二
僧を広縁に寝かせ、台所に急ぐ。
食事の片付けも終わったのだろう。
戸は開け放たれ、蛤が一息付いているところであった。
「蛤さん、水をください」
息せき切って駆け込むと、蛤は目を丸くした。
『水? のどが渇いたの?』
立ち上がり、伏せていた湯呑みを手にして瓶の蓋を開ける。
『今日のごはん、塩辛かった?』
湯呑みに水を注ぎながら、蛤は眉尻を下げた。
美味しいものを食べてもらうことが蛤の日々の喜びなのだ。
首を振って否定すると、不安の色が薄らいだ。
「いえ、行き倒れの方が」
『行き倒れ? 日向子さん、大丈夫なの?』
「はい、黒瀬さんのお客さまみたいです」
なみなみと水の注がれた湯呑みを受け取り、もう一つ。
「それと――味噌壺を貸して頂けますか?」
『味噌?』
「はい」
『良いけれど――何をするの?』
「その、行き倒れの方が味噌が食べたいって」
簡単に説明し、奪うように味噌壺を受け取る。
『味噌……味噌、ねえ……』
蛤は首を傾げていたが、悠長に付き合う余裕はない。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、踵を返した。
湯呑みを渡すと、僧は溺れてしまうのではないかと不安になる勢いで飲んだ。
「慌てないでくださいね、足りなければ注いできますから」
湯呑みを逆さにして中の滴を全て残らず飲み干し、僧はようやく息をついた。
『すみません、本当に――……』
弱々しく、聞いているこちらが悲しくなりそうな声だった。
何度も何度も頭を下げる。
「そんな、気になさらないで下さい」
箸を味噌壺に突っ込み、一口分掬いあげる。
「はい、お味噌です」
僧の口元に運んだ。
口を開けたが、しかしすぐに顔を背けてしまう。
「お味噌、ですよ……?」
食べたいと言っていたではないか。
再度口元に運んでみたのだが、僧は顔をくしゃくしゃにして首を横に振る。
目元には涙が浮かんでいた。
『食べられない……やっぱり、食べられない……』
掠れた、悲痛な声だった。
味噌を押し付けていじめているような気になって、手を引っ込める。
箸を味噌壺の上に起き、脇に退ける。
「大丈夫ですか?」
何か痛いところがあるのだろうか。
どうして良いか分からず、やせ細った身体を擦ってやる。
肩は骨ばっていて、痛々しさすら感じるほどだ。
『やはり、私は居る意味がないのです。お暇を――』
僧は震える足で立ち上がる。
だが、それで精一杯で次の一歩が踏み出せない。
「大丈夫です、もうすぐ主が帰ってまいりますから」
懸命に宥めるが、僧は出て行くと言って聞かない。
瞳からは大粒の涙が溢れ、かさかさに乾いた頬を伝う。
「でも、相談に来られたのでしょう?」
『いえ、もう……相談しても――……』
僧は頑なに首を振る。
日向子ではどうにもできそうにない。
桐彦の姿を求め、辺りを見る。
そろそろ帰ってきても良さそうな頃なのだが――。
天の助けとは、このことを言うのだろう。
夜の闇に溶ける、暗い色の着流し姿の青年。
隣家との間の小路を抜けて庭に姿を見せたのは、他でもない。
「黒瀬さん!」
この家の、そして相談屋の主。
黒瀬桐彦その人だった。
「遅くなった――」
「お客さまが」
広縁で蹲って咽び泣く僧を見る。
「表で倒れていらして、ここまでお連れしたのですが」
桐彦は驚いたように目を丸くすると、つかつかと僧に近づき丁寧な口調で話しかけた。
「どうぞ、こちらへ」
『いえ、わたしは――』
拒む僧を、しかし桐彦は有無を言わさず座敷に上げる。
僧は始終落ち着かず、きょろきょろと居心地悪そうに辺りを見回していた。
日向子は黙って成り行きを見守る。
「さあ、どうぞごゆっくり」
『いえ、そんな』
そこへ、廊下をばたばたと走る音が近づいてきた。
蛤である。
いつもゆったりと落ち着いている蛤が、珍しく――日向子の知る限り、初めて取り乱している。
『日向子さん、お味噌は食べさせちゃ駄目よ! それ、きっと貧乏神で……! 食べさせたら最後、家中のお金も、食べ物もなくなってしまうから――……』
蛤の声が尻すぼみになる。
それもそのはず。
味噌を欲しがった僧――蛤曰く、貧乏神だそうだ――を、桐彦が手厚く持て成していたのだから。
