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第5話:遠き故郷からの手紙と幻の苗木

第5話:遠き故郷からの手紙と幻の苗木


 季節が、また一つ巡ろうとしていた。

 北の空から吐き出される風が、湿った冷気を帯びて肌を刺す。

 アリアンナとレオナールを乗せた馬車は、王都から遠く離れた北西の交易都市、ノルド・ヘイムへと差し掛かっていた。

 車窓から見える景色は、枯れ草色の平原から、徐々に雪混じりの針葉樹林へと変わっている。

 ガタゴトと揺れる馬車の中で、アリは分厚い毛布にくるまり、小動物のように身を縮めていた。


「……寒いわね。骨まで凍りそう」


 アリが白く濁った息を吐く。

 その顔色は、窓の外に広がる雪景色と同じくらい白い。唇には微かに紫が走り、目の下には化粧でも隠しきれない隈が刻まれている。

 ここ数ヶ月、彼女の消耗は激しさを増していた。

 移動、交渉、暴食、そして吐血による浄化。そのサイクルを狂ったように繰り返した結果、彼女の体は常人が一生で使うエネルギーを先食いして動いているような、危うい均衡の上に成り立っていた。


「もう少しの辛抱です、アリアンナ様。ノルド・ヘイムに着けば、暖炉のある宿と温かい食事が待っています」


 向かいの席で、レオナールが心配そうに声をかける。彼は自身のマントを脱ぐと、既に毛布にくるまっているアリの上から更に掛けてやった。

 彼の表情には、以前のような騎士としての堅苦しさはなく、重病の家族を看病するような切実な慈愛が滲んでいる。


「……ありがとう、レオ。あんたの体温、高くて助かるわ」

「お役に立てて光栄です。……それにしても、今回は移動が長引きましたね」

「仕方ないわよ。途中の宿場町でも瘴気が出てたんだから。素通りしたら、私が寝てる間に宿ごと飲み込まれてたかもしれないでしょ」


 アリはぶっきらぼうに言ったが、それは半分嘘だ。

 彼女は、金にならない小さな依頼――貧しい宿場町の井戸の浄化など――も、ついでと称して片っ端から受けていた。

 『どうせ通り道だから』『練習台よ』などと憎まれ口を叩きながら、報酬が飴玉一つだろうと、彼女は血を流した。

 死期を悟った者が、徳を積もうとしているのか。それとも、神力という呪いを使い切ってしまいたいのか。レオナールには、そのどちらもが正解のように思えた。


「……着きましたよ。ここが北の玄関口、ノルド・ヘイムです」


 馬車が速度を落とし、石造りの城門をくぐる。

 活気のある喧騒が車内に飛び込んできた。毛皮をまとった商人たち、海産物を運ぶ荷車、そして湯気を上げる屋台の列。

 アリは匂いを嗅ぎつけた猫のように、毛布の中から鼻だけを出してクンクンと動かした。


「……潮の匂い。バターと、焦がし醤油の匂いもする」

「さすがです。この街の名物は『北海鮭のクリームシチュー』と『焼き牡蠣』ですからね」

「合格。……まずは腹ごしらえよ。話はそれから」


 アリの瞳に、わずかな光が戻る。

 食欲こそが、彼女を現世に繋ぎ止める最後のいかりだった。

 街一番の老舗レストラン『白熊の食卓』。

 暖炉の火が赤々と燃える店内の奥まった席で、アリは一心不乱にスプーンを動かしていた。

 目の前には、洗面器ほどもある大きなパンをくり抜き、そこになみなみと注がれた白いシチュー。大ぶりの鮭、ジャガイモ、ニンジンがゴロゴロと入っており、表面には溶けたチーズとバターが黄金色の膜を作っている。

