第三章 六
「妹が嫌いなのか」
だから、実能の発した問いに目を瞬かせた。
何故、そう結び付くのか。
「まさか。嫌いでは――……ない、と……思います」
嫌いではない。
ない筈だ。
だが、みるみる声が小さくなる。
それとも、日向子自身も気付かぬうちに美夜子を嫌っているのか。
実能はそれを感じ取ったのだろうか。
すると、実能は追い打ちをかけるように言った。
「馬鹿か」
「――……は……」
ここまで遠回しにせず言われたことはなかった。
桐彦も思ってはいただろうが、こうもきっぱりとは言わなかった。
呆れて溜息をつくくらいだ。
あれはあれで、抉られるものがあるけれど。
馬鹿、という言葉が頭の中で繰り返される。
そんな日向子に、実能は構うこと無く続けた。
「我儘ばかり言わせて甘やかしていると、ろくな大人にならないぞ。妹が可愛いのなら、甘やかすばかりじゃ駄目だ」
「でも――……」
「でも、何だ? 周りの大人が言うからか? 馬鹿馬鹿しい。大人だって間違う」
「まさか」
大人が、日向子よりも永く生きている人々が間違う筈がない。
そんなことは有り得ない。
けれど、年下の実能は日向子よりも物知りだとばかりに威張って言う。
「大人だって間違いはする。その間違いを隠すのが上手なだけだ」
そうか――なるほど、と納得してしまって、年下のくせにという気にはならなかった。
祖母も間違っていたかもしれないのか。
「日向子の家の仕来りだから、僕がどうこう言うべきことではないだろうがな。ただ、妹は不満があったんじゃないのか?」
「不満……? でも、望むものは、何でも手に入って……」
「物が手に入るからといって、不満が生まれない訳じゃない。そうやって、不満なんてないだろうと思われて、吐き出せる先がないのは辛いぞ。せめて、日向子に気付いて欲しかったんじゃないのか。ただ、素直になれないから我儘を言って縛っていたのかもしれない」
美夜子も不満を抱えていたのか。
あれ程、恵まれているように見えた美夜子も。
「どうして、そう思うんです?」
「僕も、そうするかもしれないと思ったからだ」
「実能さんも?」
「もしかしたら、の話だ。彰子にしていないぞ、そんな八つ当たり」
八つ当たり――。
あれは、八つ当たりだったのか。
気付いてくれという。
あれが欲しい、これが欲しいとは言えても、気持ちは素直に言葉にできない美夜子の。
もっと早くに気付いていれば良かった。
そうすれば、美夜子とも違った関係を築けただろうに。
今更言っても仕方のないことだが。視界がゆらりと歪む。
「おい、日向子?」
いや――きっと、日向子自身ずっとそれに気付いていた。
気付いていたのにそうしなかったのは、流されていた方が楽だったからだ。
美夜子のことを考えないで。
「待て、泣くな。言い過ぎた、僕が言い過ぎたから」
「いえ……本当のこと、ですから」
そう。
実能は言い過ぎてなどいない。
いつだったか、桐彦に言われたことが蘇る。
――あんたは人形か。
自分で考えるようになったと思いながら、夢の中にその姿を求め、指示を待っていた。
美夜子なら、何と言うか。それを考えていた。
そうではない、それでは駄目なのだ。
今度こそ、自分で考え、動かなければいけない。
もう、人形ではないのだから。
「ありがとうございます」
懐から手拭いを出し、涙を拭く。
行儀見習は学びに出ているのだ、とは本当のことだな、と思った。
実能は照れくさそうに顔を逸らす。
「まあ――とりあえずは、屋敷を案内してやる」
「よろしくおねがいします」
元々、そう言って引っ張って来られたのだったと、今更のように思い出した。
「ここは、僕の部屋だ。日向子は毎日、掃除をすること」
柔らかそうな寝台に、机と箪笥。
無駄な物は一つもない。
ふと、立派なマントルピースが目に留まった。
導かれるように近づくと、その上に写真が飾られているのが分かった。
細かな細工の施された縁の中。
赤子を抱いた女性が、屋敷の前に立っている。
屋敷は、ここ――都筑邸である。
