第三章 五
ガラガラと音を立て、馬車の影が消える。
それを見送った後、都筑夫婦は改めて日向子に向き直った。
「これから、宜しく頼むよ」
「実能さんのこと、お願いね」
「はい」
「まずは、屋敷の中の案内を――」
「それは、僕が」
都筑が皆まで言う前に、実能は日向子の手を引き屋敷の中に連れて行く。
誰一人として止める者はなかった。
単に、止められなかったのだ。
唐突過ぎて。
「ちょっと、何をするんです――」
「黙って付いて来い」
階段を上り、廊下を駆け、とある一室に押し込められる。
大きな音を立てて扉が閉められたかと思うと、そのまま乱暴に壁に身体を押し付けられた。
頭ひとつ分低い位置から、実能の鋭い視線が向けられる。
ここまで走ってきたせいで、肩で息をしていた。
呼吸が整うのを待って、実能が口を開く。
「何を、言い付けられた?」
その問いが何を指しているのか分からず首を傾げると、実能は苛立ちを隠そうともせず、先程の問いに言葉を添えて再び問うてきた。
「黒瀬から、何か言い付けられて、ここに来たんだろう?」
そういう意味か、と納得して思い出す。
この屋敷に来ることになって言われたことといえば――馬車を降りる時に掛けられた言葉くらいだ。
「言われたことをこなしていろ、と」
だが、それは実能の満足する答えではなかったらしい。
「そんな筈がないだろう。それに気付かないほど、僕は子供じゃない」
そんなことを言われても、何も言い付けられていないのだ。
日向子が白状するまで譲るものか、と実能も構えているようで、長い沈黙が続く。
しかし、いくら待たれてもそれ以外に言い付けられたことはないのだ。
長い長い間の後に、ようやく実能は日向子の言うことを信じる気になったようだった。
「本当に言われていないのか」
「そう言ったじゃありませんか」
最初からそう言っていたのに、信じなかったのは実能の方だ。
「本当に行儀見習なんだろうな」
「はい……恐らく」
その歯切れの悪い返事に、実能はまたも怒る。
「恐らくってなんだ。行儀見習なのか下調べなのか、はっきりしろ!」
「行儀見習です!」
実能は嘘偽りはないか見透かすように目を眇める。
「本当だな?」
「はい。……行儀見習が何をするのか、知りませんけれど」
「知らない?」
「はい。女中奉公と違うのでしょうか」
実能の表情はみるみる呆れ顔になっていった。
そして、大袈裟な溜息をつき、続ける。
「本当に、何も知らないんだな。黒瀬が行儀見習に出したがる訳だ」
まるで日向子が馬鹿のように言う。
腹が立ったが、しかし知らないのも事実だから言い返せない。
「お前――日向子の家には居なかったのか、行儀見習」
「……居た……ような、居なかった……ような……」
女中は居たが、それぞれがどのような立場であるかなど、気にしたこともなかった。
実能はわざとらしく咳払いをした。
「行儀見習は、女中働きをしながら行儀作法やら言葉遣いやらを学ぶんだ。黒瀬も、世の中のことを学ぶものだと言っていただろう。都筑の家ともなれば、素性の怪しい者は入れない。日向子だって、黒瀬が身元を保証しているから、父上も受け入れたんだ」
「そう……なんですか」
「あいつから何も聞いていないのか?」
言おうとしたような気はする。
いや、言おうとしていた。
行儀見習の話が出た日の夜。
布団に包まる日向子に、話をしようとしていた。
女から襲われた日の翌朝だって、そうだ。
それを、日向子が制したのだ。
「あいつが、日向子は僕に付けろと言ったんだ。相談の件が片付いたら、気が合わないだのと言って辞めさせろと。何か言い付けられているだろうから、僕の傍に置いたんだろうと思ったんだけどな」
心から残念そうに、実能は唇を尖らせた。
それだけを見ていればまだまだ幼さの残る少年である。
しかし、残念がっているのはどうも読みが外れただけとは思えなかった。
他にも、何かあるように見えるのだ。
「もしかして、手伝おうとしいたんですか? その……相談したことを」
「手伝う訳じゃない。……ただ、僕の家のことだ。気にはなる。それに、どんな女か――興味もあるからな」
そんなことを言い出したものだから、日向子は真っ青になり実能の肩を掴んだ。
「見たんですか? あの女の人を」
いつもあやかしを相手にしている桐彦も、気を失い倒れたのだ。
実能までそんな目に遭わせてなるものか。
あまりの日向子の剣幕に、実能は一歩引く。