 さらにサイドメニューとして、皿いっぱいに盛られた焼き牡蠣と、山盛りのフライドポテト。


「……ん、熱ッ……おいしっ……」


 アリは火傷しそうなほど熱いシチューを、フーフーと息で冷ましながら口に運ぶ。

 濃厚なミルクの甘みと、鮭の塩気が口いっぱいに広がる。冷え切った内臓に、熱い塊が落ちていく感覚。それが、枯渇した血液を作るための燃料となる。


「……アリアンナ様、口の端についてますよ」


 レオナールがナプキンで彼女の口元を拭う。アリはされるがままになりながら、次はプリプリに焼けた牡蠣をフォークで突き刺した。


「レオ、あんたも食べなさいよ。ここの牡蠣、身が詰まってて最高よ」

「ええ、頂いています。……ですが、貴女のその食欲を見ているだけで、私は胸がいっぱいになりますよ」


 レオナールは自分の分のシチューをゆっくりと味わいながら、苦笑した。

 以前なら「食べ過ぎだ」と止めていたかもしれない。だが今は、彼女が一口食べるごとに、寿命が一日延びるような気がして、もっと食べろと祈るような気持ちで見守っている。

 アリは牡蠣を五つ連続で平らげ、ワインの代わりに頼んだホット・ハニーミルクを流し込んだ。

 ようやく人心地ついたのか、彼女は大きなため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。


「……ふぅ。生き返った」

「顔色も少し良くなりましたね」

「燃料満タンよ。……で、レオナール。例のものは?」


 アリの声色が、食事モードから仕事モードへと切り替わる。

 レオナールは表情を引き締め、懐から一通の封筒を取り出した。

 厚手で上質な紙には、中央教会の封蝋ではなく、見慣れない花の印章が押されている。


「先ほど、ギルドの私書箱から回収してきました。ボア枢機卿を経由して届いた、故郷の村からの定期報告書です」


 アリの手が、一瞬だけ止まった。

 彼女がこの過酷な旅を続ける最大の理由。そして、唯一の希望。

 彼女はナプキンで指を入念に拭くと、宝物を扱うような慎重さで封筒を受け取った。


「……厚いわね。今回は写真が入ってるのかしら」

「村長代理を務めている孤児院の院長先生からでしょう。……開けますか?」

「ええ」


 アリはペーパーナイフを使わず、指先で丁寧に封を開けた。

 中から出てきたのは、数枚の羊皮紙と、薄紙に包まれた「何か」だった。

 まずは羊皮紙に目を通す。アリの瞳が、文字を追うごとに揺れていく。


『拝啓、アリアンナへ。

 北の地は寒さが厳しい頃でしょう。貴女が送ってくれた最新の暖房器具のおかげで、孤児院の子供たちは誰一人風邪を引かず、元気に過ごしています』


 冒頭の挨拶だけで、アリの口元が緩む。

 彼女が命を削って稼いだ金は、確かに子供たちの笑顔に変わっているのだ。


『復興工事の進捗ですが、予定より早く、全体の六割まで完了しました。崩れていた東地区の住居エリアは完全に修復され、新しい家々にはかつての村人たちが戻り始めています。貴女がこだわっていた浄水施設も稼働し、村の水路には清らかな水が流れています』


