第三章 七
朝餉を終えるか終えないかの頃、女中頭の悲鳴にも似た声で呼ばれた。
「飯守さん! 飯守さん、ちょっと!」
「は、はい!」
味噌汁を一息に飲み干し、声の方へと急いだ。
女中頭は、一階の廊下でわなわなと震えている。
見ると、廊下が泥だらけではないか。
点々と足跡が続いている。
「まさか、泥棒ですか?」
昨晩、日向子が実能と別れた後のことだろうか。
そうならば、悠長にしてはいられない。
何を盗られたのか探さなければ。
そして、こんな時は警察に連絡するのだったか。
慌てる日向子であったが、女中頭は先に冷静さを取り戻したようだった。
咳払いをし、日向子にも落ち着くよう促す。
「泥棒などではありません」
「でしたら――」
「実能坊ちゃんでしょう」
他に誰が居るのだとばかりに決め付けるように言い放つ。
そういえば、昨晩、実能と話をしたのはここだが、眠れなくて台所に行っていただけだ。
それでこんなに汚れるものか。
「まさか、そんな」
「足跡が部屋まで続いています」
実能ではあるまい、と言う前に、否定されてしまった。
「早く掃除をなさい」
「はい」
もう何も言わず、素直に頷いておくに限る。
「まったく、こんな品のないお子が跡継ぎなんて。奥さまが不憫だわ」
女中頭はそんなことを愚痴愚痴と言いながら、自分の仕事へと戻っていった。
これだけで品がないと言われる実能も不憫だと、その背を眺めながら思う。
実能はなぜ廊下を泥だらけにしたのだろう。
歩いた後に土が残っているから、土足で外に出て玄関で土を落とさなかったに違いない。
しかし、何をしに外に出たのか。
夜、皆が寝静まってからの外出。
寝間着で出るような距離。
思い当たることは一つしかない。
件の女である。
女を見に行ったに違いない。
それは間違いなく日向子のせいだ。
日向子が女を見たと仄めかしたから、実能も興味を持ってしまった。
実能まで桐彦と同じ目に遭わせてはいけない。
実能が帰宅するのを待ち、部屋に引っ張って行き問い質した。
「お――おい、日向子。どうしたんだ」
知られているとは思っていないのか、やけに呑気である。
「実能さん。昨夜は眠れなくて台所に水を飲みに行ったと仰っていましたよね」
「ああ、言ったな」
「なのに、どうして外に出ていらしたんですか? 台所は、外にはありませんよ」
実能がぎくりとしたのを見逃さなかった。
それでも、常に自信満々、日向子を見下している実能である。すぐにいつもの自信を取り戻す。
「出ていない」
「嘘はやめてください」
「どうしてそんなことを言う。僕の言うことが信じられないのか?」
「それは、信じたいですが……」
信じたいのは山々だが、ならばあの足跡はどう説明をすれば良いのだ。
日向子が口篭ったのを好機と取り、実能は、押し切ろうとする。
足跡のことを知らないのだ。
「だったら信じろ」
まあ――女中頭も最初から実能を疑って掛かっていたし、もしかすると実能の足跡ではないのかもしれない。
「……はい」
頷いてはみたが、どうしても渋々という風になってしまう。
そんな日向子の内心は、実能には手に取るように伝わっているようである。
「信じていないだろう」
見透かされてしまっている。
「い――いえ、そんな」
取り繕ってはみたが、それはもう口先だけだった。
「どうせ、品がないだの奥さまが可哀想だの言っていたんだろう?」
実能は口の端を釣り上げ、歳に似合わぬ皮肉っぽい表情を浮かべた。
それはそのまま女中頭が言っていたことに間違いはなく、あまりに的確すぎたために日向子は目を瞬かせた。
否定することも忘れ、素直に頷く。
「はい――その通り、です……」
「良いんだよ。慣れている」
「慣れているって……」
