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第1話:強欲の聖女と血塗られた金貨

第1話:強欲の聖女と血塗られた金貨


「……足りないわね。全然、足りないわ」


 豪奢なマホガニーのテーブルに、革袋の中身をぶちまける。チャリ、という金属音が室内に響いたが、その音はアリアンナ――通称アリが要求していたよりも、ずっと軽くて頼りないものだった。

 アリは琥珀色の瞳を細め、並べられた金貨を一枚一枚、汚いものを見るように数え上げた。

 ここは、王都から数日の距離にある地方領主、バルトロメウス男爵の館だ。応接間には最高級の香炉から煙が立ち昇っているが、その高貴な香りは、吐き気を催すような、腐った泥のような臭いが混じっており、本来の香りを損なっていた。


「せ、聖女様、どうかご慈悲を! これでも我が家の全財産の三分の一、すぐに用意できる限りの現金なのです! これ以上は、領地の運営に支障が……!」


 目の前で、立派な髭を蓄えた男爵が床に額を擦り付けていた。その背中には、どす黒いコールタールのような「瘴気」が、まるで巨大な蜘蛛の足のようにまとわりついている。


 一千年前、世界を創造した神は、地を滅ぼさんとした魔王を封印した。しかし、神が空へと去った後も魔王はその地下深くで力を増幅させ続け、今や封印の結界は綻びだらけだ。その隙間から溢れ出す魔王の負の情念――それが「瘴気」である。放置すれば人の命を啜り、やがては肉肉しい「魔物」を産み落とす。


 アリは無作法にテーブルの上のクッキーを掴み、口に放り込んだ。ボリボリと音を立てて咀嚼し、飲み込んでから、冷酷に言い放つ。


「男爵様。勘違いしないで。慈悲で私の腹は膨れないし、祈りで明日のご飯は食べられないなのよ。私のルールは『財産の半分』。これは中央教会の規定じゃなくて、アリアンナ個人との契約なの。嫌ならいいけど? あと半日もすればその瘴気は実体化して、あんたの喉笛を食いちぎるでしょうね。そうすれば、遺産相続の手続きが終わった後に、次期男爵様がもっと高額な報酬を払って私を呼んでくれるはずだわ」

「そ、そんな、無慈悲な……!」

「無慈悲? 当然じゃない。私は自分の命をあんたに売るんだから、それなりの対価を貰うのは仕事として当たり前のことよ」

「……聖女ならば民の命を救うのは当然…」

「男爵様、ここは教会からも国からも重要視されていない領地です。緊急なら真っ先に教会から派遣されるはずなのに。ここ最近急激に瘴気が増えている…何かしたのかしら?」

「くっ…それは…」


 この男爵は、禁忌とされている瘴気が溢れ出ている鉱山から違法に鉱物を採取しており、富を得たと共に瘴気をも連れ帰ったのであった。

 通常ならばほば無いはずの瘴気の為、教会も国も自業自得な面もあり、半ば放置されていた。

 そこに派遣されてきたのが強欲の聖女と呼ばれるアリアンナであったのだ。



 アリが立ち上がろうとすると、その背後で彫像のように控えていた青年が、深いため息をついた。


「アリアンナ様。御言葉を慎んでください。相手は貴族の方です。不敬が過ぎれば、私の立場でも庇いきれなくなります」


 金髪碧眼、神の祝福を受けたかのような美丈夫。聖騎士レオナールだ。彼はこの国でも指折りの実力者であり、中々な金満の教会上層部の中でも数少ない、真実「弱きを助ける」を信条とする高潔な男である。

 そんな彼が、なぜ「強欲の聖女」と蔑まれるアリの護衛を務めているのか。

 それは、中央教会の重鎮でありながら、アリを孫のように慈しむボア枢機卿の差配だった。


『レオナール、君にしか頼めない。彼女の行いは世間には受け入れられないだろう。だが、彼女の流す血の意味を理解し、その最期まで守れるのは、君のような堅物男だけなんじゃ』


