第3話:傲慢なる薔薇と泥だらけの代役
第3話:傲慢なる薔薇と泥だらけの代役
聖地エリュシオン。
王都の中心に位置し、白亜の城壁と青い屋根が連なるこの都市は、大陸で最も美しく、そして最も「嘘」で塗り固められた場所だ。
「……相変わらず、ここは香水の臭いがきついわね」
アリアンナ――通称アリは、馬車の窓から顔を出し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
石畳は塵一つなく磨かれ、道行く人々は色とりどりの衣装に身を包んで笑っている。彼らは知らないのだ。この平和な光景が、誰かの吐き出した血と、削り取られた寿命の上に成り立っていることを。
そして、その犠牲を払っている本人が、今まさに裏口からこっそりと入城しようとしていることなど、知る由もない。
「アリアンナ様、窓から顔を出さないでください。誰に見られるか分かりません」
向かいの席に座る聖騎士レオナールが、たしなめるように言った。彼はいつになく緊張した面持ちで、膝の上で拳を握りしめている。
「これからお会いするのは、ルルティア様です。くれぐれも、不敬な態度は……」
「分かってるわよ。相手は公爵令嬢で、未来の王妃候補で、国民の希望である『光の聖女』様だものね」
アリは皮肉たっぷりに肩をすくめ、懐から干し肉を取り出して齧った。
塩気の強い肉の味が、少しだけ気分を落ち着かせてくれる。
今回の呼び出しは、今夜開催される『聖誕祭』の舞踏会に合わせ、大掛かりな「演出」が必要になったからだという。
「……着きました」
馬車が止まったのは、大聖堂の裏手にある通用口だった。表門には華やかな馬車が列をなしているが、アリたちが通されるのは常に影の道だ。
フードを目深に被り、レオナールに先導されて廊下を進む。
やがて、薔薇の香りが漂う一室の前で足が止まった。
「お入りなさい」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような美声だが、そこには隠しようのない傲慢さと苛立ちが含まれていた。
部屋に入った瞬間、圧倒的な「赤」が目に飛び込んできた。
深紅の絨毯、真紅のカーテン、そして部屋の中央に立つ、燃えるような赤髪の美女。
聖女ルルティア・フォン・ローゼンバーグ。
彼女は今夜の主役として、何層にも重ねられた豪奢なドレスに身を包んでいた。無数の薔薇の刺繍が施されたそのドレスは、家一軒が建つほどの値段だろう。
「遅かったわね、平民」
ルルティアは鏡越しにアリを一瞥しただけで、視線を自分の姿に戻した。侍女たちが数人がかりで、彼女の髪に真珠の飾りを編み込んでいる最中だった。
「道が混んでいたもので。それに、貴族の皆様のパレードを避けて裏道を通るのには時間がかかるんですよ、ルルティア様」
アリはフードを脱ぎ、わざとらしく恭しいお辞儀をした。
美しい金髪と碧眼を持つルルティアと、簡素な旅装で土埃にまみれたアリ。
同じ「聖女」という肩書きを持ちながら、二人の姿は光と影そのものだった。
「ふん。相変わらず貧相な姿ね。まあいいわ、貴女の役目は人前に出ることではないのだから」
ルルティアは扇子で侍女たちを下がらせると、優雅に椅子に腰掛け、アリを見下ろした。
その瞳には、明確な侮蔑の色がある。だが、それは単なる嫌悪というよりは、「道具」を見る持ち主の目線に近い。
「今回の仕事の話をしましょう。……レオナール、貴方は扉の外で見張っていなさい」
「……しかし」
「レオナール。聖女様の仰る通りになさい」
アリが目配せすると、レオナールは渋々といった様子で一礼し、退室した。
二人きりになると、ルルティアはふぅ、と小さく息を吐き、テーブルの上の羊皮紙を指差した。
「今夜の舞踏会のクライマックスで、私が『女神の泉』に祈りを捧げるわ。その時、泉の水を黄金色に輝かせ、会場全体に神聖な空気を満たしなさい」
「泉の水を全部? ……結構な量ですよ、それ」
アリは羊皮紙に書かれた泉の図面を見た。直径十メートルはある巨大な噴水だ。これを黄金色に染め上げるには、コップ一杯や二杯の血では足りない。
「貴族たちが集まる大切な夜会よ。半端な奇跡では示しがつかないわ。……できるのでしょう? 『強欲の聖女』さん」
