◇注連縄◇
――海原をおびただしい数の蛾が、飛翔していた。
余りにもその数が多いので曇の合間からのぞくと、小さな島が島ごと移動しているかのようだった
何十万という無数の蛾の体や羽を覆い守っているのは、鱗ぷんと呼ばれるウロコ状の分泌物だった
ウロコに覆われたその大群が、月の光りを受け、今やちょっとした爆発のような眩しさをともなって東へ東へと突き進んでいた
巨大な扇形のちょうど爆心にあたる部分に、この“部隊”の頭目らしきものの意識の流れがわずかに息づいていた
しかし、その幽かな意識の片鱗を読取ることができたのは、洋上を気ままに漂う風だけであった
〈――急げ。――急げ。〉
アズサはエバーグリーンホテルの中庭に立っていた
お洒落でカラフルな鳥居や灯篭を配したモダンな庭園は、このホテルの自慢のひとつだった
――でも、少々悪趣味かも…と、アズサは思った
参道を模した歩道を進むとすぐカフェテリアが見えた
解放されたアコーディオンドアの近くの席に雛子と舞が陣取っていた
「センパイ!こっちこっち!」
アズサは笑顔で応えた
ふとホテルを見上げると、それは空に分け入りそうな高さだった
株主総会まであと二日――
白いシャツにカーキ色のベストを着た二人が陽気に手を振ってはしゃぐ
アズサは相変わらずのテンションにほっと安堵した
「お疲れさま!」
「お疲れ様でした!」
「何を頼んだの?」
「スイーツの食べ放題です!」
「へえ。そんなのあるの?」
「今からチョー楽しみ!!」
甘いものに目がない雛子がそわそわと店の奥を覗き込んだ
「あれ。センパイ、着替えなかったんですか?」
「私はこの方が落ち着くから」
アズサは白の小袖に鮮やかな緋袴姿
雛子と舞は高校生らしく制服に着替えていた
午後になって二時間ほど休憩がとれたため、三人で一階のフードエリアに集まったのだった
アズサは本職の巫女。二人は助勤という、いわばアルバイトだ
アズサは今回の神事に応募してめでたく採用。
助手を推薦する資格を得て困っていたとき、ちょうど家に遊びに来ていたのが雛子と舞だった
アズサにとって二人は中学校時代のバスケ部の後輩にあたる
アズサは巫女の仕事に専念するため中学卒業後バスケを断念したが、雛子と舞は高校に入ってからもバスケを続けていた
年こそ違うけれど、なんとなく気の合う後輩たちだった
ボランティアの宮司や本職の巫女と違い、助手にはちょっぴりアルバイト代も支給され、おまけに旅費も出る
アズサが巫女のアルバイトの話しをすると二人は速攻で引き受けてくれた
高校生活最初の夏休みは部活動で明け暮れ、何一つ思い出づくりが出来なかった二人は大喜びだった
「袴はトイレがめんどくさくて!」
雛子と舞は顔を見合せて頷き合った
物怖じせず、なんでもストレートに言う
それが雛子と舞の好いところでもあった
アズサの祖母梓から借りた二人の装束は、内股に襠が付いているから御手洗いの時など女子には少々不便だった
「ごめんね。最近のはたいてい行灯袴といってスカートになってるんだけど」
「そうなんだ!」
「そっちがよかったあ!」
「私、脱がずにしようとして大失敗しちゃった!」
「ひゃー!汚なァーい!」
「ち、違うわよ!ひ、紐がね――」
アズサは吹き出した
二人を見ていると心から笑えた
「――センパイは物知りだなあ」
「美人だしね!」
「髪もキレイだし」
「シャンプー何使ってるんですか?」
「えっ?」
アズサはうろたえた
「アジエンスですか?」
「ツバキですよね!」
「あ!パンテーン?」
「えと、あの…」
「もしかしてジャングルとか?」
アズサは小学校の時からずっとリンスインシャンプーだったのだ
――そんなことわざわざここでカミングアウトしたくない…
「センパイ!ずるい!教えて下さいよ!」
「教えて下さい!卑怯だぞ!」
「ああ…」
「お待たせ致しました」
その時、お待ちかねのスイーツが運ばれてきた
「やった!」
「わあーい!」
「――って、何コレ?!」
三人の目の前にドカンと積まれたのは羊かんと大福餅の山だった
「当店自慢の栗羊かんと苺大福でございます。おかわりはご自由となっております――」
「――マジで?」
三人の気持ちがぴったり合った
「残したらばちが当るわ。さ、いただきまーす!」
アズサは大福を手に取った
雛子もそれに習った
「いただきます!」
舞は羊かんを一口つまんでサマンサタバサのバッグからPCを取り出した
「ちょっと失礼しまーす」
断るだけましだな、とアズサは感心した
部活をやってる子はがさつなようで細やかな気遣いもできる
というか条件反射か。
日頃から鍛えられているのだ
試合の時だって闇雲に攻撃するだけが能じゃない
防御がきちんと仕事をすればこそだ
一年坊主は常に先輩たちから学んでいた
どんな理不尽な練習メニューも、いつかは自分に帰ってくるのだ
雛子や舞がそこまで考えるているかどうかは定かではないが…
「また、ブログう?」
雛子が舞を牽制した
「うん。昨日さ。全然ツナガンなくてさー」
「あ、そうそう!お風呂出たあとでしょう?私もメールしてたら“大変込み合ってます”トカ意味わかんない」
「あ、やっぱ? 今朝みたら、昨日の昼カキコしたのが消えちゃっててさ。マジ!とか思った」
「うわサイアクう!」
「でしょ?チョ〜ムカついた」
アズサは頭が痛くなってきた
「どうしたんですか?」
「ちょっと頭痛が…」
「かき氷トカ食ってっと、キーンてなるよねェ!」
「いや、全然違うんだけど…」
「管理人に通報しちゃいなよ!」
「したよ。ウンともカンとも言ってきやしねェ!」
――それは、ウンともスンとも、でしょう?
