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第7話:逃亡する聖女、追う騎士


 王都を出立してから二週間。 


 北へと向かう街道は、季節外れの猛吹雪に見舞われていた。

 世界を覆う「魔王の瘴気」は、天候すらも狂わせている。空は常に鉛色で、太陽は雲の向こうで病んだ月のように青白く滲んでいるだけだった。

 ガタゴトと車輪が凍った地面を噛む音が、車内に響く。

 アリアンナは、分厚い毛皮のブランケットに埋もれるようにして座っていた。

 その顔色は、窓の外に積もる新雪よりも白い。

 彼女の口には、小さな飴玉が一つ含まれている。王都の老舗菓子店で買った、蜂蜜とレモンのドロップだ。かつての彼女なら、ガリガリと噛み砕いて「次!」と催促していただろう。

 だが今は、その小さな飴玉を舐め溶かすことすら、重労働のように感じられた。


「……甘い」


 アリは掠れた声で呟いた。

 美味しい、ではない。ただ、甘いという情報が脳に伝わるだけだ。

 胃袋は既に活動を停止しつつある。固形物を受け付けなくなって一週間。今は水分と、水に溶かした高濃度の砂糖や蜂蜜、そしてヴォルグから譲り受けた『火竜の血晶液』を数滴垂らしたスープで、辛うじて命を繋いでいる状態だった。


「アリアンナ様。少し、揺れますよ」 


 向かいの席に座るレオナールが、気遣わしげに声をかけた。

 彼はこの旅の間、片時も眠っていないのではないかと思うほど、常にアリを見守っている。その目は充血し、無精髭も伸びているが、アリを見る眼差しだけは痛いほどに優しい。


「……平気よ。揺れるのは慣れてる」

「次の宿場町『ノース・エンド』まで、あと数時間です。そこに着けば、温かいベッドがあります」

「うん……」


 アリは飴玉がようやく溶けきったのを確認して、ふぅ、と息を吐いた。

 懐のポケットに手をやる。そこには、小さな布袋に入った「チェリーの葉」がある。

 カサカサという乾いた感触だけが、彼女を現世に繋ぎ止めるモノだった。


(あと、二ヶ月半……)


 指折り数える。

 魔王の封印が砕け散るその日まで。

 それまでに、この体は持つのだろうか。

 最近は、自分が生きているのか死んでいるのか、分からなくなる瞬間がある。手足の感覚は遠く、心臓の音だけがうるさいほど耳に響く。

 まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭が、最後の蝋を溶かしながらジジジと音を立てているようだ。


