前編
今の暮らしに慣れて安心したからか、それとも花火を楽しみにしすぎたのか。飯守日向子が熱を出したのは隅田川に花火が上がる三日ほど前だった。
いつもふわふわとした言動の日向子だが、この日はいつも以上だった。食事の膳についたはいいが、ぼんやりとしたまま箸を握ろうともしないし、とろんとした目で庭を眺めたまま小一時間動かなかった。
『おい、どうした。何か悪いモンでも食ったのか?』
そう声をかけると、いえ、と蚊の鳴くような声で答え、ようやく箸を手にした。が、手にしただけで止まってしまう。
『ヒナコ? 食わねえのか?』
再度訊ねると同じように、いえ、と首を振り緩慢な動きで箸を伸ばすのだが、ひと口食べて動きが止まる。嫌いなおかずなのか、満腹なのか、歯が痛いのか。食べたくないのかと少しきつい調子で問う。だが、返ってくるのは、はあ、という肯定か否定かも分からないようなもので、これでは埒が明かない。
試しに額に触れてみると、じっとりと熱かった。
『お前熱があるじゃねえか!』
だが、当人は一呼吸を置いて首を傾げる。
「ねつ、ですか」
そんな調子が狂う返事を聞き流し、問答無用で抱え上げた。部屋へと運び、押し入れから引っ張りだした布団を敷き、寝かし付けたのである。
「治らないと、花火はなしだな」
布団に寝かしつけられた日向子を見て、彼女を引き取った相談屋の主――黒瀬桐彦はそんなことを言った。
こんな時くらい、優しい言葉をかけてやればいいのだ。彼女の体調に気付き、寝かし付けるまでをした野狐は、じとりと桐彦を横目で見た。だが、そんなことで怯むような桐彦ではない。野狐を一瞥すると、何も言わぬまま出て行ってしまった。
しばらく待ってみても、戻る気配はない。
本当に、どこかへ出掛けてしまったのか。病人を置いて。こちらを見る日向子が不安そうだったから、乱暴に頭を撫でてやる。
『だぁいじょうぶだって。そんな顔すんな。――ああ、ほら』
足音が聞こえ、桐彦が帰ってきたと安心させようと思ったのだが、顔を覗かせたのは残念ながら蛤だった。
『……お前かよ』
蛤はむっとした様子を隠さず、棘を含ませた声で返す。
『お邪魔だったの?』
『そうじゃねえよ。――で、何だ?』
『桐彦さん、水を持っていけと言って、どこかに出掛けたのだけど――……』
やはり出掛けたのか。多少は桐彦なりに気を利かせたようだったが。言い付けられた通り水を持ってきた蛤は、布団に入る日向子を心配そうに見る。
『風邪をひいたみたいだ。熱がある』
『まあ。だったらお薬を……お薬、あったかしら』
蛤は珍しく慌てた様子で部屋を出て行ってしまう。
『ったく。ちったあ静かにしろよな』
休ませるために寝かし付けたというのに、逆に騒々しくなっているのはどういうことか。
だが、あやかしが風邪をひくことはないから仕方がないのかもしれない。野狐だって平静を装っているが、内心では慌てている。ただの風邪と侮ってはいけない。人は、存外に弱いものなのだ。
ヒナコが心細そうな目でじっと見ていた。
『どうした』
だが、返事は中々返ってこない。急かしても無駄だろうからと黙って待つ。しばらくして、ぽつりと問いを投げて寄越した。
「……黒瀬さん、怒ったから出て行ったんでしょうか」
それを気にしていたのか。つい口元が緩んでしまいそうになるのを堪える。ここで笑ってしまえば、さらに落ち込むに決っているのだ。
『いつもと変わらねえよ』
いつもと変わらず、必要なことを言わないし愛想がない。それは少々いかがなものかと思うのだが、日向子を安堵させるには充分なようだった。多少は桐彦に慣れてきたらしい。
よく、あんな面倒な男に惚れたものだと思う。探せばもっと良い男は居るだろうに。人というものは分からない。
「花火、見に行きたいんです」
『だったら、治さねえとな』
「治るでしょうか」
『治るよ。治る。しっかり寝りゃあ治る』
何度も治る治ると繰り返し聞かされ、日向子は思わずといった様子で吹き出した。
「そう言われると、治るような気がしてきました」
『当たり前だ』
何事も気の持ちようなのだ。治ると思えば治る。それは日向子のためだけに言ったことではなかった。治ってもらわないと嫌なのだ。病で周りの誰かが死ぬのは辛い。
「野狐さん」
『どうした?』
