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明治あやかし怪綺譚  作者: 甘露寺ちどり
訪う女の事
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第一章 一

 女は、さめざめと泣いていた。

 泣きすぎて身体が干からびてしまうのではないかと、見ていて心配になってくる程に。


 涙声でしゃくりあげながら紡がれる女の話は聞き取りにくく、それでも聞かない訳にもいかず、飯守(いいもり)日向子(ひなこ)は前のめりになりながら耳を傾けた。



 日向子は、女の斜め後ろに座っている。

 表情は伺えない。

 だから、厳密に言えば泣いているというのも日向子の憶測となるのだが――女の肩は震えているし、声もしっとりと湿っている。


 何よりこの家の敷居を跨いだ時から泣いていた。

 今も、話しながら泣いているのだろう。

 長い首が、項が綺麗な女だった。


『どうすれば良いと思う?』


 女は顔を上げ、向かいに座る男に訊ねる。

 墨を流し込んだかのように暗い色を纏う男は、あまり興味がなさそうに――返事をすることが心から面倒くさそうに頭を掻いた。


 男は、歳若い。

 二十を少し過ぎた頃だろう。

 黒い髪は襟足まで伸び、前髪も目元にかかっている。

 その奥に見える垂れ気味の双眸は、早く終わってくれと訴えているように見える。

 日に焼けていない肌のせいで不健康に見えた。

 実際のところは至って健康なのだけれど。

 体格は、良くもなく悪くもなく。

 ただ、背は高い。


 男は、ここの主――黒瀬(くろせ)桐彦(きりひこ)といった。

 桐彦は深い溜息をついた後、突き放すように言った。


「ここは、そういった相談を聞く所じゃあないんだ」


 だから帰ってくれと言外に滲ませた桐彦に、女は食って掛かる。


『あなた、言ったわよね? 話を聞くって』

「聞きはするさ」

『聞いたら、何かしらの助言をするものでしょう?』

「俺だって、助言できる話ならするし、手を貸せるものならしてやる。ただ、色恋の相談は扱っていない」

『だったらどうして、話を聞くなんて言ったの』

「聞かないと、意地でも帰らないと言ったのは誰だ」


 女は肩を震わせて黙る。

 確かに、来てすぐにそう言った。

 どうしても聞いて欲しい、聞いてもらうまでは意地でも帰らない、と。

 それ以上言い返せず、女は、わっと声を上げて畳の上に突っ伏した。


『先代は、そんな突き放すようなこと言わなかったわ!』


 涙に濡れた女の叫びは、桐彦の表情を凶悪なものへと変えた。

 主が、そんな顔で接して大丈夫なのかと不安になる程に。


 ここは、簡単に言うと相談屋である。

 困った者が訪れ、どうすれば良いかと助言を乞う。

 桐彦はその二代目にあたる。

 日向子はここに住まわせてもらう代わりに、簡単な手伝いをしていた。


 女の言う“先代”とは、今は亡き桐彦の祖父であった。

 亡くなってしばらく経つから、ここに来て日の浅い日向子は先代を知らないが、周りから聞いた話によるとどんな相談にも親身になってくれた、という。

 人望も厚かったのだろうと、皆の話から窺い知れた。

 立派な先代であったから、二代目の桐彦にもそうなって欲しいという気持ちがあるのだろう。

 皆して、何かあると先代はどうだったと引き合いに出す。


 しかしそうは言っても、誰しも他人と比べられるのは嬉しいものではない。

 劣っていると言われると尚更だ。

 比べられた時の反応は人それぞれ、我が身を反省する者も居れば、負けん気を起こして邁進する者も居る。

 桐彦はといえば――。


「当たり前だ。俺は爺ィとは違うんだ。そんな相談に乗ってもらいたいなら、爺ィに話に行けば良いだろう」


 腹を立てる――であった。

 しかし、彼岸の人に相談しろとは無茶を言う。

 さっさと帰れと言われた方が幾分かましかもしれない。

 それ以上の口答えは許さないとばかりに女を睥睨する。

 日向子ならば、それでもう黙ってしまいそうなものだが、女も負けてはいなかった。

 伏していた身体を起こし、少しも怯むことなく桐彦の視線を受ける。


『まあ――酷い! それができないから、百歩譲って貴方みたいな若造に話したのよ?』

「だから、あんたが勝手に話したんだろう。俺に助言を求めるな」


 一連のやりとりを黙って聞いていたが、日向子は女と桐彦に同情する。

 可哀想に。

 ただ、この方相談しようとした内容が悪かったのだと思います、けれど相談を請ける側としても、最初から押し切られて大変でしたね――と。


 ここに来て、桐彦の仕事ぶりを見ているが、得意なことについては本当にてきぱきと無駄のない助言をする。

 どんな相談かを最初に訊ね、助言ができることであればそのまま話をするが、できないことであれば詳しく聞かないまま無理だと断る。

 愛想はないが、無駄もない。


 ただ、女に対しては訊ねる間がなかった。

