◇八雲立つ◇
アズサ達の足元
そのまた下の階では――
ウケモチノカミが数千羽の鶏やら鴨やらをちょうど吐き出し終えたところだった
ウケモチノカミは今回の宴会料理をすべて取り仕切る総料理長である
「むむ…!」
「どうかなさいましたか?チーフ?」
腹心の銀狐が尋ねた
「――いま誰か念を飛ばしたか?」
広い調理場を見回してウケモチノカミが唸った
うなり声に気づいた約三千余りの狐の尾がぴんと立った
狐たちはみな総料理長の部下である
ターバンを巻いた印度料理担当の狐たちも一斉に手を止めた
タンドール(壷窯)の側にいた狐があたふたとウケモチノカミの前に歩み出た
「――いやその、ナポリの職人がほんの余興にと…つまりその、ピッツァも似たようなもんだと、かように申しまして…」
狐は体中からカレーの匂いをぷんぷんさせて言った
「なんの話だ?」ウケモチノカミは訊いた
「いやその、まさか生地を宙に投げて伸ばすなどとは思いもよらず…、こうクルクルと回しながら遠心力で――」
だからなんの話をしているのだ?」
ウケモチノカミはいらいらしてきた
狐はどっと汗をかいた
窯の熱のせいではない
「ですからその、ナンの話を…、職人の放り投げたナンがこちらに飛んできたのでございましょう? 今しがた、誰がナンを飛ばしたのかと――」
「あほう!ナンではない!! 念じゃ!! しかも長いわ! わかりづらいわ!!」
「ははっ!」
ターバンを巻いた狐はひれ伏した
「どうもこうもないな!」
「いやはや、ナンとも…」
「もうよい!下がれ!」
ウケモチノカミは銀狐に向き直った
「ひゃっ!」
「びくびくするな。次は何を出せばよい?」
銀狐はバインダーのチェックシートに目を落とした
「えーと。小鉢、八寸、お造里、椀物、煮物、揚げ物、焼き物、御飯、デザート…。和食はこれでよしと――。イタリアンの方は…、色とりどりのアンティパスト、プリモ・ピアット、セコンド・ピアット、コントルノまで終わって――ドルチェは――パンナコッタ、ボネ、ティラミス、カッサータ、ズコット、レモントルテ、ブラウニー、白桃のコンポート、いちじくのジェラート。それから…、ピニョッカーティ、モスタッチョーリ・ナポレターニ、ビスコット・チェリエーゼ、ボッコノット、カルテッラーテ、スポンガータ・エミリアーナ、チャンベッレ――で、このスポンガータ・エミリアーナですが、アマレッティは柔らかいサッセッロ風にしたものか、それともセッキ、硬いサロンノ風にしたものかと…、もちろんアーモンドプードルはできるだけ白いものを使います。――でも、ベーキングパウダーを使うのはいかがなものかと…」
「やめんか!! ああじれったい!」
ウケモチノカミは鼻をふんと鳴らした
すると鼻から大量の油揚げが噴き出した
「いったん休憩ッ!!」
狐たちは油揚げの山に殺到した
「あのう…」
「なんだ!!」
銀狐はスマートフォンを差し出した
「社長からです」
「ばか。早く言え!――もしもし、もしもーし!…どうやって話すんだコレはッ!」
「――怒鳴らんでも聞こえとるよ」
ところ変わって、株式会社ニッポン本社ビル
こちらも最上階
役員室ロビー――
土曜日だというのに煌々と灯りが点いていた
大理石のカウンターにちょこんと置かれたインターホンの前で男は小さなため息を洩らした
「さてどうしたものか――」
自らをかたどったブロンズ象が勇ましく男を見下ろしている
やがて意を決すると男は受話器をとった
「はい。秘書室です」
聞き慣れた声に男は内心ほっとした
「私だ」
「あ――」と、相手の声がかすかに揺れた
「お待ち下さい。すぐ参ります」
「すまん」
自動ドアが開き、中から美しい白兎が男を出迎えた
「おはようございます」
「おはよう」
自動ドアが二つの影を呑み込むと、ロビーはまた静かになった
「失礼します」
白兎の名はイナミ。先祖代々、社長の秘書を務めてきた
イナミはいんぎんに茶を出すと男の次の言葉を待った
「急に来てすまなかった。君がいるとは思わなかったよ。お蔭で助かった」
「私物の整理をしておりました」
「そうか。ICカードを返却したことをうっかり忘れてね。年をとるとこれだから」
