四
「すみません」
額を畳に擦り付けて謝る。
頭を上げるのが怖かった。
何と言って怒られるかと構えていたが、降ってきたのは落ち着いた声だった。
「どうして謝る」
おずおずと頭を上げた。
「味噌を食べさせてしまったので……」
そのために、これからこの家の財は減っていくのだ。
「俺が、やってみろと言ったんだ」
「ですが――……」
すみません、と再び謝る。
先程から何度頭を下げたのか分からない。
桐彦は、ただ溜息をついた。
「それより。食べたのか、味噌を」
「はい」
食べた時の状況を事細かに伝える。一通りを聞いて、桐彦は深い溜息を漏らした。
「よく食べさせた――が、少々まずいな」
桐彦の眉間に、深い皺が刻まれた。
貧乏神は申し訳無さそうに押し入れの中に一日篭もりっきりである。
桐彦はというと、相変わらず相談屋も開けずに自室で過ごす日が続いていた。
本を引っ張りだし、ずっと読み耽っている。
茶を運んだ日向子は、部屋の惨状を見て言葉を失った。
部屋中に広げられた本が散らばり、脚の踏み場もないのである。
向かいに座り、頭を下げる。
「すみません、私のせいで」
「仕方がない。俺も、まさか食べるとは思わなかった」
そうは言うが、桐彦は不機嫌極まりない様子で突き放したような言い方である。
「……すみません」
貧乏神が来て、もう何度目になるかも分からない謝罪だった。
「なぜ、謝る」
「私のせいですから」
元はといえば、貧乏神を連れて来たのは日向子なのだ。
知らなかったから、では済まされない。
「だから、気にするなと言っている」
「でも」
謝らなければ落ち着かない。
やはり日向子は何の役にも立たなくて、居るだけで迷惑をかけてしまうのだ。
謝罪を積み上げれば少しだけでも楽になる気がする。
「……すみません」
そんな蚊の鳴くような声での謝罪は桐彦の癇に障ったらしい。
声に怒気が含まれる。
「俺は、味噌を食べさせたことに怒ってはいないんだ。貧乏神を上げたことにも」
「……すみません」
「この前から、謝っているだけじゃないか」
だが、何をどうすれば良いのか分からないのだ。
喉元まで出掛かった口癖を飲み込む。
謝罪ができないと、出せる言葉が見当たらない。
重苦しい座敷の雰囲気に割って入ったのは、桐彦の文を届けに出たあやかしであった。
持っていた紙切れを差し出し、褒美とばかりに何かを受け取っていた。
あやかしはふわりと姿を消し、桐彦は黙って紙切れに目を通す。
「出てくる」
紙切れを袂に仕舞うと、それだけを言って立ち上がる。
どこに行くのか、聞けなかった。
行ってらっしゃいませ、すら出てこなかった。
本が積み上げられた座敷に、ぽつんと残される。
ぱたぱたと廊下を歩く音が近づいてきた。
ひょこりと顔を覗かせたのは蛤だ。
『――あら、桐彦さんは?』
「ついさっき、出かけました」
『そう……。困ったわ。お米がもうないのよ』
蛤としては本当に困っていて言ったのだろうと思う。
けれど、ちくりと刺さる。
「すみません……」
『違うの、そういうつもりじゃなくて』
慌てて弁解する蛤を見ると、さらに申し訳なくなる。
うつむいて、手をぎゅうっと握った。
『何かあったの?』
心配そうに蛤に訊ねられ、つい縋ってしまった。縋るしかなかった。
『桐彦さん、そんなことを言ったの?』
できるだけ感情が入らないように話したつもりだが、蛤は眉尻を釣り上げた。
慰めて欲しかったはずである。
しかしそれは日向子の気持ちを暗くさせる役目しか持たなかった。
桐彦を悪者にしたいのか。
いや、そうではない。そんなことは少しも望んでいない。
「でも、私が悪いことなので……」
『こうなると分かっていて何もしなかったのは桐彦さんでしょう。日向子さんだけが悪い訳じゃないのよ』
そうして、頭をなでてくれる。
優しくされるのは嬉しい。
けれど、失敗しても何も悪くない大丈夫だと言われるのは、辛い。
ただ可愛がられるだけでは人形と変わらない。
ぐ、と奥歯を噛む。