今度も日向子は中々切り出さなかった。この暑いなか掛け布団を引っ張りあげて口元を隠し、ちらりと野狐を伺う。熱を出して心細いのか、いつもよりも仕草が幼い。
今度はいくら待っても野狐を伺ってばかりで口を開かない。とうとうしびれを切らして思い付いたことを訊ねてみた。
『腹が減ったのか?』
結局、膳にはほとんど手を付けなかったのだ。だが、日向子は首を横に振る。腹は減っていないのならば、何だ。
『あ――……ああ、だったら、喉が渇いたのか。何か飲むか?』
これに違いないと思ったのだが、また首を横に振る。喉が渇いている訳でもないのか。だったら――だったら、他に何がある。考えてはみたが思い浮かばない。
『ほら、言ってみろ。何が欲しいんだ』
いくら考えても分からないのならば、答えを乞うのが手っ取り早い。日向子は、言うか否か悩んで、ようやく思い切って切り出した。とりあえずの前置きを。
「子供だと……笑わないでくださいね」
何だ、その前置きは。だが日向子は大真面目だった。笑い飛ばすことはできないが、かといって分かったと頷くのも自信がない。
『俺様からすりゃあ、ヒナコはまだまだ子供だけどな』
少々ずるい返事だったが、嘘をつくのは苦手なのだ。日向子は目を瞬かせた。
その様子から察するに、当人は大人のつもりだったらしい。いつもの幼い言動を指摘すれば熱が更に上がりそうだから、多少は補っておかなければ。
『ヒナコだけじゃねえ。隣の家の爺さんも赤ン坊同然よ。俺様が、何年生きてると思ってんだ?』
それで、なるほどと合点がいったらしい。
「でしたら、黒瀬さんも?」
それは考えていなかった。あの桐彦を子供と見たことは一度もない。理由は多々あるが、何よりも。
『あんな可愛げのねえ子供が居てたまるか』
これである。野狐の返答に、日向子はくすくすと笑った。それで気持ちがほぐれたらしい。飲み込んでいたことをようやく吐き出した。
「……お話を、してください」
『話?』
日向子はこくりと頷く。
「熱を出した時、母が……お話をしてくれたんです。昔話とか。聞いているうちに、眠れるんです」
『何も知らねえよ、昔話なんて』
「私よりも、母や祖母よりも長生きしている野狐さんですから。どんな話でも、きっと面白いはずです」
『ああ――……』
隣の爺も子供だと言ってしまった手前、逃げられない。長生きはしているが、昔話など知りはしない。
どんな話をすればいいのだろうか。日向子は何が聞けるのかと楽しそうに待っている。悩みに悩んで、出てきたのはひとつしかなかった。
『よし。じゃあ死神の話をしてやろう』
「しにがみ?」
『そう、死神。知ってるか?』
「死んだ人の気に呼ばれて……生きている人を死にたくさせてしまう……あの?」
『何だ、詳しいじゃねえか』
知らないだろうと思っていたから少々意外だった。それまで滲んでいた自信なさげな色は一気に消し飛ぶ。
「ここを手伝うんですから、少しくらいは勉強しておかないと」
得意気に言った後、日向子は眉根を寄せる。
「でも、寝込んでいる人に話す内容ですか?」
確かに、風邪で臥している者に話すような内容ではない。それは野狐も承知の上だった。
『お前が何か話せって言ったんだろ』
「それは――……」
そうですが、と口籠る。何も嫌がらせのつもりで選んだのではない。
『ヒナコが早く治りますようにって思ってんだ』
そうだ。早く治るようにと願いを込めて。
『昔の話だ。昔々の、人里離れた山の中での話――……』
* * *
山の中、苔むした竹やぶの中にあるその庵は、持仏堂と居間、厨だけの質素なものだった。そこからは、毎朝騒々しい読経の声が聞こえていた。
以前までは、穏やかな、清々しい朝に似合う声であったのだが。
それも、仕方のないことであった。その清々しい声の主は長患いの末に逝ってしまったのだった。慕っていた師を亡くした気持ちを紛らわせる為に読む経は、弔うだけでなく寂しさを紛らわせる意味もあるのだった。
以来、一人であった――のだが。数日前から棲み着いた者があった。
それは、げっそりとやつれ青白い顔をしていた。身に纏う暗い色の衣は裾がほつれてしまっている。
人の死の匂いを嗅ぎつけたのだろう――死神だ。
だが、死神といえば悪念を持つ者の気に取り憑くものである。師は悪念の欠片すら持っていないようだったのだが。一体、どこをどう間違えたのか。