「あの――」
「うん。心配しないでくれ。用事を済ませたらすぐに帰るから」
男はPCの電源を入れた
「ロビーの照明が点いていた。節電はもうやめたのかな?」
「新社長が――あ、すいません」
「いや。かまわない」
「ヱビスノカミが、暗いのは社員たちの気が滅入るからとおっしゃって。本社のエコモードをすべて解除しました」
「彼らしいよ。…やっと起ち上がったぞ」
画面上に大きな朱の鳥居が浮かび上がった
パスワードを入力する
「おや? 変だな」
パスワードが拒否された
――もう一度。
「申し訳ありません。今朝早くシステム統括部の方がみえて…」
「なるほど――。なに君が謝ることはないさ。しかし困ったな。プライベートの住所録まで全部入れておいたのだ。仕方ない。月曜日にでも総務に掛け合って――」
「社長。実は――」
「うん?」
イナミはUSBメモリーを取り出した
「データはここにコピーしました」
「というと?」
「総務から連絡を受けたのは昨夜です。家に帰ってからもしかすると社長はバックアップをとってらっしゃらなかったのではと、ふと思いまして――」
「それで、休日出勤したの?」
「はい。システムの方が来る前にと」
「私のデータを全部?」
「私の権限でアクセスできるものは総て」
「ほお」
「服務規程違反だということはわかっています。勝手な真似をして申し訳ありません」
「はっはっは!これは良い!」
「総務には私から事後報告致します」
「それには及ばないよ。私が黙っておけば済むことだ、逆に気を遣わせて悪かった。君にはさいごのさいごまで世話になりっ放しだ」
「いえ。そんな――」
男はUSBメモリーを懐にしまいPCを閉じた
「お昼はこれから?」
「もう退出するところでしたので」
「ちょっと早いがランチをご馳走しようか」
「それはいけません」
ぐう――と、イナミの腹が鳴った
「そらごらん。お腹は正直だ」
イナミは耳の先まで赤くなった
男は電話機を引寄せボタンをプッシュした
ややあって相手が出た
「――ああ。私だ。オオクニヌシだ。チーフはいるか?」
「――そうだ。ニッポンの。そうだ。まあ一応神様だ。ウケモチだ。そう――」
オオクニヌシは愉快そうに頬を撫でながら、イナミにウィンクした
「――怒鳴らんでも聞こえとるよ」
「――忙しいところすまないんだが、デリバリーを頼みたい」
「――そうだ。二人前だ。女性だ。野菜中心で。――え?何を言っとる。ばかもん!」
「――今何と? 国産の松茸?いいね。――トリュフ?ああ。じゃあそれも。はっはっは!――それは任せる。わかったわかった。では宜しく」
オオクニヌシはさも楽しげに席を立ちバーカウンターへ向かった
「料理が届くまで少しかかる。何か飲んで待つとしよう」
「よろしいのですか?」
「何が?」
「その――ご自宅の方は?」
「こんな時間に帰ったらかえって迷惑がられる。それに今日は女房連中は歌舞伎見物に出掛けておる」
「迷惑…、そんなものですか?」
「そんなもんだ」
「口が過ぎました」
「いいからいいから。何を飲むかね?」
「私は――」
「遠慮はいらん。ささやかなお疲れさん会だ」
イナミの瞳がわずかに曇った
「さあ。何にする。カクテルも出来るぞ」
「では、カルアミルクを」
「よし。任せとけ」
オオクニヌシはグラスを並べて手際よくドリンクを作った
「株式会社ニッポンの未来に乾杯!」
「乾杯!」
「昼間の酒は格別だな」
「まだ朝です」
「ははは!これは一本取られた!」
イナミはこの瞬間を幸せだと思った
そう感じたとたん遣り場のない感情が芽生えた
「なぜ、会長にならなかったのですか?」
イナミの真剣な眼差しにオオクニヌシは驚いた
「会長か――そんなものが何になる」
オオクニヌシは掛軸の正面に立った
掛軸には和歌がこう記されていた
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)
それは決して高価な代物ではないが、ニッポンの社員なら誰でも知っている歌だった
「いつ見ても不思議な歌だ。いや、歌でさえないのかも知れぬ。私はこれを詠むたび違った印象を覚えるのだよ」