「できますけど……代償は高くつきますよ」
アリはルルティアの整った顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「私の血はタダじゃない。今回は浄化じゃないんですから特別料金でお願いしますよ。金貨五千枚と、それから……」
「金ならいくらでも払うわ」
ルルティアは不快そうに言葉を遮った。
「貴女のような卑しい者が望むのは、どうせ金と食料でしょう? 後で執事に手配させるわ。王宮の料理長が作った特製パイでも何でも、好きなだけ持って行きなさい」
「……話が早くて助かります」
アリは短く答えたが、内心で少しだけ舌を巻いた。
この女は、本当にブレない。
ルルティアは、アリのことを人間だと思っていない。「金を与えれば機能する便利な道具」であり、「貴族のために消費されるべき消耗品」だと本気で信じている。
そこに罪悪感はない。あるのは「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」という名の歪んだ責任感だけだ。
「……でも、ルルティア様。一つ聞いても?」
「何よ」
「手が震えてますよ」
アリが顎でしゃくると、ルルティアはハッとして自分の手元を見た。
扇子を持つ手が、微かに、だが小刻みに震えている。
ルルティアは慌てて扇子を強く握りしめ、顔を紅潮させてアリを睨みつけた。
「……無礼者! これは武者震いよ! この国の象徴として、民を導く崇高な使命に身が震えているだけだわ!」
「そうですか。ならいいんですけどねぇ」
アリは肩をすくめた。
嘘だ。
彼女は怯えている。
神力を持たない偽物の聖女として、何千人もの前で「奇跡」を演じるプレッシャー。もしアリが失敗すれば、あるいはアリが裏切れば、ルルティアの嘘は白日の下に晒され、彼女だけでなく実家である公爵家、ひいては王家の権威まで失墜する。
その綱渡りを、彼女はたった一人で(正確にはアリという命綱を握りしめて)渡ろうとしているのだ。
(……ホント貴族って大変ねぇ。私なら、血を吐く方がまだマシだわ)
アリは、自分を道具扱いするこの傲慢な女を、不思議と憎めなかった。
生まれながらに「高貴であること」を強制され、神力を宿す事が出来ないのに聖女として期待され、虚像を演じ続ける人生。それは、余命三年のアリよりも、ある意味で残酷な鳥籠かもしれない。
「……勘違いしないでちょうだい」
ルルティアは震えを止めるように、自分自身に言い聞かせるように、凛とした声を作った。
「平民は、貴族や国家存続のための礎よ。貴女が血を流すのは、国の平和を守るため。それはとても名誉なことなの。貴族である私がその先頭に立ち、貴女たちを導いてあげるのだから、感謝こそされ、恨まれる筋合いはないわ」
それは、なかなかに傲慢な発言だった。
だが、その瞳には一点の曇りもない。彼女は本気でそう信じている。だからこそ、彼女は「聖女」として堂々と振る舞えるのだ。
「はいはい。感謝してますよ、聖女ルルティア様。貴方のおかげで、私は願いに一歩近づく」
アリは乾いた笑いを浮かべた。
平行線だ。
生きる世界も、価値観も、何もかもが違う。
だからこそ、この仕事は成立する。
「それで? 私はどこでお役目を果たせばいいんです?」
「……噴水の真下よ。地下配管室への入り口があるわ。そこの貯水タンクに直接、貴女の『力』を注ぎなさい。合図は、ファンファーレが鳴り終わった瞬間よ」
「わかりました。……ああ、そうだ」
アリは部屋を出て行こうとして、足を止めた。
「仕事が終わったら、約束のパイ、忘れないでくださいね。最近、貧血がひどくて、甘いものを食べないと倒れそうなんですよ」
「……ふん。卑しい口ね。分かったわ、最高級のものを用意させておくわ」
ルルティアは鏡の中の自分に向き直り、もう二度とアリを見ようとはしなかった。
部屋を出ると、レオナールが心配そうな顔で待ち構えていた。
「アリアンナ様、大丈夫でしたか? 何かひどいことを言われたのでは……」
「別に。いつも通りよ。金払いのいい、貴族らしいお客さんってだけ」
アリはレオナールに歩調を合わせ、煌びやかな廊下を逆行して、薄暗い使用人用の通路へと向かう。
華やかな表舞台と、埃っぽい裏舞台。
それが、ルルティアとアリの立ち位置だ。