「……レオ」

「はい」

「私、軽くなった?」


 唐突な問いに、レオナールは一瞬言葉を詰まらせ、それから優しく微笑んだ。嘘をつく時に左眉が動く癖は、もう治っていた。


「いえ。……貴女の命の重みは、出会った頃よりもずっと重くなっていますよ」

「ふふ、上手いこと言うようになったじゃない」


 アリは力なく笑い、そのまま深い眠りの淵へと落ちていった。




 宿場町『ノース・エンド』は、その名の通り、人の住む領域の最北端に位置する街だ。

 ここから先は「極北の氷土」。魔王の封印がある「奈落の座」へと続く、死の世界である。

 馬車が宿の前に止まると、レオナールは慣れた手つきでアリを背負った。


 おんぶだ。


 自力で歩くことすら、今のアリには体力を削るリスクとなっていた。


「……ごめんね、レオ」 


 アリはレオナールの広い背中に顔を埋めた。

 冷たい鎧の上からマントが羽織られているが、その奥にある彼の体温は温かい。


「謝らないでください。これは私の特権ですから」


 レオナールは軽々とアリを背負い直す。


 軽い。恐ろしいほどに軽い。


 鎧を着ていない子供を背負っているようだ。骨と皮だけになりつつある彼女の感触が、背中越しに伝わってきて、レオナールの胸を締め付ける。

 宿に入ると、ロビーは異様な熱気に包まれていた。

 吹雪で足止めを食らった旅人や商人たちが、暖炉の周りに集まり、何やら深刻な顔で話し込んでいる。


「おい、聞いたか? 王都からの早馬」

「ああ……信じられん。聖女様が消えたって?」

「なんでも、夜中に王宮から姿を消したらしいぞ。捜索隊が出てるが、この吹雪じゃあ……」 


 レオナールの足が止まった。背中のアリも、ピクリと反応する。


 聖女様が消えた。

 ルルティアのことだ。


 レオナールは近くにいた商人の男を捕まえ、強い口調で問い質した。


「その話、詳しく聞かせろ。聖女ルルティア様が消えたというのは本当か?」


 男はレオナールの騎士然とした風貌に怯えながらも、頷いた。


「あ、ああ。三日前の夜、王宮の自室から忽然と姿を消したそうだ。書き置き一つなくな。……巷じゃあ、魔王の復活に恐れをなして逃げ出したんじゃないかって噂だ」

「……ッ、……!」


 レオナールは歯を食いしばり、低い唸り声を上げた。

 怒気が全身から立ち昇る。

 聖山での一件以来、ルルティアが部屋に引き籠もっていたことは知っている。だが、まさかこの土壇場で、国と民を見捨てて逃亡するとは。


「部屋を取ります。……アリアンナ様、まずは休息を」


 レオナールは怒りを無理やり押し殺し、アリを部屋へと運んだ。

 粗末だが清潔なベッドにアリを寝かせ、毛布を掛ける。

 だが、彼の拳は震えていた。


「……レオ」


 アリが毛布から顔を出し、静かに呼んだ。


「探してきて」

「……え?」

「この街のどこかにいるかもしれないわよ。ここはこの国を出るための最後の関所だもの。逃げるなら必ずここを通る」


 アリの琥珀色の瞳は、全てを見透かしているようだった。

 ルルティアが逃げるとしたら、隣国への亡命ルートがあるこの街しかない。吹雪で馬車が止まっている今、彼女もまたこの街に足止めされている可能性が高い。


「……探して、どうするおつもりですか」


 レオナールが低い声で尋ねる。


「連れ戻しますか? それとも、聖騎士の権限で処刑しますか?」

「まさか。……ちょっと話があるのよ」


 アリはつまらなそうに言った。 


「逃げたい気持ちはわからなくもないけどね。あの子がいてもいなくても、やることは変わらないし。むしろ、あのお荷物がいない方が、足手まといがいなくて清々するんだけど…」


 その言葉を聞いた瞬間。

 パンッ! と乾いた音が部屋に響いた。

 レオナールが、壁を拳で殴りつけた音だった。 


「ふざけるなッ!!」


 レオナールが叫んだ。

 普段の冷静沈着な彼からは想像もできない、激情の爆発だった。

 彼はベッドのアリに詰め寄り、その肩を掴もうとして――彼女の脆さを思い出し、寸前で手を止めた。行き場のない手が、空中で握りしめられる。


「アリアンナ様……貴女は、自分が何を言っているのか分かっているのですか!?」

「……何よ、急に」

「ルルティア様がいなければ……『奈落の座』を開く鍵は誰が回すのです!? 結界の維持は誰がするのです!? 全部、貴女がやるつもりですか!? ただでさえ全生命力を捧げると言っているのに、その道中の露払いまで一人で背負い込んで……!」


 レオナールの目から、涙が溢れ出した。 


「貴女は、死に急ぎすぎている! ルルティアという駒があるなら、使い潰してでも生き残る道を探すべきだ! なぜ……なぜ、そんなに簡単に自分を捨てようとするのですかッ!」 


 悲痛な叫び。


 それは、騎士としての意見ではなく、アリアンナを失いたくない男の慟哭だった。

 ルルティアへの怒りは、彼女が逃げたことそのものへ向けられたものではない。彼女がいなくなることで、アリの生存確率がゼロになることへの恐怖だったのだ。

 アリは、泣きじゃくるレオナールを静かに見上げていた。

 その表情に、憐憫れんびんの色が浮かぶ。


「……レオ。あんた、優しいね」

「優しさなどではありません! これは……私のエゴです!」

「うん、知ってる。……でもね、レオ」


 アリは毛布から細い腕を出し、レオナールの頬に触れた。

 冷たい指先。


「無理やり連れ戻したところで、今のあの子に何ができる? 恐怖で動けない聖女なんて、ただの重石よ。そんなのを背負って戦う方が、よっぽど命取りだわ」

「それは……!」

「それにね……」


 アリは目を細め、遠くを見るような顔をした。


「あの子は、偽物だけど……ずっと頑張ってきたのよ。力もないのに聖女だなんて嘘を背負わされて、ボロボロになって。……逃げ出したくなる気持ち、分からなくもないの」


 それは、同じ「聖女」という枠組みの中で、光と影として生きてきたアリだからこその共感だったのかもしれない。

 あるいは、自分自身もまた「全てを投げ出して逃げたい」と思う瞬間があったからこその、許しなのかもしれない。


「だから、ルルティア様と話をさせて。そのあとは好きにさせてあげて……それが、私の最後の命令」


 アリはそう言って、再び目を閉じた。

 レオナールは拳を震わせ、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて「……っ」と呻くように息を吐き、部屋を飛び出していった。


