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Ⅰ 爪を磨く女

 千穂ちほは爪を磨く。まずはやすりを使い、爪の先の白い部分がなくなるまで削る。それから表面の細かい傷を丁寧にそぎ落としていく。

 爪切りを使わないのは、千穂なりのポリシーだ。


 爪の手入れは、千穂が唯一高校生の頃から続けている、癖と習慣のちょうど真ん中のような行為だった。

 世間がクリスマス一色に染まろうと、そこから一転し年越しモードに切り替わろうと、この習慣だけは変わらない。


 爪を磨き上げた後は、一目ぼれで買ったアンティーク調のテーブルライトの明かりで最終点検を行う。ライトの光を受けて一点の傷もなく輝く爪は、一つの芸術作品のようだ。

 職人のごとき眼差しで、指先の角度を変えながら丹念に爪一枚一枚を隅まで見る。他の人が気にしないような細かな傷までなくなって、やっと千穂は表情を緩めた。


 爪の手入れが終わると、千穂は決まって溜め息をつく。その溜め息は、ひと仕事終えた達成感からのものではない。胸に空いた穴から漏れる隙間風のような、空虚なものだ。


 ――どれだけ爪を磨こうと、リィ(あのこ)が私を褒めてくれることはない。


 千穂の頭によぎるのは懐かしい友人の姿だった。高校を卒業してから七年が経つが、彼女とは一度も会っていない。

 これからも会うことはないだろうと頭ではわかっていても、体は動いてしまう。そんな自分に嫌気がさしていたのだ。


「ただいまー……です」


 千穂が感傷的な気分に浸っていると、玄関で音がした。同居人の悠真ゆうまが帰ってきたのだ。

 ガタガタと騒がしいのは、靴を脱ぐときにバランスを崩して靴箱の上の置物を落としでもしたからだろう。

 悠真は少しおっちょこちょいなところがあるからな、と千穂は小さく笑った。


 悠真は千穂の家のすぐそばにある私立大学の一年生で、少しばかり複雑な経緯を経て千穂と同居することになった。自分よりも随分と年下の異性と同居するということにはいささか抵抗もあった。だが、知人からの強い願い入れということもあって、渋々ながら承知したのだった。


 悠真は連日のアルバイトのせいで、課題や睡眠に当てるべき時間の大部分を削られているらしい。疲れだって溜まっているだろう。それでも、悠真は疲れた素振りも見せなければ、文句を言うこともなかった。

 進学したければアルバイトをして自力で学費を稼ぐように、というのが悠真の親の教えらしい。それを忠実に守っている点に感心はしているが、千穂がそれを態度に出すことはない。


「おかえり」


 声をかけながら玄関とリビングを仕切る扉を開けた。案の定、悠真は膝を折ってぬいぐるみを拾い上げているところだった。


「……ああ、そのぬいぐるみ」


 興味のないような力ない口調で呟く。


「覚えてますよね?」


 悠真に言われて、千穂はええ、と短く答えた。

 半年ほど前、悠真に強制的に連れて行かれたゲームセンターのクレーンゲームで取ってやったウサギのぬいぐるみだ。

 学生の間で流行っているキャラクターらしいが、千穂は悠真から聞いて初めてその存在を知った。悠真はどうしても欲しいと言って、なけなしの財布の中身を惜しげもなく投入してはアームの弱さに肩を落としていた。


 悠真が両替に行ったのを見計らい、試しに、と千穂が二百円を投入して挑戦してみると、運よくタグにアームが引っかかった。そして、悠真がいくらつぎ込んでも手に入れられなかったものが、あっさりと手元に落ちてきてしまった。

 罰の悪さを感じながら千穂がぬいぐるみを手渡すと、悠真は目を丸くした。その表情は次第に緩み、満面の笑みに変わった。


 その日はずっと、悠真はそのぬいぐるみを自分の子供のようにしっかりと抱いていた。千穂はあれから半年が経ったことよりも、その日の出来事を鮮明に覚えていた自分に驚いていた。

 きっと悠真があの日のようにぬいぐるみを抱いているのを見たせいだと言い聞かせ、悠真から視線を外す。


「そんなに大事?」


 千穂が問いかけると、悠真は満面の笑みで頷いた。


「もっちろんじゃないですか。千穂さんが取ってくれたんですもん!」


 子供のような無垢な笑顔に、そう、と千穂は短く答えた。

 見る人が見れば魅力的だろう悠真の笑顔も、千穂の前には何の効力も発揮できない。それだけでは飽き足りず、千穂はさらに追い打ちをかける。


「好きじゃないから部屋にでも持って行ってって言ったのに、まだそこにあったんだ」

「……はい」


 哀れっぽく肩を落とした悠真を置いて、出迎えの義務は果たしたとばかりに千穂は踵を返した。そして、リビング手前の左側の個室に入ると鍵を閉めてしまった。

 この家には二つの個室とリビング、ユニットバスがある。個室のうち、玄関とリビングを繋ぐ廊下の右手にある部屋が悠真の私室で、その向かいが千穂の寝室になっていた。

 鍵が付いているのは千穂の寝室だけで、眠る時や出かける時は施錠される。千穂は寝室にいる間に邪魔をされると機嫌が悪くなることを、悠真はこれまでの生活で身をもって知っていた。

 床に転がったままの鞄を拾い、腰を上げる。腕の中のぬいぐるみに目を落とし、ひときわ力を込めて抱きしめた。


「悠真」


 悠真が自分の部屋に入ろうとノブに手をかけたのと、ほぼ同時だった。千穂の声が扉越しに聞こえた。


「何ですか?」

「夕飯、テーブルの上だから」


 素っ気ない言い方だった。


「……ありがとうございます」

「洗い物、やっといて」

「はい」


 扉を開けると、ぬいぐるみと鞄を部屋の入口に置き、リビングへ向かった。

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