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「あんた! なによこれ? 香澄さん! これ見て!」
祖母のこんな形相を見たのは初めてだった。
洋服箪笥をかつぎあげるのを手伝っていた。母が結婚を期に持ってきた海の写真がプリントされたデザインの洋服箪笥だった。
私が箪笥の上辺を持ち祖母が箪笥の底を少し持ち上げた。
異常な驚きようである。祖母は、恐怖で歪んだ全身を強ばらせ、母の香澄を呼んでいた。
「香澄さん! 香澄さん! 早く早く!」
祖母の表情は私を心底非難しているような顔をしている。歯を剥き出しにしているのは、いつもの温和で明るい祖母ではない。
「あんた……なんてことをした……」
譫言のように私に視線を向けたまま震えている。
体が寒くて仕方がない。
私は一体何をしてしまったのだろうか? 祖母をここまで驚愕させる何を私はしたのだろう。
私には小さい頃死に別れた弟がいただろうか? 行方しれずになってそのうち誰も話題に出さなくなった弟がいたのだろうか?
その弟を私は殺してしまったのだろうか? その弟の乾いた死体が洋服箪笥の下に隠れていたとでも言うのだろうか。
私は一人で探してみる。過去の記憶を遡ってみる。
いや、いないはずだ。弟を亡くしたのは親友の美優多であったはずだ。私には妹が一人いるだけだ。
確かに私の母は頑なな性質があり、どことなく秘密主義なところがある。幼いうちに死んでしまった弟の存在をひた隠しにしている可能性がゼロではないと思った。俯き追い詰めたような母の表情は堅く何かを隠しているという確信があった。
私に弟がいたのか?
ここでは弟はいなかったと仮定しよう。では、母は何を隠していたのだ。恐らくは私を庇って家族内のみならず箝口令をひき、誰にも話してはいけないと強く釘を刺していた可能性がある。
母は、祖母は、何をひた隠しにしているのだ。
まさか……。行方不明のままの美優多の弟に関係しているのか。神隠しにあったと言われていた美優多の弟に関係しているのか。 私が、美優多の弟を殺したのか。美優多の弟の遺体を箪笥の下に隠したというのか。
いやいや、子供の遺体は箪笥の下には隠せない。
あっ、母親が隠したのか、美優多の弟の遺品を洋服箪笥の下に隠したのか。
私は簡単に虫たちの生命を奪う残虐行為を心配されていた。それはよく覚えている。雨蛙の緑色の皮を剥いだり、トンボの羽を毟ったり、蝸牛をを投げ捨てて、殻を割ったりしていた。
そんな残虐行為が、人間に向いていたのではないか。私は、人を殺しているのか?
誰もそれを言いたがらないが、私が殺したのか? 若くして死んだ駐在さんも、釣りに誘われた時に池に突き落としたのかもしれない。 祖母をここまで顰蹙させる出来事とはなんなのか?
母が暗い顔をしてやってきた。
「出てきた? あんた、よくもそんな物を掘りだしてくれたな!」
母は時々、祖母を『あんた』と、なじることがあったが、今日の母の暗さは尋常じゃない。
私は勇気を出して聞いてみた。
「いったい、何が見つかったの? 教えて」
「見なくてもよろしい!」
母はピシャリと言い切った。
「僕には、見せられないの?」
「見る必要ない!」
母が続けて言った。
「誰かの骨でも転がっているのか! えっ!?」
と、私は二人を怒鳴りつけた。
「ああ、怖い。ああ、怖い! ヤクザみたいな言い方をして脅すなんて。お前おかしい! 小さい頃はよかったのに……。ああ、怖い!」
祖母を涙で顔を濡らしたまま必死で叫んでいる。
私は気を失ったようだった。私はそれを見たのか? おそらく、見ていないと思う。
チャンスはいくらでもある。私はみんなが寝静まった後、洋服箪笥を調べてみた。洋服箪笥を持ち上げてみると、案外軽くて、簡単に洋服箪笥を移動できた。そこには、もう何も無かった。
「そりゃあ、そうだろう」
隠すに決まっている。二人のどちらかが、いや、二人でそれを処分したのかもしれなかった。
疲れだけを残し、ため息混じりに箪笥を元に戻した。