 豊かな白い髭を蓄えたボア枢機卿にそう請われ、レオナールはこの二年間、アリの無作法と強欲に付き合わされている。


「うるさいわね、レオナール。あんたは私の『商品価値』を守るためにここにいるんでしょ? だったら黙って見てなさい」


 アリはレオナールの正論を鼻で笑い、再び領主を睨みつけた。


「さあ、どうするの? 契約する? しない? 決断を急ぎなさい。私の食欲はもう限界なんだから」


 領主は脂汗を流し、背後の瘴気が放つ冷気に歯を鳴らした。やがて、彼は震える手で懐から一通の小切手を取り出し、テーブルへ滑らせた。


「わ、分かりました……支払います!ですから、どうか、その浄化を……!」

「まいどあり。契約成立ね」


 アリはニンマリと微笑むと、小切手を素早く回収し、胸元に仕舞い込んだ。そしてもう一つ、彼女にとって金と同じくらい重要な条件を口にする。


「それと、この土地の名物の『七種ハーブの丸焼きチキン』を三人前、すぐに用意してね。ソースはたっぷり。付け合わせのポテトは山盛りでお願い。浄化が終わったら、この部屋で一人で食べるから」

「り、料理、ですか……? 今すぐに手配いたしますが……」

「ええ、冷まさないようにしておいて。……さて、話も終わったことだし、仕事にかかりましょうか」


 アリは琥珀色の瞳から一切の感情を消し、冷徹な「聖女」の顔になった。


「男爵様、それからレオナール以外の使用人も全員、部屋を出て。私の浄化の祈りはすごく繊細で特殊なの。慣れない者が目にすれば精神を汚染される恐れがあるわ。一歩もこの部屋に入れてはダメよ。いいわね?」


 アリの言葉には、有無を言わせぬ圧があった。領主は怯えたように頷き、家臣たちを引き連れて逃げるように応接間を後にした。

 重厚な扉が閉まり、静寂が部屋を支配する。残ったのは、アリとレオナールの二人だけ。


「……アリアンナ様。本当に、これほどまで金を積ませる必要があったのですか?」


 レオナールが痛ましげな声を出す。彼は知っている。アリが巻き上げた金のほとんどが、彼女の贅沢ではなく、人知れずどこかへ送金されていることを。


「必要よ。私の祈りは…血にはそれだけの価値があるから」


 アリは短く答えると、目を閉じて椅子に深く腰掛けた。

 全身の血管が、内側から焼かれるような熱を帯び始める。

 一千年前から魔王を監視し続けている神は、封印の綻びを塞ぐため、人間の中に自らの力を宿す器を選んだ。それが「聖女」や「聖人」だ。神の力は、宿主の血液と融合することで初めて顕現する。

