第2話:余命宣告と暴食の旅路
第2話:余命宣告と暴食の旅路
王都の路地裏、看板も出ていない古びた診療所。
黴と薬品、そして煮出した薬草の苦い匂いが充満する診察室で、アリアンナは診察台に腰掛けていた。上半身は裸で、背中を老医師に向けている。
肌は陶器のように白く滑らかだが、その内側では致命的な崩壊が進行していた。
「……ふーむ酷いな。これほど損傷しているとは」
しわがれた声で呟いたのは、この診療所の主、ギラロモ医師だ。ボア枢機卿の古い友人で、教会の裏事情に通じた闇医者でもある。正規の聖女ではないアリの身体を診ることができる数少ない人物だ。
ギラロモは冷たい聴診器をアリの背中に当て、次に腕の血管に指を這わせた。
神の力を宿す「聖血」の通り道である血管は、度重なる高出力の神力行使によって焼き焦げ、通常の人間よりも硬化している。
「息を吸って。……はい、吐いて」
アリは言われるがままに深呼吸をする。肺が膨らむたびに、胸の奥で微かな軋みが生じる。まるで錆びついたふいごだ。
壁際に直立不動で控えていた聖騎士レオナールが、なにやら祈るような手つきでソワソワと剣の柄を握りしめているのが気配で分かった。彼の纏う空気は、張り詰めた弓弦のように緊張している。
「服を着ていいよ、お嬢ちゃん」
ギラロモが手を洗面器の水に浸しながら言った。アリは無言でシャツに袖を通し、簡素なローブを羽織る。ボタンを留める指先は少しも震えていない。
「単刀直入に言おう。お嬢ちゃん、あんたの身体はもう限界だ」
老医師は手拭いで手を拭きながら、椅子にドカリと座り込んだ。濁った瞳が、レオナールではなく、まっすぐにアリを見据える。
「神力とは、人の器に入りきらぬ神の炎だ。あんたはそれを血液という燃料を使って無理やり制御している。だが、肝心の器――つまり内臓と血管が、その熱に耐えきれなくなっている。再生能力が追いついていないんだ」
「……それで? あと、どれくらい?」
アリの声は平坦だった。まるで天気の話でもするかのように、あるいは八百屋で野菜の値段を聞くかのように。
ギラロモは少しだけ眉をひそめ、重々しく告げた。
「今のペースで神力を使い続ければ、三年。……二十歳まで生きられれば御の字だろう」
ガシャッ、と音がした。
レオナールが先程から握っていた剣の柄を一瞬抜きそうになり慌てて納めた音だった。普段沈着冷静な聖騎士の顔面は蒼白で、唇がわなないている。
「な……何を、仰るのですか。三年……? アリアンナ様はまだ十七歳ですよ!? これからの人生があるはずだ! 何か、治療法は……!」
「ない」
ギラロモは非情に切り捨てた。
「これは病気ではない。代償だ。神の奇跡を行使した対価を、寿命で払っているに過ぎん。助かる唯一の方法は、今すぐ聖女を辞め、二度と神力を使わず、田舎で静養することだ。そうすれば、あと十年は生き延びられるかもしれん」
「十年……」
レオナールが縋るような目でアリを見上げた。
「アリアンナ様、今すぐに引退を! ボア枢機卿にお願いして、聖女の籍を抜いてもらいましょう。お金なら、もう十分にあるはずです!」
しかし、アリは淡々とローブの襟を整え終えると、ギラロモに向かって小銭入れを放り投げた。
チャリ、と軽い音が診察台の上に響く。
「診察代。釣りはいらないわ」
「……話を聞いていたのか、お嬢ちゃん」
「聞いてたわよ。二十歳で死ぬんでしょ? あと三年もあるじゃない」
アリは事もなげに言い放ち、呆然とするレオナールを置き去りにして診察室の扉を開けた。
「それにねぇ、私ほどの浄化の力は誰も使えないでしょ。このまま放っておくと瘴気がもっと酷くなる。そうなったら、美味しいものが食べられないじゃない。だから辞めないよ」
好物のパンが売り切れて買えなくなる、と言うくらい軽い感じでアリは言う。
「行くわよ、レオナール。次の予定が詰まってるんだから」
王都の大通りに出ると、皮肉なほどの快晴だった。