「大丈夫です。私が何とかします」
『だけど、日向子さん――……』
「失敗しても、今より悪くなることはないでしょう?」
貧乏神だって、ずっとここに居座りたい訳ではないのだ。
早く出してやらなくては。
蛤はまだ何か言いたそうにしていたが、それを遮るように先手を打つ。
「蛤さん、七輪とお味噌を貸して頂けますか?」
「お味噌? どうするの?」
「うまくいくかは分かりませんが」
いつも木札を下げる門とは別の、出入りに使う玄関の前。
蛤に用意してもらった七輪を置く。
「……よし」
下準備は整った。
七輪の前にしゃがみ、袖が邪魔にならないようたすきを掛ける。
団扇で扇いで風を送り、火を起こす。
網の上には蛤から分けてもらった味噌。
次第にちりちりと音を立てて焦げはじめる。
団扇で、家の中に味噌の香りを送った。
その香りに誘われてか、それとも単に暇だったのか。
奥から貧乏神が姿を見せる。
策はこうだ。
まず、好物の味噌を外で焼く。
匂いにつられてやって来た貧乏神をおびき出す。
敷居を跨いで外に出てくれれば万々歳。
そのまま家に戻らないよう話を付けるのである。
「貧乏神さん、味噌ですよー」
家から出てきてくれれば御の字――なのだが。
貧乏神は上がり框にしゃがんで、申し訳無さそうにこちらを見ている。
『以前ほど、味噌が食べたいとは思わないようになりまして……』
思いがけないことを言われ、手が止まる。
「そう――なんですか」
『はい……。それに、もっと――こう、何かしないといけないと思うのですが』
「何かとは」
『それが分かれば……』
分かれば、それを片付けて早々に出ていける。
みなまで言わずとも分かる。
『すみません……』
幸薄い、ぼそぼそとしたで謝ると、家の中に姿を消してしまった。
七輪の上には焼けた味噌。
試しに一摘み口に放る。
少々焦げているが、炊きたてのご飯が欲しくなる味だ。
そうだ、もう米がないと言っていたから、桐彦が帰ってきたら伝えなければ。
桐彦はどこに行ったのだろう。どこで、誰と会っているのだろう。
あの日も珍しく昼前に起きたかと思えば、どこに行くとも誰に会うとも言わずに出掛けてしまった。
やはり――。
「何をしているんだ」
もやもやとした考えに捕らわれていたからか、周りの気配に全く気づかなかった。
振り返ると、桐彦が立っている。
出かける前の不機嫌さはどこに消えてしまったのか、いつもと変わらぬ様子である。
誰かに会って気を紛らわせたのだろうか。それは――。
「どうした?」
「い――いえ、何でも……」
誰に会っていたのか。
訊ねたいけれど、聞くのが怖い。
「味噌を焼いていたのか」
口ごもる日向子にそれ以上の答えは求めず、手元や七輪を見て察したようだった。
「はい、あの、外で焼けば匂いに誘われて出てくれるのではないかと、思って。浅知恵ですが……」
「それで出て行ってくれれば安いものだな」
「本当に……」
結局、試してはみたが役には立たなかった。
貧乏神は家の奥に姿を消してしまっている。
「だが、的外れでもない」
しかし、桐彦の口から出たのは以外な言葉だった。
きょとんとして、目を瞬かせる。
「聞いた話だが、大阪の商人は焼いた味噌を皿の形に広げて家の中の貧乏神を誘い出すらしい。貧乏神が匂いに誘われて出てきた所で、焼き味噌を二つに折って中に閉じ込める」
「その焼き味噌はどうするんですか?」
「川に流してしまう。そうすれば、戻ってこられないからな」
なるほど、そんな風習があったのか。
「ただ――あの貧乏神は少々事情が異なるからな」
「事情?」
問いかけに、しかし答えは返ってこない。
桐彦はにやりと笑う。
そして、手にしていた竹籠を見せた。
中には立派な黒鯛。
「そんな贅沢……」
「たまには良いだろう?」
確かに、たまには良いだろうと思う。
しかし貧乏神が居着いている今でなくとも良いだろうに。
日向子が何か言うより先に、桐彦は家に入る。
七輪を放って、追い駆けた。




