アリアの誘惑
「さえきさん、オレといる時くらいその眼鏡変えてよ」
拓己の部屋に荷物を届けにくるとうんざりしたように言われた。
あたしは、フレームの太い黄土色の眼鏡をして素顔を隠していた。
あまりに趣味が悪いため、拓己やフォースのメンバーには、すこぶる不評だった。
「コレは社長に言われてしているんです。
アナタのファンは若い女の子なんだから、私のようなのがウロウロしてたらマズいんです。
少しでもダサく見えるようにしなくっちゃ」
「それは分かるけど‥せめて、誰もいない時くらいは止めてくれないかな」
「いいんです」
「お願いだからさ、ちょっとだけ眼鏡とってみてよ」
どきん。
や、
やばい!
その拓己ボイスは、ファンには、腰くだけものだ。
あんたにそんな事言われたら、おかしくなちゃうじゃない?!
動悸を隠しつつ、部屋にあった大きなグランドピアノに目をやった。
拓己はピアノも弾く。
あたしもピアノは好きだった。
実家に置いたままにしたピアノ。きっと父は見向きもしないだろう。
「バッハのゴールドべルク変奏曲アリアを弾いてくれたら考えます」
なぜこんなことを言ったのか分からない。
けど
この時はなぜか口にしてしまった。
ゴールドベルク変奏曲が無性に聴きたかったのだ。
たとえ拓己が弾けなかったとしても、眼鏡をはずす必要がなくなるから悪くない提案だ。
その時、おもむろに拓己はピアノの蓋を開けた。
右手、左手、とカノンのように旋律が始まる。
睫を物憂げに落としながら、鍵盤に指を滑らせる拓己はこの世のものとは思えないほど美しかった。
静謐と流れるピアノの音に私は我を忘れた。この世の感覚が保てないような感覚。どこか遠くにいるような世界、ピアニッシモで意識が遠ざかる。
あたしは動けなかった。
こんな快感があるだろうか?
このまま死んでしまってもいい‥
あたしは…
きっと地獄と天国のどちらにもいるんだ…
鍵盤の音が止んでも、私たちは動かなかった。
あたしは眼鏡をゆっくりとはずした。
顔をあげた拓己は、私を見て悲しく驚いた顔をしていた。どうしたのだろう?
拓己に近づくと、私たちはそのまま口づけをした。そうすることだけが、この美をとどめておける気がしたから。
「‥‥」
かすかに拓己が、つぶやいたような気がした。
あたしは拓己の全身にキスをした。拓己も同じようにあたしにキスした。バッハのゴールドべルク変奏曲アリアに私たちが入っていられるには意識を飛ばすことだけしかないのだ。
皮膚の感覚と音の記憶に助けを借りてあたしたちは、お互いを貪りあった。
…そして
次第に違った音が次の段階に進んだことをあたしたちに思い知らせる。彼はあたしのを、あたしは彼のものを口で愛撫する。その音があたしたちを欲情へとスイッチさせたのだ。
「ああ、どうしよう?!」拓己が泣きそうな声でつぶやいた。あたしはすっかり濡れているし、彼もいっぱいそうなのに、そう言うのだ。
「…怒るわよ…」
観念したように彼はあたしに入ってくる。少し‥ぎこちない…?
‥でも
あああああ‥
あたしは体の中にある快感の他に、別の陶酔感をいっぱいに満喫していた。
拓己とセックスしてる!
それが今のあたし!
世界中で一番美しい拓己とつながっているという事実に私は興奮していた。芸術品の彼とセックスすることであたしは人間以外のものになった気持ちがしていたのだ。
「あ…」
拓己の動きが止まった…
なに?
まさか…?
「ごめん‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
どうしよう‥ことばが‥
「…だ、大丈夫よ…あ、あたしって初めてみたいなものなの‥ あたしがダメなのかも‥」つくり笑い。
「そんな事ないよ。‥さえきさんは悪くない…」
ふたりして…天国から一気に地獄とはこんな事をいうのだろう。
「大丈夫、大丈夫っ!だって、あたしたち初めてだったし…まだ慣れてないだけよ。また頑張ろう!」
何を前提にあたしと頑張るのか?おかしなセリフだったけど、こう言うしかなくって… そのまま彼の部屋を後にした。