「レオナール、あんたは会場の警備に回ってて。私は地下で準備するから」
「ですが……地下配管室は湿気も多く、環境が悪い。それに、お一人で……」
「いつものことじゃない。それに、あんたが近くにいると気が散るのよ。……血の匂い、嫌いでしょ?」
アリは強がって見せたが、本音を言えば、立っているだけで眩暈がしていた。
先日のゲルヴィス公爵邸での無理がまだ祟っている。血管が引き攣るような痛みが断続的に走り、指先が冷たい。
だが、契約は絶対だ。
それに、あの震える手を見てしまった以上、途中で投げ出すのは寝覚めが悪い。
「……分かりました。ですが、何かあればすぐに呼んでください。私は、貴女の騎士ですから」
レオナールは痛ましげにアリを見つめ、それでも彼女の意志を尊重して深く頭を下げた。
アリは手をひらひらと振って、暗い階段を降りていく。
地下へと続く螺旋階段は、まるで冥府への入り口のようだ。
上からは、オーケストラの調律の音と、着飾った貴族たちの高笑いが聞こえてくる。
「……さてと。とっとた仕事して、ご馳走食べにいかなきゃね」
アリは自分を鼓舞するように呟き、湿った地下室の扉を開けた。
そこには、巨大な貯水タンクと、複雑に絡み合うパイプの群れが鎮座していた。カビ臭さと錆の匂い。
ここが、今夜の彼女の「祈りの場」だ。
アリはタンクの点検口を開け、中を覗き込む。清らかな水が満たされている。これが数分後には、彼女の命によって黄金色に変わるのだ。
彼女は懐から、厚手の白い布を取り出した。
ドクン、と心臓が跳ねる。
身体が、これから始まる激痛を予感して強張る。
「……嫌だなぁ。本当に、嫌になる」
誰にも聞かれない本音が、暗闇に溶ける。
ルルティアの言う通り、これは名誉なことなのだろうか。国のための、崇高な犠牲なのだろうか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、これをやらなければ金は手に入らない。
ルルティアが表の聖女であるからこそ、自分も裏の聖女として活動できるのだ。
生きていくにはお金は大事。
ふと気がつくと、頭上で、盛大なファンファーレが鳴り響いた。
舞踏会の始まりだ。
そして、偽りの聖女のショータイムの開幕であり、強欲な聖女の「労働」の開始合図でもある。
アリは布を口元に当て、目を閉じた。
意識を集中する。
血管を流れる血液に、神の残り火を点火する。
「……っ、ぐぅ……!」
焼けるような熱さが喉を駆け上がる。
華やかな音楽の裏側で、誰にも知られることのない、孤独な戦いが始まった。
頭上で鳴り響くファンファーレが、分厚い天井とコンクリートの床を越えて、くぐもった振動として伝わってくる。
それはまるで、処刑台へ向かう罪人への合図のようでもあり、あるいはこれから始まる喜劇の開幕ベルのようでもあった。
地下配管室の空気は、澱んでいる。
黴と錆、そして下水の臭いが微かに混じる冷たい空間。ここで今から行われることが「聖なる奇跡」の種明かしだなどと、上の会場でシャンパングラスを傾ける貴族たちは想像もしないだろう。
「……さてと。始めますか」
アリは貯水タンクの蓋を開け放ち、その縁に手をかけた。
タンクの中には、澄んだ水が満々と湛えられている。この水はポンプで汲み上げられ、地上にある「女神の泉」の噴水から吹き出す仕組みだ。
ルルティアが優雅に手を掲げ、祈りの言葉を紡ぐタイミングに合わせて、この水を黄金に変えなければならない。
アリは懐から取り出した厚手の白布を、折り畳んで口元に強く押し当てた。
目を閉じ、呼吸を整える。
意識を、自身の肉体の内側、さらに深く、血流の奔流へと沈めていく。
ドクン、と心臓が異音を立てた。
全身の血管が、まるで灼熱した針金を通されたかのように熱く脈打つ。
神の力を呼び覚ますスイッチが入ったのだ。
それは、ただでさえ損傷している内臓をさらに焼き焦がし、寿命という名のろうそくを業火で溶かす行為。
「……ん、ぐぅ……ッ!!」
喉の奥から、熱い塊がせり上がってくる。
アリは布越しに、激しい嗚咽を漏らした。
口から溢れ出したのは、鮮烈な赤。
だが、その液体は空気に触れ、タンクの水面に落ちる寸前で、眩いばかりの黄金色へと変質する。
ボタ、ボタタタッ……!