慣れて良いものではないのに、そもそも、実能のような歳の子に言うべきことではないだろうに、実能は平然としていた。
否、平然であろうとしていた。
「僕は、母の子ではないからな。仕方ないんだ」
母の子ではない、とは、あの挨拶の日に会った都筑夫人の子ではないということだ。
「僕は、外の女に産ませた子だからな。血が血だと、皆が言う。その母というのも、僕を産んでどこかに行ってしまった」
言葉だけを見れば諦めているようであったが、紡がれた声音は悲痛だった。
はたと気付く。
日向子が家族の話をした時だ。
母が違うのか、と言う実能は日向子に同情しているように見えた。
あれは、自分のことがあるからだったのか。
「……タキだけだ」
その後に続いたのは、懐かしむ声。
今、傍に居ない心の支えを求めているのだ。
「タキだけは、僕を見下したりしなかった。僕が母の子ではないからといって、乳母を辞めるとも言わなかった」
多くは語らなかったけれど、実能はその身体の中に大人たちから嫌な感情を日々流し込まれているのだろう。
これまではタキが守ってくれていたのだろうが、そのタキも居ない。
都筑は、実能とそりが合わなかったから女中が辞めていったように言っていたが、女中だって実能に対し失礼な態度を取っていたのではないだろうか。
「わ――私も」
勢いのまま、そう口をついて出た。
「私も、実能さんを見下してはいませんよ」
実能は暫し驚いていたが、すぐにいつものようなふてぶてしい笑みを浮かべた。
「まあ、日向子は僕より間が抜けているからな」
「そんなことを言って、酷い」
腕を組んで頬を膨らませ、怒ったふりをする。
少しの間睨み合った後、何方ともなく笑い出す。
もう、足跡の件もどうでも良くなっていた。
実能のものであったにしろ違うにしろ。
実能が無事だったのだからどちらでも良い。
ただ、釘は刺しておかなければ。
「今朝、廊下が泥だらけだと言われたんです。誰かが、土足で歩いたらしくて。廊下を汚したって、掃除をすれば良いだけですから、良いんです。ただ、危ないことをしなければ」
あの女に近付かないでくれさえすれば。
素直に頷きかけた実能だったが、すぐに何かに気付いたように眉根を寄せる。
「まるで、僕が夜中に出歩いたみたいじゃないか」
「……あら、そう聞こえました?」
翌日――いつものように実能を学校に送り出すと、掃除に取り掛かった。
窓硝子を一枚一枚拭いていたのだが。
その一枚を隔てた向こうに、白い狐の姿があった。
「野狐さん!」
慌てて窓を開けると、軽やかに野狐が飛び込んできた。
指折り数えてみてもほんの十日程度会わなかっただけである。
それなのに、懐かしい。
『よーう、ヒナコ。元気か?』
「はい。元気ですよ」
野狐は嬉しそうに尻尾を揺らす。
『こっちも元気だ。旦那は、ちいっと機嫌が悪いかな』
それは意外だった。
何事か、気に入らないことでもあったのか。
「機嫌が……悪い?」
『ああ。蛤の作った飯を不味そうな顔して食ってる。失礼だよなぁ』
幼い頃から食べ慣れた味が不味いとは、身体の具合が悪いのではないだろうか。
「黒瀬さん、どこか悪いところがあるんですか? それとも、蛤さんが……」
身体を壊して、うまく料理ができないのかもしれない、そう思ったのだが。
『いいや、旦那は元気だし、蛤の飯もいつも通り美味いぜ』
「だったら……」
なぜ、と首を傾げると、野狐は押し殺したように笑う。
『家が広くなって、ようやく気付いたんじゃねえのか?』
可笑しそうに言う野狐だったが、しかしそれ以上のことは教えてはくれなかった。
野狐の興味が、別のものへ向いたのである。
『ん? ヒナコ――……』
何かに気付いたのか、日向子の袂に飛びつく。
一枚の紙が、ふわりと床に落ちた。
