第四章 四
「後は、実能も知っている通りだ」
その後。タキは身体を壊し暇を与えられ、屋敷を後にした。
その病というのも、企みが通らなかったからの言い訳ではないかと、都筑は言った。
誰も、何も言わなかった。
実能はじっと膝の上の風呂敷を見詰めたまま、動かない。
都筑は、愛しさと憎しみを抱く女を思い出しているのか。
長い間の後、桐彦が静かな声を発した。
「こちらで調べたことも、付け足しましょうか」
「調べた……?」
都筑が眉を寄せる。その不審げな様子に気付き、言い添える。
「勝手に、申し訳ありません。ただ、こちらとしても万全を期したかったものですから」
相談の件を片付ける為だと言われ、都筑も渋々といった態度であったが、それ以上は口を挟まなかった。
「この屋敷を出たタキさんは、ご実家には戻らずに府内の長屋に暮らしていたそうです。そして、程なく病で亡くなっている。仮病などではなく、本当に身体を壊していたんですよ」
それは都筑にとって意外だったようだ。
ぽかんと口を開け、しばらくぼんやりした後、確かめるように問う。
「病で? タキは――……私や、この家への恨みであんな姿になったのでは……」
桐彦は、都筑の言葉に頷いてはいたが、それを肯定はしなかった。
「そう思うのは貴方の勝手ですが、私はこう思いましたね。母と呼んで欲しかったのは、自分の命が永くはないと悟っていたから。あやかしになったのは――」
そこで言葉を切り、立ち上がる。
皆の視線が桐彦に集まる。
ただ黙ってその姿を追った。
実能の傍で足を止めると、膝の上のに乗る着物を指で摘み、包んでいるものを明らかにする。
姿を見せたのは、タキの骨だ。
そしてその中から一枚の紙片を探り出した。
「この、熊野牛王神符のお陰ではないでしょうか」
綺麗に折り畳まれているが、それはいつか実能に借りた、烏の絵が組み合わさって模様を描いている紙であった。
「それ――いつか、タキが僕にくれた……」
目の前に示された紙を指差し、実能が驚く。
矢張り、タキから渡されたものだったのだ。
「病人の床に敷き、病が治癒するようにと祈るなど、御札の役目を持っていますが、起請文としても使われているのです」
そうして、折り畳まれた紙を開く。
烏の描かれた面の裏に、乱れた文字が記されていた。
――さねよしの そばに
そこまでしか記せなかったのかもしれない。
死期が近付いても、ただただ我が子を案じ、その傍に居たかったのだ。
「熊野権現に誓ったのでしょう。どんな姿になっても、傍に居ると。そのタキさんの執念が、あの姿に変えたのかもしれません」
実能の震える手が紙に伸びる。
桐彦は黙ってその手に渡した。
眉尻が下がり、じっと手元を見詰める。
その瞳が、再び涙で濡れた。
「タキは、お前が何より大切だったんだなあ、実能」
父が伸ばした手を、息子も今度は嫌がらなかった。
頭を撫でてやり、都筑は顔を上げた。
そして、深く息を吸う。
浮かんだ表情は穏やかであった。
何かを諦めて得られたものではなく、抱えていたものを納得の行く所に落として、その末に得られた表情のように見えた。
「ありがとう、黒瀬くん」
紡がれたのは、心からの礼。
「いえ」
静かに、顔を伏せた桐彦の表情は硬かった。
「今日はもう遅い。泊まっていくといい」
そう言うと、桐彦の返事は聞かぬまま、日向子に指示を出す。
「二階の、階段を登った先の洋間は分かるかな。済まないが、彼を案内して欲しい」
日向子が行儀見習のふりでこの屋敷に来たと知ったからか、女中として接していた時と口調が変わっていた。
「はい、すぐに」
立ち上がり、桐彦を促す。
廊下に出て、部屋に残る父と息子をちらりと振り返った。
これまで知らなかったことを教えられ、不信を感じることもあるだろうけれど。
それはきっと、実能が乗り越えていかなければならないことだ。
ゆっくりと、時間を掛けて。
そしてそれは今度こそ、日向子が立ち会うことではない。
邪魔にならぬよう、静かに扉を閉めた。
都筑に言われた、二階の洋間へと案内する。
部屋に入るなり、桐彦は疲れていたのか寝台に腰を下ろした。
日向子が言い付けられたのはここまでだが、しかし客人と女中という立場でもないから何も話をせぬままというのは立ち去り辛い。
何より日向子自身、少しで構わないから話がしたかった。
「あ――あの、黒瀬さん」
何を話すか考えぬまま呼び掛ける。
返事はなく、ただ視線だけが向けられた。
こっちを見てくれた。
それで、どきりと胸が高鳴る。
さて、何を話そう。
「わ――私の、行儀見習は、色々と考えてこのことだったんですね。……それを、気付かないで我儘を言って、すみません」
考えた末に出てきたのは、先程応接間で出た話のこと。
桐彦は、ああ、と言い顔を伏せる。
それきり会話は途切れた。
会えたのは嬉しい。
しかし、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。
以前は、どんな風に接していただろう。
もっと、話をしていたようにも思うし、していなかったようにも思う。
ただ、今ほど沈黙を持て余してはいなかった。
静かな部屋は居心地が悪い。
このまま、居続けるのも邪魔になりそうだ。
「お茶かお水、持ってきますね。あ――お腹は空いていませんか? おむすびでしたら、私でも作れますから――」
「いい」
部屋を出るための急ごしらえの提案は、言い終わる前に拒否された。