「……六割か。悪くないペースね」


 アリは独りごちる。だが、彼女が本当に知りたいのは、その先だ。

 手紙の後半。筆跡が、少し震えているように見える。

『そして、最も重要な報告があります。

 貴女が多額の支援金を投じて捜索させていた、あの「幻のチェリー」の原木についてです』


 アリの呼吸が止まった。

 レオナールも、固唾を飲んで見守る。

 あの日、魔王の眷属によって村が焼き払われた時、村の特産品であり、アリの家族の思い出の象徴だった「ロイヤル・チェリー」の木々は全滅したと思われていた。

 その実は宝石のように赤く、濃厚な甘みと酸味を持ち、パイにすれば天上のごとき味わいになると言われた伝説の果実。

 アリは、その復活に執着していた。村の復興のシンボルとして、そして何より、もう一度家族の味に触れるために。


『植物学者たちの懸命な処置と、貴女が送ってくれた最高級の肥料、そして何より、村人たちの祈りが通じたのでしょう。

 ……奇跡が起きました。焼け残った根の一部から、新しい芽が出たのです』


「……っ!」


 アリは、同封されていた薄紙の包みを開いた。

 そこに入っていたのは、押し花のように加工された、一枚の小さな、しかし力強い緑色の若葉だった。

 まだ産毛が生えたような、頼りない葉。

 だがそれは、死の淵から蘇った、確かな生命の証だった。


「アリアンナ様……」

「……見て、レオ。生きてる」


 アリは震える指で、その葉に触れた。

 涙は出なかった。あまりにも嬉しすぎると、人は涙を流すことすら忘れるのだと知った。

 その代わり、胸の奥から熱いものが込み上げ、冷え切っていた心が解凍されていくのを感じた。


「あの木は、死んでなかった。……私と同じで、しぶとく生き残ってたのよ」


 アリは手紙の続きを目で追う。


『この若葉が順調に育てば、次の春――雪解けの季節には、数年ぶりに白い花を咲かせるでしょう。そして初夏には、真っ赤な実をつけるはずです。

 村のパン屋だった老人も、貴女が帰ってくるその日までに、最高のパイ生地を完成させると張り切っています』


 次の春。

 そして、初夏。

 アリは顔を上げ、レストランの窓の外を見つめた。

 今は冬の入り口。

 春まではあと半年。実がなる初夏までは、約八ヶ月。


「……八ヶ月」


 その数字を口にした瞬間、アリの表情から喜びの色が引き、冷徹な計算の色が浮かんだ。

 彼女は自分の手首に触れ、脈拍を確かめる。

 速く、そして弱い。

 神の炎に焼かれ、ボロボロになった心臓は、あと八ヶ月もつのだろうか。

 ギラロモ医師の言葉が蘇る。


 『今のペースなら、あと三年』


 だが、それはあくまで「普通のペース」ならの話だ。

 ここ数ヶ月のアリは、暴走機関車のように神力を使いまくっている。ルルティアの代役、鉱山の浄化、そして道中の雑多な依頼。

 手首の脈動は、砂時計の砂が残りわずかであることを告げていた。


「アリアンナ様?」


 急に黙り込んだアリを案じ、レオナールが声をかける。


「……ギリギリね」


 アリは葉を大切に包み直し、懐のポケット――心臓に一番近い場所へ仕舞った。


「春に花が咲いて、夏に実がなる。それを収穫して、パイを焼く。……そこまで私が立っていられるかどうか、賭けになるわ」

「そんな不吉なことを! まだ時間はあります。これからは少し仕事を減らして、静養しながら旅を……」

「減らしてたら間に合わないのよ!」


 アリが声を荒げ、テーブルを叩いた。

 店内の客たちが驚いて振り返るが、アリは気にも留めない。


「いい? レオナール。木が復活したってことは、今まで以上に維持費がかかるの。温室の整備、害虫駆除、専門家の雇用……金がいくらあっても足りない。それに、私が死んだ後の維持をするお金も、今の倍は必要になる」


 アリの瞳孔が開いている。それは獲物を前にした獣の目であり、同時に、追い詰められた獲物の目でもあった。

 生きる目標が具体的になったことで、皮肉にも「死」への恐怖と焦燥が輪郭を帯びてしまったのだ。


「休んでる暇なんてない。……もっと、もっと稼がないと。私の命が尽きる前に、あの村をあの頃のようにしないと、死んでも死にきれない!」


 アリは残っていたシチューを、噛み砕くような勢いで飲み干した。

 そして、鬼気迫る表情でレオナールに詰め寄った。


「レオ、次の依頼は? この街に来たのは、ただシチューを食べるためだけじゃないでしょ? 金になりそうなデカい話があるから寄ったんでしょ?」


 レオナールは圧倒されながらも、冷静さを保とうと努めた。

 彼女を止めることはできない。ならば、せめて最もリスクが低く、実入りの良い仕事を精査して提供するのが騎士の役目だ。


「……ええ。一つだけ、高額の依頼が入っています。ですが、これはあまりお勧めできません」

「金額は?」

「金貨八千枚。成功報酬として、希少な魔法薬の素材も譲渡されるとのことです」 


 金貨八千枚。

 これまでの依頼の中でも最高額に近い。アリの目の色が変わった。


「八千枚……! それなら文句なしじゃない。どうして勧めないの?」

「依頼主が……少々厄介なのです。この街を裏から牛耳るマフィアのボス、『氷海ひょうかいの帝王』と呼ばれる男です。彼が個人的に所有する秘密の倉庫が、何者かの呪い――あるいは強力な瘴気に汚染されたとか」


 マフィア。裏社会の人間。


 教会の聖女が関わるべき相手ではない。もし露見すれば、アリの立場も危うくなる。

 だが、アリは口角を吊り上げて笑った。その笑顔は、聖女というよりは悪党のそれに近かった。


「最高じゃない。悪党の金を巻き上げて、聖なる村の復興に使う。これぞ『義賊』ってやつよ」

「アリアンナ様……相手は危険人物です。もし報酬を渋られたり、危害を加えられたりしたら……」

「その時は、あんたが守ってくれるんでしょ? 私の最強の騎士様」


 アリは悪戯っぽく、しかし信頼を込めてレオナールを見つめた。

 そんな目で見られては、断れるはずがない。

 レオナールは深いため息をつき、観念したように頷いた。


「……承知いたしました。ただし、交渉は私が主導します。貴女は私の後ろで、ただ不機嫌そうに座っていてください」

「ふふ、任せるわ。不機嫌な顔なら得意よ」


 アリは席を立ち、マントを翻した。

 懐の葉っぱが、微かな熱を持って彼女を励ましている気がした。

(待ってて。お父さん、お母さん。……そして、私の可愛いチェリーの木)

