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明治あやかし怪綺譚  作者: 甘露寺ちどり
訪う女の事
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第二章 五

 野狐の持つ提灯に照らされながら、夜道を歩く。


『ミツさんに、何を言っていたんですか?』


 広縁で、ミツに頭を下げていた野狐が忘れられない。

 言葉までは聞き取れなかったのだ。


『ああ。旦那の相手を頼んだんだ』

「黒瀬さんの?」


 なぜ、わざわざ――そう思ったが、頼んだ時の利を考えてみれば、すぐに分かった。

 ああやって送り出したものの、外出の目的は遅かれ早かれ気付かれるだろう。

 すでに、何か企んでいると思われているのだから。

 そうなれば、すぐさま止めに来る。


 その点、ミツが居れば足止めになる。

 もしもの時を考えてのことだったのだ。


「黒瀬さんが知ったら、怒りますね」

『その時は、後の祭り。ヒナコが万事解決してめでたしめでたし、だ』

「そうなると良いんですが」

『今から弱気になってどうすんだよ』


 弱気にもなる。

 できるかどうか分からないことに、自分のこれからを賭けるのだから。


「どんな女の人なんでしょうか」

『まあ――旦那が引き受ける気になったんだから、あやかしだろうなあ。ついでに、香がなくても見えるから――……』

「あ、そうか。そうですね。香がなくても、見えたんだ……」


 桐彦の手元にある香は、どこにでもあるものではないだろう。

 野狐に言われてようやく気付く。


『何だよ、今気付いたのか?』

「はい」

『人間の女との揉め事なら、旦那の所に来る訳がねえだろ』


 その通りだ。

 鈍いにも程がある。


『まあ、坊主の家に何かしら抱えているもんがあるんだろうさ。それを聞いて、励ますなり説教なりすれば良い』


 そう簡単に言い切って良いものだろうか。

 相変わらず浮かない様子を見せていると、力いっぱい背を叩かれた。


『いざとなれば、俺様が抱えて逃げてやるよ』


 それは、頼りになるのかならないのか。

 どちらにしろ、野狐らしいことに変わりはなく、笑ってしまった。


「はい。頼りにしています」



 どの程度、歩いただろうか。

 東京の地理は頭に入っていなかったから、全ては野狐任せで、今がどの辺りを歩いているのかは分からなかった。

 深い時間になり、人の往来もめっきり減ってきた頃。

 野狐が足を止めた。


『坊主の家は、この辺りらしい』


 広い屋敷の並ぶ一帯である。


「どうやって調べたんですか?」


 実能に訊ねる間などなかった筈である。

 それに、訊ねたところで、あのやりとりを思えば野狐に教えるなど考えられない。

 だからといって、桐彦にも訊けない。


『方法はいくらでもあるさ』


 そう意味ありげに笑うが、詳しく語ろうとはしない。

 あの座敷をあっという間に片付けてしまう野狐のことだ、日向子の思いもしない手を使ったのだろう。


『坊主の話だと、家を訪ねて来たんだろ? 門の前は目立つからなァ……』


 女は、どこから来るだろう。

 野狐と共に辺りを見回す。


「今日、来ると良いですけれど」

『そうだなあ……』


 会話が途切れ、道の先を見た。

 幾重にも重ねられた暗闇の帳の向こうに、白い影があった。

 ついさっきまでは、暗い道が続いているだけではなかったか。

 それとも、単に気付かなかっただけか。

 それを確かめる為に、野狐の袖を引く。


『どうした』

「野狐さん、あれ……」


 それで、野狐もようやく気付いたらしい。

 提灯を高く掲げ、影を照らす。


 それは、女だった。

 足取りはふらふらとして覚束ない。


『あの女か』


 野狐が耳元で囁く。


「恐らくは……」


 確信はないから、弱々しい返事になった。

 実能の言っていた女かどうか、確かめなければ。

 しかし――どうやって?