死神は真新しい卒塔婆を見て、ああ、と声を漏らした。
その日は一雨きそうな空模様で、日もすでに西の空に傾いていた。今から山を降りても宿はないだろうし下手をすれば迷うかもしれない。死神相手でもそれはできなかった。泊まっていけ、と言うと死神は礼を言った。
久しぶりに話す相手の居る夜は楽しいものだった。死神は無口だったが、相槌があるのは嬉しい。遅くまで師の話をした。弔いと、お前を呼ぶような方ではなかったという意味を込めて。翌日には死神も去り、また独りになるのか。そう思うと少々寂しかったが、出会いがあれば別れもある。それが世の常だ。送り出してやろうと思ったのだが――。
その日の夕刻になっても死神は出立しようとはしなかった。翌日も、その次の日も。何を思ったのか、死神は何の断りもなく居着いてしまった。
行かないのか、と問うと、迷惑か、と返ってくる。迷惑とは思っていなかったからそう伝えると、だったら良いと言いそこで話が終わる。実際、迷惑ではなかった。
もしかすると、己の知らぬところで師は死神を呼んでしまうほど恨み辛みが積もっていたのかもしれない。ならば、ここに留め置くのも悪くはない。そう思ったのである。
こうして、死神と僧の奇妙な同居が始まった。
死神は、日がな一日庭を眺めたり、腹が減ると荷物から取り出した食い物を食べたりするばかりだった。取り憑いて殺そうとするようなこともしなければ、病を運んでくることもない。やる気がないのか。
死神に訊ねてみたのは、ある日の昼下がりのこと。おい、と呼ぶと死神は僧に向き直る。師に呼ばれたのかと訊ねたが、死神は、ああ、とのらりくらりと躱すだけだった。
「出て行かないのか」
『なぜ、出ていかなければならない』
「ここはお前の棲む所ではないだろうに」
『――……お前には関わりのないことだろう。どこに棲もうと勝手だろうに』
良いというのなら、良いのだろう。結局、師に呼ばれたのかは分からないままだったけれど。
死神との同居は悪いものではなかった。死神は、僧の知らないことをよく知っていた。
山の下での人々の暮らし。長くここで暮らす僧にとっては、思い描くことも難しいものだったが。
着物のほつれを直しながら、死神は言う。下りてみれば良いじゃないか、と。墓を守る身に軽く言えたものだ。それに、僧にはここに留まる理由があった。苦笑をしただけで何も答えないでいると、縫い目を伸ばしながら死神はちらりと視線を向ける。
一人で寂しくはないのか、と再びの問いが投げられた。
僧は驚いた。死神も、自分と同じように一人で居るのだ。僧に問うのだから、一人は寂しいのだと思っているのではないか。
自分の寂しさよりもそちらの方が気になった。答えずに、お前はどうなんだ、と訊ねていた。死神は、答えが返ってこないことに腹を立てはせず、ただ、どうだろうな、と笑った。その横顔が寂しそうに見えたのは、気のせいだっただろうか。
その日は、朝から死神の姿が見えなかった。広くはない庵である。身を隠す所などない。ならば竹やぶの中に居るのか。この辺りまで村人が来ることはないが、姿を見られてはことだ。
草履をつっかけて、死神の姿を探しに庵を出た。
がさがさと足音がした。声を掛けようとして思い留まる。複数の足音だったのだ。
「ここだろう、――住んでいたのは」
「しばらく姿を見んが――」
「流行り病で――」
「――逝ってしまわれたか」
「いやいや、あれが――」
「ならば、村に来たら――」
「――その前に」
声が次第に遠くなる。庵に戻り、今聞いたばかりの会話を思い出す。
遅かれ早かれ、村人たちはこの庵に来るだろう。その時に、何と言えば良いのか。
――こいつは、悪くないんだ。
つい、吹き出してしまう。そんなことを言って何になるというのか。話を聞きはしないだろう。死神が居てはまずい。早く、ここから離れさせなければ。
いくら探しても、死神の姿は見付けられなかった。諦めて庵に戻り、縁側に腰を下ろす。
もしかすると、もうここを出たのかもしれない。
足音が聞こえ顔を上げると、死神の姿があった。
「出て行ったほうが良い」
『なぜ』
「麓の村で疫病が流行ったそうだ。恐らく、お前のせいにされる。だから――」
『断る』
「なぜ。ここに居ては危ないと言っているんだ」
それ以上の会話を遮るように、足音がした。




