五
『き、桐彦さん、これは――』
黒鯛を見て、蛤は真っ青になった。
「せっかく“神さま”が居るのに持て成していなかったろう。蛤、頼む」
『でも、お米が――』
「それも頼んできた。すぐに届けるよう言っている」
蛤は何度も本気かと訊ねたが、桐彦は当たり前だとしか言わない。
聞き入れないのなら、こちらが受け入れるしかない。
『でしたら、腕によりをかけて支度をしましょう』
「決まりだな」
それからは、猫の手も借りたいくらいの忙しさだった。
台所の仕事は蛤が受け持ち、日向子と桐彦は家中の掃除をする。
こんな時、一番活躍する野狐の不在をぼやきながら。
宴の席が整ったのは、日が傾き始めた頃だった。
膳には、煮物、吸い物、焼き物に刺し身。
『久しぶりに楽しかったわ』
たすきを解く蛤は満足そうだった。
「支度は整ったな」
そうして、最後の仕上げとばかりに貧乏神が棲家としている押し入れの襖を勢い良く開けた。
突然のことに、貧乏神は押し入れの中で身体を強張らせ、きょろきょろと視線を彷徨わせる。
『ど――どうなさいましたか』
「貧乏神様を歓迎する宴ですよ」
『宴……?』
はらはらと成り行きを見守る日向子と蛤だが、しかし桐彦は自信たっぷりであった。
「そんな所に居ないで出てきてくれませんか」
『良いのですか? わたしが――わたしなんかが……』
「あなたのための宴なんです。居ないと困るでしょう。それに、そろそろ気付いてもらわないといけませんからね」
引っ張りだされた貧乏神は、問答無用で用意された上座に座らされた。
『気付く――とは、何に……』
「ご自身が、もう貧乏神ではないことに」
驚きの声を上げたのは、日向子と蛤である。
貧乏神はぽかんと口を開けたままであった。
「えっ?」
『桐彦さん、それは――……』
しかし、桐彦はそれ以上の言及はせず、意味ありげに笑うだけである。
戸惑いながらも用意されている膳の前についたが、しかし空いている席がまだひとつ。
「黒瀬さん……」
隣りに座る桐彦の袖を引いて、目で訊ねてみる。
「そろそろ帰ってくるはずだが」
「帰ってくる?」
「煩いのが居るだろう」
煩いの、とはもしかして。
考えを遮るように、どかどかと騒がしい足音が乱入した。
「遅いぞ、野狐」
『真打ちは最後に出てくるモンだって決まってんだよ』
久しく姿を見なかった野狐である。
どこをどう駆けてきたのか、着物は泥だらけ、頭に巻いた手ぬぐいは所々破れてしまっている。
こうなるのが分かっていたのだろう。
いつも着ている夜明け色の着物でなく、つぎのある古着であった。
座敷に上がると、膳を挟んだ桐彦の向かいにどっかと腰を下ろす。
膳の上の刺し身を摘み、口に運んだ。
行儀が悪いと言いたげに桐彦が眉を寄せる。
相変わらず、野狐が居ると賑やかになる。
向かいに座る蛤と苦笑していると、視界の端に映る貧乏神の顔が強張っていた。
これまでも大きな変化はなくどちらかというと哀ばかりだったのが、今は明らかに怯えていた。
『野狐、殿……』
震える声で、確かに野狐を呼んだ。
『ん? 呼んだ――……』
へらへらと笑っていた野狐が、声の方を向く。
その顔からみるみる笑いは消え、座敷は波が引くように静かになった。
時が止まってしまったかのようだった。
息苦しくてたまらず、堪えきれなくなって沈黙を破る。
「あの……」
日向子の消えそうなほど小さな声は、この静かな座敷ではやけに大きく聞こえた。
「お知り合いですか?」
野狐か、貧乏神か――それとも、いつも説明をしてくれる桐彦か。
誰に投げたのかは日向子自身も分からない。
そんな問いを受け止めたのは、野狐だった。
『昔、一緒にに住んでいた頃があって――』
そこまでを言って黙った後、野狐は立ち上がると貧乏神の前に進み出て、座る。
そうして、深々と頭を下げた。
『悪かった』
前触れもなく、唐突に。
