦も苛立っているのかもしれない。
日向子が思うように動かないから。
役に立たないのに、ここに居たいと言うから。
ここが居場所と勘違いして。
確かに、役に立っている自信はなかったが、それでも足手まといにはなっていないと思っていた。
これから少しずつ慣れて、役に立てるようになる筈だと。
――本当に、役立たずね。
美夜子が笑っていた。
憐れむように、こちらを見ている。
可哀想に、勘違いしてしまって。
言葉にこそ出さないが、そう言わんとしていることは伝わってくる。
――だから言ったのよ。貴女が決めると、ろくなことがないって。あのまま、家に居れば良かったんだわ。
それは分かっている。
だが、あの場では決めなくてはならなかった。
もう、美夜子は居なかったのだから。
あのまま家に居たところで、今よりも良くなっていたとは思えない。
親族と名乗る連中に売られていた筈だ。
桐彦の誘いに頷く他は、どうしようもなかった。
怖かったのだ。
右も左も分からない時に差し出してくれた手に縋ってしまうのは日向子だけではない筈だ。
美夜子だってそうしていただろう。
無理矢理に手を掴むでもなく、どうするかと問うてくれた。
その問い掛けは少々強引ではあったが。
他に、どうすれば良かったと言うのだ。
その思いは、言葉にしていないのに美夜子に伝わっていた。
――そんなこと、簡単じゃない。
柳の枝のように、美夜子の手がふわりと動いた。
日向子の頬に触れようと、伸びる。
そうして、耳元に唇を寄せて、囁く。
――私と一緒に、
『ヒナコ』
何度も名を呼ばれている。返事をしては、連れて行かれてしまう。美夜子に――。
『起きろって言ってんだよ!』
「は――はいっ!」
陰鬱な気持ちに活を入れる大音声に、勢い良く跳ね起きた。
青年の姿の野狐が、見下ろしている。
美夜子ではなかった。
ならば、美夜子はどこに――と辺りを見回してようやく、あれは夢だったのだと分かった。
いつの間に眠っていたのだろう。
『どうしたんだよ』
「夢を、見ていて」
『夢ェ? 目出度えな、人間は』
その口ぶりに、ああ――彼は、人ではないのだったな。
そう思ったが、しかし怖くはなかった。
人ではなかろうと、野狐は野狐だ。
『ひっでえ顔だな。目が真っ赤だ』
野狐の指先が、日向子の涙を拭う。
以前は、こうして慰めてくれる誰かは居なかった。
ここを出てしまえば、またその頃のように一人になるのだ。
暖かさに、また視界が歪む。
『また泣くのかよ。飯だぞ。さっさと身支度をしろ。俺様は腹が減ってんだ』
確かに、身体は空腹を訴えていた。だが――。
「どうして、今日は待っていてくれたんですか?」
いつもならば、好きな時間に夕餉を済ませる野狐である。
早かったり遅かったりとまちまちで、日向子を待つなど今までになかった。
それが、今日に限ってどうしてしまったというのか。
みるみる渋い顔になる。
だが、返答はなかった。
『……来てみりゃ分かる』
それだけである。
それ以上の追求を許さぬ雰囲気に諦め、布団の蓑から這い出た。
居間に下りてみて、なるほど、野狐が渋い顔をしていた理由がすぐに分かった。
実能が膳の前に行儀よく正座をしていたのである。
今日も仕立ての良さそうな洋装を纏っている。
ここに居るのが当たり前のように振舞っているが、しかしそんな筈がない。
おかしい。
何が何やら分からずにぽかんと突っ立ったままの日向子に、実能が一瞥をくれる。
「いつも、こんな時間まで寝ているのか? 僕の家は朝が早いんだぞ」
居て当然を通り越し、既に雇い主然としている。
「どうして、あの子が居るんですか」
野狐の袖に縋り付く。必死に揺すって問い質すが、迷惑そうに振り払われてしまった。
『俺様に聞くなよ。旦那が入れたんだ』
早速、日向子を連れて行ってもらうようにと呼び付けたのだろうか。
野狐の陰に身を隠すと、それに気付いた桐彦が説明を加えた。
「昨日、話をする時間が足りなかったから、来てもらっただけだ。あんたを連れに来たんじゃない」
『連れに? ヒナコ、どこか行くのか?』
「夕餉が冷める。早く座れ」
『ヒナコ、おい』
「野狐もだ」
強く言われ、野狐も渋々膳の前につく。
食事の時はいつも静かだが、今日はそれだけでなく重苦しいものとなった。
ただ、その中において実能だけは違った。
「ここの味噌汁は、僕の家のものよりも遥かに美味しいな。出汁か。出汁が違うのか?」
味に感動したのか、嬉々として桐彦に訊ねている。
桐彦はただ静かに、さあ、とだけ返す。
野狐は実能が喋る度に苛々していた。
味噌汁ですら喉に詰まってしまいそうだ。
粗方食べ終えた頃、思い出したように桐彦が言った。
「今日は、木札を下げなくていい」
それは本当に思いもしなかったことで、だからすぐには返事ができなかった。
日向子よりも先に、野狐が訊ねる。
『どうしてだよ』
「坊主で手一杯だ」
そう言って、実能を見遣る。
ああ、そうなんだな、と軽く流す日向子に対し、野狐は顔色を変えた。
『旦那、こいつの相談を請けるのかよ』
「悪いか?」
『悪いに決まってる! たかが女と揉めてるだけだろうが』
「俺が決めることだ。それに、行儀見習の話を受けてくれたからな」
『行儀見習? 誰の』
桐彦は答えない。代わりに、日向子が恐る恐る返事をした。
「私、です」
『何でヒナコが行くんだよ。わざわざ、そんなことしなくても』
「世の中のことを知らなすぎる」
『何だよ、それ』
実能が気に入らないのと、何より自分が居ない間に決められたことが気に入らないのだろう。
野狐の怒りが爆発した。
『俺様は認めねえからな!』
だが、そんな怒りに対して桐彦は落ち着いていた。
「野狐」
『……何だよ』
「お前は、ここに来る時に言ったことを忘れたのか?」
『……』
黙りこんでしまった野狐に構わず、桐彦は更に続ける。
「何でも手伝う、腹芸は苦手だから用件だけを言い付けろ、と」
それに反応したのは、話し掛けられている野狐ではなく、実能の方だった。
「腹芸? まさか、行儀見習は何か裏があるのか?」
「いや。腹芸云々は、以前約束していた時に出てきた話だ。今は、関わりはない」
ふうん、という実能は納得した様子ではなかったが、しかしそれ以上の追求はなかった。
問い詰めても無駄だと気付いているのかもしれない。
『だけどよ、旦那』
「野狐」
名を呼んだだけで黙らせる充分な迫力があった。
野狐は唇を尖らせて、何を言おうかと言葉を探し――。
『絶対、認めねえ!』
そう言い残し、居間から立ち去る。
足音が遠ざかって、実能はちらりと桐彦を伺う。
つられるように、日向子も視線を向けたが、当の桐彦は我関せずといった風である。
「良いのか?」
「後で納得させる。何より、その女を放っておけないだろう」
「僕としては有難いがな」
早速、話を進めようとしている。
昨日、嫌だと言ったことも、ここを手伝いたいと言ったこともなかったことにされている。
もう、これ以上何を言っても変わる訳でもない。
仕方ない――のだろう。
食べ終えた膳を手に、微かな声で挨拶をして居間を出た。




