第二章 四
そう。
怖いものなしだと――思っていた。
ひどい有様だった。
持ち上げないで家具を引きずったものだから、畳表がちぎれ、毛羽立ってしまっている。
物を落とすのは当然のこと。
床の間に飾られていた一輪挿しは倒れ、水が畳に伝っていた。
しかも、慌ててしまいすぐに拭き取らなかったものだから、とうに吸い込み、ぐずぐずになっていた。
活けられていた花はぐったりと萎れてしまっている。
「た……大変なことに……」
一体、どの時点でこうも手の施しようのない事態に陥ってしまったのか。
『大丈夫、大丈夫だ。落ち着け。こんなモン、俺様の手にかかれば――』
野狐がみなまで言う前に、背後に気配を感じた。
場の空気がぴりっと張り詰める。
どうか違ってくれ、と願いながら振り返る。
しかし――そんな願いも虚しく、そこにあるのは桐彦の姿であった。
「泥棒が入ったのか」
そう言いたくなるのも分かる。
何が盗まれているのか、確かめたくなりそうなほどの散らかりようなのだから。
ただ、桐彦はそうしない。
腕を組み、悠長に眺めている。
泥棒かと言った桐彦自身、そうではないことが分かっているのだ。
違うと否定されるのを待っている。
隣に立つ野狐とちらちら視線を合わせ、意を決した。
「いえ……私、です」
『ヒナコだけじゃねえ』
いつもの、自信満々な姿は影を潜め、弱々しい。
ここまで救いようがないとは思わなかった。
何も出来ないにも程がある。
真っ赤になった顔を上げられない。
「泥棒の最中だったのか」
それは邪魔をした、と続けそうな口ぶりである。
「違います。掃除をしていたんです」
日向子がむっとする所ではないのに、語調も荒く言い返してしまっていた。
「斬新な掃除だ」
怒るでもなく、呆れるでもなく。
桐彦は感心した様子で言った。
「これでも、一生懸命掃除をしようとしたんです。でも、こんなことしかできなくて……」
相槌はなく、聞いているのかいないのか分からない。
長い沈黙の後、怒気の全く混じらない声が問う。
「言わなかったかな。掃除はしなくて良いと」
言われた。
ぼんやりとだが、覚えている。
ここに来ないかと言われた時に、掃除も食事の支度もしなくて良いと。
思い出して、恥ずかしく――そして、情けなくなる。
「すみませんでした。ここはちゃんと片付けます」
「野狐が片付ける。あんたは休んでいろ。早いうちから叩き起こされて、疲れているだろ」
でも、と縋ろうとしたが野狐に止められる。
『こういうことは、俺様に任せておけって。あっという間に終わらせてやるからな』
そうして、座敷から出るよう促される。
それに従うしかない。
本当に、どうしようもない。
どうしようもない役立たずだ。
とぼとぼと廊下を歩き、気付けば広縁に出ていた。
膝を抱え、身体を丸くする。
『どうしたのよぉ、そんな暗い顔して』
顔を上げると、先日の首の長い女だった。
この女も、香を焚いていないのに姿が見える。
そういうものなのだな、とだけ思った。
『この前はどうしたの? ちゃんとお礼を言いたかったのに』
「すみません、何だか慌ただしくて」
そうだ。
あの日、女も来ていたのだ。
全てを放り出して部屋に逃げ込んでしまっていたから、すっかり忘れてしまっていた。
『まあ、そうよね。色々あるわよねえ』
女は悟りきったように言い、隣に腰掛けた。
どうしたのか、と訊ねられることはなかった。
ただ黙って隣りに座ってくれている。
今はそれが有難かった。
少しして、片付けを終えたらしい野狐が座敷から出てきた。
『横暴なんだよ、旦那は!』
桐彦にも聞こえる声で怒鳴る。
「もう終わったんですか?」
あの惨状を、この短い間に片付けてしまったのか。
