第一章 三
「夢みたいです」
『大袈裟だなァ』
しかし、本当に夢のようなのだ。
ほんのひと月前のことなのに、もう遥か昔のことに思える。
広く、薄暗い屋敷で、祖母はいつも妹の名を口にしていた。
――美夜子が居てくれさえすれば。飯守の家には、美夜子さえ居れば。
美夜子が居ればいい。
言い換えれば、日向子は必要ないということだ。
祖母だけではない。
屋敷内に人は大勢居たけれど、日向子を必要だと言う者は居なかった。
だからだろうか。
産まれた頃から住んでいるというのに、我が家だとは思えなかった。
広い屋敷には何でもあったが、ただ一つ。
日向子の居場所だけはなかった。
「前は、広いお屋敷の中で一日を過ごしていました。祖母は外に出ることを許してはくれなくて。時々、妹の美夜子が連れ出してくれましたが――……」
外出は、祖母によって禁じられていた。
村は怖い、危ない、だから屋敷の中に居なさい。
そう言われていた。
けれど、それでも外に出てみたいという思いは消えず、そしてそれは美夜子も同じであるようだった。
屋敷内が寝静まってから、誰にも気付かれないようこっそりと二人で抜けだした。
二人にとって、夜の散歩は唯一心の休まる掛け替えのないひと時だった。
けれど、それは時が経つにつれ、歪んでいった。
美夜子も、毎日が息苦しかったのだろう。
逃げ場のない籠の中で、溜め込まれていく鬱屈を吐き出す先は、限られていた。
――私の半身。
美夜子は、日向子をそう呼んだ。
姉と呼ばれることはなかった。
美夜子にとって、日向子は、敬うべき人でも、慕う人でもなく、目下の者であった。
――役立たずな、私の半身。
そう言って笑った美夜子。日向子とそっくりの顔に浮かべられた、ぞっとするような微笑みは今でも忘れられない。
――して良いことと悪いこと。全て私が決めるわ。あなたは、私だもの。
そう言って、日向子の意思を奪っていった、可愛い妹。
小さな積み重ねが、日向子から意思を奪っていった。
美夜子に従うことが正しいのだと、周りも言う。
日向子よりも遥かに長く生き、飯守の家を支えてきた大人たちの言うことだ。
間違う筈はない。
それを、桐彦は怠けていると一括し、人形かと怒った。
人形でも構わなかったが、桐彦を始め、誰も人形遣いにはなりたくないようだった。
主を失くした人形は、自分で考えなければならない。
昔を懐かしく思い出すこともあるが、次第に自分で考えることが楽しく思えるようになっていた。
『まあ、でも良かったな。旦那に拾ってもらえて。俺様が言うのもおかしいけどよ、好きなだけ居て良いんだからな』
その言葉に、ぽっと胸が暖かくなる。
ここに居ていいのだ。
少なくとも、野狐は居て良いと思ってくれている。
それがとても嬉しくて何度も頷いた。
『田舎でも大変だったみてえだけど、こっちもまあ、大変だろ』
「どうしてです?」
これだけ好きに毎日を過ごしているのに、大変なことがあるものか。
『旦那、何を考えてるか分からねえだろ』
ああ――と笑った。
確かに、いっそ命じてくれと訴えはしたが、それは桐彦が何を考えているのか分からないからではなかった。
嫌われて、見捨てられたくなかったからである。
「周りの人が何を考えているか分からないのは当たり前ですから」
澄まして、得意気に言った後、受け売りですが、と控え目に付け足した。
「それに、黒瀬さんは大切な恩人です。大変なんて思っちゃ罰があたりますよ」
そう。掛け替えのない人だ。桐彦が居なければ、今頃どこでどうしているかも分からないのだから。
『旦那が好きなんだなあ』
思いもしなかったことを言われ、目を瞬かせた。当たり前だ、そんなことは。
「はい。野狐さんは嫌いですか?」
逆に投げ返した問いに野狐は目を丸くし、なぜか苦笑した。
『いや、好きだな。嫌いだったら、ここに居ねえ』
「でしょう」
『まあ――兎に角さ。日向子は好きなように生きて良いんだよ。俺様みたいに』
その、好きに生きるとはどうすれば良いのか。
未だに分からないが、ただ難しい顔をして考えるものではないらしい、ということだけは分かる。
「そうします」
野狐は満足そうに頷いた。
昨日、あれだけ早く木札を仕舞わせたから、桐彦は今日は部屋から出てこないかもしれない。
というのも、気分の乗らない日は部屋に閉じこもったまま出てこないのである。
食事こそ口にするが、木札は掛けない。
『この所、機嫌が良かったから、そろそろお籠もりかねえ。旅に出なけりゃ良いけど』
とは、野狐の言だ。
あまりに酷いと、誰にも何も言わずに旅に出る癖があるという。
出る前は、世の末かという程に落ち込んでいたのに、帰ってきた時はけろりとしている。
そして、その旅先で誰かを拾ってくるのだそうだ。
それが、野狐であり、日向子であった。
『だから、日が沈んでも旦那が出てこないようなら膳を運んでやってくれよ』
味噌汁を啜る日向子の横で、野狐が指示を出す。
「はい」
この家の食事は、いつも美味しい。
温かい食事をここに来て始めて味わったということもあるのかもしれないが、それを抜きにしても彩りや旬を考えられているのがよく分かった。
