第6話:崩れゆく封印、震える偽りの聖女(前半)
空の色が、おかしい。
かつては澄み渡る蒼穹であったはずの頭上には、腐った葡萄の皮のような、赤黒く濁った雲が低く垂れ込めている。
季節は春を迎えようとしているはずなのに、風には生温かい湿り気と、微かな硫黄の臭いが混じっていた。
王都へ向かう街道沿い。アリアンナと聖騎士レオナールを乗せた馬車は、まるで泥の海を泳ぐ小舟のように激しく揺れていた。
「……気持ち悪い空ね。世界中が風邪を引いてるみたいって、我ながら詩的だわ」
アリは窓の外を見上げ、言葉とは反対に不快そうに顔をしかめた。
彼女の膝の上には、鉄製の弁当箱が乗っている。中身は、レバーペーストをたっぷりと塗った黒パンのサンドイッチだ。
普段なら喜んで頬張るはずの好物だが、今日のアリは一口かじるたびに、咀嚼に時間をかけ、水で無理やり流し込んでいるような有様だった。
「アリアンナ様。無理をなさらず、少し休憩しましょうか?」
向かいの席で、レオナールが心配そうに身を乗り出す。彼の手には、アリのためにいつでも差し出せるよう、水筒が握られている。
ここ数週間、アリの衰弱は誰の目にも明らかだった。
白い肌は透き通るような蒼白さに変わり、頬はこけ、目の下の隈は濃くなっている。何より、常に彼女を突き動かしていたあの旺盛な食欲が、身体の拒絶反応と戦っているのが見て取れた。
「……平気よ。食べないと、血が作れないから」
アリは強がりを言い、残りのパンを口に押し込んだ。
喉を通る固形物が、食道の内側を擦るように落ちていく。
胃袋は悲鳴を上げているが、脳が命令を下す。「食え。食って生きろ」と。
懐のポケットには、あの「チェリーの葉」が入っている。それが唯一、彼女の心臓を動かす燃料だった。
「それよりレオ。……感じるでしょ? この圧迫感」
「ええ。……王都の方角から、桁外れの瘴気を感じます。今までとは質が違う」
レオナールの表情が険しい。
二人の視線の先、街道の遥か彼方にある王都エリュシオンの上空には、巨大な黒い渦が巻いているのが見えた。
それは竜巻ではない。
「魔王の封印」の裂け目から噴き出した、純粋な悪意の奔流だ。
一千年の時を経て、神が施した蓋がいよいよ限界を迎え、ひび割れ始めているのだ。
王都に到着した二人が目にしたのは、パニック寸前の混沌だった。
城門の前には、地方から避難してきた民衆が長蛇の列を作り、我先にと入城を求めて押し寄せている。
衛兵たちの怒号、子供の泣き声、そしてどこからともなく聞こえる地鳴りのような重低音。
「……あらあら、地獄の一丁目ね」
アリたちは裏口から入城したが、街の中も同様だった。
空を覆う黒雲のせいで昼間でも薄暗く、街灯が灯されている。人々の顔には恐怖が張り付き、広場では終末論を叫ぶ怪しげな予言者が声を張り上げている。
そんな中、教会の使者が血相を変えて二人の元へ駆け寄ってきた。
「アリアンナ様! レオナール卿! お待ちしておりました! 至急、王宮の作戦会議室へ!」
使者に導かれ、二人は王宮へと急ぐ。
回廊を歩きながら、アリはレオナールに小声で囁いた。
「……相当ヤバそうね。ボア爺さんが直接呼び出すなんて」
「枢機卿も事態の収拾に追われているのでしょう。……アリアンナ様、どうか、ご無理だけは」
「無理しなきゃ死ぬ状況でしょ、これは」
アリは乾いた笑いを漏らした。
王宮の最奥、厳重に警備された大会議室。
重い扉が開かれると、そこには国のトップたちが集結していた。
国王、宰相、騎士団長、そしてボア枢機卿。
だが、アリの目は部屋の隅に座る一人の女性に釘付けになった。
聖女ルルティア。
いつもなら華やかなドレスで周囲を威圧する彼女が、今日は地味な神官服を纏い、顔面蒼白で震えていた。
その手には、震えを隠すようにホットミルクの入ったカップが握られているが、カップと受け皿がカチャカチャと音を立てている。
「……到着したか、アリアンナ」
重々しい声で告げたのは、ルルティアの父である宰相だ。彼は娘の無様な姿を見ようともせず、地図が広げられたテーブルを指差した。
「状況を説明する。王都の北、聖山アルカディアにある『第一封印』の結界石に、亀裂が入った」
室内に、冷たい沈黙が落ちた。
第一封印。それは魔王を抑え込む楔の中でも、最も重要な要石だ。
「現在、亀裂からは高濃度の瘴気が噴出し、聖山の麓の森を飲み込み始めている。放置すれば、あと三日で瘴気は王都に到達し、この国は死の都となるだろう」
宰相は冷酷な事実を淡々と述べた後、ルルティアへと視線を向けた。
「教会と王家は決定した。聖女ルルティア・フォン・ローゼンバーグを総大将とする『聖女浄化部隊』を派遣し、亀裂を修復する」
ガチャン!