「いろんな解釈ができます。その時の置かれた状況や気分によっても」
「そのとおり」
「――私は今まで何をしていたのかな」
「はい?」
「会社の発展。お客様の満足。社員や株主に対する責任。そういうものを私はひたすら追いかけてきた。それが私の義務だと信じて…」
「証券アナリストによれば我が社の今期の――」
「いや違うんだよ。イナミ」
ふいにイナミと呼ばれて白兎は身を固くした
「イナミ――」
――まただ
オオクニヌシに名を呼ばれるとただそれだけで緊張してしまう
「世界はどこか変わっただろうか?」
「変わりつつあると思います。でもあまり…」
「あまり――良い方向にではない?」
「いいえ。良いか悪いかは後になってみなければわかりません。私たちは善悪を判断する存在ではありませんから」
イナミの喉はからからになった
「――私はその、変化の速さはあまり早くはないと申し上げたかったのです」
「速さか――。光陰矢の如しだよ。――私がまだ駆け出しの頃、この国には今より沢山の希望が溢れていたように思う。もっともあの時代は希望以外に何もなかったのだ。
――切り立った断崖。荒れて何もない土地。疫病。飢饉。それに争い。災いが災いを呼ぶとはまさにあのことだ。弱き人々は小さな祠の前で手を合わせ、毎日のように我々に願い事をした。私とスクナビコナは寝る間も惜しんで働いたものだよ」
「専務のことですね?」
「そうだ。あの頃奴はまだほんの虫ほどの大きさで。だがガッツはあったなあ…」
「――人はもともと弱いものです」
「たしかに人は弱い。そのうえ考えても仕方ないことをくよくよと考える」
「理解の範疇を越えています」
「うむ。――イナミは人は嫌いか?」
「私は神使です。好き嫌いで仕事は――」
「正直に申せ」
「キライです」
「何故だ?」
「兎を馬鹿だと思っているからです」
「うははは!」
「な…、社長ッ!」
「いやすまん」
「社長がお尋ねになるからお答えしただけです!」
イナミは頬を真っ赤にした
「イナミよ」
「はい」
「世の中にはあらゆる生き物がおる。さいごに生き残るのはどれだと思う?」
「それは――最も強きものか、最も賢きもの。…ではありませんか?」
「さいごに生き残るのは、環境に適応したものだ」
イナミはクスッと笑った
「それは人の言葉です」
「知っておったか」
「はい。うろ覚えですが」
「人はうまいことを謂う」
「良いことを言うだけでちっとも理解していません」
「――故に人は、神頼みをするのだろうな」
「我が儘で勝手な種族です」
「人々の信仰心が薄まればば、我々の力は弱まる。人々の心から信仰が無くなってしまったら、我々はおしまいなのだよ」
「承知しています。でも私たちには神頼みする神がおりません」
「そうなのだ。――そうなのだよ…」
イナミはオオクニヌシに近寄った
「社長。少しお休みになってはいかがですか?」
「会社の業績を伸ばすことが私のすべてだった…」
張りのない弱々しい声だった
「会社は成長しました。社長は充分貢献なさったと思います」
「あれもこれもと新しい技術や手法を取り入れるうち、知らぬ間に私の一存だけでは手に負えなくなったのも事実だ」
「企業とはそういうものです。会社は正常に運営されております。人々の信仰心も健全に保たれています」
「イナミよ。本当にそう思うか?」
「はい。ですから私はてっきり社長が会長職を――」
「もうこれ以上、自分自身に嘘はつけない」
「社長…」
「君は、兎にしておくにはもったいないくらい有能で美しい」
「社長――やはり少し休まれた方が…」
オオクニヌシはイナミの空になったグラスに手を延ばした
「もう一杯どうかね?」
「いえ。私はもう――」
指先と指先が触れイナミの全身に電撃が走った
グラスが床に落ち、花びらのように砕け散った
「あ――…」
「いいんだ」
イナミはそのままオオクニヌシの胸元にすっぽりくるまれた
「何も申すな」
イナミは目を閉じた
あたたかい温もりで身体中が満たされていく
「オオクニヌシ様――」
――ドンッ!!
荒々しく扉が開いて鰐たちがあっという間に二人を取り囲んだ