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第6話:崩れゆく封印、震える偽りの聖女(後半)

深い、泥のような眠りの底から、アリアンナは浮上した。

 目を開けると、そこは王宮の医務室だった。高い天井、豪奢なシャンデリア、そして鼻を突く消毒用アルコールと高級な香油の混じった匂い。

 全身が鉛のように重い。指先一本動かすのにも、錆びついた歯車を無理やり回すような抵抗を感じる。


「……アリアンナ様……!」


 掠れた声が聞こえ、ベッドの脇から金色の頭が覗いた。

 丸椅子に座り、ベッドの縁に突っ伏して眠っていたらしい聖騎士レオナールだ。その顔には無精髭が伸び、目の下には濃いクマができている。いつも整えられている銀の鎧は外され、くたびれたシャツ姿だった。


「……レオ。あなた、酷い顔よ」

「貴女ほどではありません……。三日です。丸三日間、意識が戻らなかったのですよ」


 レオナールは震える手で、アリの頬に触れた。その手は温かく、アリの肌がいかに冷え切っているかを残酷なほど教えてくれた。


「三日か……。随分と寝坊したわね。……で、状況は?」

「聖山の瘴気は消滅しました。結界石の修復も完了し、魔物の流出も止まっています」

「そう……私の腕は?」


 アリは自分の左腕を見ようとしたが、そこは分厚い包帯でぐるぐる巻きにされ、固定されていた。感覚がない。いや、微かに痺れるような鈍痛があるだけだ。


「……傷は塞がりましたが、失った血液量が多すぎました。それに、神力の過剰行使による『回路』の焼き付きが……。医師の言葉では、左腕の神経は半分死んでいると」


「ふーん。まあ、右手が無事ならご飯は食べれるわね」


 アリは事もなげに言ったが、内心では冷や汗をかいていた。


 (左腕一本で済んだのが奇跡か。……いや、次はもう五体満足じゃ済まないわね)


 体の中にある「命の器」のようなものが、底に穴が開いたバケツのようにスカスカになっているのを感じる。 


 その時、重々しいノックの音がして、扉が開かれた。 


 入ってきたのは、杖をついたボア枢機卿だった。彼もまた、この数日で十年は老け込んだように見える。


「……気がついたか、アリアンナ」

「ええ、枢機卿猊下。死に損ないましたよ」


 ボア枢機卿は椅子を引き寄せ、重たげに腰を下ろした。レオナールが一礼して下がろうとするが、アリが目線で止める。


「単刀直入に言おう。……今回の聖山での一件、公式発表では『聖女ルルティアが命懸けの祈りで浄化した』ということになっている」

「でしょうね。あのお姫様が魔法陣を描いて血を噴き出すなんて、誰も信じないでしょうし」


 アリは皮肉っぽく笑った。想定通りだ。

 だが、枢機卿の表情は晴れない。


「ルルティア嬢は……部屋に引き籠もってしまった。誰とも会わず、食事も喉を通らないそうだ。貴女が血を流し、身を裂いて奇跡を起こす様を目の当たりにして……彼女の心は折れてしまった」

「……繊細なんですねぇ。こっちは本当に体が折れかけたっていうのに」

「すまない……。だが、国には『象徴』が必要なのだ。民衆はルルティアを称え、安堵している。この嘘を突き通すしかない」


 枢機卿は悔しげに拳を握りしめた。彼は知っているのだ。本物の聖女が日陰で血を流し、偽物が光を浴びる歪んだ構造を。それでも、国を維持するためにはそうするしかない自分の無力さを。