石畳を叩く馬車の音、市場の売り子の声、行き交う人々の笑い声。平和な日常の喧騒が、今の二人には残酷なほど遠い世界に感じられた。
レオナールは、先を歩くアリの肩を掴んで引き留めた。
「アリアンナ様! お待ちください!」
普段は礼節を重んじる彼が、往来の真ん中で声を荒げた。周囲の視線が集まるが、レオナールは気にも留めない。
「正気ですか? 死ぬと言われたのですよ! それも、あとたった三年で……!」
「声が大きいわよ、レオ」
アリはレオナールの手を払いのけ、路地の陰へと入った。人目を避けた場所で、彼女は壁に背を預けて腕を組む。
「……分かってるわよ。自分の体のことくらい、私が一番よく分かってる」
「ならば、なぜ! 引退すれば十年は生きられると医師は言いました。十年の間、静かに暮らせば……」
「十年生き延びて、何になるの?」
アリの琥珀色の瞳が、鋭くレオナールを射抜いた。その光の強さに、レオナールは言葉を詰まらせる。
「細く長く生きて、ベッドの上で天井を見つめながら死ぬのを待つだけの十年なんて、私にはいらない。私が欲しいのは、時間じゃなくて『結果』なの」
アリは懐から一冊の手帳を取り出した。ボロボロになった革表紙の手帳には、びっしりと数字と計算式が書き込まれている。
「故郷の村の復興工事、現在進行率40%。水源の確保と浄化装置の設置は終わったけど、住居の再建と農地の土壌改良にはまだ莫大な資金がかかる。それに……一番大事な『あれ』の再生には、国が一つ買えるくらいの研究費と維持費が必要なの」
アリは手帳の最後のページを開いた。そこには、下手くそな絵で、真っ赤な実をつけた一本の木と、湯気を立てるパイの絵が描かれている。
「チェリーの木……ですか」
レオナールが苦い顔で呟く。
「そう。私の村は、あのチェリーのパイが名物だった。父さんと母さんと、三人で食べた最後の味。……魔物に村が滅ぼされた時、全て燃えてしまったけど」
アリの脳裏に、古い記憶が蘇る。
炎に包まれる家々。悲鳴。そして、逃げ惑うアリを瓦礫の下から守り、絶命した両親の姿。
あの日、アリは全てを失った。家族も、帰る場所も、幸せの象徴だった甘酸っぱい味も。
その後拾われた孤児院で育ち、神力の才能を見出されて中央教会に召し上げられた時、彼女は誓ったのだ。
奪われたものを、すべて取り戻してやると。神が与えたこの呪われた血を金に変えて、理不尽な運命に復讐してやると。
「私の人生で1番幸せだったあの頃をもう一度……それが私の人生のゴールよ」
アリは手帳を閉じ、レオナールを見上げた。
「そのためには、あと三年じゃ足りないくらいなの。引退してる暇なんてない。……ペースを上げるわよ、レオナール。貴族だろうが王族だろうが、ふんだくれるだけふんだくってやるわ」
「ですが……体が持ちません!」
「だから、食べるのよ」
アリの腹が、ぐう、と間の抜けた音を立てた。シリアスな空気をぶち壊すような豪快な音に、レオナールは虚を突かれた顔をした。
「……はい?」
「医者も言ってたじゃない。神力は燃料だって。なら、燃料をガンガン補給すれば、多少無理してもエンジンは回るはずよ」
「そ、そんな単純な理屈で……」
「理屈じゃないわ、気合よ。……ああ、猛烈にお腹が空いた。死ぬって言われたら、なんだか逆に生きたい欲求が湧いてきたわ」
アリはニヤリと不敵に笑うと、再び大通りへと歩き出した。その足取りには、迷いも悲壮感もない。あるのは、獲物を狙う野獣のような活力だけだ。
「行くわよ、レオナール! この近くに、評判のステーキハウスがあったはずだわ」
「ア、アリアンナ様……!」
レオナールは天を仰ぎ、深く溜め息をついた。
この少女は、死の宣告さえも食欲に変えてしまうのか。
しかし、その背中を見送る彼の瞳には、呆れと共に、隠しきれない敬意と哀切が滲んでいた。
彼女が生き急ぐなら、守り抜くしかない。その命の灯火が尽きる最期の瞬間まで。
王都でも一、二を争う高級ステーキハウス『猛牛の角』。
昼時を過ぎていたが、店内は裕福な商人や貴族たちで賑わっていた。