白いふわふわとした産着を着せられた赤子は、まだひと目では男女の違いも分からない年の頃だ。
そして、その赤子を、女性は心から愛おしそうに抱いている。
浮かべられた微笑みは、しかし少しばかり哀しげであった。
「僕と、乳母だ」
写真の前でじっと動けなくなった日向子の隣で、実能が説明をする。
思わず写真から目を離し、実能を凝視した。
「……何だよ、僕だって小さい頃があったんだぞ」
「そうですよね。はい……分かります」
今よりももっと小さい頃の実能は、どんな風だったのだろう。
それはとても微笑ましい話だと思うのだが、ぼんやりとしたまま返事ができない。
「タキは、できた乳母だった。甘やかすばかりでなく、しっかりと躾けてくれた」
女性は、タキというのか。
実能の話を聞かなければいけないのに、ごちゃごちゃと散らかる頭の中はそれを許してはくれない。
ようやく、実能も妙だと気付いたようだ。
「どうした?」
首を振って答える。
「いえ、何でもありません……」
実能に言うべきことではない。
桐彦に知らせるべきことだ。
写真に写る、実能の乳母――タキは、あの女――肉吸いに、瓜二つだったのだから。
それからは、まず新たな暮らしに慣れることから始まった。
朝、日の出よりも前に起きて庭の掃除をする。
朝餉の支度が整った頃に、実能を起こす。
実能を学校に送り出したら、次は屋敷内の掃除だ。
その合間合間に日向子も朝、昼と食べる。
夕方になると実能が帰宅し、息をつく間もない。
桐彦が家に来るように言った時、掃除洗濯はしなくて良いと言ったが、その有り難みが今になって身に染みた。
慣れないこと続きで手際の悪さを叱られたりもしたが、これも勉強と思った。
初めて続きで気を張っていたのだろう。
夜はぐっすりと眠れた。
美夜子が夢に出てくることもなくなった。
単に、疲れて夢すら見なかったからでもあるのだろうが――しかし、それだけではないように思えた。
尤も、あと一度くらい夢ででも会いたかったけれど。
これまでの詫びと礼を伝えたかった。
そんな慌ただしい毎日を送りながらも、あの写真を忘れたことは一度もなかった。
どうにかして桐彦に伝えたいと思うが、屋敷を抜け出す機会などない。
野狐が様子を見に来ると言ったが、さて人の姿で堂々と門を潜るのか、それとも狐の姿でこっそりと訪うのか。
何の音沙汰もないまま、十日が過ぎた。
その夜は珍しいことに寝付けず、水を飲もうと女中部屋を抜けだした。
暗い廊下は、昼間とは全く別の顔をしていた。
広い屋敷にも慣れたが、それは明るい時の話で、暗くなってくると右も左も分からない。
同じ場所を何度も通っている気になってくる。
そろそろ水は諦めて部屋に戻ろうと思ったが、しかし今度は女中部屋の場所が分からない。
さて、どうすれば良いのか分からず途方に暮れていると、廊下の向こうに白い影が見えた。
誰だろうかと身構えている間に、影はみるみる近づいてきた。
手には燭台を持っているようで、ゆらゆらと火が揺れている。
影が近付いて、ようやくその火に照らされた顔が分かった。
「実能さん」
白い影は、寝間着姿の実能だった。
「何だ――……日向子か」
ほっと安堵の息が漏れる。それは実能も同じようだった。
どちらともなく距離を詰める。
「眠れないのか」
「はい。水を頂こうと思って」
すると、実能は妙なことを聞いたとばかりに眉を寄せた。
「台所は逆の方向だが」
「あ、いえ、水を頂くつもりで出て……迷ったんです」
まだ屋敷内を覚えていないのかと怒られるか呆れられるかすると思ったが、意外にも実能は笑って頷いた。
「ああ、僕も小さいころは、夜になると迷っていたらしい」
「実能さんも?」
自分の家で迷うものなのか。
言葉にはしなかったが、それはしっかりと実能に伝わっていた。
じっとりとした目で睨まれる。
「自分の家なのに、と思ったんだろう」
「いえ、そんなことは……」
「顔に書いてある」
ぺたりと顔に触れてみると、再び実能に笑われた。
「喩えだ。――この屋敷も広いし、夜は明かりもないから仕方ないだろう」