「謝罪はいいです。元々最初からそういう話だったじゃないですか。その代わり、報酬は弾んでもらいますよ。……左腕の慰謝料込みで、金貨三万枚」

「……ああ、約束しよう。すぐに故郷の口座へ振り込ませる」


 枢機卿は即答した。そして、躊躇いながらも、最も残酷な事実を口にした。


「それと……もう一つ、報告がある。聖山の封印修復の際、観測班が地下深くの魔王の波動を計測した」

「……嫌な予感がしますね」

「封印は直った。だが、それはあくまで表面的な『蓋』に過ぎない。内部の圧力は限界を超えつつある。……専門家の計算では、あと三ヶ月」


 三ヶ月。


 アリの心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。


「三ヶ月後に、何が起きるんです?」

「『最終崩壊グランド・カタストロフィ』だ。五つある封印の全てが同時に砕け散り、魔王の本体が地上に現れる。……そうなれば、もう小手先の浄化では防げない。世界は瘴気に覆われ、一週間で滅びるだろう」


 病室に、重苦しい沈黙が落ちた。

 世界が滅びる。それはお伽話ではなく、確定した未来としての宣告だった。


「防ぐ手立ては?」

「……あるとすれば、一つだけ。魔王が完全に復活するその瞬間に、封印の最深部――『奈落の座』にて、聖女の全生命力を変換した特大の浄化術式を叩き込み、魔王の存在そのものを消滅させることだ」


 枢機卿は、泣き出しそうな顔でアリを見た。

 それが何を意味するか、言わなくても分かっていたからだ。

 全生命力の変換。

 それはすなわち、術者の確実な死を意味する。


「……なるほど。要するに、私に『人柱』になれってことですか」


 アリの声は乾いていた。怒りはなかった。むしろ、「やっぱりな」という諦めにも似た納得があった。

 余命宣告を受けてからの旅。その終着点がここにあるなら、それはそれで筋が通っている。


「断る権利はあるのかしら?」

「……強制はできん。貴女が逃げれば、世界は終わるだけだ。誰も貴女を責められない」

「逃げたら、村はどうなるの?」

「……瘴気に飲まれ、チェリーの木もろとも腐り落ちるだろう」


 アリは天井を見上げた。

 白い天井。

 その向こうに、赤く実ったチェリーと、笑顔の村人たちの姿が浮かぶ。


「……商談成立ですね。引き受けますよ」

「アリアンナ様ッ!!」


 レオナールが叫んだ。


「正気ですか!? 全生命力だなんて……それでは貴女は!」

「うるさいわね、レオ。……どっちみち、私の寿命はもう残りカスみたいなものよ。だったら、最後にデカい花火を打ち上げて、村の復興と平和を買ったほうが得でしょ」


 アリは枢機卿に向き直った。


「ただし、条件があります。……この三ヶ月間、私はルルティア様の影武者としてじゃなく、私個人の判断で動きます。最後の旅の準備をして、好きなものを食べて、万全の状態で『奈落の座』へ向かいます」

「……分かった。全権を委ねよう。騎士団も、資金も、好きに使ってくれ」


 枢機卿は深く頭を下げ、逃げるように病室を出て行った。彼もまた、一人の少女に世界の命運を背負わせる重圧に耐えられなかったのだろう。

 部屋に残されたのは、アリとレオナールの二人だけ。

 レオナールは震えていた。怒りか、悲しみか、あるいは恐怖か。


「……アリアンナ様。逃げましょう」


 レオナールが絞り出すように言った。


「世界なんて、どうでもいい。村のことだって……貴女が死んでしまっては意味がない! どこか遠くへ、瘴気の届かない南の果ての島へでも行って、残り少ない時間を穏やかに……」