ルルティアが手にしたカップを取り落とし、床に砕け散った。
白いミルクが絨毯に広がる。
彼女は悲鳴のような声を上げた。
「む、無理です! お父様……いえ、宰相閣下! あそこはもう、人の立ち入れる場所ではありません! 瘴気の濃度が致死レベルだと報告が……!」
「だからこそ、『聖女』が行くのだ」
宰相の声には、娘への愛情など欠片もなかった。あるのは政治的な計算だけだ。
国難に際して王族(の婚約者)が先陣を切らねば、民衆の支持を失う。ルルティアが偽物であることなど百も承知で、彼は娘を「象徴」として死地へ送り込もうとしているのだ。
「ルルティア。お前は次期王妃だ。この程度の試練で逃げ出すようでは、王家に入る資格はない」
「ひっ……」
ルルティアは青ざめ、助けを求めるように周囲を見渡した。だが、誰も彼女と目を合わせようとしない。国王さえも、沈痛な面持ちで黙り込んでいる。
彼女は孤独だった。嘘で塗り固めた塔の頂上で、梯子を外され、震えている。
その時。
静まり返った会議室に、場違いな咀嚼音が響いた。
ボリボリ、ボリボリ。
全員の視線が一斉に音の発生源――入り口付近に立つ少女へと向けられる。
アリは、ポケットから取り出した乾燥肉を齧りながら、退屈そうにあくびをした。
「……で? 話は終わりました?」
アリは宰相の鋭い視線も、騎士団長の咎めるような目も無視して、テーブルへと歩み寄った。
そして、地図上の「聖山」のポイントを、脂のついた指でトントンと叩いた。
「要するに、ルルティア様がお神輿として担ぎ出されるけど、中身は空っぽだから、実働部隊として私が必要ってことでしょ? 話が長いのよ、お偉いさんたちは」
「貴様、無礼だぞ!」
騎士団長が剣の柄に手をかけるが、ボア枢機卿が手を挙げて制した。
「待て。……アリアンナ、引き受けてくれるか?」
枢機卿の声は、苦渋に満ちていた。彼はアリの体の限界を知っている。これを頼めば、それが彼女の命取りになるかもしれないことも。
アリは乾燥肉を飲み込み、ルルティアを見下ろした。
ルルティアは床にへたり込み、涙目でアリを見上げている。その目には、プライドも何もかも捨てた、純粋な「生への渇望」と「懇願」があった。
『助けて』と、声に出さずに叫んでいる。
(……はあ。高い高いお姫様だこと)
アリはため息をつき、宰相に向き直った。
「引き受けますよ。元々その為の私ですから。ただし、条件があります」
「金か? いくらでも払おう」
「金はもちろんですが、今回は『前払い』で。それと……」
アリは不敵に笑い、指を三本立てた。
「一、報酬は金貨二万枚。
二、ルルティア様の護衛として、聖騎士団の精鋭五十名を私の指揮下に入れること。
三、出撃前に、王宮の厨房を貸し切って『最高級の晩餐』を用意すること」
「……晩餐だと?」
「ええ。死にに行くんですから、腹いっぱい食べておかないと力が出ないでしょう? メニューは私が決めます。材料費はケチらないでくださいね」
あまりの要求に、宰相は顔をしかめたが、他に選択肢がないことは理解していた。
「……よかろう。全て認めよう」
「商談成立ね」
アリはルルティアの方へ歩み寄り、彼女の手を無理やり引いて立たせた。
ルルティアの手は氷のように冷たく、汗ばんでいた。
「……立ちなさい、お姫様。あなたが主役なんだから、シャキッとしてなさい」
「あ……あり、アンナ……」
「礼はいらないわ。その代わり、現場では私の指示に従ってもらうわよ。……死にたくなければね」
アリはそう囁くと、レオナールに目配せをして部屋を出た。
その背中は、震える偽物の聖女とは対照的に、どこまでも傲慢で、頼もしく見えた。
だが、レオナールだけは気づいていた。