あまりの美味しさに、作った誰か――恐らく、桐彦の雇う女中なのだろうが――に礼を言いたかったが、それは止められてしまった。
言わなくても伝わっているのだそうだ。
けれど、その食事が今日は少し物足りなく感じる。
味はいつもと変わらない。
違うのは桐彦が居ないだけだ。
首を傾げて考えたが、答えは出ないままだった。
『今日も相変わらず、美味いな』
「あ――はい。そうですね」
野狐も、いつもどおり美味しいと言っている。
単に日向子の気のせいだ。
残りの味噌汁を飲み干し、手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
丁度、日向子が夕餉を終えた頃、墨色の影が音もなく部屋の隅にあった。
桐彦である。
部屋から出て来て、黙って香を焚く支度をしている。
木札を掛ける日は決まって香を焚くのだ。
「今日は、どうします?」
様子を窺いながら訊ねると、ちらりとこちらを見た。
「……開ける」
返事はそれだけである。
「木札を掛けてきますね」
主の許可を得て、木札を手に通りへと出る。日が傾き始めた街は、橙色に染まっていた。
「今日は、遅くまでそこに居られると良いね」
あるべき所に収まった木札に話し掛け、満足気に頷く。
家の中は、しんとしているよりも、賑やかな方がいい。
さて、今日はどんな相談者が来るだろうか。
昨日のように、少しでも桐彦の役に立てるよう努めよう。
気合を入れ直して、戻ろうとした時だ。
「おい、女」
まだ幼さの残る、威張りきった少年の声が、誰か――女性を呼んだ。
失礼極まりない呼び止め方である。
その一言で、自分こそが正しいと思っているのが嫌というほど伝わってくる。
それに腹を立てたのか、呼び止められた女性の返事はない。
まあ、そうだろうなと思う。
日向子もあんな風に声を掛けられては、聞こえていても知らぬふりをする。
さて、返事がないまま少年はどうするのか。
女性はどう出るのか。
興味が沸き、ここに用事がある振りをして聞き耳を立てる。
絡まれては嫌だから、背を向けたまま、ずれてもないのに木札の傾きを直す振りをする。
「おい、聞こえているんだろう」
呼ばれた女性はまだ返事をしていないようだ。少年の声には苛立ちが混じる。
「無視をするな!」
その大きな声に、思わず身体がびくりと強張った。
果たしてどんな修羅場が繰り広げられているのだろう。
野次馬はいけない。
それは分かっているのだが、まあ――少しだけなら、と誘惑に負け、そうっと振り返った。
そこには、年の頃は十二、三くらいの腕組みをする洋装の少年が仁王立ちしていた。
眉を吊り上げて、日向子を睥睨している。
「やっと気付いたか」
少年は片目を細め、ふん、と鼻を鳴らす。
辺りを確認してみるが、日向子の他に誰の姿もない。
あれほどはっきりと少年の声が聞こえたが、誰に向かって言ったのだろう。
それとも少年にだけ見えている誰かが居るのか――いや、まさか。
何にせよ、東京には色々な人が居るものらしい。
ここは、あまり関わらないで居た方が良さそうだ。
家に戻るべく、そっと踵を返す。
「おい、待て! お前だ、お前!」
すると、再び少年が怒鳴った。
聞き間違いではない。振り返ると、少年は顔を真っ赤にして日向子を指さしている。
それは――だから、つまり。女、とは。
「私を、呼びましたか?」
まさかと思いながら訊ねると、少年はふんぞり返って頷いた。
「当たり前だ。お前以外に誰も居ないだろう」
女とは、日向子のことだったのか。
「何か、ご用ですか?」
「ここは、人の悩みを聞くというのは、本当か?」
「はい……そう、です」
「主は居るか」
「はい、中に――……あ」
少年は最後まで聞かず日向子の横をすり抜ける。
口ぶりからして客のようだから少年が勝手に先に行こうと構わないのだが、この時は何故か嫌な予感がした。
慌てて後を追う。
「ここから上がるんだな」
履物を脱ぎ、先に広縁から座敷に上がった少年が、ぐるりと見渡している。
通りで少年と話をしていた間に、座敷は来客で一杯になっていた。
その中には、昨日の首の長い女の姿もある。
女は日向子に気付くと、ぱっと表情を明るくした。
『あ――居た居た!』
女は長い首を伸ばし、日向子の耳元に顔を寄せ囁く。
『今日は、貴女にお礼を言いに来たの』
「お礼?」
『そうよ。何とね――』
女が勿体を付けて言う横で、大きな音がした。
何の前触れもなく、突然に。
何事かと見れば、少年が倒れている。
今の今までぴんぴんしていた少年に、一体何が起きたのか。
まさか――と慌てて抱え起こし、首元に触れてみる。
指先に、脈はちゃんと伝わってきた。
気を失っているだけらしい。
ほっと安堵の息をついて顔を上げると、桐彦と目が合った。
「そいつは誰だ」
そう訊ねる声が怒気を含んでいるのは、日向子の気のせいではない筈だ。
「ど――どうしたら良いでしょうか……」
問いには答えず、誰にともなく助けを求める。
それは、少年をという意味か、それとも桐彦の機嫌をという意味か。
日向子自身、分からなかった。