箪笥をきちんと戻したかった。勝手に見たからといって、目くじらを立てる者はいないだろう。一応は何事も無かったようにしておきたかった。しゃがんで箪笥の向きを微調整していた。不意に引き出しが気になった。取っ手に手をかけ一気にひいた。
するとそこには美優多の弟が寝ていた。美優多の弟はまばたきをして寝返りを打っている。私は引き出しをすぐに閉めた。上の段の引き出しを開けるとそこには、太った駐在さんの生首があった。眼鏡をかけたままあくびをしている。
「……して」
駐在さんは何かを呟いている。よく耳を澄ましてみた。
「ねえ、体を返して」
そんなことを言っている駐在さんの首が倒れて、ゴロンゴロンと音がしている。
「体、返して」
ぼそぼそと何を言ってるんだこの人は。
私は引き出しをゆっくり閉めた。
一番上の引き出しを開けてみると、
「こら」
と、私を睨みつける祖母の顔があった。
「あんたも、ここに入れてほしいの」
振り返ると、楽しそうに笑っている母親が、乾いた血のついたナイフをこちらに向けていた。
「すぐに終わるから待っててね」
母親は、ナイフを自らの喉に差し込み、笑いながら絶命した。
私は一人になってしまった。家族はみんなこの箪笥の中にいるだろう。
父も、妹も、祖父もみんな箪笥のなかにいるだろう。
私は一人ぼっちがイヤだから、自分の喉を刺した。これでみんなと同じ箪笥という狭くて緊密なコミュニティーに入れる。
そしたらどうだ。
祖母が勝ち誇ったような顔で私を見ているじゃないか。暗い表情の母と明るい表情の父と妹がこっちを見ている。やられた。私は罠にはめられたのだ。
私は生贄となったのだ。母だけが止めようとしてくれたようだ。
そうか、この家の門外不出の秘め事とは、長男を殺すことにあったのか。
しかもそれは、一家繁栄のためではなく、祭りであって楽しみであったのだ。
そうか、父さんや祖父が次男である理由が良くわかったよ。なるほど、箪笥の下にあったのは、父さんの兄貴であった少年を刺したナイフだったんだね。母さんが、近いうちに僕が見つけやすいように箪笥の下に忍ばせてくれていたのですね。
じゃあ、僕には弟がいるということになるじゃないか。僕は会ったこと無いぞ。
……ああ、さっき会ったじゃないか。箪笥の一番下の引き出しにいたじゃないか。なるほど、彼が僕の弟だったのか。美優多の弟であるふりをしていたわけか。
「お前が、長男祭りに気がついたらいけないから、後継者である弟の存在を隠してたのよ」
「もう、出てもいい? おばあちゃん」
「狭かったでしょう。さあ、出ておいで」
「さあ、お前の後継者としての最初の仕事だよ。兄さんにとどめを刺しなさい」
「うん、ちょっと待って」
「……てことは、父さんや祖父も、長兄を殺したの?」
「そうそう、グサッととね。他の家の人には知られないんだよ」
「じゃあ、祖父の兄が戦死したというのも」
「嘘だよ。骨はうちにあるんだからな」
「お前の骨も長男祭りの後、よく焼いてから、裏の井戸に捨てるから」
「お前が大切にされてきた理由は長男祭りのためだよ。この子は、兄のあんたを気遣って、美優多さんちの弟として暮らしてきたんだ。この子のお前への気遣いもわかってやれ」
父さんはそんなことを言っている。
そういうことか。でもひとつどうしても気にかかることがある。祖母のあの怯えようだ。あれは、暗い儀式を隠すために怒ったようには、どうしても見えなかった。あれは、人としてどうしても許せないものを見てしまった強烈な反応だった。
どちらかと言うと、この長男祭りの風習を発見してしまい、人として許せない非難するような眼差しだったからだ。祖母にそれを聞いてみた。
「お前、同級生の子をいじめたんだろう? だからだよ」
「それから……それだけ?」
「それだけとはなんだい! 悪魔の所業じゃないか!」
「長男祭りの方がよっぽど酷いと思うけど」
「違う……。この家系の長男は、何故か卑劣漢が多いんだよ。私より二代前は、強姦をしているし、先代は人を殺している。私の息子は、嘘つきのこそ泥に成り下がった。そしてお前はいじめっ子となり、同級生を死ぬ寸前まで苦しめた。毎回好きで、殺すわけがないじゃないか。でもね、やっぱり長男祭りは必要なんだよ。私達の家系を断つべきなんだろうけど、母親たちはそんな話を信じたくない。だけど念のために次男が産まれるまで妊娠を繰り返すんだよ。歴代の長男もそうだった。相手が悪かったんだと自分を省みる能力が無かったんだよ。お前がいじめを『それだけのこと』と言い放つ限り私たちはお前を血祭りにあげなければならないんだよ」
