第四章 二
そんな和やかなひと時の後。
さあ戻ろうと促そうとしたが、実能がこちらを見ていないことに気付く。
視線は日向子を通り越してその先を見ていた。
導かれるように振り向く。
距離にして三間ほど離れた暗闇の中に、白い影が踊った。
ふわりと風に揺れるのは、衣か、それとも。
「タキ!」
実能は名を呼ぶと、日向子を追い越し、その白い影に駆け寄る。
女を見詰めたまま動けないでいる日向子に、止める間などなかった。
実能がタキと呼んで駆け寄る女は、間違いなくあの夜の――野狐が肉吸いと言い、桐彦を襲った女であった。
そんなに近付いては危ないのに、だから近付かないようにと言ったのに。
実能まで襲われてしまったら、どうすれば良いのか。
手を伸ばして止めることはできなかった。
女は嬉しそうに実能を抱き留めようと手を伸ばす。
どうすれば良いだろう。
気ばかりが焦って身体は動かない。
両手で口元を覆う。
早く、実能を屋敷に連れ帰っていれば。
時を戻せるのなら、実能の首根っこを掴んででも連れ帰ったのに。
そういくら願っても、時は巻き戻ることも、止まることすらない。
ない――筈だった。
日向子の知る限りは。
その時。
乾いた音が辺りに響いた。
静寂の中、幾重にもこだまする。
その音の後、この場に居合わせた者の時は確かに止まっていた。
タキに駆け寄っていた実能はその足を止めていたし、日向子は口元を覆ったまま立ち尽くしていた。
そして、タキは――。
いや、タキの時だけは動いていた。
実能に向けて差し出した片方の腕が、さらさらと砂のように闇に消えていっている。
そうして、カランと音を立てて何か白いものが地面に転がった。
何が起こったのか分からず、皆が皆、立ち尽くしていた。
何が原因だったのか、乾いた音の正体は何だったのか、分からぬまま。
背後に足音を聞いた。
誰か、居る。
その、背後に居る誰かは溜息をついた。
「危ないことはするなと言ったろう」
その声で、今まで強張っていた身体が動くようになった。
いつものように落ち着き払っているこの声を、聞き間違える筈もない。
「黒瀬さん!」
振り返った先に、闇で染めたかのような衣を纏う桐彦の姿があった。
桐彦は日向子をちらりと見た後、
「あんたも坊主も、無事で良かった」
と呟いた。
良かった、本当に。
けれど、喜んでいるのは日向子だけで、実能はタキと桐彦を交互に見て真っ青になっていた。
タキが一瞬にして腕を失った原因が桐彦にあると察したのだ。
実能は桐彦を止めようと必死であった。
「黒瀬、待て。こいつはタキだ。僕の乳母のタキだ」
「違う。お前の乳母だった女だ」
対する桐彦は至極冷静で、真っ直ぐに伸ばした右手を肩の高さに上げる。
手に握られているのは、拳銃であった。
銃口は実能を通り越して、タキに向けられている。
さっき聞こえたあの音は、拳銃の引き金を引いた音だったのだ。
弾が当たりタキの腕は消えてしまった。
野狐が地面から生える腕を食い千切った時、タキの腕からは血が流れていたが。
今は、血の赤は見えない。
なぜ、と考える日向子を、実能の声が引き戻す。
「黒瀬! 何をするんだ!」
「坊主が俺に頼んだろう」
「違う、僕が頼んだのは使用人を襲った女をどうにかして欲しいということで――」
「だから」
尚も続けようとする実能の言葉を、桐彦が強く遮った。
びくりと強張った実能は、それ以上何も言えなくなっていた。
「その女が、使用人を襲ったんだ」
実能は表情を強張らせた後、それでも気持ちを踏み止まらせるように、ぐっと歯を食い縛る。
「だけど、タキは話せば――」
「話しても分からなかったから、使用人は襲われたんだろう」
もう、実能は言い返さなかった。
それとも、言い返せなかったのか。
次々に突き付けられることを聞くだけで精一杯のようであった。
だらりと、力なく腕が垂れる。
実能の頭に一本だけ残ったタキの白い手が伸びる。
それは、実能を慰めようとしているように見えたが、実能はぞくりと身体を強張らせた。