目を丸くして尋ねると、日向子たちに気付いた野狐は広縁へとやって来る。
『当たり前だろ。俺様を誰だと思ってんだ』
堂々と言い切った後、日向子の隣に座る女に気付いた。
『この前来てた――……。知り合いか?』
「お客さまです」
『初めまして、ミツです』
女――ミツは軽く会釈をした。
日向子も初めて名を聞いた。
あの日は、ミツも動転していて名乗るどころではなかった。
先代を知っているようだったし、桐彦とも知らぬ仲ではなさそうだったから、以前、来たことがあったのだろう。
野狐は初めて会ったようだったから、しばらく足は遠のいていたのか。
『相談に乗ってもらったの。今頃一人で泣いてたわ。お陰で、ちゃんとあの人を迎えてあげられたし』
ほんのりと赤く染まった頬に触れ、声を弾ませた。
「すると……」
『そうよぉ! 帰ってきてくれたの! 周りから言われたんだって。首が長いくらい、取って食われる訳でもない、お前みたいなうだつの上がらない男、他に一緒になってくれる女は居ないぞって』
それは、一条の光だった。
ミツが喜んでいる。
何より、日向子が役に立てたのだから。
「良かった……本当に良かったですね」
それは口先だけのものではなく、心からの喜びであった。
みるみる視界が歪む。
『ちょっと――やだ、泣いてるの?』
ミツの表情も分からないほど目の前がゆらゆらと揺れる。
泣いては困らせるだけだ。
そう分かっていても、涙は飲み込めない。
とうとう、頬を一筋伝った。
一度溢れてしまうと、止め処なく溢れてくる。
『どうしたんだよ、何があったんだ』
事情を知っているミツも慌てているのだから、何も知らない野狐はそれ以上にうろたえていた。
『この前、相談しに来たらね、この子が助言してくれたの。二代目は、何も言ってくれなかったのに』
そんな説明を聞きながら、涙を拭う。
ふと、野狐を見ると、顔を伏せて震えていた。
それを、主人を馬鹿にされて怒っていると取ったのか、ミツは慌てて言葉を添える。
『いえね、二代目が役立たずって言っているんじゃないのよ。ただ、あの人はどうしようもない時にしか動いてくれないでしょう。この前みたいな色恋の話なんて、心底どうでも良さそうだし』
けれどそれは、野狐の耳に届いていなかった。
日向子の肩を掴み、詰め寄る。
『――……ヒナコ、本当か?』
「ええ――はい……まあ」
野狐の勢いに気圧されて、頷く。
間違ってはいないが――正しいと言っていいものか。
助言になっていたのだろうか。
『何で黙ってたんだよ』
「す――すみません……」
実能の時のように、勝手に相談を請けて怒っているのだろうか。
桐彦には許しを得たが、野狐は何も知らなかった。
『役に立ってんじゃねえか!』
掴んでいた両肩をがくがくと揺すられる。目の前の野狐が、何人にも重なって見えた。
『それを早く言えよ、ったく!』
「や、野狐さ……」
止めてくれ、と訴えることもままならない。舌を噛みそうだ。
『料理とか掃除とか、そんなもん、他の奴に任せておけ。ヒナコは店の手伝いをすりゃ良いんだ!』
店の手伝いならば、今でもしている。
それが役に立っていないから、行儀見習いに出されるのだ。
今更、何を言うのか。
野狐の言わんとせんことを飲み込めていなかったらしく、じれったそうに続ける。
『だから、相談を解決してやれば良いんだよ、ヒナコが!』
「え?」
思いもしなかったことに、ぽかんと口を開けた。
『名案だろ。な? さすが俺様だ』
役に立つ所を見せろ、と言った時のように――いや、その時以上に得意気だった。
どうだ、と胸を張る野狐に、苦笑いしかできない。
「いえ……私は、もう何もしない方が良いと思うんです」
『こいつの相談、解決してやったんだろ? 役に立ってるよ』