 残り八ヶ月。

 それは、余命宣告を受けた少女にとって、あまりにも長く、そして残酷なほど短いラストスパートの始まりだった。

 店の外に出ると、雪が激しくなっていた。

 吹きすさぶ寒風の中、二人は闇社会の帝王が待つ港の倉庫街へと歩き出した。

 その背中は、以前よりも小さく、しかし鋼のような意志を纏っていた。

 降り積もる雪が、やがて来る春の日の花びらのように見えたのは、きっと幻覚だったのだろう。


 港湾地区の倉庫街は、街の中心部とは空気が違っていた。

 海から吹き付ける湿った風が雪を横殴りに叩きつけ、並び立つ巨大な煉瓦造りの倉庫群が、まるで巨大な墓標のように黒々とそびえ立っている。


「……寒い。骨の髄まで凍りそう」


 アリはマントの前をきつく合わせ、ガチガチと歯を鳴らした。

 極度の貧血状態にある彼女にとって、この寒さは命取りだ。レオナールが風上に立って壁になってくれているが、それでも体温は容赦なく奪われていく。


「アリアンナ様、もう少しです。あの一番奥にある第3倉庫が、指定された場所です」

「分かってるわよ。……早く終わらせて、熱々のカニ汁でも飲まないとやってられないわ」


 二人が倉庫の前に辿り着くと、屈強な男たちが立ちはだかった。全員が武器を携行し、鋭い眼光を放っている。正規の警備兵ではない。裏社会の人間特有の、血生臭い匂いがした。

 レオナールが無言で紹介状を見せると、男たちは無言で重厚な鉄扉を開けた。

 中に入ると、外の寒風は遮断されたが、代わりに肌を刺すような異質な冷気が漂っていた。

 物理的な寒さではない。怨念にも似た、精神を凍てつかせる冷気――濃厚な瘴気だ。


「ようこそ、聖女様。それに聖騎士殿」


 倉庫の中央、木箱を積み上げた即席の玉座に、その男は座っていた。

 白い毛皮のコートを羽織り、顔の左半分に大きな火傷の痕がある巨漢。この街の裏社会を統べるマフィアのボス、ヴォルグだ。

 ヴォルグは葉巻を噛みながら、値踏みするようにアリを一瞥した。


「噂通りの『強欲の聖女』か。……随分と華奢で、今にも死にそうな顔色だが、本当に仕事ができるのか?」

「死にそうに見えるのは、あんたの倉庫が臭いからよ」


 アリはレオナールの制止を待たずに言い放った。周囲の部下たちが色めき立ち、武器に手をかけるが、ヴォルグは手でそれを制し、ニヤリと笑った。


「威勢がいいな。嫌いじゃない」

「無駄話はいいわ。現物を見せて。それと、報酬の確認を」


 アリが単刀直入に切り出すと、ヴォルグは顎で奥をしゃくった。

 倉庫の最深部。そこには、巨大な檻がいくつも並んでいた。檻の中は分厚い氷で覆われ、何かが封印されている。

 よく見れば、それは氷漬けにされた異形の生物たち――希少な魔獣や、禁制品とされる危険生物だった。

「俺のコレクションだ。生きたまま氷結魔法で保存していたんだが……先日、運び込んだ『新入り』が呪われてやがったらしい。保管庫全体に瘴気が伝染し、制御不能になった」

 ヴォルグは苦々しげに葉巻の煙を吐いた。

 