その中央のテーブルで、異様な光景が繰り広げられていた。
「厚切りステーキをお願い。焼き加減はレアで。それと子羊のローストを二人前。付け合わせのマッシュポテトは別皿で山盛りに。あと、季節の野菜サラダと、オニオングラタンスープ、パンはバスケットで三つ持ってきて」
ウェイトレスが注文を書き取る手が震えている。
これだけの量を注文したのは、華奢な少女一人だったからだ。
「あ、あと飲み物は赤ワイン……と言いたいところだけど、今日は仕事があるからブドウジュースで。一番濃厚なやつね」
「か、かしこまりました……。あの、お連れ様の分は……?」
ウェイトレスが向かいに座る騎士に視線を向ける。
レオナールは、胃が痛そうに眉間を押さえながら首を横に振った。
「私はコーヒーだけでいい」
「えっ、食べないのレオ? ここのステーキ、美味しいらしいわよ」
「君が死ぬだの生きるだのと言った直後に、肉を食らう気分にはなれません……」
レオナールががっくりと項垂れると、アリは心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
やがて運ばれてきた料理の山に、周囲の客たちがぎょっとして振り返る。
ジュウジュウと音を立てる巨大な肉塊。血の滴るようなレアの断面。
アリはその光景に、うっとりと目を細めた。
「素晴らしいわ……。これぞ命の塊ね」
彼女はナイフとフォークを手に取ると、流れるような手つきで肉を切り分け、次々と口へ運んでいく。
その食べ方は、決して下品ではない。むしろ、神聖な儀式のようにさえ見えた。
咀嚼し、飲み込み、血肉に変える。
失われた血液を、損傷した内臓を、無理やり修復するために。
「……おいしい」
一口食べるごとに、蒼白だったアリの頬に赤みが差していく。
レオナールはその様子を、複雑な思いで見つめていた。
彼女にとって食事は、快楽ではない。戦いだ。死神との綱引きだ。
彼女が食べているのは料理ではなく、「明日の命」そのものなのだ。
「ねえ、レオナール」
ステーキの半分を平らげたところで、アリがフォークを止めた。
「さっきの話の続きだけど」
「……引退の話ですか?」
「違うわよ」
アリはブドウジュースで喉を潤すと、遠くを見るような目をした。
「復興した村にはね、私の家を建てる予定なの。小さな小屋でいい。丘の上で、村全体が見渡せる場所」
「……ええ」
「そこで、村のみんなと一緒にパイを食べるの。私が稼いだ金で、みんなが笑って暮らしてる景色を見ながら。……それが私の『勝ち逃げ』よ」
勝ち逃げ。
その言葉に、レオナールは唇を噛み締めた。
彼女は知っているのだ。自分がその未来に、長くは留まれないことを。
だからこそ、その瞬間を完璧なものにしたいのだ。
「そのために、私はもっと強欲になる。誰に何と言われようと、悪魔と罵られようと、私は食べるし、金も取る。……レオナールは、そんな強欲な女の護衛なんて嫌かしら?」
挑発するような、けれどどこか寂しげな響きを含んだ問いかけ。
レオナールは居住まいを正し、真っ直ぐにアリを見返した。
「……嫌なら、とっくに辞めています」
レオナールは静かに言った。
「貴女が食べるなら、私はその皿を守りましょう。貴女が金貨を求めるなら、その袋を運びましょう。……それが、私の騎士道です」
「ふぅん……神に使える騎士なのに変わってるのねぇ」
アリは照れ隠しのように鼻を鳴らすと、残りの肉に再びかぶりついた。
その目には、先ほど診療所で見せた虚無感はもうない。
あるのは、燃え盛るような生への執着と、揺るぎない覚悟だけだった。
「さあ、食べたわよ! エネルギー充填完了!」
最後のパンをスープで拭って口に放り込むと、アリはナプキンで口を拭い、席を立った。
「行くわよ、レオナール。次の依頼は……隣国の公爵家だったかしら? あそこは確か、最高級のトリュフオムレツが有名よね」
「……公爵家への請求額を考えると、今から胃が痛みます」