それも――そうか。
日向子ですら迷うのだ。
幼い子供が迷わぬ道理はない。
「迷った時は、いつもタキが探してくれた」
出てきたその名に、つい身構えた。
一つも聞き漏らすまいと集中する。
乳母、タキの話をする実能は懐かしみながらも、少し寂しそうだった。
知らないのか。
外を徘徊する女が瓜二つであることを。
暇を出しているという話だったが、今、タキがどこに居るのか知っているのだろうか。
今なら、訊ねてもおかしくはない。
「タキさんは、今……どちらに?」
何気ない風を装って問うたが、みるみる実能の表情は曇った。
「どこに居るんだろうな。文を書くと言っていたんだが。……一通もこない」
決して哀れんだつもりはなかったが、日向子の視線はそう取られてしまったようだった。
「べ――別に、寂しいと言っているんじゃないぞ。タキはずっとこの家に仕えてくれたんだ。気に掛けてやるのは当然だろう」
「はい、はい。分かっていますよ」
その慌てぶりは見ていて微笑ましい。
けれど、実能にとっては日向子が向ける眼差しが恥ずかしいようだった。
「日向子こそ、寂しいんだろう。い――妹、大切な妹に会えなくて」
実能としては、照れ隠しの延長でしかなかったのだと思う。
だから、はいはいと流せば良かったのだ。
それなのに、表情を硬くして黙りこむことしかできなかった。
「日向子?」
「え? あ――……すみません」
「何か、僕は嫌なことを言ったか?」
いいえ、と否定するよりも先に、別の言葉が出ていた。
実能と、大切な人の不在を共有したかったのかもしれない。
「妹には、会いたいですが……もう、亡くなったものですから」
そして、言ってしまった後で実能の浮かべる哀しげな表情を見て、しまった、と思った。
なぜ、年下の少年に凭れ掛かるようなことを言ったのか。
彼だって、乳母の不在は寂しいだろうに。
ここは、日向子が支えるべきであったのだ。
「で、ですが、もう落ち着きましたし。大丈夫です」
しどろもどろで言ってみるが、実能は唇をきゅっと結んだまま何も言わない。
「すみません、実能さん……」
「日向子」
その声はしっかりとしていて、思わず背筋が伸びる。
「はい」
「これを持って、ここで待っていろ」
返事をする間も与えず、燭台を押し付けられた。
日向子が握ったのを確かめ、踵を返して駆け出してしまう。
実能の姿は、すぐに廊下の闇に飲み込まれる。
「あ、あの、実能さん? 実能さあん」
夜の静謐を邪魔せぬよう、けれども姿を消した実能に届くよう、できる限りの声で呼びかけた。
しかし、実能はそんなことで足を止めることなく、ばたばたと足音だけが聞こえた。
それも、程なくして消えてしまう。
どうしようか。
どうするべきか。
戻ってきて日向子の姿がなければ、明日はきっと機嫌が悪い。
そして何を思い付いたのか気にもなった。
揺れる蝋燭の火を見て、待つのも礼儀のうちだろうと結論を出した。
程なくして、戻ってきた実能は、息を切らしながら一枚の紙を差し出した。
「これを、枕の下に敷いて寝ろ」
烏と思しき黒い鳥の絵が組み合わさり、模様を作っていた。
「病を治す呪いに使ったりもするらしい」
「私、病ではありませんよ」
「知っている! 病の他にも、色々なことに使われるらしい。……よく覚えていないが」
時間も憚らない大きな声であった。
「これを枕の下に敷いて寝ると、タキが出てくるんだ。会いたい人が出てくるのかもしれない。日向子の妹が出てくるかは分からないが、試してみるのも悪くないだろう」
実能なりに気遣ってくれているのだ。
蝋燭の明かりに照らされているからか、実能の頬は赤く染まって見えた。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取り、ふと気付いた。
「実能さんは、どうして廊下をうろついていたんです?」
刹那、言葉に詰まったようだった。
少しして、咄嗟に用意したらしい答えを返す。
「僕も、眠れなくて、水を飲みに行っていたんだ」