 貴女が都筑家の使用人を襲ったあやかしですか、と訊ねるのか。


 まさか。

 答えてくれる筈がない。


 考えは纏まらぬままだったが、何かしなければ始まらない。

 一歩を踏み出しかけた所で、しかし腕を掴まれた。

 驚いて野狐を見れば、顔は白を通り越して青くなっている。


「野狐さん?」

『まずい。帰るぞ』

「でも」


 ここまで来て、何を言うのか。

 あれほど、日向子よりも乗り気だったではないか。

 だが、腕を掴む力は強く、中々振り払えない。


『良いから! 話してどうにかなる奴じゃねえ。あれは――近付かない方がいい』


 しかし、ならば桐彦に役に立つ所を見せるという目的はどうなるのか。


『聞いてねえぞ……あんなのがここに居てたまるか』


 ぶつぶつと、野狐の呟きが聞こえる。

 日向子に言い聞かせている訳ではなく、ただ己の思考を落ち着かせるために。


「あの人は――」


 あの女は、ここに居るべき者ではないのか。

 どこに居るのが正しいのか。

 そもそも、何者なのか。


 改めて女を振り返り――そして、動けなくなった。


 先程よりもはっきりと、顔立ちを確認できる。

 色の白い、小柄な女である。

 微かに開いた唇は紅く、そこから溢れるのはきっと鈴を転がしたような愛らしい声だと思わせる。

 結っていない髪が、さらさらと風に揺れる。

 細い首を少し傾げ、じっと日向子を見詰めている。

 その瞳は、夜の空のように落ち着いていた。


 女の唇が動く。

 ほう――と、聞こえた気がした。


 いつの間にか、女との距離が縮まっていた。

 今度は容易に野狐の手を振り払えた。

 もう日向子を縛るものはなく、女に歩み寄る。

 引き寄せられるように、吸い寄せられるように。


 見る見る間に距離は詰まり、夜空色の瞳は、覗き込むとそのまま吸い込まれてしまいそうだった。

 不思議と恐怖感はなく、ああ、美しい人だなと――むしろ、日向子から近付いていた。

 女は逸らすことなく日向子を見ている。


 けれど、何故だろう。

 桐彦と目が合った時のように心は弾まない。

 何か満ち足りない。

 その何かを確かめるために、女にまた近付いた。


「馬鹿か!」


 その声に、はっとした。

 目の前には、虚ろな目をした女が居る。

 底のない闇を湛えた目が、感情もなくじっと見ている。

 急に恐ろしくなり、後退る。

 身体中から汗が吹き出すのが分かった。


 怖い。

 怖い。


 怖い。


 しかし、逃げたいのに身体が動かない。

 足が地に貼り付けられたようであった。

 辛うじて視線だけは動かすことができた。

 恐る恐る足元を見れば、いくつもの白い手が足首を掴んでいる。


 手が、地から生えている。


 みるみるうちに足に絡む手は増え、じわりじわりと脹脛(ふくらはぎ)まで伸びてゆく。

 身動きの取れない間に腕を掴まれた。

 乱暴に引っ張られてようやく、身体が、足が動いた。

 視界に広がったのは、広い背中だった。

 黒い髪が襟足にかかっている。

 走ってきたのか、肩が上下していた。


「黒瀬さん……?」


 振り返ったのは、いつになく厳しい表情の――いや、怒っているとしか思えない、桐彦だった。

 何故ここに、と問うよりも先に怒鳴られる。


「さっさと逃げろ!」


 そうか。

 これは逃げなければならないのか。


 しかし、そうは思っても、身体が動かない。

 何をしているのだろう。

 これ以上、情けない所を見せて嫌われてしまったら。

 桐彦は、すぐさま女に向き直り、懐に右手を突っ込んだ。

 黒い何かを取り出し、女に向けて構えた――いや、構えようとした。


 それを、白い女の手が封じた。

 桐彦の首に腕を絡める。

 ああ――どうすれば良いのか。

 何度もそう思ったが、しかし体が動かない。

 女は双眸を細め、愛おしげに桐彦を見る。


 時間にしてみれば、ほんの僅かのことだ。

 だが、無理矢理引き伸ばされたかのように長く感じられた。

 女は桐彦の唇に触れる程に顔を寄せ、すう、と息を吸った。

 僅かに肩が震えたのである。


 細い、青白い糸が桐彦の唇から吸い出される。

 絹のようにきらきらと輝く、細い糸。

 それが何本も、桐彦の唇から紡がれる。

 そして、それは女の唇へと吸い込まれてゆく。


 初めて見る――美しい光景であった。

 ただただ、見惚れてしまう。

 そんな、夢とも現ともつかぬ今の空気を、獣の低い唸り声が震わせた。

 女が顔を上げたその刹那。

 桐彦は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


「黒瀬さん!」


 震える身体を叱咤し、桐彦を抱き抱える。

 女は動かなかった。

 黙って哀しげな目を向けるだけだ。

 その白い女の腕を、赤が彩っていることに気付く。

 雫が腕を伝い、指先から滴り落ちていた。


 何があったのか。

 訳が分からず辺りに彷徨わせた視線の先に、白い大きなけものの姿を捉える。

 尖った耳と、鼻筋の通ったそれは野狐の姿とそっくりであったが、遥かに大きい。

 口には白い腕が咥えられていた。

 それがぼとりと音を立てて地に落ちると、腕は跡形もなく消えてしまった。


「野狐……さん……?」


 本当に、野狐だろうか。

 そう思いながらも、出来ればそうであって欲しいと願いながら呼び掛ける。

 大きな白いけものは、身体と同じくらいのたっぷりとした二又の尾を揺らし、返事はせぬまま用件だけを告げる。


『さっさと乗れ』


 頷いたが、しかし足が震える。

 桐彦は大丈夫だろうか。

 いつも、余裕たっぷりの桐彦が、今は腕の中でぐったりとしている。

 視界が歪む。鼻がつんと痛い。

 けれど、泣いていては駄目だ。

 野狐の背に桐彦を乗せ、落ちぬようにと支える。


『泣くな、縁起でもねえ。大丈夫だ』

「でも」

『俺様が大丈夫だって言ってんだ』


 日向子を宥めるというよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。

 大丈夫だ。野狐がそう言うのだから、違いない。

 そう思うのに――思いたいのに、涙が止まらない。

 何ということをしてしまったのだろう。


 ――本当に、役立たずね。


 美夜子の言葉が蘇る。

 憐れみながら、その実、嘲っていた美夜子。

 矢張り、美夜子の言うことはいつも正しい。

 日向子が決めると、ろくなことがない。

 役に立たないだけならば、まだ良い。

 それだけでなく、ああ――。


 大切な桐彦を傷付けてしまった。

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