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Ⅱ 契約違反

「悠真、ちょっといい?」


 千穂に声をかけられたのは、アルバイトが休みの土曜日の午後だった。休日とアルバイトの休みが重なることは珍しい。そのため、悠真は普段できない課題を片付けてしまおうと部屋にこもってパソコンの画面とにらめっこをしていた。


「どうしたんですか?」

「ん、いいから」


 千穂の様子がいつもと違っていることに疑問を感じながら、打っている途中だった文章を完成させる。

 千穂は自分がプライベートの時間を削られることを嫌がるせいなのか、悠真が部屋にいる時に声をかけてくることはしなかった。その態度をくつがえすほどなのだから、余程のことがあったのだろう。


「お待たせしました」


 悠真はパソコンの電源をつけたままで部屋を出た。

 いつもは目を見つめてくる千穂が、今日は視線を合わせようとしない。その態度を見ただけで、悠真の中の予感は確信へと変わっていた。


「どんな悪い話ですか」


 思わず口を突いたのは、千穂を茶化すような言葉だった。

 しまった、と咄嗟に口を押さえるが、口を出てしまった言葉をなかったことにするなど不可能だ。


 千穂の口元がわずかに歪んだ。歯を食いしばったのか、唇の内側の肉を噛んだのか、はたまた筋肉を動かしただけだったのか。悠真には判別がつきかねた。ただ、突き刺さった鋭い視線が千穂の不機嫌を痛いほどに伝えてきた。


 千穂は無言のまま、リビングのドアを開けて立ち止まる。

 悠真がつられて足を止めると、早く入れと顎で示された。普段なら決して見せない苛立った様子は、その原因が自分であるとわかっていても恐ろしいものだった。


「あんた、わかってるんでしょ?」


 悠真が部屋に入るなり、千穂が切り出した。

 乱暴に閉められた扉の音がいやに響いて聞こえる。

 体を投げ出すようにしてソファに腰かけた千穂を見つめながら、悠真は呆然と立ちすくんだ。


「わかってるって……、何のことですか?」

「とぼけないで。わかってるからあんなこと言ったんでしょ?」

「あんなこと……ですか。そんな、言うつもりじゃなかったんです」


 今さら後悔しても遅いのは理解してます、と声には出さずに続けた。

 千穂は腕を組み、射抜くような眼差しを悠真に向けている。組まれた足が小刻みに揺れていた。


「いつまで立ってるつもり?」

「……あ、いえ」


 この状況で千穂の隣に腰かける勇気は悠真にはなかった。だが、この部屋にあるソファは千穂が座っている物しかない。

 悠真は恐る恐る千穂の正面に向かうと、フローリングの床に正座した。

 食事の時などに向かい合うと、千穂は座布団をすすめて自分も床に座り、悠真と視線を合わせていた。今はその素振りなど微塵も見せない。


 普段上から見下ろしている分、千穂の方が高い位置にいると威圧感があった。

 悠真が気まずさに顔を伏せていると、千穂が舌打ちをするのが聞こえた。


「で? どうなの」

「知らないですよ、何も」

「ふーん」


 気のない返事をするは自分を試しているせいだろうか、と悠真は思考を巡らせる。その間にも千穂はせわしなく視線を動かしたり、足を組み替えたりしていた。


「あー、もうっ!」


 急に大きな声を出され、悠真は飛び上るほど驚いた。

 体をすくめ、おろおろと千穂を見上げると、千穂は髪を掻き回していた。髪から引き抜かれた指には、数本の長い髪の毛が絡みついている。それを無造作に床に振り落すと、千穂は大きく息をはいた。


