Ⅷ 「ミティリニ」へ再び
投稿が一日遅れてしまいました…。すみません。
佳乃との初接触から二週間、悠真は久しぶりに「ミティリニ」を訪れた。
「こんばんは」
「いらっしゃーい」
佳乃がフリルのついたエプロン姿で出迎える。
「夜分遅くにすみません」
「遅くって、まだ九時半じゃない。ほら座って」
佳乃に勧められるままに、悠真は前回と同じカウンターの席に着いた。
「コーヒー前のと同じでいい?」
「はい。お願いします」
コーヒーを淹れる佳乃の真面目な顔つきを見ながら、悠真は前にここへ来た時のことを思い返した。
結局、あの日は山本のせいでそれ以上の話を聞くことができなかった。
どうしたものかと悩んでいると、佳乃からメールが届いた。
〈今日はごめんなさい。また別の日に話しましょう〉
悠真は了承の意を返した。バイトや授業との兼ね合いもあり、すぐにという訳にもいかなかった。だが、佳乃が悠真の都合のつく時間に特別に店を開けてくれるというので、その言葉に甘えることにしたのだ。
「お待たせー」
佳乃は二つのコーヒーを運んできて、悠真と自分の前にそれぞれ置いた。
佳乃は緩いパーマのかかった髪を軽くまとめると、すぐにカップに口を付けた。
カップのふちに赤い口紅の痕が残る。佳乃はそれを親指の腹でごしごしと拭うと、初めて悠真の顔を見た。
「ゆーくん何か食べる?」
まっすぐな目で見つめられ、どんな重大な話が始まるのかと身構えていた悠真は軽く拍子抜けした。
「別に、気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ」
悠真が苦笑しながら答えると、佳乃がふるふると首を横へ動かした。
「気とか遣ってないから。むしろアタシがお腹空いてる」
「あ、そうなんですか……」
子供のような佳乃に、悠真は呆気にとられてしまった。どうやら自分だけ何かを食べるのは忍びないと考えていたらしい。
「僕、そこのラーメン屋でバイトしてて。夕飯はそこのまかないをもらってるんです」
「ウソっ!? じゃあお腹いっぱい?」
「はい。お気持ちだけありがたくいただきます」
笑顔で告げてから、申し訳ない気持ちが顔をのぞかせた。本当はあの店にまかないはないのだ。
佳乃はコーヒーカップを数秒見つめてから、カウンターの奥へ入った。
一人残された悠真は、ジャズを聴きながら佳乃の帰りを待つ。店内を見回してみて初めて気付いたのは、あちらこちらの壁に映画のポスターが張られていることだった。
ポスターは国籍も年代も様々で、時計回りに年代順に並べられているようだった。共通点ば、黒のロングヘアの女優が主役を演じているということくらいだろうか。
映画にあまり詳しいわけではない悠真には、そのくらいしか共通点を見つけることはできなかった。
「ごめんねー。お待たせしちゃって」
佳乃は大きな皿にたくさんのサンドイッチを載せてきた。きっと、ワンプレートランチなどで使うものなのだろう。
女性が一人で食べるにはいささか多いように思われるその量に、悠真の目はくぎ付けになった。
「良かったらつまんで」
悠真に勧めながら、佳乃は早速卵サラダのサンドイッチを頬張った。
卵サラダの他にも、ハムチーズやポテトサラダ、ナポリタンスパゲティなどもある。
「スパゲティとか、珍しいですね」
「お店で出してたのの残りを挟んでるの。悪くはなってないから安心して」
一つ目のサンドイッチを口の中に押し込んで咀嚼しながら、佳乃は次にハムチーズに手を伸ばした。
自分のために新しく作ってくれるのではと心配していた悠真も、ナポリタンのサンドイッチをつまんだ。
「あ、美味しいですね」
「でしょ? うちのナポリタンはマル秘レシピで作ってるからね。今度ランチ食べにおいでよ」
佳乃は笑いながら三個目に手を伸ばす。物を食べながら話をするのはいただけないが、見ていて気持ちの良いくらいの食べっぷりだった。
「ゆーくんも食べてよ? じゃないとアタシ一人で食べちゃう」
あながち冗談でもなさそうだったので、遠慮なくポテトサラダのものもいただくことにした。玉ねぎのしゃきしゃきとした食感の面白いポテトサラダだった。
「お一人でこれだけ作るとなったら大変じゃないですか?」
「ん? これ作ってるのはアタシじゃないのよ。山本って、前に会ったでしょ。彼が厨房担当で、アタシはコーヒー専門なの」
「じゃあ山本さんは今も……」
前回のこともあるので、悠真は横目で厨房の方を見やった。
「ううん、山本には先に帰ってもらったよ。あ、コーヒーはおかわり自由だからね」
佳乃は悠真のカップを覗き込んで言った。
それからしばらく、他愛のない世間話などをしながらジャズとコーヒーとサンドイッチを楽しんだ。
「ゆーくんお腹空いてたんでしょ。まかないってウソ?」
ずばり言い当てられて、悠真は大人しく首肯した。
たくさんあったサンドイッチも、残すところ二つになっている。
「アタシはもうお腹いっぱいだし、あとはゆーくんにあげる。次山本に会ったらお礼言ってあげてね。あの人ゆーくんのこと気に入ってたみたいだから」
「気に入ってた?」
――あれだけ怪しまれていたのに?