「い――いや、見ていない」
ならば、良かった。
ほっと胸を撫で下ろした日向子だったが、実能はそれを見逃さなかった。
「何故だ?」
「え?」
「何故、僕が見ていなければ安堵するんだ」
「え? い――……いえ、その」
「やはり、何か知っているな」
「そ――っ……そんなこと、ありませんよ。ただ、興味があるからといって見に行くのは止めて頂きたいと思って……」
「少し位は良いだろう」
「駄目です!」
思わず強く言ってしまっていた。
その後、実能は目を細める。
日向子が隠す何かを探るように。
「ほら。どうしてそんなに女を見せたがらないんだ?」
しまった、と思ってももう遅い。
今からでもどうにか誤魔化せないかと必死に取り繕う。
「あ、その――……黒瀬さんが、危ないことはするな、と……」
「まさか、見たのか? 女を」
何を答えても墓穴を掘るだけだ。目線を逸らしてみたが、それは無言の回答になってしまっていた。
「……見たんだろう。どんな女だった?」
一気に立場は逆転し、今度は実能が日向子に詰め寄る。
「い――いいえ」
「嘘をつくな。見たんだろう」
すぐに見破られる。
口は災いの元だ。
駆け引きなど、苦手どころか全くしたことのない日向子にはなおのこと。
隠し事はできない。知らぬふりをしたところで、どうしてもわざとらしくなってしまう。
いっそのこと言ってしまった方が良いか。
そう思ったが、しかし女の話を聞いた実能が見たいと言い出したらどうする。
今ですら、これ程の興味を持っているのに。
「見たんだろう」
誰か助けてくれ、と祈る日向子に救いの手が差し伸べられた。
扉を叩く音がしたのだ。
二人の会話はぴたりと止む。
「誰だ」
苛立ちを隠さない厳しい口調で、まだ幼いながらも威厳たっぷりに呼び掛ける。
しばらく、静かな時が流れた。
そして、そっと扉が開かれる。
その隙間から、五、六歳くらいだろうと思われる幼い少女が顔を覗かせた。
肩の辺りで切りそろえた艶やかな黒髪に、白い髪飾りが栄える。
実能の口調のせいか、覗き込む表情は不安そうであった。
いや――実能のせいだけではなく、この状況もある。
実能から壁に押し付けられているままだったと気付き、大慌てで身体を離した。
一人で慌てている日向子を一瞥した実能は、可愛らしい訪問者に優しい声で呼び掛けた。
「彰子。おいで」
それを聞き、不安そうな表情は、ぱっと華やいだものに変わった。
「お兄ちゃま!」
少女――彰子は舌足らずの可愛らしい声で実能を呼ぶと、扉を開け放って駆け寄ってきた。
実能も、あれほど威張っていたのが嘘のように柔らかい表情で彰子を抱き留める。
これがあの実能なのかと目を、耳を疑ってしまう。
彰子はどんぐりのようにくるりとした目に、日向子への興味を湛え、じっと見詰める。
「お兄ちゃま。新しいねえやが来たって、ほんとう?」
「ああ。飯守日向子だ」
実能が代わりに紹介してくれた。
彰子は淑女のようにスカートの端をつまんでおじぎをする。
「わたくし、都筑彰子ともうします」
周りの大人を真似ているのだろう。
懸命に背伸びして淑女らしく振る舞おうとする様子が可愛らしくて、つい口元が緩む。
「はい、どうぞよろしくお願いします」
「わたくしと、遊んでくださる?」
可愛いお願いに否がある筈もない。
頷きかけた日向子だったが、それは実能によって封じられた。
「だめだ」
「どうして。わたくし、ねえやにきいたのよ」
鞠のような頬を膨らませて訴える。
腰に手を当てて、全身を使って怒っているのだと表現している姿は、少しも恐ろしさを感じさせず、むしろ愛らしい。
「日向子には、僕の身の回りのことをしてもらうよう、父上に頼んだんだ」
「お兄ちゃま、いつもそうやって、ねえやを独り占めして。ずるいわ! 前だってそうだったもの」
「ずるくない。お前だって、ばあやが居るだろう。ほら。出て行け」
そうして、今しがた彰子が入ってきた扉に追い立てる。
「お兄ちゃまのいじわる!」
彰子の抗議は聞き入れられず、そのまま部屋から追い出されてしまった。
あの少女が、初めて実能が来た時に言っていた妹だろう。
なるほど、可愛らしい。
妹だから、ということを抜きにしても、守ってあげたくなる。
扉が閉まった後で、実能に言った。
「私、彰子さんの面倒を見ても構いませんでしたけれど」
しかし、実能はにべもなく返す。
「日向子は、僕の相手をするためにここに来たんだ」