 命令違反だ。


 だが、アリは止めなかった。

 彼には、発散する場所が必要だったのだ。

 レオナールは吹雪の街を彷徨さまよっていた。

 頭を冷やすためではない。

 探していた。逃亡者ルルティアを。

 アリは「話がしたい」と言った。だが、レオナールは納得できなかった。

 許せなかった。アリが命を削っている間に、のうのうと逃げ出し、安全な場所で生き延びようとするその根性が。そして何より、アリの負担を少しでも減らせる可能性を、みすみす見逃すことが。


(どこだ……どこにいる……!)


 酒場、宿屋、馬小屋。しらみつぶしに探す。

 そして、路地裏の安宿街。

 腐った木材と汚水の臭いがする吹き溜まりのような場所で、彼は見つけた。

 ボロボロのフードを被り、泥だらけのブーツを履いた女が、残飯を漁る野良犬のように縮こまっているのを。

 レオナールは無言で歩み寄り、そのフードを乱暴に剥ぎ取った。

 現れたのは、燃えるような赤髪――今は脂と埃で汚れきっているが――を持つ、聖女ルルティアだった。


「ひっ……!」


 ルルティアは悲鳴を上げ、尻餅をついた。

 その顔はやつれ、目は落ち窪み、かつての傲慢な美貌は見る影もない。


「……ここにいましたか、ルルティア様」


 レオナールの声は、氷点下の風よりも冷たかった。

 彼は剣の柄に手を掛けたまま、ゴミを見るような目で見下ろす。


「れ、レオナール……? あ、ああ、助けに来てくれたのね!? 私を、私を守って……!」


 ルルティアはふらりと立ち上がり、レオナールに縋り付こうとした。

 レオナールはそれを冷たく振り払った。


「触るな。……貴女は、自分が何をしたか分かっているのか?」

「だ、だって……怖かったのよ! あんなの、勝てるわけないじゃない! アリがあんな……血まみれになって、化け物みたいに……!」


 ルルティアは錯乱したように叫んだ。


「私は聖女じゃない! ただの貴族の娘よ! あんな地獄に付き合わされるなんて聞いてないわ!怖くて怖くておかしくなりそう!!」

「……その『化け物』に国を守らせて、自分だけ逃げるつもりか」

「あの子は平民でしょう!?神力もある!でも私は……私は空っぽなの!私は偽物なの怖いの耐えられないの!」


 ああ。

 アリアンナ様の言う通りだ。

 実力を伴わない地位と血塗れの浄化を目の当たりにして怯えて逃げた。


 シャリッ。


 聖剣が鞘から抜かれる音。

 切っ先が、ルルティアの喉元に突きつけられる。


「ひっ……!?」

「……アリアンナ様は言いました。『話がしたい』と。最後に話をして、その後あなたがどうしようと構わないと」


 レオナールの瞳に、暗い殺意が宿る。


「だが、私は違う。貴女はまたアリの足を引っ張るかもしれない。……それが我慢ならない」

「や、やめて……殺さないで……!」

「安心しろ。殺しはしない。……大人しく着いてこい、さもなくば…」


 レオナールが剣を振り上げた、その時だった。


「やめなさい、レオ!!」


 凛とした声が、路地裏に響いた。

 レオナールの動きが止まる。

 振り返ると、そこにはレオナールのコートを羽織り、壁に寄りかかって立つアリの姿があった。

 息は荒く、立っているのもやっとの状態だ。それでも、その瞳は射殺すような強さを放っている。


「アリアンナ様……なぜ、ここに。安静にしていろと……!」

「あんた今の表情、殺人鬼みたいよ、聖騎士なんだからもっと穏やかな手段で……ゲホッ、ゲホッ!」


 アリは激しく咳き込み、口元を押さえた。指の隙間から血が滴る。

 ルルティアは、その血を見て「ひぃぃ!」と悲鳴を上げ、さらに縮こまった。

 アリはふらつく足で二人の間に割って入り、レオナールの剣を手で押し下げた。


「……剣を収めて。話があるって言ったでしょう」

「ですが……!」

「いいから!」


 アリの一喝に、レオナールは唇を噛み締め、不承不承、剣を鞘に戻した。

