第一章 四
誰だと訊ねられた所で客のようだという他は日向子も知らない。
その場は適当に誤魔化して、隣の部屋に布団を敷いてやり、少年を寝かせた。
桐彦からは嫌な顔をされるだろうと思っていたが、案の定。
機嫌が悪いなどという生易しいものではなかった。
見ている此方が凍りつきそうなほど凶悪な目で少年を睨んでいる。
そして、先程と同じ問いを改めて投げてきた。
「誰だ、こいつは」
今度は逃げ場がない。
正直に答えるが、自信がないため語尾はみるみる小さくなる。
「お客様……かと」
通りで、ここは人の悩みを聞くのか、と訊ねられた。
恐らく客である。
ただ、名も素性も知らない。
曖昧に首を傾げると、今度はその鋭い眼光は日向子に向けられた。
思わず、背筋が伸びる。
姿勢を正していないというだけで小一時間は説教されそうな雰囲気なのだ。
「俺が覚えている限りでは、あんたはこの坊主と一緒に戻ってきたようだったが」
「少し、この子が先でした」
言った後で、ここは大人しく頷くべき所だったと気付いた。
揚げ足を取るなと怒られるかと身構えたが、桐彦は、大仰に溜息をついた。
「あんたが世の中を知らないことは承知しているつもりだ」
「はい……」
「それでも、来客があれば名くらいは訊ねるものだろう」
「……はい」
その位は、いくら何でも知っている。
だが、少年が有無を言わさずにずかずかと上がり込むまでの間に、果たしてそんな好機はあっただろうか。
記憶を遡ってみるが、なかったように思う。
桐彦だって、昨日は押し切られてしまっていたのに。
唇を尖らせたが反論はせず、ただ沈黙が続く。
少年の眉間が動いたと真っ先に気づいたのは野狐だった。
『坊主、目が覚めたか?』
諸悪の根源である少年が目を覚ませば、日向子が責められるだけの状況が改善されると思ったのだろう。
嬉々として訊ねる野狐であったが――ゆっくりと瞼を持ち上げた少年は、みるみる顔を青くした。
ぱくぱくと口を開き、途切れ途切れの言葉を吐き出す。
「し――しゃ……しゃべっ……」
『よしよし、起きたな』
「ば――化け物!」
そう言うと、目を覚ました少年は目の前の野狐に平手打ちをした。
いつもの、立派な体躯の野狐であれば、避けるなり少年の腕を掴むなりできただろう。
だが、今日はいつもと姿が違った。
野狐の元々の姿――野狐自身から聞いたのだが――である、白い狐であった。
疲れると、その姿になってしまうらしい。
最初こそ信じられなかったが、実際に目にすると疑う訳にもいかず、何度か見ている内に東京には色々な人が居るのだな、という程度にしか思わなくなってしまった。
野狐にとっては災難としか言いようがない。
少年の平手は見事に決まり、野狐は畳の上に倒れたのだった。
「な……何だ、こんな化け物屋敷とは聞いていないぞ!」
通りで会った時の余裕はどこへやら。
少年はひどく取り乱していた。
野狐はすっかり伸びていたし、桐彦は眉間の皺の数を更に増やしている。
これは、どこから手を付ければ良いのだろう。
少年を落ち着かせなければいけないし、野狐を介抱してやらなければいけない。
何が悪いかは分からないが桐彦に謝るべきなのだろう。
そして、他に気になっていることもある。
とても日向子一人では片付けられない。
一体どうすれば良いのか、物事の順序を決めることができない。
しかし、皆が皆、好き勝手に振舞っているのだから、少し位――という気持ちもあった。
気になっていたことを、誰にともなく訊ねる。
「化け物屋敷って、どういうことですか?」
水面に浮かぶ数多の波紋を消すには、大きな波紋を一つ作ってやれば良い。
日向子の一言で、場は取り敢えず静かになった。
静かになった代わりに、信じられないものを見たと言わんばかりの二人の視線が日向子に向けられる。
視線というものは形がない割に、刺さると痛いものだった。
桐彦からまた怒られるのかと思ったが、しかしそんなことはなかった。
むしろ、呆れられていると言った方が近い。
考えてみれば、化け物屋敷とはどういうことかと訊ねたくらいで怒られた方が理不尽である。
そう思うと、次第になぜこんなに萎縮しないといけないのかという疑問に繋がり、正体の分からない自信が満ちてきた。
そうだ、何もおかしなことは言っていない。
だが、桐彦は日向子の予想だにしないことを言った。
「俺は、自分の家が化け物屋敷と呼ばれていることくらい知っている。不本意ながら、半ば事実だからな」
「事実……?」
事実だというのか。
ならば、化け物がどこかに居るのだろう。
辺りを見回し、その“化け物”の姿を探してみるが、しかしどこにも居ない。
居るのは、日向子に桐彦、ようやく気が付いた野狐、そして少年である。
「お前、見えていないのか。それとも馬鹿か? さっき、お前に話し掛けていた女に――それに、僕に話し掛けた……ほら、こいつ!」
少年が指さしたのは、他でもない野狐であった。
布団から出て、野狐から距離を取るようにじりじりと後退している。
そう怯えなくとも、今でも充分に距離はあるのだし、そもそも取って食われる訳でもないだろうに。
