第三章 四
食事を終えて、出る段になっても桐彦はむっつりと押し黙っていた。
「……どうしたんでしょうか」
桐彦に聞こえぬよう声を潜めて、こそこそと野狐に訊ねる。
野狐もそれを真似して、声を落として答えた。
『ヒナコが、旦那に、その洋装似合ってますね、素敵ですって言わなかったからだろ』
「そんな、言えません」
『俺様には言えたのに?』
「く……黒瀬さんは、その……何というか……」
何故なのかは日向子にも分からない。
怒らないから、と言われても桐彦に思っていることを伝えられなくなってしまった。
もし万が一、怒られてしまったら、と考えている訳ではないのに。
そもそも。
桐彦が日向子に似合うと言われなかった位で機嫌を悪くするとは思えない。
昨晩の、桐彦が楽しそうだと言われたことも含め、野狐にからかわれているのだ。
その証拠に、日向子を見てにやにやと笑っている。
『俺様は、楽しいから良いんだけどな』
「どういう意味です、それは」
『そのまんまだよ。――ほら、行くぞ』
そう促されて表に出ると、そこには立派な馬車が停まっていた。
桐彦は何の迷いもなくその馬車に乗り込む。
野狐もその後に続いた。
次の行動に移せないでいるのは日向子だけである。
まごまごする日向子に、野狐が手を差し出した。
『ほら。さっさと乗れ』
しかし、実能の――都筑家の屋敷に行くのではないのか。
「ど……どこに、行くんですか?」
ちらりと桐彦を伺うと、野狐が呆れたような声を上げた。
『旦那、少しはヒナコに段取りを説明しておけよな』
だが、桐彦はこちらを見ようともせず、端から説明をする気はなさそうだった。
「道中、野狐がしてくれ」
案の定、である。野狐は迷惑そうに口を歪めた。
『はあ? 俺様は、そういう役目は苦手なんだよ。旦那が何考えてんのか分かんねえし』
だから桐彦が説明しろ、と訴えたが当の桐彦は知らぬふりを決め込んでいた。
「の、乗ります。乗りますね。ぼんやりしてすみません」
これ以上険悪な雰囲気にならぬよう、急ぎ馬車に乗り込む。
桐彦が、御者に出るよう指示を出すと、馬車は動き出した。
結局。
日向子への説明――とは言っても少しも込み入ったものではなく、なぜ馬車を出したのか、といった簡単なものだが――は、野狐が受け持つことになった。
『いきなり馬車に出迎えられりゃあ、誰だって驚くよな。俺様だって驚く』
そう言い、ちらりと桐彦を伺う。
日向子に何も言わなかったことを暗に責めているのだ。
『旦那が何を考えてんのかはさっぱり分からねえけど。俺様が分かるのは、坊主に見栄を張っているってことくらいだな』
さっぱり、に必要以上の力を込めて言われ、桐彦もようやく反論した。
「見栄を張っているんじゃない。この方が、向こうから侮られない。洋装と同じだ」
『見栄じゃねえか』
「この方が、仕事も上手くいく」
互いに言い合い、一歩も譲らない。
『俺様は人間じゃねえから分からねえけどよ。見栄っ張りだよなあ』
これ以上は、さすがにまずい。
野狐が次を続けるより先に割って入る。
「あの、とても立派な馬車ですね。お借りしたんですか?」
とりあえず、毒にはならなそうな話で場を誤魔化した。
「ああ。実家からな」
「実家?」
「両親と弟が居る。あんたの行儀見習いも実家からの紹介ということにして貰った。そこそこ名は通っているからな。あまり関わりを持ちたくはないが、こういう時は役に立つ」
黙って聞き流しながら、しかしこの感覚は何なのだろう。
一人、首を傾げていたが、野狐に言われてようやく気付いた。
『流石に、いくら旦那でも木の股からは産まれねえよな』
両親と、弟たち。
祖父以外の肉親の存在をすっかり失念していたのだ。
日向子にだって、亡くしたとはいえ両親は居た。
桐彦にも居るのが当たり前ではないか。
