第一章 二
「あんたのお陰で助かった」
「本当、ですか?」
「こんなことで嘘をついてどうする」
助かった。
そう言われたのに、それはつまり多少なりとも役に立ったということなのに、なぜだろう。
心から喜べない。
それでも、褒めてくれているのだから、まずは礼を言わなくては。
「ありがとう、ございます」
その礼に、桐彦は黙って頷いた。
ようやく、じわじわと喜びが込み上げてくる。
本当に、桐彦の役に立てたのだ。
女も、話を聞いてもらえて良かったと言ってくれた。
気を抜くと緩んでしまいそうな口元を懸命に引き締める。
静かになって思い出すのは女のことである。
「項の綺麗な方でしたね。うっとりしました」
独り言のように口にする。
ふと桐彦を見れば、その視線はじっと日向子に向いていた。
「ど……どうしました?」
何か妙なことを言っただろうか。
視線の意図を図りかねて、髪を撫で付けたり襟元を正したりしてみたが、桐彦は首を横に振った。
「いいや。やっぱりすぐに慣れたと思っただけだ」
慣れた――とは、ここの暮らしに、だろう。
「あ、いえ、黒瀬さんのお陰です」
馴染めるように、桐彦はあれこれと気に掛けてくれた。
桐彦が居なければ、今頃はどうなっていたか。
いくら礼を言っても足りない。
だが、桐彦は目を伏せ、微かに首を振る。
「俺は大したことはしていない」
そんなことはない、全ては桐彦のお陰だ。
それを言葉にして伝えられれば良いのだが、切り出す前に落ち着きのない足音と陽気な声が割って入った。
『よーォ旦那』
声の主を見ないまま、桐彦は溜息をついた。
『一仕事終わったんだろ? 酒呑もうぜ、酒』
大きな酒瓶を豪快に畳の上に置いたのは、頭に手ぬぐいを巻いた青年だった。
邪魔そうにその手ぬぐいを脱ぐと、きらきらと白い髪が溢れる。
肌も抜けるように白く、対してつり気味の目は黒い。
夜明けの空に似た色の着流しは、彼のお気に入りだった。
懐から出した手で盃を傾ける仕草をする。
桐彦は呆れた様子で酒瓶を手にした。
蓋を開け、香りを嗅いでいる。
「この前から姿を見ないと思えば、これを買いに行っていたのか」
『米が美味い所は酒も美味いからな。暇だったしさ』
彼は、名を野狐という。
この家で桐彦、日向子と共に暮らしているのだが、確かに数日前から姿を見なかった。
どこまで買いに行っていた、とは言わないが、暇だから行ってきたと言うには遠すぎる地まで出かけていたのだけは確かである。
「お前はすぐに酔うじゃないか」
『良いじゃねえか、それでも。付き合えよ、旦那ァ』
「嫌だ」
そう、きっぱりと断ると、桐彦は酒瓶を手に立ち上がる。
「今日は終いだ。木札を仕舞っておいてくれ」
「え――……え? いえ、でも」
「もうあの女の相手で疲れた。あんたもさっさと休め」
そうは言っても、まだ仕舞うには早い時間である。
誰か訪ねてくるかもしれない――のだが。
日向子が止めるのも聞かず、桐彦は奥へと姿を消してしまった。
『あれは一人で呑むつもりだぜ。酷えよなあ』
野狐を見れば、不満たっぷりに下唇を突き出している。
彼が酒に弱いのは桐彦の言う通りなのだが、それでも一緒に飲もうと遠路はるばる買いに行ったのは野狐である。
「災難でしたね。お酒」
『本当だよ。ったく、美味いって噂の酒蔵から、ようやく買えたってのになあ』
心から無念そうに野狐は言い、がっくりと肩を落とす。
そうして互いに顔を見合わせ、困った主に苦笑する。
さっさと休めと言われたが、生憎とまだ眠れそうにない。
それも仕方のない話で、相談屋を開けるのは夕刻から。
そのため、日向子が起きたのは数刻前であった。
さあ休め、と言われてもどだい無理な話である。
どうやって眠くなるまでの時間を過ごそうかと考えていると、野狐からの誘いがかかった。
『次の奴が来る前に札を外しておくだろ。終わったら、茶でも飲もうぜ。俺様が面白い話をしてやる』
それは、持て余した時間をどう過ごすかと悩む日向子には、渡りに船の話だった。
考える間もなく頷く。
「はい!」
そうして、すぐさま庭へと続く広縁に出た。
外はもうすっかり夜の帳が降りている。
庭を突っ切り、隣家と隣家の間の小路を抜け、表――とは言っても、裏通りの細い通りなのだが――へと出る。
何の店構えもない、相談屋の入り口である。
質素な門柱に掛けてある何も書かれていない木札を外した。
掛けていようがいまいが変わらなそうな、蒲鉾板よりも少し大きい程度の木札である。
しかし、これにはちゃんとした意味があるのだそうだ。
木札が掛けられていれば商い中――つまり、相談を受付けている、ということであった。
先代から変わらず、この木札を使っている。
先代との比較を嫌う桐彦だが、この木札だけは変えるつもりはないらしい。
屋号もない、看板もない、本当にやっていけるのかと思ってしまうのだが、これで良いのだという。
求める者だけが訪れる場であれば良い、というのが先代の考えで、そこは桐彦も同じ意見のようだった。
実際、目立たない店構えであるのに相談者は引っ切りなしにやって来た。