 アリは荒い息を整えながら、地面にへたり込んでいるルルティアを見下ろした。

 かつて、王宮でアリを見下していた傲慢な聖女。

 今は、泥にまみれた哀れな逃亡者。


「……ルルティア様」


 アリが冷たく言い放つ。


「泥まみれで髪もボサボサ…オマケに敵前逃亡だなんて次期王妃様が聞いて呆れるわね」

「う……うう……」


 ルルティアは言い返すこともできず、ただ泣きじゃくった。


「逃げたいなら逃げればいい。どこへでも行きなさい。……って言ってあげたいんだけど」


 アリは屈み込み、ルルティアの目の前で、自分の血に濡れた手を見せつけた。


「私は血を流しながらお姫様の代わりに戦ってきた。聖女ルルティアとして」

「……っ!」

「お姫様だってホントは貴族として幸せになれたはずなのにね」

「アリ…アンナ…」

「…お姫様はこれから聖女ルルティアとして、国を救った王妃様になるんだよ…だから…」


アリはルルティアの肩を強く掴んだ。


「私のために、国のために駒になれ、血を流しなさい!くらい言いなさいよッ!お姫様がここで逃げたら、私は何のために命を削ってきたのよ!」


 アリはそれだけ告げると、興味を失ったように背を向けた。

 その言葉は、剣で斬るよりも深く、ルルティアの心を抉ったはずだ。殺すよりも残酷な、生き続けるという重圧。


「行くわよ、レオ。……寒い」


 アリが倒れそうになるのを、レオナールが慌てて支える。

 彼はルルティアを一瞥もしなかった。もう、彼女にかける言葉はない。

 二人は互いに支え合いながら、吹雪の中へと消えていった。

 路地裏に残されたルルティアは、泥水の中で自身の拳を握りしめた。


 震えが止まらない。


 恐怖か、寒さか、それとも屈辱か。

 アリの言葉が、耳にこびりついて離れない。


 『お姫様がここで逃げたら、私は何のために命を削ってきたのよ!』


「……アリアンナッ……私はッ!!」


 ルルティアは泥を叩き、獣のように慟哭した。


 逃げたかった。楽になりたかった。


 けれど、あの背中を見てしまった今、逃げることこそが永遠の地獄になると知ってしまった。

 彼女が立ち上がるかどうか、それはまだ誰も知らない。


 宿に戻ったアリは、ベッドに倒れ込むなり、高熱を出して寝込んだ。

 無理が祟ったのだ。

 レオナールは徹夜で看病を続けた。冷たいタオルを変え、水を口に含ませ、手を握り続ける。


 深夜。


 アリが、微かな声で呟いた。


「……レオ」

「はい、ここにいます」

「……夢を見たの」


 それは、初めて見る表情だった。

 いつも張り詰めて、人を少し見下して不敵に笑うアリの、初めて見る普通の娘の笑顔。


「わたしが1番幸せだった頃の夢。父さんと母さんとチェリーのパイを囲んで食べるの」

「……アリアンナ様」


 レオナールは、彼女の手を自分の額に押し当てた。


「幸せだった、本当に。あの頃のまま、平凡に生きてきたかった」


 何も言えなかった。

 ただ、傍で聞いている事しかできない。


「……最期の時は……聖女アリアンナじゃなく……ただの村娘のアリの……隣にいてくれる?……」


 熱に浮かされた譫言うわごとだったかもしれない。

 だが、その言葉はレオナールの魂に焼き付いた。


「もちろんです。アリアンナ様の故郷は良いところなんでしょうね」


アリアンナは少し目を見開き、クスリと笑った。


「レオナールってどこかの貴族さまだったよね。わたしの村には何にもないよ」

「そこが良いんです。わたしの故郷は何でも手に入る街でしたから、何もない所に憧れます」


 クスクスとレオナールも笑ってみせると、アリは安心したかのように目を閉じた。



 外では吹雪が止み、雲の切れ間から星が見え始めていた。

 決戦の地「奈落の座」まで、あとわずか。

 二人の旅は、いよいよ終わりの時を迎えようとしていた。


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