重い雫が水面を叩く。
黄金の血が水に触れた瞬間、パッとインクを垂らしたように光が拡散した。透明だった水が、瞬く間に発光する黄金の液体へと染め上げられていく。
吐血は止まらない。
今回のオーダーは「噴水すべて」だ。量が多すぎる。
アリはタンクの縁にしがみつき、胃液ごと全てを吐き出すような勢いで、自らの生命力を注ぎ込み続けた。
――痛い。熱い。苦しい。
視界がチカチカと明滅し、耳鳴りがキーンと響く。
膝が笑い、意識が遠のきそうになるのを、奥歯が砕けるほど噛み締めて耐える。
(まだ……まだ足りない……!)
天井の向こうから、どよめきが聞こえてきた。
どうやら、地上の噴水から黄金の水が吹き上がったらしい。
「おお、奇跡だ!」「聖女ルルティア万歳!」「なんと神々しい……!」
そんな歓声が、幻聴のように降り注ぐ。
彼らが称えているのは、ルルティアだ。
この薄暗い地下室で、汚れた床に膝をつき、血反吐をぶちまけている「本物」のことなど、誰も知らない。
(笑えるわね……)
薄れゆく意識の中で、アリは自嘲した。
華やかな舞台で光を浴びる偽物と、暗闇で命を削る本物。
だが、それでいい。
あの歓声の一つ一つが、金貨の音に聞こえる。
ルルティアの名声が高まれば高まるほど、彼女はアリに依存せざるを得なくなる。そして支払われる報酬が、故郷の村のレンガになり、井戸になり、農作物の肥料になる。
「……っは、ぁ……!!」
最後の一滴を絞り出し、アリはタンクから身を離した。
タンクの中の水は、直視できないほどまばゆい黄金の聖水へと変わっていた。これで十分だ。あとはポンプが勝手に汲み上げてくれる。
役割を終えたアリは、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
コンクリートの冷たさが、火照った頬に心地よい。
口元の布は、すでに赤黒く染まり、ぐっしょりと濡れていた。神力を使った後の血は、光を失いただの鉄臭い汚物へと戻る。
「……終わった……」
アリは這うようにして壁際へ移動し、小さく丸まった。
極度の貧血で、指先が痺れて動かない。
空腹だ。猛烈に腹が減っている。命が減った分、身体が必死に補給を求めて悲鳴を上げているのだ。
その時、バンッ! と扉が開かれた。
慌ただしい足音が近づいてくる。
「アリアンナ様!!」
レオナールだ。彼は血相を変えて駆け寄り、アリの体を抱き起こした。
部屋に充満する血の臭いに、彼は顔を歪める。
「なんという……顔色が土気色ではありませんか! 呼吸は? 意識はありますか!?」
「……うるさいわね、レオ。耳元で叫ばないで」
アリは掠れた声で悪態をつき、レオナールの胸に重い頭を預けた。
「……成功した?」
「はい。会場は興奮に包まれています。噴水からは今も黄金の光が降り注ぎ、ルルティア様は女神の再来だと称えられています」
「そ。……なら、いいわ」
アリはふぅ、と息を吐き、レオナールの腕を叩いた。
「立てるわよ。……早くここを出ましょ。カビ臭くてかなわない」
レオナールに支えられ、アリはよろよろと立ち上がった。
足元はおぼつかないが、瞳の光だけは失われていない。
彼女にはまだ、回収すべきものがある。
地下通路を抜け、人目のつかない裏口の馬車止めまで戻ると、そこには既に先客がいた。
興奮冷めやらぬ様子で、頬を紅潮させたルルティアだ。
ドレスの裾は少しも汚れておらず、髪飾り一つ乱れていない。完璧な「聖女」の姿だった。
「遅いわよ」
ルルティアは扇子で口元を隠し、アリを見下ろした。だが、その視線がアリの蒼白な顔と、服に飛び散った微かな血痕に止まると、一瞬だけ眉がピクリと動いた。
「……守備はどうですかルルティア様? 大喝采だったそうじゃないですか」
アリはレオナールの手を借りて体を支えながら、皮肉っぽく笑った。
ルルティアはふん、と鼻を鳴らす。
「当然よ。私は完璧に『祈り』を捧げたのだから。民は安心し、貴族たちは教会の威光を再確認したわ。……貴女の仕事も、まあ、及第点ね」