役に立ったというよりも、単に思ったことを伝えただけである。
それで解決してやった、とは良い気になりすぎだ。
あるいは、掃除の失敗がなければ役に立っている、という自信に繋がったかもしれない。
だが、自信などというものは吹き飛ばされていた。
美夜子の人形でしかなかった日向子に、一体、何が出来るというのか。
『大丈夫だって』
『なに、どうしたのよ。私にも詳しく教えて頂戴』
同じ場に居ながら、そっちのけで話が進められて、ミツは不満の声を上げる。
野狐は面倒臭そうに、掻い摘みすぎな説明をした。
『ヒナコが――あ、こいつな。こいつが、使えないからって追い出されるかもしれねえんだよ』
少しどころか、かなり訂正が必要な気がしたが、日向子が口を挟む間もなく、ミツの顔色が変わる。
『だめよ、そんな! 貴女が居なくなるなんて寂しいわ!』
『だから、そこで俺様の考えた策よ。ヒナコがどれだけここに必要か、知らしめてやるんだ』
『それは良いわ。二代目に、身を持って知らせてあげるの』
日向子のことなのに、口を挟めなくなってしまっている。
いや、本当に断りたいのなら、行儀見習いに行くよう言われた時のように、きっぱりと言える筈だ。
何だかんだと流される風を取りながら、こうなることを望んでいたのだ。
周りのお膳立てに乗るだけの自分が嫌になる。
深く息を吸い、腹を括った。
あと一度だけ。
それで駄目ならばここを出よう。
そして、これならば――相談を解決するのならば、一度だけとはいえど役に立てた。
料理よりも掃除よりも、出来ると思った。
「次に来るお客さまの相談に乗るんですか?」
腹を括ったは良いが、矢張り不安もある。
そんな日向子を知ってか知らずか、野狐はにんまりと笑った。
『相談なら、もうあっただろ』
いつの間に相談をされていたのか。
日向子が気付かなかったのかもしれない。
ミツを見るが、しかし首を横に振る。
私ではない、とその所作が告げている。
ならば、誰だ。
ミツと共に再び野狐を見ると、これでもかというくらい堂々と言った。
『生意気な坊主の相談を片付けてやるんだよ』
「生意気な――……」
『……坊主?』
日向子とミツが、それぞれ言葉を引き取った。
ぴんと来ないやつだと散々な言われようだったが、誰のことを言っているのかと先に気付いたのは日向子だった。
「都筑、実能さん……ですか?」
いや、しかし、まさか。そんな気持ちで訊ねたのだが、野狐は大仰に頷いた。
『よく分かったじゃねえか』
「いや――でも、それは」
日向子がどうにか出来るようなものなのだろうか。
『何て顔してんだよ。俺様が付いてるんだぜ? どうにかできるに決まってんだろうが』
ミツは冷めた目で野狐を見ている。
『あんたのその自信、一体どこから出てきてんのよ』
『俺様は、野狐さまだぜ? そこいらのあやかしと一緒にしてもらっちゃ困るな』
何と言われようと、野狐の自信は揺るぎない。
『あいつの相談も、女絡みだったじゃねえか。こいつの相談も片付けちまったんだろ? な、ヒナコは役に立っただろ?』
ミツは急に話を振られ、驚いた後で頷いた。
『え? ええ。それはもう』
そうだろう、そうだろう――まるで我がことのように深く頷く。
『ほら、ヒナコ。これしかねえって』
確かに、もう手は残っていない。
何より、もう腹を括ったではないか。
今更不安になってどうする。
『頑張ってね。応援するわ。貴女なら大丈夫よ』
「がんばり、ます」
『よし、よく言った!』
拍手喝采に照れながら、頭を掻く。
できると思えたのだ、本当に。
『そうと決まれば、さっさと行くぞ』
「もう、ですか?」
『旦那に先を越されちゃ終いだろ』
善は急げと、野狐の姿はあっという間に消えてしまった。
