第四章 五
挨拶を済ませ、都筑邸を後にする。
馬車は呼んでいなかった。
けれど、こうしてゆっくり歩いて帰る方が、都筑邸での暮らしから戻れるような気がした。
「行儀見習はどうだった」
不意に、桐彦が訊ねる。
「行って良かったです。勉強になりました」
今は、本当に行って良かったと思う。
掃除や作法を学べただけでなく、ずっと日向子の中から離れなかった美夜子を開放できた。
ようやく、人形ではなく人になれたように思う。
それもこれも、桐彦が行儀見習に出してくれたお陰だ。
返事の声は弾んでいたようで、桐彦は笑い声を殺して肩を震わせている。
「な――……どうして笑っているんですか」
「いいや。行く前はあれだけ嫌がっていたのにと思っただけだ」
「あれは……その、黒瀬さんが目的をしっかり伝えてくれなかったから……」
聞かなかったのは日向子だが、それを棚に上げて桐彦のせいにする。
照れ隠しだ。
責任を押し付けられても、桐彦は嫌な顔ひとつしなかった。
「楽しかったようで何よりだが。――都筑の屋敷に残りたかったのか」
返事をせず呆けていたこと、何より実能との別れ際の態度がそう見えたのだろう。
「いいえ。そうではなくて……」
帰りたかった。
ただ、実能にタキの代わりになると言った手前、帰りづらかったのだ。
中途半端なまま口ごもる。
桐彦はそれ以上の追求はしなかった。
家々から聞こえてくる朝の音が心地良い。
昨夜はどうなるだろうと不安だった。
それが、今はこうして桐彦と歩いている。
もし昨夜、タキが姿を現さなかったら――そう思い、引っ掛かる。
「あ」
「どうした」
「そういえば、タキさんはどうして一度姿を消したのに、また現れたのでしょう」
昨晩、タキを探して実能が外に出た時その姿はなかった。
日向子と話をしている時に再び姿を現したのだ。
首を傾げた日向子だが、桐彦は何だそんなことかというように返す。
「あんたが、タキさんの嫌がることを言ったんだろう」
「気に障るような、こと?」
「さっき、坊主が何か言っていたようだが」
実能の言っていたこと。
そう言われても中々ぴんとこない日向子に、更に付け足す。
「タキさんの代わりはタキさんだけなんだろう」
昨夜、言ったこと。そうだ。
タキの代わりになる、と言った後に姿を現したのだ。
実能を取られると思ったのかもしれない。
「母親とは、そういうものだろうな」
そうか。
失礼なことを言ったのだ。
「落ち込むことじゃない。あんたがああしてタキさんを呼んでくれなかったら、俺は無駄骨を折る所だった。助かったよ」
「本当ですか……?」
「ああ」
役に立っていたのだ、少しでも。
それが嬉しくて堪らない。
知らぬうちに声が弾んだ。
それからまた、黙ってしばらく歩いた。
「秋になると、夜は虫がよく鳴く」
それは、本当に突然で、何の前触れもなかった。
桐彦の家の話だろうか。
「鈴虫ですか?」
「ああ。それに、蟋蟀もだろうな。――ああ、秋の前に夏か。夏には……そうだな。隅田川で、花火が上がる」
「花火は、見たことがありません」
「だろう」
これから少しすると訪れる季節は良いものだと、教えてくれているのかもしれない。
「他に、知りたいことはないか?」
「他に?」
そうか、今のは桐彦なりに日向子が知りたいかもしれないことを考えて、教えてくれていたのだ。
「言ったろう。俺は喋るのが苦手だと」
「はい」
「周りの奴らは遠慮をしないし、思っていることを言わなくても気にしないからな。――あんたもそうだろうと、勝手に思っていた。もっと、厚かましくなって良い。野狐なんか見てみろ。あれは遠慮を知らない」
けれど、もし嫌われてしまっては。
桐彦に嫌われては、もう、どうすれば良いのか。
行く場所もなくなるが、それ以上に――。