礼の一つもない。だが、アリはそれを期待していなかった。
ルルティアにとって、これは「奇跡」ではなく「業務」であり、アリはその下請け業者に過ぎない。
「及第点で結構。……で? 約束の品は?」
アリが右手を差し出すと、ルルティアは後ろに控えていた執事に目配せをした。
執事が恭しく差し出したのは、金箔が押された豪勢なバスケットと、ずっしりと重い革袋だ。
「持って行きなさい。王宮料理長が腕によりをかけた、特製のミートパイと果実のタルトよ。報酬の金貨も入っているわ」
レオナールがそれを受け取る。
ルルティアは、扇子越しにアリをじっと見つめ、そして低い声で言った。
「……顔色が悪いわね。死人のようだわ」
「お褒めいただき光栄です。おかげさまで、アンタのドレスより鮮やかな赤をたくさん吐けましたから」
「……」
ルルティアは目を逸らした。
彼女は知っているのだ。自分の栄光が、目の前の少女の寿命を削って作られたものであることを。
だが、彼女は謝らない。謝ってしまえば、自らの貴族としての矜持が揺らぐからだ。
「……しっかりお食べなさい。貴女が倒れれば、私が困るのよ。……国のために、次も働きなさい」
それだけ言い捨てると、ルルティアは翻って去っていった。
その背中は、過剰なほどに伸びていて、どこか痛々しいほどに張り詰めていた。
「……行きましょう、アリアンナ様」
レオナールが静かに言った。
「あの方も、あの方なりの地獄におられるのでしょう」
「地獄、ねえ」
アリは馬車に乗り込み、ドサリとシートに身を投げ出した。
馬車が動き出すと同時に、彼女はバスケットを開けた。
中には、まだ温かいミートパイが入っていた。バターと肉の香ばしい匂いが、狭い車内に広がる。
アリはナイフも使わず、手掴みでパイを一つ取り出し、大きくかぶりついた。
「……んッ」
サクサクの生地と、ジューシーな肉の旨味が口いっぱいに広がる。
鉄の味が消え、生きる力が胃の腑に落ちていく。
「おいしい……」
アリは夢中で食べた。口の周りを汚し、ポロポロと食べカスをこぼしながら、貪るように食べた。
レオナールは、向かいの席で水筒の準備をしながら、そんな彼女を慈しむような、それでいて泣き出しそうな目で見守っている。
「アリアンナ様。ゆっくり、ゆっくり食べてください」
「……レオ。これ、美味しいわ」
「ええ、王宮の品ですから」
「違うの。……『稼いだ』味がするのよ」
アリはパイを飲み込み、革袋の重みを膝の上で確かめた。
金貨五千枚。
これがあれば、村の灌漑工事が完遂できる。来年の春には、もっと多くのチェリーの花が咲くだろう。
「……私の血は、安くない」
アリは自らに言い聞かせるように呟いた。
「ルルティアが光を浴びるなら、私はその影でお金を浴びて腹を満たす。……悪くない取引ね」
だが、バスケットに手を伸ばすアリの手は、以前よりも白く、そして細くなっているように見えた。
神の火は確実に、彼女の命を燃やし尽くそうとしている。
「……アリアンナ様。次は少し、期間を空けませんか」
レオナールが懇願するように言った。
「ボア枢機卿に掛け合って、長期の静養を……」
「ダメよ」
アリは即答し、二つ目のパイを手に取った。
「休んでる暇なんてない。魔王の瘴気は日に日に強くなってる。……それに」
アリは窓の外、遠ざかる王宮の灯りを見つめた。
「私がいなくなったら、あの高慢ちきな女、一人で泣き出しそうでしょ?」
レオナールは目を丸くし、それから小さく苦笑した。
「……お優しいのですね」
「馬鹿言わないで。金ヅルを心配してるだけよ」
アリは照れを隠すかのようにパイを口に押し込んだ。
王都の夜は更けていく。
黄金の奇跡に沸く街を背に、強欲な聖女はまた一つ、命を削って「明日」を買った。
だが、その夜。
アリが眠りについた後、レオナールは彼女の寝顔を見ながら、枕元に置かれたハンカチが、以前よりも黒ずんだ血で汚れていることに気づき、戦慄することになる。
終わりは、確実に近づいていた。




