Ⅶ 駅前の喫茶店
慣れない場所へ行くと、緊張するものだ。
「ミティリニ」と飾り字で書かれたプレートがつるされた店の前で、悠真はしばし立ち尽くしていた。川端から手渡された店名のメモ書きと目の前のプレートの文字を何度も見比べる。
生まれてこのかた喫茶店というものに縁がなかった悠真は、戸惑いながら店内に入った。
「いらっしゃいませー」
迎えてくれたのは女性の優しい声だった。
明るい茶色の髪に、時季外れの花柄のワンピース、匂いがしてきそうなほど濃い化粧が特徴的な女性だ。もうすぐ四十の川端よりも、十以上は若いように感じた。
彼女に勧められるまま、カウンターの席に座る。店内に他の客はおらず、ジャズだけがこの空間を沈黙から守ってくれていた。
悠真が席に着いたのを見届けると、彼女は店の外へ出ていってしまった。
「お兄ちゃんから話は聞いたよ」
隣の席へ座りながら、彼女は言った。香水がむっと香る。
悠真は反射的に顔を背けそうになったが、ぐっとこらえた。
「あなたが、『リィ』さん……」
悠真が確認すると、女は満面の笑みでうなずいた。
「そ。よろしくね、ゆーくん」
初対面の女性に「ゆーくん」と呼ばれ、悠真はうろたえた。佳乃はそんな悠真にはお構いなしに距離を詰める。
水商売をしている女のようだ。悠真は漠然とそう思った。
「本当のお名前、佳乃さんですよね」
「うん。気になる? どうしてアタシが『リィ』って呼ばれてるのか」
悠真は佳乃の目を見据えたままうなずいた。
「教えていただけますか」
「別に隠すようなことじゃないし。固くなんなくていいんだよ?」
佳乃は微笑んで、悠真の頬に触れようと手を伸ばした。悠真は驚き、身を引いた。それを見た佳乃がさらに笑いながら体を寄せる。
「『花宮りえ』ってアイドル、今の子にはわからないかな」
「あ、テレビでちらっと見たことあると思います」
「そう? アタシらが高校生の時、すっごく流行ったんだよ。その子の愛称が『リィ』なの。アタシがその子に似てたらしくって、ちほたんが付けてくれたんだよね」
「千穂……さん」
どう切り出すべきか悩んでいた話題が、予想外の形で切り出された。
何パターンもシミュレーションをしてきたのが全て無駄になったという思いと、助かったという安堵感が同時に押し寄せる。
「ちほたんはアタシの親友だよ」
「では、今どこにいるかもわかりますか?」
「……え?」
佳乃が首をかしげた。パーマのかかった髪がカウンターの台の上に広がり、香水の匂いが周囲に充満する。
慌てて会話を進めすぎたかと悠真は反省した。だが、佳乃は一瞬耳たぶに触れた。
もしかしたら兄弟は仕草や癖まで似るのだろうか。
――この人はこれまでも、こうして気まずい雰囲気から逃れてきたのかもしれない。
「……あ、そうだ。お客様のご注文聞かなきゃね」
言うが早いか、いそいそとカウンターの中へ戻っていった。
逃げるようなその態度に、悠真は鋭い視線を送った。
「ゆーくんコーヒー飲める?」
「はい」
「豆は何がいいかなー?」
「酸味の少ないやつ、ブラックで」
佳乃は、コーヒーを淹れる間だけ別人のような真面目な顔つきになった。
香水の匂いをかき消して余りあるほどコーヒーの良い香りが広がる。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
「ゆーくんはさ、ちほたんの何が知りたいの?」
悠真がコーヒーカップに口をつけるよりも早く、佳乃が本題を切り出した。悠真は口を付けかけていたカップをカウンターに置いた。
「佳乃さんは、僕と千穂さんがルームシェアをしていたことはご存知ですか?」
「うん。あのクソ兄貴のおかげでしょ?」
にこやかに放たれた言葉に、一瞬背筋が凍る思いがした。佳乃は笑顔を絶やさぬまま、兄への恨みつらみを滑らかに語った。
「あ、あの……」