それまで黙って俯いているだけだった貧乏神がうろたえる。
『や――野狐、殿? 頭を上げてください』
しかし、野狐は頭を下げたままで続ける。
『誰のせいでもないのは分かってたんだ。だけど、誰かのせいにしねえと――……』
『いえ、わたしが』
『いいや、違う。御前さまが身罷られたのは、誰のせいでもねえ』
座敷の空気がぴりっと張り詰めるのが分かった。
野狐の言う“御前さま”が貧乏神の言っていた“自分のせいで亡くなってしまった人”なのだろう。
桐彦も、蛤も、そして日向子も。
何も言えなかった。
じっと黙って成り行きを見守る。
発言を許されているのは、野狐と貧乏神だけだと感じ取ったのだ。
『御前さまは最期に仰ったんだ。来てくれたのは、貧乏神じゃなくて福の神だったって。幸せだった、きっと、これからも誰かを幸せにしてくれるって』
貧乏神の瞳から、ぼたぼたと涙が溢れる。
“御前さま”を思っての涙にも、嬉し涙にも見えた。
どんな意味を持っているのかは貧乏神にしか分からない。
けれど、悲しい涙でないことだけは日向子にも分かった。
貧乏神は、“御前さま”にとってはありがたい福の神に感じられたのだろう。
自分のせいで不幸になってしまったと思い込んでいた貧乏神自身は気付かなかったけれど。
「これで丸く収まったな」
「はい――……ん?」
頷きかけて止まる。
まだ収まっていないことがあるではないか。
「さっき、黒瀬さんが言っていた……」
貧乏神でないことに気付く、とは。
「膳でもてなされれば、貧乏神も福の神になる。神は向けられる祈りで変わるものだ」
貧乏神が福の神になるのか。
頭の中の疑問符は、ひとつ消えるとひとつ生まれる。
いつまでたってもまっさらにならない。
「福の神なんですか?」
「まだ生まれたばかりのな」
「味噌が食べられなくなったのは――……」
「貧乏神でなくなったからだ。しかし自覚がないから、家に入るのを躊躇い続けてやせ細ってしまったんだろうな」
なるほど、と合点がいった。
やせ細ってぼろぼろの衣を纏っていては、貧乏神にしか見えない。
「でも、福の神ならどうして出ていけないんです?」
「福の神にも貧乏神と同じように役割が与えられているんだ」
「役割ですか」
どんな、と問うより先に野狐が歯を見せて笑った。
『簡単だろ。家の中が辛気臭いからじゃないか』
言うなり、膳の上の徳利を手に取ると一気に飲み干した。
野狐の白い肌がみるみる赤くなる。
『俺様が帰って来たからには安心だな。しっかり送り出されろよ』
「久しぶりの再会も祝して、今宵は楽しんで下さい」
貧乏神――いや、福の神は穏やかな微笑みを浮かべてこっくりと頷いた。
福の神とはやはり見た目で分かるものらしい。
貧乏神の頃のような枯れ木の容貌は嘘のように、蛤の膳を平らげる頃には肌艶の良い青年の姿となっていた。
飲んで、歌って、笑って。
家中のあやかし総出の宴となった。
野狐がすっかりと寝入ってしまって、ようやくお開きとなった。
酒に弱い野狐にしては珍しく、日付が変わる頃まで飲んで騒いでいた。
再会が嬉しかったのもあるだろうが、罪滅ぼしをしたかったのだろう。
どんなことがあったのかは、当事者にしか分からないことだけれど。
小鉢や徳利が転がる座敷を見渡し、福の神は手をついて深々と頭を下げた。
『お世話になりました』
「せめて、野狐さんが目を覚ますまで――」
そう引き止めたが、しかし首を横に振る。
『わたしが出て行くために騒いでおられたのです。目を覚ましてわたしが居ては嫌でしょう』
野狐に向ける目は優しく、穏やかだった。
「これからは、もう煙たがられることはありませんよ」
『ありがとうございます。皆様にも。多大なご迷惑をおかけいたしました。この御恩、決して忘れはしません』
微笑みは、見ている者の心が暖かくなるような、穏やかなものだった。




