第四章 一
夕餉を終えると、眠るまで暇だという実能に付き合うのが決まり事だった。
毎晩、消灯するまで実能の好む本の話をしたり、他愛のない話を聞いたりしてやる。
それは、タキが居た頃から変わらないらしい。
実能はよくものを知っている。
だから、日向子にとって夜のひとときは苦痛ではなく、むしろ楽しいものであった。
しかし、この日は少々事情が異なっていた。
昼間、野狐に言われたことがずっと頭から離れないのである。
屋敷の周りをうろついている女は、タキだろうと言う。
しかし、それは生者ではない。
――タキって女は、もう死んでいるだろうよ。
実能の乳母タキは、もうこの世に居ない。
それが事実とするならば、亡くなって、あやかしになったということか。
あやかしになり、何かしら思うことがあって屋敷の傍に姿を現すのか。
使用人や桐彦の生気を吸い、生き永らえなくてはならない事情があるのか。
ふと顔を上げると、実能と目が合った。じっとこちらを見詰めている。
「どうしました?」
「今日は、いつもより更にぼんやりしているな」
「そうですか? そんなことありませんよ」
そんなに、傍から見ても分かるほどぼんやりしていたのか。
いや、しかし聞いていなかったと言えば何と言われるだろうか。
一日の終わりを嫌味で締め括られるのも堪らないから、適当に誤魔化しておく。
だが、相手は実能だ。
素直にそれを信じようとはしなかった。
「だったら、今僕が話していたことを言ってみろ」
言える筈がない。聞いていなかったのだから。
「え……え? あ――……えぇと、そのう……」
せめて、ほんの断片でも頭の隅に残っていないかと箪笥の引き出しを引っ繰り返すようにして思い出してみるが、端からないものを探すという方がどだい無理なことだ。
目を泳がせて、場繋ぎに意味のない言葉を吐き出す間も、じっと向けられる視線を感じていた。
嘘を言って誤魔化そうとした日向子にも非はあるが、実能も実能だ。
最初から、日向子が聞いていなかったと分かっていて言えと言うのだから。
「どうした? 言えないのか」
もう、降参するしか手は残されていない。結局、肩を竦め、身体を小さくして謝る。
「すみません……考えごとをしていて、聞いていませんでした」
聞いていなかったことと、最初から素直に認めなかったこと。
二重に怒られるだろうと身構えたが、実能は溜息をついただけで、それ以上は何も言わなかった。
二人が黙ると、部屋は隙間を埋めるように沈黙が満ちる。
隣に座る実能を見る。
大人を真似て懸命に背伸びをしているが、まだまだ子供だ。
実能は、タキに会いたいだろう。
しかし、タキがあやかしだと――使用人に害を加えたのだと知れば、どうだろうか。
それでも、会いたいと思うだろうか。
日向子ならば。
実能が日向子で、タキが美夜子ならば。
美夜子があやかしであったとしたら。
会わないか――いや、それでも会いたい。
どんな形であれ、美夜子に会いたい。
「日向子」
満ち満ちた沈黙に吸い込まれそうな小さな声が、日向子を呼んだ。
「どうしましたか?」
首を傾げて応じると、実能もすぐ先を続けようと口を開いたが、しかし言葉は出てこず黙りこんでしまった。
再びの沈黙が訪れる。
確かに、実能は日向子を呼んだ。
聞き間違いではない。
何か話したいことがあったのだろう。
しかし、だからといって、どうしたのかと急かすとへそを曲げてしまうから、黙って実能から切り出すのを待つ。
長いような短いような間の後。
機嫌の悪そうな声音で問われた。
「……怒られたんだろう」
初めは、何を言っているか分からなかった。
怒られたのだろう、とは日向子が、ということだと思われる。
話を聞かず、上の空の理由は怒られて落ち込んでいると気にしてくれたのか。
だが、今日は幸い何の失敗もしていない。
少しずつだが、掃除も上手になったと思う。
いくら日向子でも、自分が怒られているか褒められているのかくらいは分かる。
「いいえ」
心当たりはなかったから素直にそう答えた。
何より、先程考えていたことは全く別のことだったのだから。
しかし、実能はそれを信じようとはしなかった。