聞くに堪えなくなった悠真が声を上げると、ようやく佳乃の弾丸のような言葉は停止した。佳乃はまじまじと悠真の顔を見つめる。
悠真の鼻先へびしりと指先を向けると、こう言い放った。
「及第点!」
「え?」
「いや、何でもないよ」
鼻歌を歌い、ごまかそうとする。そんな佳乃を見ながら、悠真はコーヒーを飲んだ。少し時間が経ちすぎたせいで、せっかくのコーヒーはぬるくなっていた、
「千穂さんの居場所はわかりませんか?」
「んー、知らないなぁ。この前ちほたんに会った時は何も言ってなかったしぃー」
「会ったんですか!?」
悠真が詰め寄ると、佳乃は驚いたように体を引いた。
「う……うん。一月の半ばくらいかな? ちほたんこの店に来てくれたから」
千穂は佳乃と会っていないと言ったが、実際には会っていた。これは大きな収穫だ。
悠真が返事をしないので、佳乃は何か悪い事でもしたのかとおろおろしていた。悠真は佳乃に礼を言いたい気分だったが、次に聞くべきは何かと考えこんでいたところだった。
カランカランと入口にかけられたベルが鳴った。
「よう」
三十半ばくらいの、作業着を着た無精ひげの男が店へ入ってくる。佳乃は軽く会釈をした。
何も言わずに悠真の隣へ座ると、佳乃も無言でコーヒーを出した。男はスティックシュガーを三本、次々と投入し、見ているだけで口の中が甘ったるくなるようなカップの中身をかき混ぜた。
「愛想がねぇ」
男は愚痴を言いながらコーヒーを半分ほど飲む。
悠真は状況が呑み込めず、佳乃と闖入者の顔を交互に見た。
「……あ、こちら、山本さん」
佳乃が男を紹介すると、山本と呼ばれた男が苦い顔をする。
「『山本さん』じゃねぇだろ。んなこと言ったらお前も『山本さん』だ」
「……ええと?」
「山本弘史さん。アタシの旦那です」
佳乃は半ばやけくそのように言った。カウンターの奥で、「千穂にも会わせてないのに」とぼやくのが聞こえた。
「田代、悠真です」
「学生?」
「はい。大学一年です」
「ほう?」
山本は口元を歪ませると、佳乃の方へ意地悪い視線を向けた。
「学生なんて連れ込んで何するつもりだ?」
「は? 何もしませんよーだ」
佳乃は舌を出し毒を吐くと、奥の洗い場と思われる場所へ姿を消してしまった。お世辞にも印象のいい相手とは言えない男と二人きりになり、悠真は気まずさから視線を逸らした。
「おい、にーちゃん」
声を掛けられ、悠真はぎくりと視線を上げた。
山本は悠真の肩に手をかけ、力強く引き寄せた。舐めるような視線が悠真の全身に向けられる。
「な、なんでしょうか」
「本当は何しに来た?」
「え?」
何の用も何も、と悠真は困り果てて壁にかかった時計を見た。
針は三時半を示していた。思ったよりも時計が進んでいないことに驚いた。
「あいつが『準備中』の札を下げるくらいだ。普通の客じゃねぇことはすぐにわかんだよ」
山本に言われ、初めてあの時の佳乃の行動の意味を知った。おかげで、山本が悠真のことを執拗に問い詰めてくるのがなぜかも理解できた。
「僕、佳乃さんの友人の行方を捜しているんです」
これまでの経緯を話す気はなかった悠真は、端的にまとめる。
それだけで山本が納得するはずもなく、いろいろと聞きたそうな顔をしていた。そこへ、タイミングよく佳乃が戻ってきた。
「山本さん。ゆーくんをいじめないであげて」
「ゆーくんだと?」
山本は佳乃の顔を睨みつける。
「てめぇ俺を騙しやがったな」
すごい剣幕で胸倉に掴みかかってきた山本に身をすくめると、ぱしんと乾いた音がした。悠真がゆっくりと視線を上げると、山本は後頭部をさすっていた。
「いじめるなって言ったよね? アタシに『そういう趣味』はないから」
佳乃は笑顔のままだったが、眼だけは笑っていなかった。
途端に山本は静かになり、店の中にはかすかなジャズの音色だけが響いた。