第三章 一
風のように夜を駆ける。
街並みが、溶けて流れてゆく。
それは野狐の足が速いからなのか、日向子が泣いているからなのか。
それとも、その両方か。
道を歩く人々には、少し強い風が吹いている程度にしか思われていないようだった。
振り返ってみると、皆、乱れた髪を整えたり、着物の裾を押さえたりしている。
野狐の姿に気付く者はなかった。
どうか桐彦が無事でありますよう。
今の日向子には、そう祈ることしかできない。
来た時よりも遥かに早く家に辿り着いた。
玄関先で二人を降ろした野狐は、大きく息をつくと、身体はみるみる小さくなり、ぐったりと地に伏した。
「野狐さん!」
助け起こそうにも桐彦の身体を支えているために叶わない。
どうしようか、どうすれば良いか。
名を呼ぶと、野狐は心配をかけまいとして、顔を上げた。
切れ切れに、言葉を紡ぐ。
『済まねえ……ヒナコ。旦那を、運んで……やってくれ』
何度も頷いた。
頷いたが――しかし、野狐はどうするのか。
先に桐彦を運んで、すぐに野狐を連れに戻ろうか。
しかし、その間に通行人があった時はどうする。
そして、桐彦を一人残して良いだろうか。
何を一番に据えれば良いのか決められず、辺りをきょろきょろと見回す。
中々行動に移らない日向子に痺れを切らした野狐が怒るのも、無理はない。
『早くしろ!』
「でも、野狐さんは」
『大丈夫だ。後で行く。……旦那の傍から、離れるなよ』
本当に大丈夫なのか。
不安は消えないが、しかしそれではきりがない。
野狐がありったけの力でここまで駆けてきた理由は何か。
他でもない桐彦を助ける為だ。
深く息を吸い込むと、気持ちが落ち着いた。
香を焚いていなかったが、家の中がざわざわと落ち着かないのは分かった。
主が酷い姿で帰宅したのだ。
いつもの桐彦を知る者ならば、自分の足で歩けず、抱えられて戻ってくるなど、あってはならぬことが起きたと分かる。
手を貸したくても、貸せるものは居ない。
野狐のように、香に頼らず姿を現せる者たちではないのだ。
部屋まで桐彦を運び、押し入れから引っ張り出した布団の上に寝かせる。
元々日に焼けていない桐彦だったが、今は血の気が引いて紙のように真っ白になってしまっている。
恐る恐る額に触れた。
熱は少しも感じない。
ひやりとして氷のようだ。
押入れから掛け布団を取り出し、一枚二枚と重ねる。
これ以上冷えないようにと身体を包んでやった。
湯を沸かした方が良いだろうか。
しかし、桐彦を一人残すな、と野狐は言っていた。
ならば――ならば、と考え、頬を手で包んだ。
熱を少しでも分けてあげたい。
しかし、掌の熱はみるみる奪われる。
頬から離し、息を吹きかけて温め、再び頬を包む。
それが果たして役に立っているのかは分からないが、何かしていなければ。
微々たる熱でも、この冷たい身体を溶かせるのならば。
足音が聞こえた。
力なく、どうにか歩いているのが分かる。
真っ先にあの女の姿が蘇った。
まさか、ここまで来たのか。
桐彦を庇うように、足音の主に対峙する。
これ以上、桐彦を傷付けないでくれ。
しかし、姿を現したのは野狐だった。
ほっとして身体の力が抜ける。
野狐は桐彦の枕元まで辿り着き、ぐったりと伸びた。
身体全体を使って息をしている。
二人を背に乗せて駆けてきたのだ。
疲れない筈がない。
そっとしておくべきなのだろう。
しかし、訊ねたいことが山ほどあった。
桐彦は、目を覚ますのか。
湯を沸かそうか。
薬を買ってくるべきか。
「野狐さん」
返事はなく、ただ目だけを向ける。
続けろ、と言っているのが分かる。
息を吸い込み、溢れる疑問の一つを投げかけた。
「あの女の人は、何だったんですか?」
出てきたのは桐彦のことではなく、あの女のことだった。
そんなことは後回しにしたって構わないのに。
そんなことよりも、桐彦のことを訊ねたいのに。
怖かったのだ。打つ手がないと言われることが。
問いかけに対しての答えは中々返ってこなかった。
再び問うべきか否か。
思案し始めた頃、ようやく野狐が重い口を開く。
『あれは――……』
だが、その後が続かない。
その様子から察するに、知ってはいるのだ。
女が、何者であるのか。
それを言葉にしないのは、確信がないからだろうか。