「あなた――……貧乏神……なんですか?」
『はい……そのようです……』
日向子の問いに、僧――貧乏神は自信なさげに頷いた。
貧乏神。
憑かれたが最後、その家の財はみるみる尽きてしまう貧困の神である。
好物は味噌。
味噌があれば上機嫌。
生も好きだが、焼いてあるとなお良い。
追い出す方法はあるが、必ず出て行くという訳ではない。
厄介な神である。
日向子が下げた木札は早々に外されてしまった。
座敷には、床の間を背にして桐彦、向かいに日向子と貧乏神。
蛤は離れた所からじっと見守っている。
いくら上座を勧めても座らなかったための席次である。
「――蛤。相手は神なんだ、失礼なことを言うもんじゃない」
ちら、と蛤を見たが警戒の色を解く様子はなかった。
なるほど、貧乏神とはいえ相手が神だからこその桐彦の態度なのか。
『よく……ご存知ですね』
「お褒め頂き恐縮です」
『それでは、わたしは――これで……』
「良いではないですか。そう焦らなくとも。今日はもう、店は休みにしたのですから」
『……いえ、ですが……』
しかし、貧乏神は俯き、居心地が悪そうにしている。
「そうだ、せっかくです。味噌でもお出ししましょうか。蛤が止めに入って、召し上がれなかったのでしょう」
蛤が止めるより先に、貧乏神は首を横に振った。
背を丸くして、見ているこちらが悲しくなるくらい悲痛な声で切り出した。
『味噌が……食べられないんです……』
「味噌が?」
桐彦の言うことが正しいのなら、味噌は貧乏神の好物である。
その好物が食べられないのか。
『はい……。先程、貴方さまが仰った通り、味噌は好物です。ですが――……』
手で顔を覆い、言葉を詰まらせる。
「食べられないんですか」
貧乏神はこっくりと頷いた。
「あの。でしたら、他のものを食べてはどうでしょう」
日向子としては良い案だと思ったのだが、貧乏神はすぐさま首を振る。
『味噌でないと、駄目なんです』
「食べなかったら、どうなるんです?」
何も考えずに投げた問いだった。
だが、その問いで場が一気に重くなる。
鈍い日向子でも、それはよく分かった。
黙りこむ貧乏神に変わり、桐彦が答える。
「人がものを食べなかったら、どうなる?」
「痩せます」
「痩せて、どうなる」
「体が弱って――」
病に罹って、最後に待つのは――死。
「あやかしや神も同じだ」
貧乏神が悲痛な声で引き継ぐ。
『わたしは、このまま消えてしまった方が良いのでしょうか』
どこに行っても歓迎されず、嫌われる身ではそう思うのも仕方がない。
桐彦は、同意も否定もせず頷いた。
「あなたは、消えたいのですか?」
貧乏神は少し考えた後、弱々しく首を傾げる。
『分かりません……』
ぽたぽたと畳の上に涙が落ちる。
その姿があまりに哀しかった。
ミツの持ってくる色恋の相談よりも厄介だ。
けれど、貧乏神の悲痛な姿を見ると、突き放すのも憚られる。
桐彦は、どうするのだろうか。
口は挟まず、黙って成り行きを見守る。
長いような短いような沈黙の後。
「答えが出るまで、ここに居るというのはどうです?」
『ここに……ですか……?』
「はい」
何でもないことのように頷いた。
真っ青になったのは蛤である。
『き……桐彦さん……? 何を――』
『ご冗談でしょう……?』
ようやく事態を察した貧乏神も、弱々しい声で蛤に同意する。
が、桐彦は本気のようだ。
「冗談では言いません。いかがです。こちらも、あなたがどのような神か分かった上で申し上げております。悪い話ではないかと思いますが」
『それは――……確かに……』
確かに、貧乏神にとって悪い話ではない。
だが、居着いた家に迷惑をかけるのが嫌で消えてしまった方がいいと悩む身には、そう簡単に頷けないだろうに。
「でしたら、決まりですね」
いつも、相手がどうしたいか無理やりにでも返事をさせる桐彦が、珍しく押し切ってしまった。
蛤は不満を露わにむっつりと黙っている。
当の貧乏神は、俯いてしまって表情は伺えない。
桐彦はというと――呑気に外を眺めている。
なぜ、有無を言わさず留めることにしたのだろうか。
桐彦の本意は分からないが――兎にも角にも、貧乏神が居着くこととなったのである。