確かにそういう約束になっていたようだが、少し位は融通を効かせても良いだろうに。
「可愛い妹さんがお願いしていたのに」
「どうして、妹だからといって我儘を聞かなければならない?」
「え? え――……でも」
妹というものは、守ってあげなければならないものではないか。
大切にし、敬い、妹が望むことには素直に頷く。
周りも、それが正しいと言っていた。
そうしなければ――。
「ちゃんと父上にも許可を頂いている。日向子の勤めは、僕の相手だ。彰子の相手は含まれていない」
それで良いのだろうか。
この家ではそうかもしれないが、しかし。
「不満そうだな」
「……いえ」
「言ってみろ」
「……」
「言ってみろ」
言わなければ逃げられそうにない。
再び救いの手が伸ばされる程、都合良くは運ばない。
それに、引っ掛かってもいる。
実能が間違っているのならば正すべきだし。
日向子が間違っているのならば――。
息を吸い、もやもやとしている感情を言葉に変えた。
「妹の言うことは、最も優先するべきことだと教わりました」
みるみる、実能の眉間に皺が寄った。
「誰に」
「祖母に、です。妹は何よりも敬うべきである、と」
「日向子の家は、妹が跡継ぎなのか? ――ああ、母が」
違うのか、と気遣うように控え目な声が続く。
その瞳には同情の色が滲んでいた。
「いいえ。母は同じです」
実能は首を傾げたが、結局、家ごとに事情があるからな、と納得した。
祖母は、いつも日向子に言った。
美夜子を敬え、機嫌を損ねるな、と。
言われ続けたせいで、そして他の家がどうなのかを知らないから、それが当たり前になっていた。
物心をついた頃のことだ。
母が、人形を作ってくれた。
端切れで作った何のことはない人形だったけれど、母が日向子のためにと作ってくれたことが嬉しかった。
何をするにも一緒だった。
当然、すぐに美夜子の目に留まり、いつものように言い出した。
――あの人形が欲しい。
美夜子は、遥かに立派な人形を持っていたから、日向子の分だけしか作らなかったのだ。
母は慌てて美夜子にもと作ったが、美夜子はできた人形を一瞥するなり、要らないと突っ撥ねた。
そうして、日向子の持っている人形を指さし、あれがいい、あれが欲しいと言い張ったのである。
困り果てた母は、美夜子に譲ってはくれないかと言った。
いつもならば聞き分けのいい姉らしく素直に譲るのだが、この時の日向子は頑なに拒否した。
これは、母が日向子にと作ってくれた人形である。
どうしたって、相手が美夜子であっても渡したくはなかった。
互いに折れず、険悪な仲が続いた。
周りの大人が宥めたり厳しく叱ったりと様々な手を使ったが、そうされるほど、日向子は頑なになった。
こんな関係が続いたまま、大人になってしまうのだろう、そんなことすら考えていたのだが。
ある日突然、終わってしまった。
朝起きると、人形がぼろぼろに切り刻まれていたのだ。
所々から詰め物がはみ出ている様は、人形の臓物が零れ出てしまっているかのようであった。
人形を欲しがっていたのを知っていたから、犯人は美夜子に違いないと母や祖母に泣きついた。
これまで我儘を聞いてきたことへの鬱憤も溜まっていた。
いつも我慢しているのに、可哀想だ、と同情して欲しかったのだ。
けれど、仕方ないのだと言われるばかりで、美夜子を咎める者は居なかった。
それどころか、祖母は美夜子の望む通りにしなかったからだと言った。
むしろ人形で良かった、本当に美夜子がお前を憎んでいたら、今頃どうなっていたか、と。
それはどういうことか、場合によっては日向子があの人形のようになっていたのか。
拙い言葉ながら訊ねたが、祖母は答えなかった。
人形は美夜子に見せてくる、それできっと納得する、だからこの件を引き摺るな、と言われたのだ。
その日、恐る恐る美夜子の部屋を覗いた。
薄暗い座敷の中で、ぼろぼろになった人形を抱き締め、笑っていた。
人形の頭が、ぼとりと畳の上に落ちる。
――私に逆らうから、こうなるの。
そう言われているように思えたのは、気のせいだったのだろうか。
これを切掛にして、美夜子に逆らえなくなった。
美夜子に従うのは、当たり前のことだと思うようになっていた。
逆らえばどうなるか分からない。
日向子よりも多くを知っている祖母が言うのだから、間違いはない。
飯守家にとっては、姉よりも妹が大切なのだから。