***
長男祭りは無事に執行された。
箪笥の下にあったもの……それは、かつての少年が黒マジックで落書きした気の毒な少年の教科書だった。それを弟が持ち帰って、箪笥の下に隠しておいたのだった。
今、理不尽ないじめを受けた青年は長い闘病生活の末、社会復帰を果たし、結婚して幸せな家庭を築いている。
美優多の弟として育てられた彼の不遇は、想像を絶していたのかと言うとそうでもなかったようだ。
長男祭りを終え、美優多の弟として育った彼も結婚した。彼は、どうしても長男祭りを終わらせたかった。彼は子どもの頃に、兄が殺されてしまったことを知ってしまった。年齢を重ねるたびに、呪われた家系の因習に頭を抱えた。確かに彼は、その恐ろしい出来事を胸に秘め生きることで、悪事に手を染めることなく真っ当な人生を歩んできた。だからこそ、余計に長男祭りを許すことが出来なかった。
「何故、父さんや祖父達は、平気な顔をして余生を過ごすことができたのだろうか」
いつも、彼を悩ませる深刻な命題である。
「時代背景が関係しているのだろうか」
今はインターネット社会が形成され、田舎町に暮らしていても容易に自分の思いを伝えることができる。
しかし、私が子どもの頃には、インターネットは無く、コミュニケーション手段は限られていた。下品で野卑な人物が我が物顔でのさばってしまった小さな社会は悲惨である。
「こんな奴に出すメシは、足で踏んでから出したらいいんだ」
街の定食屋で日常的に繰り返されていた会話だ。彼も父がうどん定食を注文した時に、同じような言葉を常連客が笑いながら言いはなっていたのをよく覚えている。このような人間が我が物顔でのさばっているのが当時の社会の中心だった。彼は自分が大人になった時、この腐った社会で何をどう振る舞えばいいのかわからなくなった。父はそんな罵声に媚びた笑い顔を向けているだけだ。
彼の父は、ずいぶん前にあきらめてしまっていたのだ。誇りをもって生きることを手放してしまったのだ。
彼らはそんな野蛮な文化を持つ彼らが嫌いだった。そんな大人達に反旗を翻すように、各々が個人の戦いとして懸命に抗い続けた。
未だ、因習深い土地は日本各地にたくさん存在する。その土地に住む若い彼らもまた、必死の抵抗を続けていることだろう。閉鎖的な人間に囲まれた生活にインターネットが存在しなかったとしたら、どれほどの暗澹たる生活を強いられることか。平気で人権侵害されても聞いてくれる人がいない。知ってくれる人もいない。インターネット社会は、そんなおぞましい小さな社会で苦しみあえぐ人々にとっては、なんと有用な文化であろうか。
彼の大切な人が新たな命を宿した。彼も彼女もこの野蛮な文化に決別することを互いに固く誓った。
彼らがまず行ったのはインターネットへの書き込みだった。彼は、日本語と英語でブログを作成し、にわかには信じ難い『長男祭り』についての詳細をアップロードした。
続いて、二人は呪われた家系から決別するため、新しい名字を申請し受理された。当然、名字を替えたくらいで悪習を断てるわけではない。
彼は新居で暮らしはじめて十年が経過しようとしている。子どもはすくすくと成長している。未だ呪われた家系の人々からの音沙汰はない。悪しき因習を信じている者達は、きっと彼らの居場所を突き止め、長男を狙うだろう。五年後、いや、十五年後かもしれない。
彼は暑い夏の夜に、開け放たれた窓の外を見た。ジリジリと蝉たちが大音量で鳴いている。窓の外には、黄金の朧月が見える。
「ああ、田舎で見た月と同じだ」
煙草の火を消してもう一度、月の色を確認しようと窓の外を見た。
月は無かった。雲隠れしたのだろう、もう月は見えなかった。雲間に一瞬現れた月を彼は心に浮かべていた。
窓の外では、変わらず蝉たちが怨めしそうに鳴いていた。
――了――