そこまで怯える必要があるのか。
あんまりな態度に、呆れて笑ってしまった。
少年にとっては屈辱だったのだろう、目を吊り上げて怒る。
「聞いているのか?」
「聞いていますよ。でも、野狐さんを捕まえて化け物なんて失礼です」
「失礼なものか! 化け物に化け物と言って――」
「落ち着け」
どこまでも交わることのない少年と日向子の会話を止めたのは、他でもない桐彦だ。
「これが落ち着いていられるか!」
「黙らないなら、外でやれ」
有無をいわさぬ威圧感があった。少年はまだ何か言いたそうだったが、渋々黙る。
「二人には訊ねたいことが山ほどあるからな。俺が訊いたら、答えろ」
それ以外の発言は許されないのだ。
「いいな?」
低い声で確認を求められ、日向子は一も二もなく頷く。
少年も最初は渋っていたが、桐彦のひと睨みに屈し、頷いた。
「よし。じゃあまずは坊主、お前の名前だ」
「何だ、それが僕に名を訊ねる態度か?」
少年は、すっかりと調子を取り戻していた。
この場に居る者は皆、自分よりも下だと決めたようである。
ただ、年下が相手だからと甘くなるような桐彦ではない。
「俺は、名前を訊いたんだ。口答えしろとは言っていない」
これ以上従わなければどうなるか。
それを考えさせるよう促すには充分過ぎる迫力があった。
少年も、今度こそ本当に負けを認めた。
「都筑家嫡子、実能だ。ここには――」
「それはまた後で訊く。次に、あんた」
あんた、という言葉と共に人差し指が向けられた。
何かに引っ掛かり素直に返事ができなかった。
だが、返事をするまでは桐彦も先を続ける様子はない。
不貞腐れ、渋々返事をする。
「……はい」
「あんたは、この家に来て早々に馴染んだが……妙に思うことはなかったのか?」
「妙?」
思いもしなかった問いに、渦巻いていた不満はどこかに消えてしまう。
首を捻り考えてはみたものの、はてどこか妙なところがあっただろうか。
右に左と首を傾げてみたが、引っかかる所はない。
「もう、良い。分かった。あんたが馴染んでいるからって、説明しなかった俺も悪い」
それ以上考えなくて良い、寧ろ考えるなというように手で制される。
「ここが何かは、それくらいは分かっているな」
「当たり前です」
「言ってみろ」
そんな分かりきったこと、と思ったが、言えと促されるとたちまち不安になる。
桐彦を伺いながら、答える。
「困っている人の悩み相談を引き受けている……ん、ですよね」
自信たっぷりに当たり前だと言ったのが嘘のように、みるみる声が小さくなっていった。
「間違ってはいない。だが、文句なしとも言えない」
その他に答えがあるとは思っていなかったから、ぽかんと口を開けて呆けてしまった。
少しの間の後、問い返す。
「どこが違っていますか?」
「相手にしているのは“困っている人”ではない」
「そう……なんですか?」
しかし、訪れるのは皆何かしら悩みを抱えて困っていたように見えた。
しかし、実際はそこまで困っていなかったと言うのか。
「あんたのことだから、困っていない人を相手にしているのかと思っているだろう」
「え? 違うんですか?」
桐彦は溜息をついた。
「相手にしているのは、人じゃあない」
人――ではない。ならば、いや、しかし。
「でも、言葉を喋っていますよ」
「言葉くらい、鳥でも喋るのは居る」
一蹴されてしまった。聞き流しかけたが、今、桐彦は凄いことを言わなかったか。
「喋る鳥が居るんですか?」
「……知らないのか」
「知りませんでした。喋る……鳥。あ、でも。言葉を喋るなら、鳥じゃありませんよね。人なんですよね?」
「鳥だ」
すぐさま否定される。
「言葉を喋るのに、ですか?」
それでは鳥と呼べないだろうと思うのだが。
桐彦は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、体中の空気を全て吐き出してしまうような長く深い溜息をついた。
「あんたは、言葉を喋るなら人だという認識なんだな」
「違うんですか?」
「あんなに首が伸びる女が居るか」
横から口を挟んだのは、少年――実能だ。
「言葉は悪いが、坊主の言うことはほぼ正しい。――そうだ。あんた、野狐のことは何だと思っていたんだ」
何、とはあんまりな言い方だが。
「狐に化ける……人?」
みるみる自信が消え失せ、逆に問いかけていた。
「そんな人間が居るか!」
もう、桐彦は質問するだけで、間違いを指摘する役目を実能に譲ってしまっていた。
「こいつは、どう見たって化け物だろう。けだものの、化け物だ!」
『何だと坊主! お前、こっちが黙ってりゃあいい気になって……!』
「黙れ! けだものの分際で僕に歯向かうのか?」
『偉そうに。俺様を見て怖がったのはどこのどいつだ?』
「な――っ……じゃあ、僕に殴られて気絶したのはどいつだ!」
『うるせ――』
「うるさいのはお前らだ! ――来い、野狐」
桐彦は野狐を手招きする。
怒鳴られた手前、野狐も逆らえず膝の上に大人しく座る。
実能は歯をぐっと噛み、身を硬くしていた。