レオナールは苦笑し、伝票を手に取った。
余命三年。
残酷な宣告は、しかし、強欲の聖女の旅を止めることはできなかった。
むしろ、その旅路はここから、より激しく、より貪欲に加速していくのだ。
店を出た二人の上には、どこまでも青い空が広がっていた。
だが、その空の向こう、遠い北の空には、不穏な灰色の雲が渦巻き始めていたことを、まだ誰も知らない。
ステーキハウスを出てから数時間後。
アリとレオナールを乗せた馬車は、石畳の街道を外れ、砂埃の舞う未舗装路をひた走っていた。行き先は隣国との国境に近い、ゲルヴィス公爵の領地だ。
ガタガタと揺れる車内で、アリは酔う様子もなく、一心不乱に帳簿と睨めっこをしていた。羽ペンの先を噛み、時折カリカリと苛立たしげに数字を書き殴る。
「……計算が合わない。これじゃあ、維持費が五年分しか賄えないわ」
「アリアンナ様。維持費とは、何の?」
向かいの席で剣の手入れをしていたレオナールが顔を上げる。アリは顔を上げずに答えた。
「村の結界装置よ。復興が終わっても、私が死んだら誰が瘴気を払うの? 神力持ちなんてそうそう生まれない。だから、魔石を使った自動浄化装置を設置して、私が死んだ後も村を守れるようにしなきゃならないの」
レオナールの手が止まった。
彼女は当たり前のように、「自分がいない未来」の話をしている。
先ほどの医師の宣告――余命三年。それを彼女は受け入れ、悲しむ時間すら惜しんで、残された時間で「死後の世界」を構築しようとしているのだ。
「……その装置の魔石は、非常に高価な消耗品ですね」
「ええ。だから金がいるの。莫大な金がね。私が二十歳でくたばった後、少なくとも五十年……次の世代が育つまでは村を安全地帯にしておきたい」
アリは帳簿をパタンと閉じ、窓の外へ視線を投げた。
広がるのは、枯れかけたブドウ畑だ。かつては最高級のワインを生み出す豊穣な土地だったはずだが、今は葉が黒く縮れ、実が腐り落ちている。
空気中に漂う甘ったるい腐敗臭。微かに肌を刺すような冷気。
瘴気だ。それも、かなり濃い。
「……着いたわね。ここが次の『食い扶持』よ」
ゲルヴィス公爵の屋敷は、枯れた大地に不釣り合いなほど壮麗だった。
出迎えた公爵は、絹の服に宝石を散りばめた、いかにも傲慢そうな初老の男だった。彼は馬車から降りたアリを見るなり、眉をひそめてハンカチで鼻を覆った。
「遅いぞ! 連絡してから半日も経っているではないか!」
「道が悪かったもので。それに、急な依頼には割増料金がかかりますよ、公爵様」
アリは悪びれる様子もなく言い返し、周囲を見回した。庭園のバラはどす黒く変色し、噴水の水はヘドロのように濁っている。
「それで? 浄化してほしいのはこの屋敷ですか? それともブドウ畑?」
「全てだ! 特にワイン貯蔵庫だ! あそこには我が家の家宝とも言える百年前のヴィンテージワインが眠っているのだぞ! 瘴気で味が落ちたらどうしてくれる!」
使用人や領民の安否ではなく、ワインの心配か。
レオナールが不快感に眉を寄せるが、アリはむしろ嬉しそうに口角を上げた。
「なるほど、ヴィンテージワイン。それは一大事ですねえ。……じゃあ、報酬は当初の提示額の三倍で」
「な、何だと!? 三倍!? 貴様、足元を見る気か!」
「嫌なら他を当たってください。ただし、中央教会に正規の手続きで依頼すれば、聖女が派遣されるのは一ヶ月後。その頃には、その自慢のワインはただの酸っぱい酢になってるでしょうけど」
アリは指を三本立てて見せる。
「三倍。加えて、浄化後にはこの領地特産の『黒トリュフのオムレツ』を用意して頂戴。もちろん、最高級のトリュフを使って」
公爵は顔を真っ赤にして震えたが、背後の貯蔵庫から漏れ出る不気味な唸り声――瘴気が風を切る音――を聞くと、青ざめて首を縦に振った。
「わ、分かった……払う! 払うから、今すぐ何とかしろ!」
「商談成立。レオナール、行くわよ」
アリは公爵に背を向け、瘴気の中心地である貯蔵庫へと歩き出した。