やっとの思いでアズサたちは最後の羊かんを鵜呑みにした――
「オエ――」
「うっぷ…」
「はあ――」
狐がやってきて
「おかわりはいかがですか?」と言った
「いるか!ボケぇー!」
狐はしっぽを巻いて退散した
店長らしき狐に何かチクッている様子だった
「まずいわね。行きましょう!」
アズサたちは席を立った
秋晴れの清々しい午後だった
三人は食後の運動を兼ねて中庭からホテルの正面に回ってみた
狛犬と獅子が仲良く並んでいる
角のあるのが狛犬。ないのが獅子だ
「あー…」
「うん…」
「――ですよね!センパイ?」
「そ、そうね…。雛ちゃん、口から大福が出てるわよ?」
「えーっ!マジ?」
二の鳥居をくぐるとホテルのフロントロビーにたどり着いた
「ここが拝殿かしら?」
舞が訊いた
「逆。私たち後ろから来たの。拝殿はB館だと思う」
「社務所ぢゃね?」
雛子が言った
するとエントランスの両脇にアズサはアールデコ調の鳥居を見つけた
回転ドアのずっと上だ
よく見ると注連縄状のレリーフが浮き上がっていた
「正解。これが一の鳥居ね!」
ロビーはひっそりと静まり返っていた
フロントで舟を漕いでいた小狐がカクンとしてハッと目覚めた
「ああ、こらこら。お前たち、スタッフだろ?」
「はい」
「出ちゃいかん」
「すいません。通用口しか知らないのでちょっと見学に…」
「ダメだダメだ。引き返せ」
「ずいぶん横柄なホテルマンね?」
舞がやる気を出した
舞はバスケではスリーポイントシューターなのだ
「待って。――なぜ出てはいけないのですか?」
雛子が舞を押し退けて小狐に詰め寄った
雛子はプレイはイマイチだが、ベンチにいる時は違う
スコアラー(プレイヤーではなく)としての雛子は相手チームにいちゃもんをつけ、味方に有利なポイントを付けさせる天才なのだ
相手チームのコーチは雛子の天然ぶりに呆れ、半ばどうでも良くなり雛子のいちゃもんを受け入れるのだった
「おい。狐!」
「なんだと!」
「まだ出てねーだろ!」
「うっ!それはそうだが…」
小狐は気圧された
「だったらガタガタ言ってんじゃねーよ!」
小狐は震え始めた
高校生になって、一段と凄みが増したなと、アズサは感じた
小狐が気の毒になったアズサは助け船を出した
「わかりました。私たち戻ります」
「お、おう。そうか、わかれば宜しい」
小狐はコンと咳払いをした
「ただ――大福を食べ過ぎて気持ちが悪いので、少しだけ外の空気を吸いに出たいのですが…」
「そりゃお前…」
雛子がキッと睨んだ
「まあ、いいよ。ちょっとだけなら…」
「有り難うございます」
ホテルを出ると目の前に、手入れの行き届いた並木通りが広がっていた
出雲に到着してからずっとホテルに缶詰めだったので、外の景色が新鮮だった
「気持ちいいわね!」
アズサは思いきり深呼吸をした
「ほんとヤバイ!」
「ヤバイって、どうしたの?」
アズサが真顔で雛子を心配した
「このままどっか遊び行きたあーい!」
「なあんだ!」
夢中でホテルの外観を写メしていた舞が振り返った
「センパイ、ニッポンの本社って近くなんですよね?」
「そうね。歩いて15分くらいかしら」
「今から行ってみませんか!」
「今から?」
「変わった御守りとか売ってるんですよ!」
「よく知ってるわね」
「ホムペで調べたんです!」
「うーん、そうね。まだ時間あるし…」
「じゃあ出発う!」
「あ、ちょっと…」
ロビーを覗くと、フロントにいた小狐は頬杖をついてまたうとうとしはじめていた
アズサは時刻を確かめておこうとケータイを開いた
ホテルの内側では一本しか立っていなかったアンテナが、二本に増えていた
(ホテル全体がきっと神の依り代なんだわ――)と、アズサは思った
依り代とは、神が依り憑く場所や物のことである
山や森や河、木や林や岩。森羅万象あらゆるものが依り代となる
自然や物に霊や魂が宿る時、この非現実的な力のことを“マナ”と呼ぶ
世界各地には古くからこの“マナ”にまつわる言い伝えや伝説がある
マナは超自然的な力であり、一つの存在であると同時に、一つの作用・資質・及び状態である
お守りやジンクスなどもこれに当てはまる
神と人との関わりには、あらゆるものにマナが宿るという考えが根底にあった
巫とは、霊の宿る人のことである
