第三章 二
眩しい陽の光に起こされた。
いつの間にか眠っていたらしい。
肩には羽織が掛けられていた。
身体を起こし、慌てて布団を見る。
枕元に、健やかな寝息を立てる野狐は居るが、桐彦の姿はなかった。
布団に触れるとまだ微かに温かい。
あの女が来て、攫われてしまったのか。
そう思ったが、ふと気付く。
昨晩、桐彦の身体は氷のようだった、と。
「起きたか」
その声に弾かれて顔を上げた。
見間違いでも聞き間違いでもない。
廊下に、桐彦が居る。
「黒瀬さん……」
桐彦は黙ってこちらを見ている。
これは、夢ではないのか。
桐彦が目を覚まして欲しいと願うあまり、都合のいい夢を見ているのではないか。
立ち上がり、そろそろと近づく。
そうっと手を伸ばし、触れた。
指先から温もりが伝わってくる。
幻のように、掻き消えてしまうことはなかった。
「あんたは、無事だったんだな。――……良かった」
いつもの、低く落ち着いた声だ。
桐彦の声に間違いない。
夢ではない。
桐彦が目を覚ましたことも。
そして、昨晩のことも。
みるみる溢れてくる涙を止められなかった。
触れていた袖を握り締める。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
何度謝っても許されない。
許されることではない。
けれど、出てくるのは謝罪ばかりだった。
ごめんなさい――それで、犯した罪が消える訳ではないけれど。
「気にするな。俺にも非がある」
そんなことはない。
桐彦は少しも悪くはない。
けれど、しゃくり上げてしまって、うまく言葉にできない。
ただ黙って、何度も首を横に振った。
「物心ついた頃から、爺ィとあやかしたちと暮らしていたせいか、あまり喋らなくても良かった。だから――」
そこで言葉を区切る。
顔を上げると、苦笑する桐彦と目が合った。
「いや、周りに責任を押し付けるのは良くないな。ちゃんと話をせず、あんたを不安にさせた俺が悪かった」
桐彦の手が頬に触れ、涙を拭い取る。
涙よりも暖かな指だった。
「俺は、あんたに辛い思いをさせるために、連れて来たんじゃないんだ」
分かっている。
それは充分に伝わっている。
何度も何度も頷いた。
「だけど、それが伝わらなければ意味が無いんだな。偉そうに教えている俺が分かっていなかった」
まだ、視界がゆらりと揺れる。
「ほら、泣くな」
深く息を吸い、手の甲で乱暴に涙を拭った。
声を震わせながら、懸命に伝える。
「わ――私、もう、我儘は言いません」
我儘を言って、良いことなどない。
日向子にだけ良いことがないのなら、まだ良い。
それならば、我慢すれば済むのだ。
けれど、周りに迷惑を掛けてしまうのは、それだけは嫌だ。
桐彦には、特に。
何の前触れもない日向子の発言は、桐彦にしては思ってもいなかったことのようだった。
驚いたように目を瞬かせた後、何かを言わんと口を開きかける。
だが、その隙を与えなかった。
「私」
桐彦が何を言わんとしているのかは分からないが、しかし聞きたくはなかった。
聞くのが、怖かった。
いくら本当のことでも、やっと気付いたか、と言われてはもう立ち直れない。
分かっていると言いながら、他人から――特に桐彦から言われたくはないなど、どれだけ甘えているのか。
「私、行儀見習いに行きます。大人しくいたします。あちらにも、ご迷惑はかけません」
そうだ。
それが一番だ。
日向子が決めたことではないから、悪いことにはならないだろう。
桐彦は厄介払いができる。
実能は、女中が辞めたばかりで丁度良かったと言っていた。
役に立つかは別にして、誰も困る人は居ない。
嫌々行くのだと思われないよう、微笑みを作る。
「おい、話を」
「良いんです。私が居れば、迷惑をかけるのが、よく分かりました」
せめて、これ以上の迷惑はかけないようにしたい。
そうすれば、桐彦も喜んでくれるだろうから。
しかし、喜んでくれるどころか桐彦はみるみる不機嫌になる。
眉間に深い皺を刻み、口を曲げる。
「……勝手にしろ」
そう言うなり、踵を返し奥の間に姿を消した。
もう歩いて良いのか。
寝ていなくて良いのか。
そう訊ねる間も与えず。
それからの日々は、慌ただしく過ぎていった。
桐彦は食事をする時間も削っているようで、ゆっくり顔を合わせる機会も減った。
桐彦は実能に連絡を取り、屋敷に行く日取りを決めた。
持参する荷物は殆どなく、小さな風呂敷一つ程度、すぐに纏められた。
『……本当に行くのかよ』
都筑の屋敷に行く前日の夜、広縁で何度目になるかも忘れてしまった問いを、野狐は投げてきた。
野狐はあの一件以来、狐の姿のままであった。
訊けば、大きな獣の姿になるのは酷く疲れるのだという。
人の姿に化ける力も使いきってしまったらしい。
行儀見習いの話は、日向子が自ら引き受けたのだと言っても、心から納得しきれてはいないようだった。
声の調子から、それはよく分かる。
ただ、以前のように大きな声で反対しないのは、負い目があるからだろう。
それは決して、野狐だけが負うものではないのに。
全てを自分のせいだと思っているようだった。
「そんな、遠くに行くんじゃありませんから。いつだって会えますよ」
会おうと思えば、いつだって会える。
それは野狐に向けただけでなく、日向子自身に言い聞かせるためでもあった。
だから、寂しいことは何もないのだ、と。