「隠さなくて良い。僕のことで、怒られたんだろう」
「まさか」
なぜ、実能のことで怒られるのか。
心当たりがないどころか、青天の霹靂のことで、何度も首を横に振る。
「実能さんは、何も悪いことをしていないでしょう?」
少なくとも、今日は。
それは喉元で飲み込んだ。
実能が頷いて万事解決と思ったが、表情は更に追い詰められたものとなる。
しばらくの後、溜め込んでいたものを吐き出した。
「嘘をついた」
「嘘?」
告げられたのは思いもしなかったことで、日向子は目を瞬かせて、言われたことをそのまま返した。
実能は頷くと、ぽつぽつと話し始める。
「……この前の、夜。水を飲みに行っていたんじゃない。外に、出たんだ。問い詰められて、誤魔化したが」
「ああ――……」
廊下が汚れていたと女中頭に怒られた件だ。
嘘だとすぐに分かるような態度であったから、もうすっかり気にしてはいなかった。
実能にだって知られたくないことはある。
嘘をついて破って後ろめたかった所に、日向子が詰め寄ってしまったから意固地になっていたのだ、きっと。
「外の空気が吸いたかったのでしょう?」
「違う! そうじゃない。……そうじゃない」
そんな日もあるだろうと流しかけた日向子だったが、実能はすぐさま否定した。
その剣幕に驚き言葉を失う。
そして、言うべきか黙るべきかの思案の後。
「……タキが、居たんだ」
タキが。
そうか、見たのか。
屋敷の周りをうろついている件の女を。
吐き出してしまうと、後は饒舌だった。
実能には、あの夜のことが鮮やかに蘇っているのだ。
「タキがやっと帰ってきたと思った。だけど、僕の部屋を見たままずっと動かない。遅い時間で遠慮しているのかと思って、外に出たんだ。それに、件の女と鉢合わせてはまずいから。だけど……タキの姿はなかった」
実能はその女がタキと瓜二つであるとは知らないのだ。
だから、タキはタキで、件の女は女、別人だと思っている。
女は――矢張り野狐の言っていた通りタキなのだろう。
屋敷を訪うのは、心残りがあるからだ。
そして、その心残りは――実能にあるのではないか。
だから、実能の部屋をじっと見詰めていたのではないか。
ならば――どうすれば良い。
日向子ならば、どうしたい。
日向子がタキならば。
会いたい人に会えれば、満たされるのではないか。
タキと実能が会えば、双方の望みが叶うのではないか。
喉元まで出掛かったが、すぐに飲み込む。
それが正しいと決まった訳ではない。
そうやって勝手に思い描いて桐彦を危ない目に遭わせたではないか。
もう同じ思いはしたくない。
日向子が口を噤んだままなのを、どんな意味に受け取ったのか。
実能は拗ねたように唇を尖らせている。
「……まだまだ乳母離れしていないんだって笑いたいんだろう」
「いいえ、まさか」
だが、実能は、ついとそっぽを向く。ああ、またへそを曲げてしまった。
「実能さん、私、そんなことちっとも思っていませんよ」
「さあ、どうだかな」
何と言ってやれば良かったのだろう。
そもそもは、実能の勘違いから始まったのだ。
怒られていないのに、怒られたのだろうと思い込んで。
しかしそれは、今までに多々あったことなのだ、きっと。
自分に聞こえない所で怒られ、それを人伝に聞く。
正妻の子ではないからと陰口を叩かれて。
それが実能にどれ程の負担となっていたことか。
無理にでも自信を作り、堂々としていなければ押し潰されてしまいそうだったのかもしれない。
ちらりと様子を伺うと、実能はじっと窓の外を見詰めたまま固まっていた。
「実能さん?」
呼びかけても返事はなく、じっと一点を見詰めたまま動かない。
理由を探るため、実能の視線の先を探る。
窓の外に、タキと思しき女が居たのだ。
実能の言っていた通り、じっとこちらを見詰めている。
あっ、と思った時にはもう、実能は椅子から立ち上がり、扉へと駆けていた。
タキがただ実能に会いたいがために姿を見せたのなら良い。
けれど、使用人や桐彦の時のように生気を吸うつもりであったら。
椅子から立ち上がり、振り返った時にはもう開け放たれた扉の向こうに闇が続くばかりで、実能の姿はなかった。
どうするかと考える間も惜しい。