 それでも、無理にでも訊ねなかった桐彦も悪いが、取り乱していた女にだって多少の非はある。

 ここは両者痛み分けとして、桐彦は女に同情を示し、女もそれで納得し、この場はお開きとすれば女も納得しそうなものだが、それをしないのが桐彦である。


 だから、ここまで拗れてしまっているのだ。

 女は不意に首を捻じり、日向子を睨む。

 自分でも気付かぬ内に、声になってしまったのか。

 慌てて言葉を飲み込むように口元を押さえる。


『貴女はどう思う? 聞いていたでしょう?』


 怒られているのではないと分かり安堵して――すぐに、これは助言を求める先が桐彦から日向子へと移ったのだと気付き、慌てた。

 聞いてはいたが、二人のやりとりに、先のようなことを取り留めもなく考えていた程度である。

 そもそも、相談屋を手伝っているとは言っても、細々とした雑用をこなしているだけで、相談事に関しては全く口出ししたことがないのだ。


「え――……えぇと、その……」

『思ったことを、素直に言って』

「でも」


 下手なことを言って火に油を注ぐようなことになれば、桐彦を困らせてしまうかもしれない。そんなことにならないよう視線で助けを求めたのだったが。


「気にするな。思ったことを伝えてやれ」


 むしろ背中を押されてしまった。

 嫌な汗が額に浮くのが分かる。

 思ったこと、と言われても、どうすれば良いだろう。

 考えなければ。

 何か。


 女の相談は、こうだった。

 女には長く一緒に暮らしていた男が居た。

 優しい男で、周囲が羨むほど仲が良かった。

 女は男の情に奢ることなく、いつも化粧をして綺麗な姿を見てもらうよう努め、男もそんな女をいじらしく思い――尤も、それは女自身が感じていたことだが――二人は倹しく、幸せに暮らしていた。

 だが――ある日、事件が起きる。男が、女の眠る姿を見て叫んだのだ。


 ――化け物!


 その声に女も飛び起き、男の言う“化け物”を探した。

 だが、そんなものはどこにも居らず、夢でも見たのかと笑ったが、男は目を見開いて女を見ていた。

 妙に思い、顔に触れようとして気付いた。

 珍しく夜中に目を覚ました男が初めて女の寝姿を見たのである。

 化粧もしていない、その寝顔を見て化け物と叫んだのであった。

 男は女の弁解も聞かずに家を飛び出し、以来帰ってこないという。


『ねえ。どう思うの』


 必死に考えている横で急かされては、纏まるものも纏まらない。桐彦はとうとう見かねたのか、横から口を挟む。


「そんなに脅したら、答えにくいだろうが。あんたはいつかそうなる日が来るかもしれないことを承知で男と暮らしたんだろう。幸い、あんたが化け物だと周りには知られていないんだ。周りにも知れて、暮らせなくなった時にまた来い」

『化け物なんて言わないで!』


 女は悲痛な声で叫んだ。

 一つ屋根の下に暮らしていた男に言われただけでも哀しいのに、相談に来た先では適当にあしらわれ、また化け物と言われている。


 女が何と言って欲しいのか。

 それならば、悩まずとも分かっていたではないか。

 膝の上に乗せた両手を握り締め、深く息を吸う。


「ばっ……化け物、は……酷いと思います」


 意を決してそう言うと、女は涙で濡れてきらきらと輝く瞳を日向子に向けた。


『そうでしょう? そう思うわよね』


 女からの問いに何度も頷く。

 同意を得られたことで、女は満足しているようだった。

 矢張り、間違っていなかった。

 しかし、ここで終わっては単なる愚痴を聞いただけになってしまう。自信はなかったが、おずおずと続けた。


「で――でも、貴女は……まだ、その方がお好きなんでしょう?」

『えっ……?』

「もう、どうでもいい人なら、どうしようなんて悩まないんじゃないでしょうか」

『それは――……』


 そうだけど、と女は唇を尖らせた。

 視界の端に桐彦の顔が入る。

 口の端が上がり、笑っているように見えたのは日向子の気のせいか。

 桐彦を視界から外し、女に向き直る。


「でしたら、納得できるまで待ってみてはどうでしょう。同じ時間を過ごしたのですから。あちらだって、貴女のことを想っている筈です。もしかすると、今、貴女に酷いことを言ったと悔いているかも」

『そう……かしら……』

「そうですよ、きっと」

『そ……そう、そうよね?』


 それまで顔だけを日向子に向けていた女は、身体ごと向き直った。涙に濡れていた女の目が輝く。


『貴女に聞いてもらえて良かったわ』


 女は、日向子の手を握り、何度も上下に振る。そして、こうしている間も惜しいというように勢い良く立ち上がった。


『こうしちゃいられない。あの人が帰ってくるかも』


 目を真っ赤にして泣いていたのが嘘のように、その表情は活き活きとしていた。

 挨拶もそこそこに、慌ただしく座敷を去る。

 それは嵐のようであった。

 その後ろ姿を見送り、身体の力が抜け、ようやく安堵の息をついた。

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