先代からの馴染みも多く、二代目になっても評判は上々のようである。
ただ、腕は良いのだが別の所に問題があった。
時間をしっかり守っていた先代とは異なり、二代目主は機嫌ひとつで掛けもすれば外しもする。
先代の頃は、毎日、日が沈む頃に掛けられ、深い時間になってようやく外されていたのだが。
木札を外してしまったからだろうか。
家の中は静かだった。
台所で湯を沸かし、急須に注ぐ。
急須の中では、野狐の一存で入れられた上等の玉露の葉が踊っている。
桐彦が知れば何と言うかは、考えると怖かったが。
湯呑みに注ぎ、さてどこで飲むかと相談し、広縁に落ち着いた。
茶を飲みながら、野狐の語る酒を買ってくるまでの話に耳を傾ける。
少々大袈裟に脚色はされているだろうが、思っていた通りの珍道中であった。
『俺様が、そんな大変な思いをして買ってきたってのに、あれだもんなあ』
最後はそんな不満で締め括られた。
そこで話は一区切りとなった。茶を飲み、一息をついて以前から抱えていた疑問を何気なく投げてみる。
「前から、思っていたんですけど。野狐って、変わった名前ですよね」
初めて顔を合わせた時に、野狐だ、と名乗られたのだが、姓はないという。
野狐、という響きも名前にしては妙だと思ったが、深くは訊ねなかった。
いきなり、変わった名前ですね、と言うのは失礼だと流石の日向子も分かる。
親しくなった今ならば訊ねても良いだろうと思ったのだ。
『そうかあ?』
「そう、だと……思います」
しかし、当人は少しも変わっているとは思っていないらしい。
みるみる、自信がなくなってゆく。失礼なことを訊いてしまったのではないか。
日向子が無知なだけで少しも変わってなどいないのではないか。
下手をすると、嫌われてしまったのではないか。
しかし、当の野狐は少しも気を悪くしていないようだった。
『まあ、ヒナコや旦那みてえな名前とはちぃっと違うけどな』
「そうなんですか?」
『そうさ。俺様に名前はねえし』
ますます分からなくなって、眉間に皺を寄せた。
「でも、野狐……って。初めて会った時に」
『名前じゃねえけど、名前みてえなもんなんだ。何もないと、呼ぶ時に困るだろ』
「それはまあ、そうですが」
野狐にとってはそうかもしれないが、しかしそれでは――寂しくはないのだろうか。
『寂しくはねえよ。ちっとも』
「えっ?」
『名前がねえくらい、どうってことはねえ』
「声に出ていましたか?」
『出てねえけど、顔を見りゃ分かる。名前がないなんて、野狐さん可哀想、私が何とかしてあげたい! って顔してたぜ』
玉露で気分が良くなったのか、凭れかかってきた。
「ちょっと、野狐さん。お茶で酔わないでください」
重たさに、堪らず声を上げると、野狐は上機嫌で笑っていた。
けれど、こうしてじゃれるのは嫌いではなかった。
『ヒナコがここに来て、ひと月か』
野狐は、日向子の肩に頭を擦り寄せながら、しみじみと言った。
「そうですね。もうそんなに経ちますか」
『どうだ、慣れたか?』
「はい。毎日、楽しいです」
ひと月経ったのか――と、思い返す。
長いようでもあり、短いようでもある。
東京の地を踏んでからの日々は夢のようであった。
来てすぐは、何をすれば良いか分からず、一つ一つを桐彦に尋ねていた。
日向子が何も決められないことを知っていた桐彦は、こうしろ、ああしろと命じはせず、どう思うかと訊ねた。
どう思うか、どうしたいか。
考えろと言う。
無理だと言うと怒られたが、長い時間かかって考えても、文句ひとつ言わなかった。
ある日、命じてくれた方が良いと訴えたことがある。
その方が下手なことを言って相手の気分を害さずに済む。
しかし、桐彦はがんとして聞かなかった。
――あんたは人形か。
そう言うのだ。
少し――ほんの少し、それも良いかと思ったが、桐彦の剣幕を見れば、それは言うべきでないことだと気付いた。
――相手がどう思うかを考えることは大切だ。考えないと分からないからな。だからといって口を噤むな。怠けるな。まず、俺から始めてみろ。何を言われても怒らない。
そう言う桐彦の横で、野狐はにやにやと笑っていた。
――そう言いながら、怒ってるじゃねえか、旦那。
野狐は不機嫌そうな桐彦に睨まれたが、しかし少しも堪えた様子はなかった。
桐彦も、もう慣れたものだったのだろう。
諦めたような溜息をつき、親指で野狐を指す。
――少しくらいは、この遠慮のなさを見習うのも良いかもしれない。
――だろ? な? どんどん俺様を手本にしろよ。
――お前はもっと遠慮を学べ。
そのやり取りに、この家に来てようやく笑えたのだった。
野狐はああ言ったが、桐彦が日向子の言ったことに腹を立てることはなかった。
失礼なこともあっただろうと思う。
それでも親切に、こう言えば良い、と言葉を添えてくれた。
そんな手助けがあって。
ようやく近頃では自分で答えを出せるようになったのである。
それにつれ、次第に桐彦も助言を減らしていった。
何も言われないことを不安に思うこともあるけれど、人同士の付き合いは、こういうものらしい。