「あんたがわがままを言ったくらいで、出て行けなんざ言わんさ。それなら――最初から、連れて来ちゃいない」
それは、本当なのか。
言葉にせぬうちに、顔に出ていたらしい。
「俺は、嘘は言わん。あんたに言って何の得がある」
「……ありませんね」
日向子に嘘をついて騙しても、何の利もない。
「だから、ここに居たければ居て良い。もっと好きに振る舞え」
「――……はい」
家の前では、留守番を命じられていたらしい野狐が、人の姿で行ったり来たりを繰り返していた。
桐彦の姿に気づくと、一目散に駆けてくる。
『遅ぇよ! いつまで待たせんだ』
「だから、いつ帰るか分からないと言っておいただろう」
面倒臭そうに手で払われた野狐は、桐彦の隣の日向子に気付きはしゃいだ声を上げる。
『ヒナコも帰ってきたんだな。良かった良かった!』
ばしばしと力一杯、肩を叩かれる。
『今日から蛤の作った飯が食えるなあ』
「蛤の作るものは、薬のようだからな。疲れも取れる」
その、桐彦の独り言にも似た言葉を、耳聡い野狐が聞き逃す筈もなかった。
『そう。何と言っても死にかけの旦那を助けたのも蛤の作った汁だからな』
「そうだったのか」
『知らなかったのかよ、旦那』
我が事ではないか、と野狐は呆れ顔であった。
「しかし、よく詰まらせずに飲めたな」
桐彦としては、自分も中々やるものだな、という程度であったのだと思う。
『そりゃあ、まあ。頑張ったもんなあ』
けれど、実際はどうだったかを知っている野狐は、にやにやと堪え切れない笑みを浮かべ、桐彦を見る。
『ヒナコが。口移しで』
その一言で、桐彦は固まってしまった。
眉尻がひくひくと引き攣っている。
野狐も気付いているだろうに、尚も続ける。
『だから、旦那はもっと日向子に感謝するべきだよな』
なあ、と同意を求められたが流石に頷けない。
しかし、どう返事をするべきか悩むことはなかった。
「そういうことは、二度とするな! 俺だけじゃない、他のやつにもだ」
そのお陰で、野狐に返事を催促されることはなかった。
助かった――ように思ったが、しかし。
なぜ怒られるのだろう。
あの時は、ああでもしなければならなかったのに。
「そんなに、怒らなくても……。それに、黒瀬さん以外、しません」
どこの誰か知らない相手になどしない。
母も、大切な美夜子のためにしたことだ。
今の日向子にとって、桐彦ほど助けたいと思う誰かは居ないのだ。
いや、桐彦だけではない。
野狐だって助けなければ。
しかし、そう言い添えるより先に、珍しく動揺した桐彦に怒鳴られた。
あまりの怒りにか、顔が赤くなってしまっている。
「そんなことを外で言うなよ、絶対に!」
あまりの剣幕に驚く日向子であった。
野狐は腹を抱えて蹲ってしまっている。
肩を震わせて、息をするのも苦しそうだ。
「野狐さん、大丈夫ですか?」
「放っておけ!」
そう言い捨てると、日向子と野狐を置いて先に家に戻る。
勢い良く引き戸が開く音が聞こえる。
野狐の傍で膝を折り、訊ねてみる。
もしかすると桐彦が突然不機嫌になった理由が分かっているかもしれない。
「どうして黒瀬さんはあんなに機嫌が悪くなったのでしょうか」
気付かぬうちに嫌がられることをしただろうか。
『ヒナコが、旦那は別だって言っただろ』
「はい……」
桐彦だけは別なのは、嫌だったのか。
日向子には助けられたくないのだろう。
あの日、汁を飲ませられたことを今更のように知り、不愉快になったのかもしれない。
「嫌われたってことですね、私」
もしかすると、連れ帰ったことも悔いているのかもしれない。
『どうしてそうなるんだよ……。あれは怒ってねえ。照れ隠しだ』
「照れ隠し?」
照れることが、どこにあったのだろうか。
野狐は、日向子の襟元に顔を近づけると、すん、と鼻を鳴らした。