『……確かに、俺様も寂しいけどよ。それだけじゃなくてさ』
「それだけじゃ、なくて?」
他に、どんな理由があるのだろう。
首を傾げた後、場を和ませるには丁度良いことを思い付いた。
「私が居なくなると、野狐さんの子分が居なくなりますからね」
今夜くらいは――最後くらいは湿った気持ちになりたくなかったから、冗談めかして言った。
野狐も、本当だよ、とでも言って笑ってくれれば全て丸く収まる。
そう――思ったのだが。
『そうじゃねえよ』
寧ろ、日向子の明るさが場違いだと言わんばかりの、不満をたっぷりと含ませた声が返ってきた。
『ヒナコを子分だと思ったことは一度もねえ』
「……すみません」
『俺様のことじゃねえ。……旦那だよ』
桐彦。
ここ数日、敢えて遠ざけていた存在を突き付けられた。
桐彦がどうしたのか。
しかし、あまり話題に出したくはない。
心がざわついて落ち着かなくなる。
だから、努めて明るい声で、その話を早々に切り上げようとした。
「黒瀬さんも、やっとお荷物が出て行くって思っていますよ」
桐彦が本当にそう思っているかは知らない。
しかし、そういうことにしておけば気が楽だった。
あの日、何か言おうとしていた所を無理矢理に制した。
何と言おうとしたのか、今となっては訊ねることもできないが。
だがもうそれで良いのだ。
野狐は、日向子の言葉を肯定も否定もせず、独り言のように言った。
『ヒナコが来て、旦那、楽しそうだったのにな』
それだけを、本当にそれだけを言うと、野狐は家の中に戻る。
日向子が来て、桐彦は楽しそうだった。
確かに、今、そう言わなかったか。
どこがどう楽しそうだったのか。
迷惑そうだった、の聞き間違いではないのか。
「や――野狐さん!」
急いで呼び止める。
白い狐はたっぷりとした二又の尾を揺らし、ゆったりとした威厳すら感じさせる所作で振り向いた。
「それ、どういう意味ですか」
聞き間違いにしろ、そうでないにしろ、気になる。
日向子がそう訊ねるのを待っていたらしい。
振り向いた野狐は、鼻を鳴らし双眸を細めた。
『ちったあ自分で考えな』
答えは与えてもらえず、野狐はそのまま戻ってしまった。
放り投げられた疑問は少しも解決せず、置き去りにされてしまう。
膝を抱えて夜空を見上げた。
一人になっても、考えるのは野狐に言われたことだ。
桐彦は楽しそうだったのか。
迷惑ではなかったのか。
それとも、迷惑をかけられることを楽しんでいた?
いや――まさか。そんなことがあるか。
ただの、野狐の勘違いだ。
そう。
そうでなければ。
『日向子、ちゃん』
柔らかい女の声に呼ばれた。
目線を、空から地上に戻す。
庭に立っていたのは、首の長い女――ミツであった。
「ミツさん!」
指折り数えても数日ぶりだが、様々なことがあったお陰でやけに懐かしく感じられた。
「お久しぶり――……あ、でも、そうでもないですよね。でも、あの、今日はお店はお休みなんです」
明日は早くから出掛けるため、今日は木札は下げていない。
今日だけでなく、ここしばらく店は休んでいた。
実能から引き受けた件の支度が忙しいのだという。
『そうじゃないの。今日は、日向子ちゃんに会いたくて』
「私に?」
思いもしなかったことに、目を丸くした。
『そうよ。あの日、二代目に追い出されてから、ずっと気になってたのよ』
「あ――……」
あの日。
ミツもここに居たのだ。
野狐は、桐彦の足止めをミツに頼み、それっきりになってしまっていた。
家に戻った時にはもう居なかったから、桐彦が出る時に一緒に追い出されたのだろう。
「ごめんなさい。こちらから謝りに行かないといけなかったのに」
忙しかった、を理由にしてはいけない。
ミツに対し失礼なことをしてしまった。
しかし、ミツは怒った様子も見せず、それどころか心配してくれているようであった。
『いいの。いいのよ。何かあったみたいだし』
あれから、ミツは野狐に頼まれた通り桐彦を引き止めていたのだという。
桐彦の嫌がる色恋の相談をでっちあげてはみたものの、すぐに見破られてしまった。
――ここは、作り話を披露する場じゃないんだ。
ミツも食い下がり、真剣に悩んでいるのに、と愚痴愚痴と続けてはみたが、聞き入れられなかった。
――大方、野狐にでも頼まれたんだろう。
そう言われた時は、もう駄目だと思ったという。
それでも多少は粘ってみたものの、気迫に負けて全てを明かしてしまった。
野狐に頼まれたこと、足止めの目的。
そして、何をしに行ったか。
それを聞いた桐彦の顔は、みるみる強張った。
ミツに、早々に帰れと言うなり、玄関に急いだそうだ。
ミツも追いすがり、日向子がどれだけここに居たがっていたかを切々と伝え、止めないでやってくれ、ここに置いてやってくれ、と言った。
――当たり前だ。誰が追い出すと言った。
そう言い、行ってしまった。
気になったが、しかし桐彦が戻ってきた時に残っていてはどんな嫌味を言われるか分からない。
後ろ髪を引かれながら立ち去った。
日向子が桐彦に叱られてはいないかと心配で何度となく様子を伺ったが、連日、木札は下げられておらず、入るに入れなかった。
今日も相変わらず木札は下がっていなかったが、そろそろ待つのも疲れこっそり門を潜ったのだという。
そうだったのか。
桐彦は何でも見透かしているように見えるから、一人で答えを導き出しあの場に駆け付けたのだろうとばかり思っていたが、実はそんな経緯があったのか。