「あー……っ、……はぁ」


 何かを言いかけ、ため息をつき、髪を掻き毟る。千穂はその動作を何度か繰り返し、悠真はその度にビクリと肩を震わせた。


「――ごめん」


 千穂がそう言った時、悠真は何を謝られたのかさっぱりわからなかった。


「私、この家出て行くから」

「……えっ?」


 千穂は冗談を言っているようではなかった。その様子が悠真の混乱を加速させる。


「だってここ、千穂さんの家ですよ? 出て行くのは僕の方じゃ」

「ううん、私が出て行く。違約金の代わりってことで」

「違約金って……」

「心配しないで。悠真が卒業するまでは家賃もちゃんと払うから」


 千穂は悠真に話を切り出すよりも随分と前からそのことを決めていたようで、一人で次々と話を進めていった。悠真はといえば、千穂の話についていくのでやっとだった。




「――千穂さん、一つずつ説明してください」


 悠真がそう言って千穂を止められたのは、千穂の話があらかた終わった頃だった。


「何?」

「急にルームシェアをやめようなんて思ったのは何でですか」

「ああ、そんなこと?」


 ――そんなこと、で済むような話じゃない。


 悠真は怒鳴りそうになるのを堪えた。

 ここで怒鳴ってしまえば、それで話が終わってしまうかもしれない。千穂に聞きたいことはまだまだたくさんある。怒るのには、まだ早い。


「親にばれたの」

「ばれた? このルームシェアがですか?」

「そう。この前電話があったでしょ?」


 千穂に指摘され、半月ほど前に千穂の母親を名乗る人物からの電話を受けたことを思い出した。千穂は仕事で不在だったため、直接取り次ぐことはなかった。本人が留守の間に異性が家にいるという状況に違和感を持ったらしく、千穂は後日かなり問い詰められたという。

 そこで初めて悠真とルームシェアをしていることを親に告げたのだが、千穂の母親はルームシェアと同棲を混同していて、すぐに同棲をやめるように説教された。そのせいで実家に戻らなければいけなくなった、というのが千穂の言い分だった。


「千穂さんは二十五ですよ? 子供でもないのにどうして……」

「親にとっては幾つになっても子供は子供なんでしょうね」


 素っ気なく返されて、悠真は呆然とするしかなかった。


「嫌じゃないんですか」

「嫌? 何が?」

「親の言いなりになることですよ」


 千穂は意味がわからないと首をかしげた。


「約束を破ったのは私の方だし。聞きたいのはそれだけ?」

「約束?」

「暗黙の了解。……みたいなもの」


 申し訳程度に添えられた言葉の真意を追及しようと悠真が口を開いたのとほぼ同時に、千穂の携帯電話が鳴った。

 千穂は発信者の名前を確認すると、テーブルの上へ投げるように置いた。


「いいんですか?」

「うん」


 先ほどの話の続きを、とも思ったが、気まずいような気もして悠真は黙り込んでしまった。


「もういい? だったら私は行くけど」

「行くって……どこへです?」

「どこでもいいじゃない。とにかく、ここを出るから」


 有無を言わせぬ調子で言い放つと、千穂はソファから腰を上げる。


「あ、あの……、最後に一つ」

「何?」

「どうしてルームシェアなんてしようと思ったんですか」


 悠真が問いかけた瞬間、千穂の眉がピクリと動いた。悠真の顔を一瞥すると、千穂は座りなおした。

 射抜くような瞳が悠真に向けられる。


「悠真は?」

「僕は……」


 どうしてだっただろう、と記憶をたどった。


「高校の時の部活の顧問が……」

「それはきっかけでしょう? 断ることもできたはずよね」

「……う」


 返す言葉を失って、悠真はうつむいた。


「親友のお兄さんから頼まれたのよ。自分が顧問をやってる部の生徒を助けてやってほしいって。おとなしめの女の子って聞いてたけど、実際に来たのは女装した男だった」


 責めるような口調に、悠真は唇を噛むことしかできなかった。

 その様子を見た千穂があからさまに舌打ちをする。


「おとなしいってのは本当だったみたいだけどね」


 何も返さない悠真をひと睨みすると、千穂は再び腰を上げた。


「……すみません。千穂さんを騙したことは、本当に悪かったと思ってます。でも、今までの一年は僕にとっては最高の一年でした」


 ひと言ひと言、言葉を探しながら悠真は言った。だが、それを聞いた千穂が返したのは乾いた笑いだった。


「だから? 楽しい思い出をありがとうってこと?」

「違っ……」

「いいわ。私、部屋に戻るから」


 千穂はくるりと背を向けると、後ろ手にドアを閉める。千穂の部屋の鍵がかかる音が、かすかに聞こえた。




 翌日、悠真がアルバイトから帰ると、家に千穂の姿はなかった。

 普段なら残業で帰りが遅くなっているだけだと思うところだが、前日のやり取りもある。嫌な予感がしてならなかった。


 一度疑惑が浮かんでしまうと、それが気になってしまって落ち着くこともできない。テレビを付けようとリモコンを探した。

 その時、リビングのテーブルの上に、小さな鍵が置いてあるのが目に入った。悠真は、それが何を意味するのか直感的にわかったような気がした。


 答え合わせなどしたくはなかった。それなのに、気が付けば体が勝手に動いていた。


 鍵は千穂の部屋のドアにぴたりと合い、今まで開かれることのなかった空間が現れる。

 部屋の中には、千穂の荷物の大部分が残されていた。

 ただ、衣服や仕事に使うであろう道具は一切見当たらない。そこで悠真は一つのことに思い至る。


「……僕、千穂さんが何の仕事をしてるのかも知らないや――」

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