「馬鹿ね」


 アリはレオナールの手を取り、自分の腹部へと導いた。


「……分かる? ここ。空っぽなの」


 レオナールの手が触れた腹部は、薄く、頼りなかった。


「猛烈にお腹が空いてるの。……レオ、何か食べ物を持ってきて。とびきり甘くて、栄養価が高いやつ。王宮のパティシエが作った特製ケーキとかいいわね」


 話を逸らされたことに気づきながらも、レオナールは今の彼女の顔色を見て、反論できなかった。

 彼女は今、生きるために食べようとしている。それを止めることは、騎士にはできない。


「……分かりました。すぐに手配します」


 一時間後。

 ベッドの上のサイドテーブルには、ホールごとのショートケーキ、マカロンの塔、そして濃厚なホットチョコレートが並べられていた。

 甘い香りが部屋に充満する。


「いただきまーす」


 アリはフォークを突き立て、ショートケーキを大口で頬張った。

 純白の生クリームと、真っ赤なイチゴ。

 口の中に広がる甘美な味。

 ……はずだった。


「……ッ、ぐ……!?」


 喉を通った瞬間、胃袋が激しく痙攣した。

 異物だ。体がそう認識した。

 神の炎で焼き尽くされ、炭化した内臓は、もはや固形物を受け入れ、エネルギーに変換する機能を失いつつあった。


「おぇっ……!!」


 アリは口元を押さえ、ベッドの脇に用意された洗面器へと顔を突っ込んだ。

 食べたばかりのケーキが、胃液と共に吐き出される。

 そして、それに混じって、どす黒い血の塊がボタボタと落ちた。


「アリアンナ様!!」


 レオナールが駆け寄り、背中をさする。

 アリは激しく咳き込みながら、何度も、何度も吐いた。

 甘い匂いと、鉄の臭いが混ざり合う、最悪の臭気。


「はぁ、はぁ……っ、くそ……ッ!」


 アリは涙目で顔を上げた。


 口の周りはクリームと血で汚れている。レオナールがタオルでそれを拭うが、アリはその手を乱暴に払いのけた。


「……なんでよ。なんで食べられないのよ!」


 アリは悔しさに声を震わせた。


 食べること。それが彼女の力の源であり、生きる喜びであり、死への抵抗だった。 


 なのに、体がそれを拒絶する。


 「もう遅い」と、自身の肉体が告げているのだ。もはや補給など無意味だ、あとは燃え尽きるだけだと。


「……アリアンナ様、もう……」

「嫌よ! 食べるわよ! 食べなきゃ……戦えないじゃない!」


 アリは震える手で、再びケーキを掴もうとした。

 レオナールはその手首を強く掴んで止めた。


「やめてください!!」


 レオナールの悲鳴のような叫び声。

 アリは驚いて彼を見た。

 レオナールは泣いていた。大の大人が、顔をくしゃくしゃにして、子供のように涙を流していた。


「見ていられない……。これ以上、貴女が自分を傷つけるのを、見ていられないんです……! お願いですから、もう無理だなんて言わないでください……!」


 その涙を見て、アリの体から力が抜けた。

 フォークがカランと床に落ちる。


「……レオ。泣かないでよ」

「泣きますよ! 貴女が泣かないから、私が代わりに泣くしかないんじゃないですか!」


 アリは力なく笑い、レオナールの頭を引き寄せて、自分の胸に押し付けた。

 騎士の涙が、パジャマ越しに肌を濡らす。


「……ごめん。ちょっと、張り切りすぎたみたい」


 アリは天井を見つめた。

 命の器は壊れた。補給もできない。

 残されたのは、器の底に溜まった僅かな残りカスと、あとは「魂」という名の予備だけ。


「……ねえ、レオ。三ヶ月後、チェリーの実はなってるかしら」

「……なります。必ず、実ります」

「そっか。……じゃあ、それまでは意地でも生きてないとね」


 アリはレオナールの髪を撫でながら、静かに決意を固めていた。


 もう、食べることで回復は望めない。

 ここからは、削り合いだ。

 死神とのチキンレース。ゴールテープは三ヶ月後の「奈落の座」。


 翌日。


 アリは病室を出た。

 ルルティアは結局、一度も顔を見せなかった。侍女の話では、部屋の隅で膝を抱え、「私が殺した、私が殺した」と、うわごとのように呟いているという。


 壊れた偽物の聖女。


「……待ってなさいよ、お姫様。あなたの分まで、私が綺麗に終わらせてあげるから」


 アリは王宮の廊下を歩き出した。

 その足取りは弱々しいが、迷いはなかった。

 隣には、目を赤く腫らした、しかし決して離れようとしない聖騎士がいる。


 最終章へのカウントダウンが始まった。

 残された時間は、あと九十日。


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