「このままじゃ氷が溶けて、中の化け物どもが一斉に目覚める。そうなれば街はパニックだ。……俺のビジネスにとっても大損害でな」

「なるほど。違法なコレクションの後始末ってわけね」


 アリは呆れたように肩をすくめた。教会の聖女としては、即座に告発すべき案件だ。

 だが、今の彼女は正義の味方ではない。裏の聖女という肩書きで仕事をするのだ。


「いいでしょう。浄化して、氷結魔法を安定させればいいのね? ただし、追加料金をいただくわ」

「……ほう? 金貨八千枚でも足りないと言うのか?」

「危険手当よ。この瘴気、ただモノじゃない。私の寿命が三ヶ月は縮むわね」


 アリは指を二本立てた。


「金貨一万枚。それと、成功報酬の『魔法薬の素材』。……これで手を打つわ」


 部下の一人が「ふざけるな!」と叫ぼうとしたが、ヴォルグは大笑いして膝を叩いた。


「ハハハ! いい度胸だ! 気に入った。成功すればくれてやる。ただし――失敗すれば、お前らもあの氷漬けのコレクションに加えてやるがな」

「交渉成立ね。レオナール、準備して」


 アリは不敵に微笑むと、瘴気が渦巻く檻の前へと歩み出した。

 その背中を見送りながら、レオナールは剣の柄に手を掛けた。交渉は終わった。ここからは、命懸けの作業だ。

 檻の前に立つと、冷気は殺意を持ってアリに襲いかかってきた。

 瘴気の源となっているのは、中央の檻にある黒い水晶のような物体だ。そこから溢れ出る黒い霧が、周囲の氷を浸食し、魔獣たちを狂暴化させている。


「……やるわよ、レオ。出てくるわ」


 アリが警告した直後、パキパキという音と共に、周囲の氷塊から氷の人型が剥がれ落ちた。

 瘴気が作り出した防衛本能、氷のゴーレムだ。


「お任せを!」


 レオナールが疾風のごとく踏み込む。

 聖剣の一撃が氷のゴーレムを粉砕する。だが、砕けた氷はすぐに集まり、再生しようとする。

 キリがない。根本を断つには、あの中央の水晶ごと浄化するしかない。

 アリは震える手で懐から短剣を取り出した。

 寒さで指の感覚がない。

 ただでさえ体温が低いのに、ここで血を流せば、失血死よりも先に凍死のリスクがある。

 だが、迷っている時間はない。


「……熱くなれ、私の血」



 アリは自分に言い聞かせると、躊躇なく左の手のひらを切り裂いた。

 鮮血が雪崩れるように溢れ出す。

 冷え切った空気に触れた瞬間、その血はカッと黄金色に発光し、熱を帯びた。


「……っぐぅ!!」


 傷口が焼けるように熱い。

 神の力が覚醒し、アリの生命力を燃料にして燃え上がる。

 アリはその血を、檻の前の床に滴らせた。

 ポタ、ポタと落ちるたびに、ジューッという音と共に氷が溶け、黄金の波紋が広がる。

 アリはふらつく足で、床に魔法陣を描き始めた。

 教会のシンボルである十字と円環。それを、自らの血で描く。

 一周、また一周。

 血が足りない。円が完成しない。


「……くそッ……!」


 アリは短剣を逆手に持ち替え、今度は右腕の血管を浅く切った。

 両腕から滴る黄金の血。

 視界が白く霞む。寒さなのか、失血なのか、もう分からない。

 ただ、懐に入れた「一枚の葉っぱ」の感触だけが、彼女の意識を繋ぎ止めていた。


(あと八ヶ月……こんなところで、終わってたまるか……!)