依り代から神意・神託を受け取って一般に伝えることを職務としたのが、神主や巫女の始まりと云われている
――くねくねと曲がりくねった川のほとり、小高い丘の頂上に株式会社ニッポンの本社はあった
広大な敷地の中には回遊式日本庭園やフランス式整形庭園、イギリス風景式庭園などが縦横に組み合わせてある
樹木の数はゆうに一千万本を超え、桜は約百万本、梅八十万本。
その他にヤマブキ、シャクナゲ、桃、ツツジ、キキョウ、紫陽花、ハス、彼岸花、キンモクセイ、銀杏、サザンカ、椿、スイセン等が四季折々の花ごよみを魅せてくれるのだった
普段は有料で一般公開されており、ニッポンの貴重な財源ともなっている
とにかくこの時代、何かと神さまも世知辛い
この辺り一帯が神域であるためか、神使の鹿や牛、馬などがのんびり午後の自由時間を楽しんでいた
中にはタバコを吹かしている者までいた
託宣がなければ神使もヒマなのである
太鼓橋を渡ると目指すニッポンの本社に着いた
神々が経営するニッポン本社ビルは、この国を代表するに相応しい威厳と風格に満ちていた
エバーグリーンホテルのような奇抜で豪華な演出はないものの、どこか優雅で上品な雰囲気も兼ね備えており、見る者を落ち着いた気分にさせた
林檎ほどの巨大な玉砂利に足を取られながら、アズサたちは歩みを進めた
「マジで捻挫しそうなんだけど!」
雛子が愚痴った
「もう少しよ。気をつけて」
「なんで砂利がこんなデカイわけ? 信じらん――」
――グキッ!
「うっ…!!」
「ほーら、バチが当たった!」
正面玄関の部分だけが本格的な拝殿造りだった
眩しいばかりの黄金の金輪が色鮮やかな朱塗りの柱と柱を繋いでいた
地下鉄くらいの太さの注連縄が玄関にどしんとぶら下がっている
「落ちて来ないかしら?」
さすがのアズサもくぐるのをためらった
「何ビビってんすか!そうなったら告訴してやる!」と、雛子
「告訴する前にペッチャンコね!」
舞が笑った
「注連縄には結界の役割があるのよ。鳥居や拝殿に引き渡して、邪な者の侵入を防いでるの」
アズサは手を延ばして、紙垂にそっと触れてみた
「――だからあなた達は、入れないかも知れないわ…」
「どゆ意味っすか? センパイ?」
「あはははは!」
「まじムカつくぅ〜」
自動ドアがすっと開いた――
「私、お賽銭持って来てないわ!」
雛子があせった
「貸したげるわよ」
「クレジットじゃダメかしら?」
ごちゃごちゃ言いながら、三人は中へと入った
受付には狛犬と獅子が鎮座していた
「ねえ見て!」
エントランスにはタッチパネル式の案内図があった
館内の説明や庭園のレイアウトが大画面に映し出される仕組みだ
舞は社務所と書かれた“ショップ”へ駆け出した
「うわあ。すごい! いろんなお守りがあるよ!」
「IT情報安全祈願。個人情報御守り。いたずらメールを受けたケータイのお祓いもしてくれるんだって!」
「こっちにはストーカー除けってのもある!」
雛子と舞は大はしゃぎだ
アズサはヘッドホンをかけて“株式会社ニッポンの歴史”を聞いていた
受付にいた狛犬と獅子が
「ああー!」
「うん!」と吠えた
それは、大地を震わせるような声だった
三人は飛び上がった
恐る恐る近づくと、狛犬と獅子は立ち上がって90度のお辞儀をした
「いらっしゃいませ」
名札には“コマコ”と“シシコ”と書いてあった
「オンナかよ!!」
三人は一緒にツッコミを入れた
「アポはございますか?」
「そんなもんねェよ!」
雛子が言った
「申し訳ありません。陰暦10月11日から17日まで、神々が集まって株主総会を開催します。会議の前日、陰暦10月10日の夜に全国から出雲に集まる八百万の神々を龍蛇が稲佐の浜へ先導して参ります――」
マニュアル棒読みである
「マックみたい」雛子が言った
「コピペだよ、コレ」と舞
「あのう、私たちはその――」
「――であるからしまして、一般のお客様のご来場は固くお断りしております」
「じゃあなんで開けとくんだよ!」
雛子が唾を飛ばした
「あー」
「うん!」
コマコがカウンターの下に隠れた赤いボタンを押すと、どこからともなく鰐が現れて、つかつかと三人の前に遣ってきた
「すいませんね。これ以上示威行為を続けると、威力業務妨害であなた方を強制排除せねばなりませんが。宜しいですか?」