Ⅹ 嘘つきとヤクザ
失意のうちに帰宅した悠真は、鞄を床に叩きつけた。
帰り道、千穂との別れ際の景色が何度も反芻された。
なぜ千穂は去り際にあんな目をしていたのか。いや、あんな反応をするのなら、なぜ逃げたのか。
本人に問いただそうにも、連絡がつかないのだからどうしようもない。そんな考えが頭をよぎったが、悠真はすぐにそれを打ち消した。
――佳乃なら何かを知っているに違いない。自分に秘密で千穂と連絡を取り合っていた佳乃なら、今日起こったことをすべて説明できてしかるべきではないか。
悠真は転がっている鞄を漁り、携帯電話を取り出した。アドレス帳の佳乃のデータを探し出して、電話を掛ける。一分とかからない工程だった。
呼出音が鳴るのを聞いているうちに、もどかしさが込み上げてきた。
「この電話は電波の届かないところにあるか、電源が切られています」という旨のアナウンスを聞き、留守録の説明が始まったところで悠真は電話を切った。
「こんな時に限って……」
苛立ち紛れに鞄を蹴りつけると、ちょうどそこに辞書が入っていて、つま先に強烈な痛みが走った。
上手くいかない時には悪いことばかりが重なる。
悠真が毒づいていると電話が鳴った。
「もしもし?」
「あ、アタシ。佳乃です」
「ああ、佳乃さん」
佳乃は先刻のことを気にしているのか、いつもより静かな声だった。
悠真は佳乃の声の調子が違っていることよりも、折り返し電話をかけてきたことに驚きを覚えていた。
「ゆーくん、さっきはごめんね」
「何がですか」
「ちほたんのことでしょ? 電話の内容」
リビングのソファに向かって進んでいた悠真の足が、石のように固まった。自分の唾を飲む音がはっきりと聞こえるほど、悠真の神経は張りつめている。
「ちほたんが、ゆーくんに謝りたいって」
「……はい」
悠真はやっとのことで声を絞り出した。だが、それに続く次の言葉が見当たらない。
沈黙に押されて目を泳がせていた悠真は、思い出したようにゆるゆると足を動かしてソファに座った。
座れば安心できるかと思っていたが、そうでもないらしい。じっとりと汗の浮かんだ手のひらを、ズボンへこすりつけた。
「……ちほたんね、『自分のせいであなたは辛い思いをしていたのに、どうして気付けなかったんだろう』って泣いてた」
佳乃の告げた言葉に、悠真がぴくりと眉を動かす。
「それなら、今すぐ戻ってくるように伝えて下さい」
「ううん。それはできない」
「どうしてですか」
「言ったでしょ? ちほたんは、ゆーくんに辛い思いをさせた自分を恨んでるの」
悠真の眉間には、無意識のうちにしわが寄っていた。
腿に置かれていた手に力がこもり、ズボンに爪が食い込んだ。
「自分がいなくなって辛い思いをさせたと思ってるなら、帰ってくるのが普通じゃないんですか?」
「……ああ」
佳乃は納得したような声を漏らした。悠真には佳乃が何に対して納得したのかが理解できない。
奥歯の痛みで、自分が歯を食いしばっていたことに気付いた。
「ちほたんが後悔してるのは家を出たことじゃない」
「じゃあ何なんですか」
「一緒に住むと決めたこと」
殴られたような衝撃とは、まさにこのことを言うのだろう。
悠真は携帯電話を取り落しそうになるのを、寸での所でこらえた。
「ゆーくん、学校で苦労してるらしいね。――人間関係とか」
「な……何を根拠にそんなことを言うんですか」
明らかに声が動揺で震えていた。悠真の反応を楽しむように、佳乃はたっぷりと間をあける。
「ちほたん、ゆーくんのこと心配してたまーに様子を聞きに行ったりしてたんだって」
頭の中には、何人かの同じ学科の学生の顔が浮かんだ。
――誰が千穂さんと通じていたのだろう。なぜ千穂さんは僕に直接聞かなかったんだろう。
「そしたらね、ゆーくんのことをからかってる子がいるって話を聞いたらしいんだ。ちほたんはそれが自分のせいなんだと思ってるみたいだよ」
「からかう? 心当たりがないんですが」
「そう? じゃ、千穂にもそうやって伝えておくよ」
佳乃は意味ありげな笑いを残し、一方的に電話を切ってしまった。
すかさず掛け直すが、呼び出し音の後にはさっきも聞いた留守電のアナウンスが続くばかりだった。
「……ったく、なんだよ。どいつもこいつも!」
床に叩きつけた携帯電話は、鈍い音を立てて転がった。携帯電話を拾い上げ、もう一度投げようと腕を振り上げる。
手の中で、携帯電話が振動した。
――まさか。
悠真は一縷の望みにかけてディスプレイを見た。なんてことはない。ただのメールマガジンだった。
「クソっ」
勢いよく叩きつけられた携帯電話の画面が、高い音を立てて割れた。液晶が割れても、機械としての性能は失っていないらしい。いまだに待ち受けの画像が表示されている。
どうにも苛立ちが抑えきれない悠真は、何度も部屋の中を歩き回った。ぐるぐるとテーブルを中心にしてまわり続けるうち、苛立ちが自分の中心に固められていく感覚に陥る。
こうなれば、直接佳乃に会うしかない。逃れられない状況に持ち込んで、じっくり話を聞かなければ気が収まらない。
では、佳乃に会うにはどうしたらいいか。
答えはひとつだった。
財布とディスプレイの割れた携帯電話を掴み、悠真は家を飛び出した。
深夜だというのに、裏手の厨房にはまだ電気がついている。ここ数週間で何度この店と家を行き来しただろう。
表の扉に手をかけたが、案の定鍵がかかっていた。ならば、と裏の勝手口のドアを力任せに叩いた。
自分のことを騙した女は、困ったように笑いながら腹の底ではほくそえんでいたのだ。
その怒りをすべてぶつけるように、悠真はドアを殴り続けた。
「入ってこいよ、開いてるぞ」
男の、野太い声だった。誰かと勘違いしているのだろう。
入ってよいと言われたのだから、悠真は遠慮せずにドアを引いた。
「こんばんは」
低く、ドスを利かせた声で囁く。驚いた山本が振り向いた。
「佳乃さんはどこですか」
「あ? あいつなら帰った」
呆気にとられながらも、山本は作業の手を止めて悠真のもとに歩み寄った。
「あいつに何の用だ」
「電話のことで話したいんです」
「電話? あいつ、なんかしたんだな」
山本の眉間に深いしわが刻まれ、持っていた布巾がぐしゃりと歪む。
文字通り鬼のような形相になった山本に、悠真は思わず一歩後ずさった。
山本は腰に巻いたエプロンの下に手を差し込むと、携帯電話を取り出した。そして、すぐに電話をかけ始める。
「おい!」
第一声がそれで、悠真の方が反応してしまう。
ひとしきり怒鳴り散らしながら汚い言葉で要件を告げると、電話を切った。
「……それで、佳乃さんはなんて?」
ただならぬ山本の雰囲気に恐れをなした悠真が、機嫌を窺いながら尋ねた。山本は、さっきの剣幕はどこへやら、満面の笑みを浮かべた。
「さあな。留守電だ」