「アリアンナ様! 後ろ!」


 レオナールの叫び声。

 振り返ると、レオナールの剣をすり抜けた一体の氷ゴーレムが、氷の槍を振り上げてアリに迫っていた。

 回避できない。足が凍りついて動かない。

 その時、アリは動くはずのない足を一歩踏み出し、あろうことかゴーレムに向かって血まみれの手を突き出した。


「邪魔よッ!!」


 彼女の手から、血飛沫が散弾のように放たれた。

 黄金の飛沫を浴びたゴーレムは、悲鳴のような音を立てて内側から崩壊し、蒸発した。

 その隙に、アリは最後の一線を書き終える。


「消えなさいっ!!」


 完成した血の魔法陣が、爆発的な光を放った。

 黄金の光柱が天井を突き抜け、倉庫全体を包み込む。

 ヴォルグや部下たちが目を覆うほどの眩しさ。

 光は冷気を駆逐し、瘴気を焼き払い、黒い水晶を粉々に砕いた。

 一瞬の静寂の後、倉庫内には穏やかな空気が戻っていた。

 魔獣たちは再び静かな眠りにつき、不気味な黒い霧は消滅している。

 そして、その中心で、アリは膝から崩れ落ちた。


「アリアンナ様!!」


 レオナールが剣を捨てて駆け寄り、倒れる寸前の彼女を抱き留める。

 体は氷のように冷たい。だが、心臓はまだ、弱々しくも動いていた。


「……れ、お……」

「喋らないでください! すぐに止血を……!」

「……金……確認して……」


 レオナールは泣きそうな顔で、それでも「はい」と力強く頷いた。

 この期に及んでまだ金の心配をする主人が、どうしようもなく愛おしく、そして痛ましかった。

 一時間後。

 ヴォルグは約束を守った。

 彼のような大物は、金払いの良さが信用に直結することを知っている。

 金貨一万枚と、小瓶に入った赤い液体――『火竜の血晶液』。飲むだけで体温を上昇させ、造血を促すという最高級の秘薬だ。

 そして現在。

 アリとレオナールは、倉庫街近くの高級海鮮料理店『海神の宴』の個室にいた。

 暖房が効いた部屋で、アリは分厚い毛布にくるまりながら、目の前の丼を見つめていた。

 それは、ただの丼ではない。

 どんぶりから溢れんばかりに盛られた、北の海の宝石箱だ。

 大粒のイクラがルビーのように輝き、濃厚なオレンジ色のウニが山のように積まれ、その脇にはボタンエビと、炭火で炙ったカニの足が添えられている。


「……これが、食べたかったの」


 アリはヴォルグから貰った『火竜の血晶液』を数滴垂らしたホットワインを一口飲み、それから震える手で箸を持った。

 薬の効果か、食事への執念か、彼女の顔には少しずつ生気が戻りつつある。

 まずは、たっぷりのワサビ醤油を溶き、ウニとご飯を一緒に掬って口へ運ぶ。


「……んッ!!」


 アリの目が大きく見開かれた。

 口に入れた瞬間、ウニが甘くとろけ、濃厚な磯の香りが鼻腔を突き抜ける。そこへ醤油の塩気と、温かいご飯の甘みが混ざり合う。

 まさに至福。生きててよかったと思える瞬間。


「……おいしい。……なにこれ、暴力的なほど美味しいわ」


 次はイクラだ。プチプチと弾ける食感と共に、濃厚なエキスが口の中に溢れる。

 失われた血液が、急速に補給されていく錯覚を覚える。

 アリは夢中で食べた。レオナールとの会話も忘れ、ただひたすらに命を貪った。

 レオナールは、向かいで焼き魚をつつきながら、そんなアリを安堵の表情で見守っていた。

 先ほどの倉庫での、死にかけた姿が嘘のようだ。

 彼女は食べることで、死神を追い払っている。

 丼が空になる頃、アリはようやく箸を置き、満足げなため息をついた。


「……ふぅ。勝ったわ」

「ええ。完勝です、アリアンナ様」

「これで一万枚。……チェリーの木の温室設備、最高級のガラスで発注できるわね」


 アリは懐から、あの手紙に同封されていた葉っぱを取り出し、灯りにかざした。

 満腹になり、体温が戻った今、改めて冷静に考える。

 今回の仕事は、あまりにも際どかった。

 ヴォルグの秘薬がなければ、本当に危なかったかもしれない。

 あと八ヶ月。

 この綱渡りを、あと何度繰り返せばいいのか。


「……レオナール」

「はい」

「私、間に合うかしら」


 弱気な問いかけではない。純粋な計算としての問いだ。

 レオナールは真っ直ぐに彼女を見つめ、力強く頷いた。


「間に合わせます。私が背負ってでも、引きずってでも」

「ふふ、頼もしいわね。……じゃあ、次は南よ。南の島国で、また厄介な瘴気騒ぎがあるって噂を聞いたわ」


 アリは立ち上がり、残ったカニの足を一本、懐紙に包んでポケットに入れた。

 おやつ用だ。


「南には、マンゴーとココナッツを使った激甘のパンケーキがあるらしいの。……貧血には糖分も必要でしょ?」

「……はい。お供します、どこまでも」


 外に出ると、雪は止んでいた。

 雲の切れ間から、冷たい冬の月が顔を出している。

 その光は、アリの進む道を照らすスポットライトのようでもあり、残された時間を刻む砂時計の砂のようにも見えた。

 復興した村で待つ小さな苗木。

 その若葉が花を咲かせる春に向け、強欲な聖女の旅は、いよいよ後半戦へと突入する。

 魔王の封印が完全に砕け散るその日まで、あと百日あまり――。


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