実能から借りていた、烏のような模様の描かれたお守りであった。
返すのを忘れていた。
「あ、それ。実能さんが貸してくれたんです。会いたい人が夢に出てくるって……」
結局、日向子の夢には誰も出てこなかったが。
そう説明したが、野狐の耳には届いていないようだった。
『熊野牛王じゃねえか。――これはそういう使い方をするモンじゃねえよ』
耳慣れない言葉であった。
首を傾げながら確認するように訊ねる。
「くまの……ごおう?」
それが、あまりに無知な問いに聞こえたのだろう。
野狐はあからさまな溜息をついた。
『熊野三山で配布される神札だよ。護符にしたり、裏に起請文を書いたりする。分かるか? 熊野三山。ヒナコはものを知らねえからなあ』
まるで、日向子が馬鹿のように言う。
確かに知らないことは多いが、まるきりの馬鹿ではない、と思うのだが。
「本宮、新宮、那智の神社ですよね。……その、牛王というのは、私が読んだ本には出てこなかっただけです」
『太平記にも出てくるんだが――……ああ、そうか。そうだなあ。ヒナコが好きなのは黄表紙だったか』
「黄表紙以外も読みます」
やはり、分かってくれていない。
頬を膨らませる日向子だったが、野狐は何かに気付いたように黙りこむ。
そして、その後。
『熊野……』
ぽつりと呟いた。
「熊野が、どうしました?」
『ああ――いや。坊主は、この紙をどこで貰ったのかと思ってな』
どうした、と言ってはいなかったが、恐らくの予想はできる。
この紙を敷けば夢に現れると言うのだ。
よほど、縁のある人物である。
ならば、それは一人しか居ない。
「乳母の、タキさんだと思います」
そうだ。突然の訪問に吹き飛んでしまっていた。タキのことを伝えなければ。
しかし、何と言えば信じてもらえるだろう。
あの写真を見せれば言わずとも分かることだが、野狐をそこまで連れて行くのは危ない。
『どうした?』
「いえ、その――信じてもらえないかもしれないのですが」
そう前置きをした。
大丈夫、野狐ならば信じてくれる。
そう言い聞かせ、思い切って切り出した。
「その、タキさんの写真を見たのですが、あの夜に会った、肉吸いの女性にそっくりで」
すると、みるみる野狐の目が輝いた。
「見間違いではないと思うんですが」
『見間違い? そこまでヒナコはぼんやりしてねえだろ。――帰って旦那に知らせてくる』
「ま――待ってください!」
『どうした?』
「その、女性は――……タキさんは、肉吸いなんですか?」
ずっと気になっていたことだ。まさかと思う気持ちと、そうに違いない、という思いがあった。
『そうかもしれねえし、違うかもしれねえ。ただ――俺様は、そうだと思う』
ならば、話をしようにも通じなかった女は、殺されるなり何なりするのだろうか。
実能の知らない所で。
桐彦の手によって。
『納得できねえって顔してるな』
「……はい」
『俺は、考えることは全部旦那に任せてるから、答えられねえこともあるけど。試しに言ってみろ』
何と訊ねれば良いだろう。
疑問がぐるぐると渦を巻き、悩んだ末に、ぽつりと一つ零す。
「つまり……タキさんは、あやかしなんですか?」
あやかしが乳母となり、実能を育てていたのだろうか。
だが、野狐は大袈裟に首を振る。
『いや、ここで坊主を育てていた時は人間だっただろうな』
ここに居た時は人間で、けれど今はあやかしで――。
身体を壊して暇を乞うたタキはどうしたのだろうか。
そろそろ帰らなければならないのか、野狐は窓枠に飛び移る。
『ただ――本当にあの女が乳母だったなら。そのタキって女は、もう死んでいるだろうよ』
「えっ……?」
タキが、もう死んでいる?
日向子の問いから逃げるように、野狐の身体はひらりと空に舞った。