「な、何ですか」
日向子は慌てて身を引き、野狐を睨む。
だが、睨まれた方はそんな視線など物ともせず、にんまりと笑った。
『嫌ってる奴と一晩過ごすほど、旦那の器は大きくねえぞ』
すぐには、何を言っているのか分からなかった。
しかし、もしかすると昨晩桐彦に抱き締められ、そしてそのまま眠ってしまった夢を言っているのかと気付き、みるみる顔が、耳が、首が熱くなる。
「え――え? どうして……」
あれは夢だったのに、なぜ野狐が知っているのか。
狐のあやかしとは、他人の夢まで覗いてしまうのか。
『そりゃあ、旦那からもヒナコからも、お互いの匂いがすりゃあ分かるってもんよ』
「でも、あれは私の夢でしょう?」
すると、野狐は目を丸く見開いた後、大袈裟に笑い、日向子の顔を覗き込んだ。
黒々としたつり気味の双眸が細まる。
『夢じゃねえよ。永く抱き締めてなきゃあ、匂いは移らねえって』
何だ、そうか。
夢ではなかったのか。
しかし、そうやって軽く流してしまえるようなことではない。
あれが夢ではないのなら、桐彦は本当に日向子を抱き締めていたのだから。
更に野狐は追い打ちをかけるように言った。
『ヒナコちゃん。旦那のこと、好きなんだろ?』
それは、前にも言ったことではないか。
当たり前だと言おうと口を開いて、野狐と目が合う。
日向子の反応を見逃すまいと、じっと見詰めているのだ。
それも、漏れる笑いを隠そうともせずに。
その様子に引っ掛かって、言われたことをよくよく噛み砕いてみる。
ヒナコちゃん――は、日向子のことで、旦那、とは桐彦を指している。
好き、とは好意の意味であり、桐彦を好ましく思っているのは――と、そこまで考えて、はたと気付く。
野狐の言う好きとは、恋情ということだ。
桐彦に恋情を抱いているのだろう、と――そう訊ねているのだ。
みるみる顔が赤くなる。
そうか。
行儀見習に行けと言われた時の悲しさも、ここに居て良いと言われた時の嬉しさも。
“あんた”と呼ばれる度に感じた不満も。
あれは全て、桐彦が好きだったからだ。
顔を上げると、再び野狐と目が合った。
全てお見通しだと、その目が言っているように感じたのは、恐らく気のせいではない。
『やっと気付いたか? ヒナコちゃん』
頬に触れてみると、ひどく熱い。
見えないけれど、茹でられたように真っ赤になっているのだろうと分かった。
頬の熱は掌に移り、身体中に広がる。
桐彦が好きなのだとすれば、全てのことに納得がゆく。
「あ、ああぁ……私、何てことを……」
桐彦だけだと言ったことに間違いはない。
他の誰にしたいとも思わないが、それは好意を伝えたも同じだ。
野狐は心から楽しそうにしていた。
『ほら、こんな所でじっとしてねえで。帰るぞ』
手を掴んで引き摺られそうになるのを、両脚を踏ん張って踏み止まるが身体を丸めていても腰が浮いてしまう。
「い、嫌、です。どんな顔を、すれば良いか」
『強情だなあ。――ったく』
更に力を込めた野狐に叶う筈もなく、ずるずると玄関先まで連れて来られた。
けれど、顔を伏せたまま上げられない。
『そもそも、どこに行くって言うんだ。ヒナコの家は、ここだろう』
桐彦から、行って来いと送り出されたここが、日向子の帰る場所だ。
『ほら、旦那もヒナコの帰りを待ってただろ?』
おずおずと顔を上げると、玄関で待ってくれていたらしい桐彦と目が合った。
「おかえり」
そう言われたのは初めてだった。
美夜子と出た時にも言われたことはなかった。
こういう時は――そう、言ってみたかったけれど、機会のなかった挨拶。
背筋を伸ばし、桐彦を見詰める。
どうしても、口元が緩んでしまう。
きっと、締りのない笑みを浮かべている筈だ。
「た……ただいま、帰りました」




