一
青々とした葉が茂り、身体を動かすと汗ばむようになった。
じめじめとした雨もここ数日は止み、晴れの日が続いている。
世間はそろそろ夕餉の支度で忙しい刻限だというのに、日は今日の終わりを惜しむようにもう少しと踏ん張っていた。
日が長くなった証だ。
もうすっかり夏ね、と広縁に腰掛けた女は空を仰ぎながら言った。
襟首から伸びる項が色っぽい。
脚を組み、乱れた裾から白いふくらはぎが覗く。
足の先に引っ掛けた下駄がぷらぷらと揺れていた。
名を、ミツという。
そのミツの隣に座るのは、色気にはまだまだ遠い、美人というよりも可愛らしいと言った方が近い少女。
きちんと正座をして、膝の上にちょこんと両手を添えている。
その、行儀の良い人形のような少女――飯守日向子は、そうですねえ、と返事をした。
もう、そんな季節なのか。
今年の夏は、ただ暑いだけの季節ではない。
何と言っても、ここに来て、初めての夏なのだ。
それに。
――夏には……そうだな。隅田川で、花火が上がる。
蘇るのは、少し前に言われたこと。
いつ花火が上がるのかとは言われなかったが、どういう意味が込められていたのだろうか。
ただ単に花火が上がるから夏を楽しみにしていろということか。
それとも、一緒に――。
『そうだ、二代目にお祭りに連れて行ってもらいなさいよ』
「えっ」
考えを読まれているかのような話を振られ、日向子は頬を赤く染めた。
お互い、顔を見詰め合ってしばらくの間。
日向子は口をぱくぱくとさせ、ミツは思っていなかった反応にぽかんとしている。
先に口を開いたのはミツだった。
『……もしかして、もう約束しているの?』
「そんな、していません! ……はしたない」
『はしたないって、一緒に暮らしているのに。しているんでしょう?』
「していません」
『本当にしてないの?』
「はい」
くどいくらいに確認して、ミツは大きな溜息をついた。
呆れた、と全身が語っている。
『何をしているの』
「何って……」
『二代目が他の女とお祭りに行くことになっても知らないわよ』
「そんな」
まさか、と笑ったが、笑っているのは日向子だけだった。
『愛想もないし口も悪い、どうしようもないけど顔はまあまあ良いじゃない』
あんまりの言いように、日向子は拗ねて唇を尖らせる。
「……黒瀬さんは優しい方です」
「私にはちっとも優しくないけどね」
ミツの言う二代目とは黒瀬桐彦という恐ろしく愛想のない青年のことである。
この家の主で、少し変わった相談屋を営む日向子の恩人。
もう一つ付け足すならば、日向子が密かに――と言うには周りに知れ渡りすぎているのだが――好意を寄せている相手でもある。
『ほら。日向子ちゃんだってそう思ってるんだから。二代目を好きだっていう物好きが居ないとも限らないわ』
物好きとは散々な言われようである。
一緒に暮らし始めて四ヶ月になるが、桐彦に女の影はない。
ない――と、思う。
女を連れ込んだことはないし、遊廓に行ったような様子もない。
日向子がそういったことに鈍いから気付かないだけかもしれないが。
何しろ、自身の恋心にすら中々気づかなかったくらいなのだから。
「でも、他に女の人の知り合いは――」
日向子の唇に、ミツは人差し指を押し付ける。
『その余裕が命取りよ。一緒に暮らしているからって安心しちゃ駄目』
ミツの言葉には鬼気迫るものがあった。
『分かった?』
首を縦に振って分かった旨を伝えると、ようやく人差し指が離れる。
『二代目、今日はどこに行ってるの?』
「どこに行ったかまでは……ちょっと。用事があるそうで、昼過ぎから出掛けています。夕方には戻るから、お香を焚いて用意しているようにって」
『狐ちゃんも一緒に?』
狐ちゃんとは、この家に住んでいる野狐と呼ばれる者である。
時々、桐彦の助手のようなことをするが、普段はぶらぶらと過ごしている。
気が向くままにふらりと出掛けては、数日姿を見ないということもままある。
「いえ、野狐さんは先日からどこか遊びに行っています」
それを聞くと、ミツは意味ありげに笑った。
『怪しいわ』
「何がです?」
『一人で行き先も言わずに出かけるなんて、怪しいじゃない』
「何か用事があったんですよ」
だから何も怪しいことはない。
余裕たっぷりに返してみたが、ミツにしてみればそんな余裕などないも同然らしい。
『――他に女が』
「まさか」
『分からないわよ。男なんて、みんな――』
『日向子さんが可愛いからって、あまり苛めないで頂戴ね』
背後から、穏やかな女の声がする。
振り返ると、瓜実顔の美人が居た。
この家の台所を切り盛りする蛤という女である。
『苛めてなんかないわよォ』
ミツは腕を組んで膨れる。
『こんな所で油を売ってないで。時には自分から折れてあげるのも良いものよ』
蛤はミツに帰るよう急かす。ほら、と追い立てられ、ミツも渋々重い腰を上げた。