思っているものと違うのではないか――いや、違っていてくれと願っているようである。
しばらく待った後、再び問いを投げる。
今度は、今知りたいことを。
「黒瀬さんは、大丈夫ですか?」
『大丈夫だ。……大丈夫』
すぐさまの返事は、日向子からの問いに答えるというよりも、野狐自身に言い聞かせているようであった。
「何か、することは」
腰を浮かしかけた日向子だったが、すぐに止められた。
『ここに居ろ。今、蛤に温かいモン作らせてる』
「蛤さんに……」
『身体が冷えきってるだろ。温かいモンを飲ませりゃ、良くなる。蛤の作ったモンなら、尚更だ。大丈夫』
良くなる、大丈夫。
そう言われているのに、少しも安心できないのは野狐の声が震えているからか。
「他に、何か――……そうだ、薬を用意しますね」
深い刻限だが、急を要するのだと頼み込めば戸を開けてくれるだろう。
勢い良く立ち上がる。
『ヒナコ』
「どの薬が効きますか? 私、買ってきます」
『ヒナコ!』
空気を震わせる、大きな声だった。
立ち上がった日向子の動きが止まる。
『薬は、いい。……薬は、効かねえんだ』
その、絞り出すような声に身体の力が抜けた。
その場に膝から崩れ落ちる。
薬は、効かない。
それは、目の前を真っ暗にさせた。
蛤の作ったものを食べさせれば大丈夫だ、と野狐は言った。
しかし、それが効かなかった時は? どうすれば良い?
そもそも、なぜ桐彦の身体はこんなにも冷たくなってしまったのだ。
「あの女の人は……何をしたんですか? 黒瀬さんの、口から出ていた……あれは」
また、答えないかもしれない。
そう思ったが、問わずには居られなかった。
少しして重々しい声を絞り出される。
『食事だよ』
「食事?」
それは思いがけない答えで、ぴんとこなかった。
そっくりそのまま、問いの形で返す。
『言ったろ。人間と同じものを食う奴ばかりじゃないって』
黙って頷く。
野狐は人間と同じものを食べるが、蛤は違うという。
他にも、埃を食べる者も居ると言っていた。
あやかしも様々なのだろう。
それは分かるが、しかしあれがあの女の食事とは、にわかには信じられなかった。
補うように、野狐が続ける。
『あいつは、肉吸いってあやかしだ。多分――間違いねえ。ここに……東京に居る筈がねえんだけどな』
居る筈がないのに、ならば何故。
疑問は解決されないまま、野狐は続ける。
『肉吸いの好物は、人間の生気だ。しかも、若い男ならなお良い。旦那は、うってつけなんだよ』
生気。
背筋に氷を押し付けられたかのようだ。
ぞわりと、全身が粟立つ。
桐彦の唇から紡がれていた、細い糸。
あれは桐彦の生気だったというのか。
だから今、桐彦の身体は冷たくなり、目を覚まさないのか。
「このまま……目を覚まさないことも……」
何と縁起でもないことを言っているのだろう。
そんなことがあってはならない。
あって欲しくはない。
けれど、考えずには居られない。
『だから、温かいもんを食わせるんだ。身体を温めてやれば、きっと――目を覚ます』
野狐も苛立っていた。声に怒気が滲む。
慌ただしい足音が廊下に響く。
椀を手にした蛤だった。
桐彦を抱え起こし受け取った椀を口元に運ぶが、うまく飲んでくれない。
口の端から、頬を伝って溢れる。
「黒瀬さん、お願い……飲んで下さい」
その間にも、桐彦の身体が冷えてしまっているように思えた。
この少しの時が、桐彦を、目を覚まさせぬどこかに連れ去ってしまいそうだった。
薬を飲んでくれない時、母はどうしていただろう。
美夜子が寝込んだ時。
母は――。
意を決し汁を口に含んだ。
そして、唇を重ね口移しで飲ませる。
もう、この方法しか思い浮かばなかった。
これで駄目ならば、もう、どうすれば良いか。
祈るように喉を見る。
どうか、どうか――。
その切なる祈りが通じたのだろう、喉が微かに動く。
後は無心だった。
飲み込めるであろう少しの量を口に含み、桐彦の口に流し込む。
椀が空になると、少しだが頬に赤みが戻ったように感じた。
身体を冷やさぬように布団を掛け、後はただ祈るのだった。
目を覚ましますように。
もう、我儘は言わない。
言われたことに、黙って従う。
だから、どうか――どうか。