けれど、それはすぐに出て行けという訳ではなく、桐彦の手が伸び、手首を掴む。
そのまま引き寄せられた。
どうなった、と思う間もない。
手首を掴んでいた手が離れ、日向子の腰を抱き寄せた。
顔を押し付け、深い深い息をつく。
ぼんやりと旋毛を眺めながら、そこでようやく気付いた。
抱き締められているのだと。
「く、く……黒瀬、さん?」
鼓動が一気に速くなる。日向子の腰を抱く桐彦の手は、ひんやりとしていた。
応接間で重ねられた手は温かかったのに。
どうしたら良いだろうと棒立ちになる日向子に、力のない声が紡がれる。
「ここに居てくれさえすれば、いい」
「でも、ここは客間で――」
日向子の寝起きする部屋は別にあるのだが。
けれど、その言葉は桐彦の耳に届いていないようだった。
「――……疲れた」
あやかしとはいえ、人の姿をしたタキを撃ったのだ。
そして、都筑やタキが抱いていた感情を明らかにした。
それはとても、骨が折れること。
人の嫌な部分を無理に見せられるのだから。
辛くない筈がない。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
いや、言葉を求められてはいない。
黙って髪を梳いた。
それまで強張っていた桐彦の肩から力が抜けるのを見て、頬が緩む。
それで、確信に変わった。
今、桐彦が求めているのは、言葉ではなく暖かな手なのだ、と。
差し込む陽の光で目を覚ました。
与えられた女中部屋でないことは、視界に入ってくる豪奢な天井で分かった。
それに、身体が沈むように柔らかい。
いつもの布団ではないらしい。
それでようやく昨夜のことを思い出した。
ほんの数刻前のことであるのに、遠い日のように思える。
色々なことがあった。
肉吸いの件を解決して、女の――タキの話を聞いて、桐彦はこの屋敷に泊まることになって、部屋まで案内して、それで――。
「いつまで寝ている」
いつもと変わらぬ桐彦の落ち着いた声が降ってきて、勢い良く跳ね起きた。
窓から差し込む朝日を、背に受ける桐彦の姿があった。
昨夜、この客間まで案内した後、桐彦は日向子を抱き締めた。
ただ、ここに居てくれと言って。
そんな姿は夢ではなかったのかと思ってしまう程に、桐彦は隙一つない。
いや、本当に夢だったのかもしれない。
あの桐彦が。
弱味などないような、あったとしても決して見せない桐彦が。
日向子を抱き締めて、ここに居てくれと言うだろうか。
どう考えても、有り得ない。
夢だ。
夢に違いない。
久しぶりに会えたのが嬉しかったからとはいえ、あまりにも桐彦に失礼な夢ではないか。
しかも、桐彦のためと案内した客間で眠ってしまった。
情けないことの積み重ねで、みるみる顔が熱くなる。
きっと、真っ赤になっている筈だ。
「帰るぞ」
もう帰ってしまうのか。
だが、用件は終わったのだからそれも仕方がないか。
行儀見習は相談が解決するまでの約束だと言っていたが、日向子はいつ帰れるのだろう。
「どうした。支度をしろ」
ぼんやりしている日向子に、桐彦が眉を寄せる。
「わ……私も、ですか?」
「行儀見習は、相談の件が片付くまでの約束だ」
まさか昨日の今日とは思わなかった。
ぼんやりと呆けたままの日向子に追い打ちをかける。
「まあ――ここに残りたいのなら、止めはしない」
そう突き放し、廊下へと続く扉に向かう。
このまま置いて帰られるのか。
慌てて寝台から降り、桐彦に駆け寄る。
「ま――待って下さい、置いて行かないで下さい!」
袖を掴み、必死に引き止めた。
急なことで驚きはしたが、帰らないとは言っていない。
折角、連れて帰ってやると言ってくれたのに。
そんな必死の日向子の頭上で溜息が漏れた。
「馬鹿。俺が居たら、あんたが帯を解けないだろう」
「帯?」
訊ね返すと、眉間に皺を寄せてこちらを見る。
その視線の先を辿ってみれば、なるほど。
この姿のまま眠っていたから着物の袷は乱れに乱れてしまっている。
「あ――……そう、ですね」
「置いて行かないから、さっさと支度をしろ」
袖を掴んでいた手を振り払い、桐彦は部屋を出る。
心なし、耳元が赤くなっているように見えたのは、気のせいだったろうか。
食事をしていくようにと勧める都筑に、桐彦は丁寧に辞退した。
実能は、むっつりと押し黙っている。
昨晩、あれから話をして何か辛いことがあったのか。
ちらちらと様子を伺う日向子に、都筑は察したようだった。
「貴女が帰るから、寂しいんですよ」
苦笑交じりの父に、実能は頬にさっと朱を走らせた。
「あの……」
矢張り、残った方が良いかもしれない。
約束とはいえ、帰ってしまっては実能を裏切ることになるのではないか。
昨晩、タキの代わりになると言ったばかりなのに。
不義理だ。
「さっさと帰れよ」
日向子が言う前に実能が突き放す。
でも、と出かけたが言えぬまま口の中に押し込められた。
「代わりなんていらない。――……母は、母だけだ」
タキは実能の乳母で、ただ一人の掛け替えのない母だ。
それを、日向子が代わりを務めるなど、できよう筈もない。
それを、深く考えずに代わりになるなど、よく言えたものだ。
自分が情けなく、恥ずかしくなる。
そんな日向子を気遣ってくれているのだろう、実能は冗談めかして続けた。
「まあ、日向子も僕が居ないと寂しいだろうからな。たまには遊びに行ってやるよ」
微笑んで頷いた。
「いつでも、お待ちしていますね」