悠真は何かの間違いだと思った。あの時の山本とのやり取りの、どこに好感を持たれる要素があっただろう。あれは完全に自分のことを間男か何かと思いこんでいる態度だった。
「あの人、あれでいてシャイだからね」
佳乃はクスリと笑ったが、悠真にはそうは思えなかった。
悠真が腑に落ちないままでいると、佳乃がそうそう、と本題を切り出した。
「そういえば、ゆーくん、ちほたんのこと探してるんだよね?」
「はい」
「ってことはさ、ちほたんが家を出て行ったってことでしょ?」
「そうですが……」
佳乃が何を言わんとしているのか、悠真にはいまいち理解できなかった。
「どうして? どうしてちほたんが家を出なきゃならなかったの? あそこはちほたんの家で、ってことは出て行くのは本来ゆーくんのはずだよね?」
「……っ、それは」
悠真は答えに詰まってしまった。
一瞬だけ佳乃の様子を窺う。佳乃は先ほどまでと変わらない柔和な笑みを浮かべていた。だが、目だけは氷のように冷たかった。
「千穂さんは、僕との約束を破った違約金の代わりだと言ってました」
「うん? まさかそれを真に受けてる訳じゃないよね」
声のトーンが明るいままなのが、空恐ろしかった。
悠真が何も返せずにいると、佳乃が突然立ち上がった。佳乃はカウンターの奥へ入ると、据え付けの棚に置かれたCDプレイヤーのコードを乱暴に引き抜いた。
店の中を沈黙から守ってくれていたジャズが、ぷつりと途切れる。一瞬で空気が重くなった。
「いくらちほたんが良い子だからって、見ず知らずの学生にそこまでするはずがないでしょ」
責めるように言いながら、荒々しい足音を立てて佳乃が戻ってくる。
悠真は反射的に身をすくめた。
「すみません、僕……」
「すみません、じゃないよ。アンタ、クソ兄貴とちほたんがどんな約束をしたか知ってる?」
「え……、約束?」
千穂と川端が約束事をしていたというのは初耳だった。
「知らないんだ? ま、アタシも全部は教えてもらってないけどね」
そう前置きをして、佳乃は話し始めた。
「ちほたんはアンタが卒業できるまで、アンタの世話をする。その代わりに、兄貴はアタシが家に戻れるように親やら親戚やらを説得する。そういう契約だったんだよ。ちほたんはそれを放棄した。どうしてだと思う?」
「わかんないですよ。……というか、どうして千穂さんは自分に一切利益のない約束をしたんですか」
「質問に質問を返すとはね」
佳乃は吐き捨てるように言うと、悠真に鋭い視線を向けた。
「昔にね、色々あったんだよ。ちほたんが教えてないことまで話すつもりはないけどね」
付け加えるように言って、佳乃はコーヒーカップを片手にカウンターに向かう。
悠真はその時、コーヒーを淹れる音を初めて聞いた。その音を聞いていると、自然に言葉が出た。
「僕、千穂さんがいなくなってから気付いたんです」
「ん?」
「一年近く一緒にいたのに、僕は千穂さんのこと何も知らなくて。もっと話がしたかったので千穂さんを探してるんです」
コーヒーが落ちる音だけが響く。見れば、佳乃はいつもの真剣な表情でコーヒーと向き合っていた。
コーヒーを淹れ終えると、佳乃は元の穏やかな雰囲気に戻っていた。
「一つ聞くけどさ」
「何でしょうか」
「ゆーくんはちほたんのことが好き?」
佳乃の問いに、悠真は思い切りうろたえた。
千穂が自分に好意を持っているのではないかと邪推したこともあったし、そうであればいいと思ったことも一度ではない。けれど、その感情を恋と呼んでいいのかはわからなかった。
「好き、だと思います。恋愛感情とはまた別なのかもしれませんが……」
「ふーん、ラブじゃなくてライクってことか」
「たぶん……」
「それじゃ合格点はあげられないなぁ」
おどけた調子で言いながら、佳乃がコーヒーを片手に戻ってくる。
「ま、ちほたん探しはお手伝いしますよ。アタシもちほたんに会いたいしさ。あ、お店に来る時は連絡ちょうだいね。見ての通り狭い店だから」
先刻の険悪なムードはどこへやら、佳乃は朗らか笑った。
悠真は佳乃と言う女性はとてもマイペースで、それでいて敵に回すと厄介な人だと思い知らされた。
今回もリィパートです。この子書くの楽しい(笑)