その背中は小さく、華奢だ。だが、レオナールにはそれが、巨大な魔獣に立ち向かう勇者のようにも、あるいは死に場所を探す逃亡者のようにも見えた。
地下貯蔵庫への階段を降りると、そこは異界だった。
ひんやりとした冷気と共に、肌にねっとりとまとわりつくような不快感。照明のランプの火が、酸素不足のように弱々しく揺れている。
最深部、巨大なワイン樽が並ぶ広間に、それはいた。
「……グルルル……」
黒い霧が集まり、狼のような形を成している。
実体化した瘴気。魔物になりかけの「穢れ」だ。赤い瞳が暗闇で怪しく光り、侵入者である二人を睨みつけている。
「……思ったより育ってるわね。公爵の欲深さが餌になったのかしら」
アリは冷静に分析しながら、レオナールに目配せをした。
「レオ、前衛をお願い。あいつを釘付けにして」
「はい!」
レオナールが剣を抜き、疾風のように駆ける。
魔狼が咆哮と共に飛びかかるが、レオナールの剣技は鋭い。銀閃が走り、黒い霧の身体を切り裂く。だが、切った端から霧は再生し、再び襲いかかってくる。物理的な攻撃は時間稼ぎにしかならない。
とどめを刺せるのは、聖女の祈り――神力だけだ。
「……ふぅ」
アリは広間の中央に立ち、静かに目を閉じた。
意識を内側へ向ける。
心臓の鼓動を感じる。血管を流れる血液の熱さを感じる。
そして、その奥底に眠る「神の種火」に触れる。
瞬間、全身に激痛が走った。
血管に溶けた鉛を流し込まれたような灼熱。内臓がねじ切れそうな圧迫感。
医師の言葉が脳裏をよぎる。
『あんたの身体はもう限界だ』
――うるさい。
アリは歯を食いしばり、痛みを怒りに変えた。
まだ死ねない。まだ足りない。村の再建も、チェリーパイも、まだ何も終わっていない。
こんなところで、たかが腐ったワインのために死んでたまるか。
「……っあ、あああぁっ!!」
アリは懐から取り出した純白のハンカチを口元に押し当て、叫びと共に神力を解放した。
ゴボリ、と大量の血が溢れ出す。
それは許容量を超えた、生命の流出だった。
だが、その血は汚らわしい鉄錆色ではない。
カッ! と地下室が目映い光に包まれた。
アリの口元から溢れ、指の隙間から滴り落ちる血が、すべて黄金の光の粒子へと変わっていく。
それは物理法則を無視して宙を舞い、美しい螺旋を描いて魔狼へと殺到した。
「ギ、ギャアアアアアッ!!」
黄金の光に触れた瞬間、魔狼の黒い霧がジューッという音を立てて蒸発していく。
神聖なる浄化の光。それは邪悪なものにとって絶対的な毒であり、焼き尽くす炎だ。
広間を満たしていた瘴気が、渦を巻いてアリの放つ光に吸い込まれ、消滅していく。
だが、その光の強さは、そのままアリの命の消耗度を示していた。
今日の光は、いつもより眩しい。眩しすぎる。
「アリアンナ様!!」
魔狼が消滅したのを確認したレオナールが、叫び声を上げて振り返る。
そこには、光が収まると同時に、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちるアリの姿があった。
意識が戻った時、最初に感じたのは、食欲をそそる濃厚な香りだった。
大地の恵みを感じさせるキノコの香りと、バターと卵の甘い匂い。
「……ん」
アリが目を開けると、そこは天蓋付きの豪勢なベッドの上だった。
見覚えのない部屋だが、窓の外はすでに夜。枕元には心配そうな顔をしたレオナールが座っている。
「目が覚めましたか、アリアンナ様」
「……レオ。ここは?」
「ゲルヴィス公爵の客室です。浄化完了の後、貴女が倒れられたので運ばせていただきました」
レオナールは安堵のため息をつき、サイドテーブルに置かれた皿を手に取った。
そこには、湯気を立てる鮮やかな黄色のオムレツが乗っている。表面には黒い宝石のように刻まれたトリュフが散らされていた。
「約束の品です。公爵は渋っていましたが、私が……懇切丁寧にご説明しましたら快く」