アリが組んだ腕の内側で、自らの体を抱くように指を食い込ませ、必死に震えを抑えていることを。
出撃までの数時間。
王宮の厨房は戦場となっていた。
アリの指示で集められた国一番の料理人たちが、最高級の食材を使って次々と料理を仕上げていく。
ダイニングルームには、長いテーブルいっぱいにご馳走が並べられた。
厚切りのローストビーフ、フォアグラのソテー、オマール海老のビスク、トリュフを散りばめたリゾット。
その豪華さは、王の戴冠式に匹敵するレベルだ。
だが、その席に着いているのは、アリとレオナール、そして強制的に連れてこられたルルティアの三人だけだった。
「……な、何なの、これは……」
ルルティアは目の前の料理に手をつけず、呆然としている。「こんな時に、食事が喉を通るわけがないでしょう!?」
「通すのよ、無理やりにでも」
アリはナイフとフォークを構え、ローストビーフを大きく切り分けた。
「お姫様はそこで立ってるだけでいいけど、私は血を流すの。燃料がないと動けないのよ」
アリは肉を口に運び、噛み締めた。
肉汁の旨味が広がる。だが、それ以上に感じるのは、舌の奥に残る苦味だ。体調が悪すぎて、味覚が鈍っている。
それでも、彼女は飲み込んだ。これは食事ではない。補給だ。
「レオ、あんたも食べなさい。私の護衛をするには体力がいるわよ」
「……いただきます」
レオナールは黙々と食べ始めた。彼は知っている。これが「最後の晩餐」になる可能性があることを。
ルルティアは、一心不乱に食べるアリの姿を見て、恐怖とは違う感情――畏怖を抱いた。
この平民の少女は、死を前にして、なぜこれほどまでに「生」に執着できるのか。
自分は、ただ震えて逃げ出したいだけなのに。
「……おいしい?」
ルルティアが震える声で尋ねると、アリはワイングラスに入れたブドウジュースを飲み干し、ニヤリと笑った。
「最高よ。……国民の血税の味がするわ」
「っ、貴女って人は……!」
「フフフ。……これは、覚悟の味。お姫様も一口くらい食べたら? 少しは腹が据わるかもよ」
アリが差し出した皿には、小さな一口サイズのパイが乗っていた。
ルルティアは迷った末に、それを摘まんで口に入れた。
甘い。そして温かい。
胃の中に落ちた熱が、凍り付いていた心をほんの少しだけ溶かした気がした。
「……悪くないわね」
「でしょ」
アリは最後の皿を平らげると、ナプキンを投げ捨てて立ち上がった。
満腹になったはずなのに、彼女の顔色はまだ悪い。だが、瞳には炎が宿っていた。
「さあ、行きましょうか。……一仕事して、世界を救ってやるわよ」
聖山アルカディアの麓。
そこは、この世の終わりのような光景が広がっていた。
かつては緑豊かだった森は、黒い瘴気によって枯れ果て、木々は炭化して崩れ落ちている。
地面からは赤黒い泥が湧き出し、そこから不定形の魔物たちが這い出そうとしては、互いを食らい合っていた。
騎士団の精鋭たちが防衛線を張っているが、圧倒的な瘴気の前に、一人、また一人と倒れていく。
「ひっ……!」
馬車から降りたルルティアは、その光景を見て腰を抜かしそうになった。
王宮の会議室で聞いた話とは、現実の重みが違う。
空気そのものが毒だ。呼吸するだけで肺が焼け付くような痛みを感じる。
「しっかりして、聖女様」
アリが背後からルルティアの腰を支え、無理やり立たせた。
「アンタはあそこの高台に立って、杖を掲げて光るフリをしてればいい。騎士たちが守ってくれるわ」
「で、でも……あんなの、浄化できるわけがない……!」
「私がやるわ。お姫様の影でね」
アリはレオナールと共に、ルルティアとは別の方向――瘴気が最も濃い、亀裂の中心地に近い岩陰へと移動した。