「失礼な奴だな」
桐彦は鼻の頭に皺を寄せた。
思わず、野狐が笑い出し、日向子もそれにつられる。
少しではあるが場の雰囲気が柔らかくなった。
どの位、走っただろう。
会話が途切れて程なく、馬車が止まった。
御者が扉を開き、野狐が一番に降りる。
異国の紳士のように、降りやすいよう手を差し伸べてくれた。
間違ってはいないかと目で伺いながら重ねる。
その降りる間際、桐彦の声が背に聞こえた。
「気負わずに、言われたことをこなしていれば良い」
日向子に言っているに違いないだろう。
その確信を得るために振り返り、目が合った。
近い距離のせいか、それともいつもと違う装いのせいか向き合っていられず、すぐに顔を逸らす。
桐彦は気分を害しただろうが、日向子もあれ以上は見ていられなかった。
桐彦は、なおも続ける。
「何かあれば、俺が謝りに来てやる」
「いえ、でも……ご迷惑ですから」
振り返り、慌てて首を振って大丈夫だと伝えたが、一度言ったことを簡単に引っ込める桐彦ではない。
「あんたの掛ける迷惑は、迷惑の内に入らない」
命に関わる程の迷惑を掛けたというのに。
もしかすると、あの件は野狐のせいだと思っているのかもしれない。
「あの」
誤解を解かなければと思い言いかけたが、それを止めるように続けられる。
「ただ、危ないことだけはするな」
ああ――そう、しっかり覚えていたし、誤解もしていなかった。
野狐が居なくとも、何か思い立って突っ走ってしまうと思われていたようだ。
もう、素直に頷くしか出来なくなる。
大人しく馬車を大人しく馬車を降りる日向子の背に、もう一言、添えられた。
「あんたが心配で、仕事が手に付かない」
そんなに心配されているのか。
「すみません……」
「そうやって、すぐに謝るな。――ほら、顔を上げて。行って来い」
「はい……」
落ち込んだ返事をした後で、はたと気付く。
行って来い、とはつまり行ってらっしゃいと言われたのではないか。
振り返り、確かめようとした日向子だったが、背を押されそれは叶わなかった。
野狐が、にやにやと笑いながらこちらを見ている。
けれど、今は少しも気にならなかった。
初めて、行ってらっしゃいと送られたことが嬉しかったのだ。
「行ってきます」
しゃんと顔を上げて、気合を入れた。
屋敷に着いてからの桐彦と野狐は、別人であった。
野狐はしかつめらしい顔をして桐彦に従っているし、その桐彦は出てきた女中に極上の微笑みを向け、主人への案内を乞うた。
いつも病人のような姿をしている桐彦だが、髪を上げてみると中々整った顔立ちをしている。
それに加え、愛想良く振舞っているものだから人目を引く。
その証拠に、女中はほんのりと頬を染め、伺っております、と型通りの挨拶をしながらも声は心なし弾んでいた。
それが、日向子には面白くない。
なぜ、作ったものとはいえ、あんな微笑みを向けてもらえるのか。
日向子には向けられたことがない。
そもそも、名前すら呼んでもらえないというのに。
ずるい。
『ヒナコ、ヒナコ』
小声で野狐に呼ばれ、ちらりと見上げる。
『酷い顔してるぞ』
「……元々、こういう顔です」
唇を尖らせて答えたその後で、眉間に指が触れた。
汚れを拭い取るように、ぐいぐいと擦られる。
「な……何ですか」
『眉は寄せるな。これから、ヒナコはここに住むんだからな。自分から居辛くするなよ』
「……はい」
『旦那が、いつもはしない愛想笑いをしてんのも、ヒナコのためなんだ』
「仕事のため、でしょう?」
『それだけで、あんなに笑うかねえ。俺様は、ヒナコが一人でも困らないように振舞っているように見えるよ』
そうならば、どれ程良かったか。
「……都合が良すぎです」
『そうかもしれねえけど。でも、自分にとって都合の良いように取ることも、大切だと思うぜ』