レオナールが剣の柄に手を置いているのを見て、アリは苦笑した。あの真面目な騎士が、食べ物のために公爵を脅したのか。
「……ありがとう。食べるわ」
体を起こそうとするが、力が入らない。指先一つ動かすのも億劫だ。体中の血液が入れ替わったような倦怠感がある。
それを見たレオナールは、無言でオムレツを一口大に切り分け、フォークで刺してアリの口元へ運んだ。
「失礼します」
「……子供扱いしないでよ」
「今は患者扱いとお考えください」
アリは不満げに唇を尖らせたが、空腹には勝てない。口を開けて、差し出されたオムレツを受け入れる。
ふわふわの卵が舌の上でとろけ、トリュフの芳醇な香りが鼻腔を抜ける。
絶品だった。
だが、飲み込むのにも一苦労するほど、喉が渇き、体力が落ちているのを感じた。
「……おいしいですか?」
「ええ。……高い味がするわ」
二口、三口と食べ進めるうちに、少しずつ胃が動き出し、手足に温度が戻ってくる。
レオナールは、かいがいしく世話を焼きながら、ぽつりと漏らした。
「アリアンナ様。やはり、無茶です」
「……」
「今日の浄化は、いつにも増して光が強かった。……命を削っている音が聞こえるようでした。あと三年という医師の言葉が、希望的観測に過ぎないのではないかと思うほどに」
レオナールの手は震えていた。
彼は怖いのだ。目の前で、守るべき主が、自らの命を燃やして消えていくのを見るのが。
アリは咀嚼していた卵を飲み込み、静かに言った。
「そうね。……正直、今日は危なかったかも」
「なら……!」
「でも、浄化は成功したわ。公爵から金を巻き上げ、ワインを守り、こうしてオムレツを食べている。……いつも通りね」
アリはレオナールの手からフォークを奪い取り、自分で残りのオムレツを掬った。
その手はまだ震えているが、瞳の光は死んでいない。
「死ぬのが怖くないって言ったら嘘になる。本当はもっと生きたい。チェリーパイを食べて、おばあちゃんになるまで昼寝して暮らしたい」
初めて聞く、彼女の弱音。
だが、彼女はすぐにニヤリと笑ってみせた。
「でも、怖がって立ち止まったら、そこで終わりよ。私は強欲だから、死ぬ直前まで何かを欲しがっていたいの。……だからレオナール、あんたは余計な心配しないで、次の美味しい店を探してよ」
レオナールは、しばらく呆気にとられたようにアリを見つめていたが、やがて観念したように深く頭を下げた。
この人は、どこまでも強く、そして悲しいほどに生き急いでいる。
ならば、騎士としてすべきことは一つだ。
「……承知いたしました。次は、どこへ参りましょうか」
その時、部屋の扉がノックされ、公爵家の執事が恭しく入ってきた。銀の盆には一通の手紙が載せられている。
封蝋には、中央教会の紋章。そして、薔薇の意匠。
「アリアンナ様に、王都の中央教会より急使です」
アリはオムレツを飲み込み、手紙を受け取った。
差出人の名前を見た瞬間、彼女の顔から表情が消えた。
『聖女ルルティア・フォン・ローゼンバーグ』
この国で最も高貴で、とんでもない嘘つきな聖女からの呼び出し状。
アリは手紙を雑に開封し、中身を一読すると、鼻で笑ってそれをベッドに放り投げた。
「……嫌な予感が当たったわ。オムレツの消化に悪い手紙よ」
「ルルティア様から、ですか? 何と?」
「『王都に帰還せよ。次なる大厄災の予兆あり。貴女の力が必要不可欠です』……だってさ」
アリはレオナールを見上げ、皮肉っぽく笑った。
「要するに、『私の代わりに死にそうな仕事をしてちょうだい』ってことよ。……はあ。せっかく稼いだのに、また命を削りに行かなきゃならないなんてね」
だが、その瞳の奥には、新たな戦場へ向かう覚悟の炎が灯っていた。
チェリーパイへの道は、まだ遠く険しい。
しかし、止まるつもりは微塵もなかった。
「準備して、レオナール。……王都のパイは、美味しかったかしらね?」
強欲な聖女の旅路は、物語の核心たる王都へ、そして二人の聖女が交錯する運命の場所へと続いていく。