そこは、魔物の群れがひしめく最前線だ。
「アリアンナ様。ここから先は、私が道を切り開きます」
レオナールが聖剣を抜く。刀身が青白く輝き、闇を切り裂く。
「私の後ろから離れないでください!」
「頼りにしてるわよ、レオ!」
二人は死地へと飛び込んだ。
レオナールの剣技は冴え渡っていた。襲い来る魔物を次々と両断し、アリに指一本触れさせない。
だが、敵は魔物だけではない。
空間を埋め尽くす瘴気そのものが、アリの体力を削り取っていく。
「っ、ぐ……!」
アリは胸を押さえてうずくまった。
神力を使う前から、すでに限界が近い。胃の中のご馳走が、逆流しそうになるのを必死で堪える。
「アリアンナ様!」
「平気……! まだ、まだよ……もっと奥へ!」
アリは知っていた。
この規模の亀裂を塞ぐには、遠隔からの浄化では足りない。
亀裂の直上、瘴気の噴出孔に直接、神力を叩き込む必要がある。それは、火口に飛び込むような自殺行為だ。
岩場を抜け、ついに二人は「第一封印」の結界石の前に辿り着いた。
巨大な石碑が真っ二つに割れ、その隙間から、まるで巨人の血管が破裂したかのように、どす黒いエネルギーが噴き上げている。
「……はは。こりゃ酷い」
アリは乾いた笑い声を上げ、ふらつく足で石碑の前に立った。
レオナールが周囲の魔物を牽制し、円陣を組む。
高台では、ルルティアが必死の形相で杖を掲げているのが見えた。彼女の周囲を、弱々しい白い光が包んでいる。あれが精一杯の演技なのだろう。
だが、魔物たちはそんな微弱な光など意に介さず、本能的に「真の脅威」であるアリへと殺到しようとしていた。
「レオ、三十秒稼いで」
「御意!!」
アリは懐から短剣を取り出した。
もう、口から吐く程度の血では足りない。
彼女は自分の左腕をまくり上げ、肘から手首にかけて、躊躇なく刃を走らせた。
ザシュッ!
鮮血が噴水のように舞う。
常人ならショック死するほどの出血量。
だが、その血は地面に落ちる前に、太陽のような黄金の輝きを放ち始めた。
「……神の力を、私の血に、命に宿れ!」
アリは叫び、血まみれの腕を結界石の亀裂へと突き刺した。
焼けた鉄板に水をかけたような、爆発的な蒸発音が轟く。
黄金の血が亀裂に流れ込み、瘴気と激しく衝突する。
「う、ああああああああッ!!」
アリの絶叫が戦場に響き渡った。
激痛。それは肉体的な痛みを超え、魂が削り取られる感覚。
神の力がアリの血液を媒介にして顕現し、魔王の力を押し戻そうとする。
光と闇の押し合い。その境界線にいるアリの身体は、ミシミシと音を立てて崩壊しかけていた。
高台にいたルルティアは、その光景を見て息を呑んだ。
自分の偽物の光とは比べ物にならない、圧倒的で、暴力的で、そして神々しい黄金の柱が、谷底から天を貫いたのだ。
魔物たちが悲鳴を上げて消滅していく。
黒い雲が晴れ、青空が覗く。
民衆や騎士たちは歓喜した。「聖女ルルティアの奇跡だ!」と。
だが、ルルティアだけは知っていた。
その光の中心で、一人の少女が、自らの命を薪にして燃やしていることを。
「……あり、アンナ……」
光の中で、アリの意識が白く染まっていく。
最後に思ったのは、村のチェリーの木のことでも、金の事でもなかった。
ただ、今日食べたローストビーフの味が、少し塩辛かったな、ということだけだった。
黄金の光が収束すると同時に、アリの体は糸が切れたように崩れ落ちた。
それをレオナールが空中で抱き留める。
彼の腕の中で、アリはピクリとも動かなかった。
「……アリアンナ様? ……アリアンナ様!!」
聖騎士の悲痛な叫びが、静まり返った聖山に木霊した。
封印は修復された。
だが、その代償は、あまりにも大きかった。