口を挟む間などない。
ミツと共に広縁に取り残される。
『行かなくて良いの?』
指摘されて、そうだった、と気付く始末であった。
付いて来ない日向子を予備に、騒々しい足音と共に野狐が戻ってくる。
『さっさと来い。置いて行くぞ』
「はい――……あ、待って下さい!」
再び玄関に向かうべく踵を返した野狐に、慌てて続く。
追い付いた所で、しかし目の前が真っ暗になった。
野狐が足を止めたのである。
危ないと思う間もなく、ぶつかってしまった。
鼻の頭をさすりながら、いきなり足を止めたことを非難するように睨む。
そんな視線など気にもせずに、野狐は日向子を通り越してミツを見ていた。
『なあ――おい、あんた。ミツさんだったな』
『なあに?』
帰り支度をしていたミツが手を止めた。
大股で広縁に出ると、何やら耳打ちをしている。
ミツは明らかに嫌そうだったが、何度も頭を下げられ、渋々頷いていた。
『さあ、準備も整ったな。行くか!』
玄関先で、野狐は懐から手ぬぐいを取り出し、頭に巻いている。
白い髪が目立つからと、外に出る時には巻くのだ。
「どこに行くんだ」
背後から問われた日向子は、驚きすぎて口から心臓が飛び出すかと思った。
振り返ると、桐彦の姿がある。
ばたばたと騒々しい足音を立てていたから、何をしているのかと出てきたのだろう。
『ちょっと、い、い、と、こ、ろ』
企みを気付かれやしないかとひやひやしている日向子に対し、野狐は楽しそうに鼻歌まで歌っている。
「ちょっと、野狐さん」
袖を引いて諌めるが、聞いてくれる野狐ではない。
桐彦は表情も変えずに踵を返した。
『ヒナコを借りるぞ』
「妙な所に連れて行くなよ」
さして興味もなさそうな見送りの言葉が残された。
夜の外出に心配もしてもらえない。
確かに、田舎に居た頃から夜の散歩をしていたし、そのことは桐彦も知っていたけれど。
『ヒナコ、行くぞ』
「はい――」
「あんたも。野狐に唆されて妙なことをするんじゃない」
ああ――矢張り、何かしら感付いているのだ。
ついさっき、何を思い立ったのか掃除をした日向子である。
また何か企んでいるのだろうと思われても不思議はない。
だからといって、止めはしなかった。
日向子を案じたものだったのかもしれないが、素直には受け取れなかった。
妙なことをして、行儀見習いの件が流れたら厄介払い出来なくなるのではないか。
そう思っているからではないかと疑ってしまう。
既に、桐彦の中で日向子はどうでも良い存在なのだろうか。
「く――黒瀬さん!」
堪らず、その背に呼びかけていた。
桐彦は黙って振り返る。目が合い、一気に鼓動が早くなった。
何か、言いたいことがあった訳ではない。
ただ、その目に映りたかっただけで。
もう出て行くのだから関わりはない、と言われているようで。
「み……見て……いて、下さいね」
何を、とは言わなかった。
桐彦の反応は見ず――というよりも、見られなかった。
黙って、踵を返す。
外に出て、夜の空気を吸い込む。
まだ、手が、膝が震えていた。
視線を感じ、見ると野狐と目が合った。
『ばか。あんなこと言ったら、旦那に気付かれるだろ』
鼻歌を歌っていたことは棚に上げている。
だが、野狐の言い分ももっともで、項垂れた。
「すみません……」
つり気味の双眸が細まり、にやにやと笑う。
『だけど。嫌いじゃねえよ、ああいうの。武将が名乗りを上げてるみてえで』
みるみる顔が赤くなる。
東京に出てきてから、落ち着かない。
以前は持っていなかった欲が、次から次に出てくる。
妹が――美夜子が居なくなってしまったからだろうか。
落ち着かない。
野狐が提灯の蝋燭に息を吹きかけると、ぽっと火が付いた。