顔色はみるみる青くなり、振り返りながら、恐らく実能自身も気付かぬうちに、タキとの距離を取ろうと後退っていた。
それまで表情のなかったタキが、明らかに傷付いていた。
瞳には哀しげな色が宿り、実能を見詰めた後、微笑む。
無理矢理に微笑みを顔に貼り付けたかのようであった。
タキは唇を動かし何か言葉を紡いでいるようだったが、音となっては届かなかった。
実能とタキの身体が離れたその時。
再び、夜の静寂を破る乾いた音が辺りに響いた。
桐彦の手に握られた拳銃の先からは細い煙が棚引き、そして――音を立てて地に白いものが転がる。
腕が消えた時と同じように。
それは、骨であった。
その骨を隠すかのように、タキの纏っていた白い衣が覆い被さる。
「……タキ……?」
女の姿はもう、どこにもない。
実能の声に応じる者は誰も居ないのだ。
膝を付き、恐る恐る骨に手を伸ばす。
「傍に行ってやれ」
身動きの取れなかった日向子に、指示をする。
弾かれて桐彦を見るが、伏せた顔は影になって表情が伺えない。
「俺は、いい」
それは、大丈夫だというよりも、傍に居てくれるなという意味に取れた。
言われたまま、実能の傍に近寄る。
そっと肩に触れると、実能の瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れた。
「間違いなく、タキだった」
「はい」
「手が、冷たかった。タキの手は、いつも暖かかったのに。それで――……僕は」
その冷たさにぞっとして、身体を離してしまったのだ。
ただ身体が冷えただけの冷たさではなく、生者にあるべき熱が微塵もなかったから。
「タキは、死んでいたんだろうな」
ぽつりと、そう呟いた。
ただ、静かだった。
実能の悲しみを包み込むように。
その静謐を破るように、大勢の足音、声が屋敷から聞こえた。
都筑家の使用人と、そして当主であった。
使用人達は肌に触れる空気から良くないことが起こっていると感じたらしい。
当主、都筑の身を護るべく構える。
都筑はこの場を見るなり困惑しているようであった。
そして、桐彦の姿を見付け、尻切れの声を発する。
「君は……」
顔を上げた桐彦は、以前の仕事用の表情になっていた。
「これはこれは、夜分遅くに失礼致します」
そして、日向子たちを守るように前に立つ。
好ましく思わない者が居るとは言っても、実能は都筑家の跡取りである。
その跡取りに何か危害が加えられたのではないかと、皆桐彦へあからさまな敵意を向けた。
それを跳ね除けるように、対峙する桐彦は声を張る。
ただ、それは使用人を牽制するものではなく、ただ一人に向けられていた。
「家ごとに事情はありますから、外の人間がどうこう言うべきことではありませんが――」
都筑の表情がみるみる青ざめる。
先に続けられるであろう言葉がどんなものか察しているようであった。
唇が震えている。
けれど、何も言わなかった。都筑だけではない。
場に居る誰一人として口を開くことができなかった。
都筑の、何かしらの発言を待っていたらしい桐彦は、溜息をつき続ける。
「幸か不幸か、実能くんは聡い子です。今のように、中途半端に知られる前に、全て話しておけば、良かったかもしれませんね」
その桐彦の言葉で、それまで黙っていた実能は、弾かれたように顔を上げた。
「父上、どういうことです。僕だけが……知らないのですか」
息子に問い質された都筑は、苦虫を噛み潰した表情になり、踵を返す。
戸惑う使用人達にも、中に戻るよう促した。
実能の問いは流される。
涙で濡れた瞳には、ちらちらと炎が宿っていた。
「父上!」
治まりの効かぬ感情を込めて吐出された叫びにようやく、都筑は足を止め振り返る。
息子に向ける双眸に宿るのは、一体どんな感情なのか。
暗く、窺い知れない。
「おいで。中で話そう」
吐き出すようにして発せられた声は、何か諦めているような響きを持っていた。