「……」
『良いと思わねえか?』
多少は、それも良いかもしれない。
そう気持ちは傾いたが、あれだけ頑なに頷かなかった手前、今更素直にはなれない。
『ヒナコは素直じゃねえなあ』
「い……良いんです、もう」
ついと顔をそらすと、懸命に押し殺した笑い声が聞こえた。
通された応接間には、都筑家の当主――実能の父と、母、そして家令の姿があった。
背の低い卓を挟んで、柔らかそうな椅子に腰を下ろすよう促される。
桐彦はにこやかに応じ、日向子と野狐はその後ろに控えた。
都筑は挨拶の後、珍しそうに野狐を見ていたが、桐彦はそれには慣れているとばかりに、異人の付き人であると紹介した。
身長と、髪の色のお陰で、皆何の疑問も持たず納得する。
日向子の紹介のために手を回したらしい桐彦の実家からの紹介状を読むと、都筑はもう信頼しきっているようだった。
名の通った実家なのだろう。
「実能からも話は聞いていたが、落ち着いたお嬢さんじゃないか」
その都筑の発言に、視界の端で野狐の肩が震えた。
いつもの日向子を見ているから、都筑との評価の差が可笑しいのだ。
ここで何か言っては更に野狐を笑わせることになるから、出掛かる言葉をぐっと飲み込む。
会話に割り込むように扉が叩かれる。
「僕です」
実能が入ってくる。すると、桐彦は立ち上がりにこやかに実能に歩み寄る。
「やあ。久し振りだね、実能くん」
あまりに別人の桐彦に、実能も戸惑っているのが伝わってきた。
それでも、肝は座ったもので、すぐに桐彦の芝居に合わせる。
「父上、先日お話した友人の黒瀬さんです。彼から紹介していただいた女中には、是非とも僕の身の回りの一切をお願いしたい」
都筑は苦笑して、桐彦と日向子を見た。
「先日から、ああ言って聞かないんだ。頼めるだろうか」
「実能くんがお望みでしたら、どうぞ。――しかし……」
そこで、桐彦は勿体ぶって言葉を切る。
室内に居る皆の視線が注がれた。
「何か?」
都筑に促されるのを待っていたようだった。
「てっきり、乳母なりがいらっしゃるものだと思っておりましたから」
ああ、確かに言われてみれば、と気付いたのは日向子と野狐だけで、実能はみるみる表情を暗くした。
都筑の傍に控えている家令は眉すら動かさなかったが、都筑夫人は込み上げてくる何かしらの――それは恐らく、怒りのような負の――感情を懸命に押さえつけているようであったし、都筑は酷く狼狽していた。
これは、あまり外の者が触れるべきことではないのだろう。
都筑は、いや、と言葉を濁し場を誤魔化そうとしていた。
にも関わらず、桐彦は、どうされましたか、と呑気に首を傾げている。
簡単にでも事情を明かさなければ桐彦は納得せぬと踏んだのだろう。
咳払いの後、重い口を開く。
「乳母には、暇を出した。身体が弱かったものでね。以来、新しく女中を幾人か付けたが、相性が悪いのか長続きしない」
渋い表情で都筑が言うと、桐彦は、それは大変なことです、と少しも大変そうに思っていない調子で言った。
更に深追いされるかと警戒しているようだったが、桐彦は、ところで、と言い全く違う話に切り替えた。
心から安堵している様子が伝わってきた。
その後は、どうにか和やかな会談となり、そろそろお開きにという運びとなった。
桐彦も野狐も、帰ってしまうのだ。
一人には慣れていた筈なのに、急に心細くなる。
玄関まで見送ると、野狐が声を掛けてくれた。
『安心しろ、ヒナコ。時々、俺様が様子を見に来てやるからさ』
「ありがとうございます」
『それに、何かありゃあ旦那が謝ってくれるんだろ?』
聞いていたのか。みるみる頬が熱を持つ。
日向子の反応を充分に楽しんだ後、桐彦が馬車に乗る介添えをし、自らも乗り込んだのだった。