日向子も廊下へと出た。
昼間、明かりに満ちた屋敷は、もうすっかり眠りに落ちて静かであった。
急ぎたいけれど、大事にはしたくない。
音を立てぬよう気を付けながら小走りになる。
いつもならば気にもしない自分の吐息ですら、大きな音に聞こえる。
尤も、目的が厠に行く、というものや、喉が渇いたから水を飲みに行く、ということであればそんな微かな音は気にもならない筈だ。
周りに知られては困ることをしているから気になってしまうのだ。
長い廊下の先、外に続く扉が開け放ってあった。
あそこから、実能は外に出たのだろう。
星の輝く夜空の下、門へと続く小路に実能の後ろ姿があった。
「実能さん!」
屋敷内では出せなかった声で呼ぶ。
実能は足こそ止めなかったが、弾んだ声で返す。
「タキが、居たんだ! 迎えに行ってあげないと!」
鉄製の門の脇に作られた潜戸を開け、外に出ていた。
通りで足を止めた実能に、ようやく追い付いた。
実能は、肩で息をしながら左右にタキの姿を確認していたが、しかし厚い夜の帳が下りるばかりで、誰の姿もない。
走ってきたからか、それとも再会への期待が裏切られたからか、足取りは重い。
身体を引き摺るようにして、先程女が立っていた場所に向かっている。
日向子も、黙ってその後に続いた。
ここに立って見ていたのか。窓越しに、実能を。
どんな気持ちであっただろう。
女が立っていたであろう場所から屋敷を見ると、実能の部屋の窓が望めた。
「タキ……」
呟きが虚空に吸い込まれる。
あの夜も、同じだったのだろう。
タキの姿を見て部屋を飛び出したが、姿は闇に溶けてしまったかのように、どこにもない。
見間違いか、と自分を納得させて家に戻る。
けれどまた、別の夜に姿を現すのだ。
「実能さん……」
呼び掛けると、実能は袖で顔を乱暴に拭い、振り返った。
「タキのやつ、どこに隠れたんだろうな。僕をからかって楽しんでいるんだ、きっと」
努めて明るい口調だったが。
無理に繕っているのが分かる。
張り詰めた感情は、今にも切れてしまいそうだ。
いつも自分の味方だったタキが屋敷を出て、実能は辛かっただろう。
跡継ぎらしく堂々としていなければ。
しかし、そんな態度は人によっては反感を覚える。
血が血だからと陰口を叩かれても、弱音は吐けない。
そんな、ぼろぼろになった実能の前にタキが姿を見せたのなら。
ただ一人、弱音を吐ける人が。
それはもう、駆け出したくなるのも当然ではないか。
しかし、日向子は知っている。
タキと思しき女は生者ではなく、あやかしであることを。
それも人を傷付ける類の。
だから実能の気持ちを大切にしたいが、女に近付けたくはない。
「私が居ますよ」
勢いのまま、それで実能が喜ぶのかを考えるよりも先に、口をついて出ていた。
「私が、タキさんの代わりになります」
美夜子を失って抜け殻になっていた日向子にも、桐彦が居てくれた。
だから、今があるのだ。
何でもないように振舞っている実能も、寂しいに違いない。
自分が少しでも役に立てるならば。
そう思ったのだ。
だが、言ってしまった後で何とも厚かましいと気付く。
屋敷に来てからは毎日顔を合わせているとはいっても、まだ知り合って長くはない。
日向子が実能を大切に思っている乳母の代わりになるなど。
実能は驚いて、丸く見開いた目をじっと向けてくる。
一度、口を出てしまった言葉は引っ込めることができず、観念して続ける。
出しゃばってはいるが、言ったことに嘘偽りはないのだ。
「いえ、あの――そりゃあ、至らない所はありますけれど。きっと、寂しくはありませんから」
怒るか、呆れるか。
どちらにしろあまり良い風には取られないだろうと覚悟していたが、実能は思わずといった風に笑い出した。
肩を震わせながら、日向子を見る。
目には薄っすらと涙が浮いていた。
「そうだな。確かに、日向子が居ると寂しくはない」
身体の力が一気に抜ける。
「な――何ですか、その言い方……」
からかうような口ぶりに、思わず頬を膨らませた。
日向子が今のようになるまで時を要したから、実能も同じように時が必要だろう。
少しでも、その支えになろう。