『そうね。日向子ちゃんはお香を炊いて旦那さまの帰りを待ってなさいな』
「だ――」
旦那さま。
その不意打ちに頬だけでなく耳まで赤くなっているはずだ。
茹でられた日向子を見て、ミツは得意気に笑った。
『じゃあ、またね』
手を降って帰るミツを見送る。
『まったく、ミツさんにも困ったものだわ』
「本当に」
蛤と、顔を見合わせて笑う。
見上げた空には踏みとどまっていた日はもうなく、藍色が流し込まれていた。
『御膳を運んでおいたわ。冷めないうちにどうぞ』
「はい。有難うございます」
食事を終えて、桐彦から教えられた通りに香を炊く。
この相談屋は、香を炊かねば客は来ない。
いや、ミツのように炊かずとも来る客はあるが、それはごく少数である。
香を炊いた後、表に出て何も書かれていない木札を下げる。
これで客を迎える支度は整った。
桐彦に訊ねなくとも、支度ができるようになった。
東京に出て来るまで、何もできなかったのが嘘のようだ。
言い付けられていたことはここまで。
夕方には戻ると言っていたが、辺りはもう夜の闇が迫っていた。
少し背伸びをして通りに桐彦の姿を探す。
帰路を急ぐ人はちらほらとあったが、そこに桐彦の姿はなかった。
事故に巻き込まれたのか――それとも。
誰かと会っているのか。
ミツの言っていたことが魚の小骨のように引っかかる。
――一人で行き先も言わずに出かけるなんて、怪しいじゃない。
嫌な考えというものは次から次に仲間を呼ぶ。
帰りが遅くなるような誰か。
それは、もしかして。
女の影はないと思っていたが、単に日向子の見えない所で――。
そこまで考えて、慌てて首を振って振り払った。馬鹿馬鹿しい。
外で何をしていようと、誰と会っていようと、それは桐彦の勝手だ。
日向子はどうこう言える立場ではない。
一人で考えこむ暇があるのなら、もっと他にすることがあるだろうに。
そんな時だ。
袖を引かれたのは。
あまり強い力ではなかったが、確かに引かれた。
桐彦か、野狐か。
それとも親切にしてくれる年下の友人、実能か。
振り返ってみるが、誰の姿もなかった。
だが、まだ袖は引かれている。
どこかに引っ掛けてしまったのかもしれない。
彷徨う視線は、背後から足元へ下がる。
ぎょっとして、思わず一歩後退った。
地面に、ぼろぼろの黒い衣を纏う僧が倒れているではないか。
枝のように細い指が最後の力を振り絞りながら、着物の袖を掴んでいる。
頭の中が真っ白になり、身体が固まる。
どうすれば良いのか。
誰か助けて欲しい――いや、助けを求めているのは僧だ。
深く息を吸い、混乱する頭を落ち着かせる。
まずは――まず、僧を助ける。
家の中に運んで、介抱して。
そのためには、まず桐彦か野狐を呼んで――と、そこではたと気付く。
桐彦も野狐も出掛けているではないか。
今、家に居るのは日向子と蛤だ。
他にも居ることは居るが、力仕事は任せられない者ばかり。
蛤ならば手伝ってくれるかもしれないと思ったが、台所に行って説明するその間、僧をここに放っておくのも不安が残る。
ならば、日向子がどうにかしなくては。
「あの……大丈夫……ですか?」
恐る恐る声をかけ、僧を抱き起こす。
痩けた頬。かさかさに乾いた唇。
身体は細く、土気色の肌も相まって枯れ木のようであった。
口を開けて、何か言葉を紡ごうとしているようだったが、声にならない。
開いた口からは乱杭歯が覗くだけである。
意識はあるようだ。
節くれ立った手は震え、何かを掴もうと虚空を彷徨う。
「はい」
耳を口元に寄せ、微かな声を拾う。
『みず――……』
「水ですね」
確認に、僧はこっくりと頷いた。そうして、再び唇が動く。
『――みそ……を……』
みそ、と。
みそ、とは――味噌なのだろうか。
味噌を食べるのか。空腹の時に。
「とにかく、家の中に運びますね」
僧の腕を取り、肩に回す。
脇を抱えようとしたが、思いがけず拒まれた。
『いえ、それは――』
「ですが、こんな所に放っておけません」
抵抗をする僧を黙らせ、立ち上がる。
身体は軽かった。
こんな日の暮れた頃にここを訪れるのが、単なる行き倒れの僧ということはあるまい。
桐彦を訪ねて来たのだろう。
江戸から明治に変わり、海の外から様々な文化が渡ってきた。
人々の暮らしもがらりと変わり、食べ物、乗り物、着るものも入ってきた。
変わることは良いことだ。
だが、それに追い付けない者も居る。
人の暮らしの影で生まれたあやかしたち。
それまではうまく距離を取って共存してきたのだが、江戸から明治への大きな移り変わりによって、その均衡が崩れた。
棲む場を追われたあやかしたちがやって来るのが、ここ。
助言をもらったり、新しい棲家を与えてもらったりするのである。
黒瀬桐彦は、あやかしのための相談屋の二代目であった。