 神の力を引き出すということは、自らの生命そのものである血液に、神の力を宿し強制的に体外へ排出するということ。

 その対価は……


「……っ」


 不意に、アリは喉の奥にせり上がってくる熱い塊を感じた。

 彼女は咳き込むのを食いしばって堪えているが、口元からは一筋の血が流れ落ちている。

 「神の浄化」などという美しい言葉では語れない、凄惨な現実。

 ゴボリ、と不快な音が部屋に響く。

 アリは咄嗟に口を覆うが、指の間から液体が溢れ出した。

 それは、最初は普通の、どろりとした赤い鮮血だった。しかし、アリが内なる神力に意識を集中し、浄化の祈りを捧げた瞬間、その血液は劇的な変化を遂げる。

 赤かった血が、内側から発光するように輝き始めたのだ。

 それは、溶けた黄金を流し込んだかのような、眩いばかりの光の雫。

 神の力を帯びた血液は、重力に逆らうように空中に舞い上がり、部屋中に充満していた濁った瘴気を焼き払っていく。

 黄金の光が舞う光景は、一見すれば夢のように美しい。

 だが、その光の源であるアリの顔は、死人のように青ざめていた。


「ゴホッ……ッ」


 激しい吐血と共に、彼女の神力は瘴気の根源へと襲い掛かる。

 男爵の椅子に残っていた瘴気の残滓が、黄金の血に触れた瞬間、断末魔のような音を立てて消滅していった。


「……は、ぁ……っ、げほっ……!」


 浄化が終わり、光が収まると、アリは崩れるように椅子から滑り落ちた。

 それをレオナールが素早く駆け寄り、大きな手で支える。


「アリアンナ様!」

「……触らないで。……汚れるわよ」


 レオナールの差し出した布を奪い取るように受け取ると、アリは荒い呼吸を繰り返しながら、口元を拭う。

 そこには、光を失い、ただの鉄臭い「赤いシミ」に戻った彼女の血がべっとりと付着していた。

 神力を使っている間だけ、彼女の血は奇跡の光を放つ。だが、使い終わればそれは単なる、削り取られた命の残骸に過ぎない。

 レオナールは痛恨の表情を浮かべ、彼女の震える肩を抱き寄せた。


「こんなことを続けて、二十歳まで保つはずがない……。ボア枢機卿も、これを望んでおられるはずが……!」

「ふん……枢機卿様は、私のやりたいようにさせてくれてるわよ。……ねえ、レオナール」


 アリは弱々しい力で、レオナールの鎧の腕を掴んだ。

 その琥珀色の瞳は、死の淵を覗き込みながらも、なおも強欲な輝きを失っていない。


「……早く、チキンを持ってこさせて。お腹が空いて、死んじゃいそうよ」


 命を削り、金を奪い、そして食べる。

 それが、二十歳で死ぬと決まった聖女アリアンナの、世界で一番贅沢な生存戦略だった。

 浄化を始めたのは昼過ぎだったが、いつの間にか窓の外ではもう夕闇が迫っていた。

 応接間に漂っていたドロリとした重苦しさは、黄金の光の粒子が霧散すると同時に消え去っていた。残されたのは、微かな鉄の臭いと、燃え尽きた炭のような乾燥した空気だけだ。

 レオナールに支えられながら、アリは乱れた息を整える。肌は透き通るほどに白く、血管の青い筋が浮き出ている。神力を行使するたびに、彼女の体からは文字通り「生」が吸い出されていく。神の力をその身に宿すということは、人間の器を神の火で焼き続けるようなものだ。


「アリアンナ様、水です。少しずつ飲んでください」


 レオナールが差し出した銀の杯を、アリは震える手で受け取った。一気に煽れば吐き戻すと分かっているのか、彼女は慎重に喉を湿らせる。


「……ふう。死ぬかと思ったわ」

「毎回そう仰いますね。それほどの苦痛を伴うと分かっていながら、なぜ報酬の話になるとあれほど……いえ、今は休んでください」


 レオナールの言葉を遮るように、アリは口元を乱暴に拭った。


「休みなんていらないわ。それよりレオナール、扉を開けて。美味しい匂いが外から漏れてきてるじゃない」


 レオナールは困ったように眉を下げたが、彼女の意志が固いことを知っていた。彼は立ち上がり、重厚な扉を解錠して外へ声をかける。

 待機していた男爵と使用人たちが、恐る恐る、だが期待に満ちた表情でなだれ込んできた。彼らはまず部屋の空気の清浄さに驚き、次に、椅子に深々と座り、幽霊のように青白い顔をしたアリを見て息を呑んだ。


「お、おぉ……! なんという清々しさだ。背中にのしかかっていた岩が消えたようだ!」


 男爵は狂喜乱舞し、自身の身体を確かめるように叩いた。瘴気が消え、彼の顔色には生気が戻っている。一方で、彼はアリの足元に落ちている、赤黒く汚れた布を見ないようにしていた。聖女の奇跡の代償が「血」であることを、彼らは本能的に忌避しているのだ。


「男爵様。約束のものは?」


 アリが低く、だが有無を言わせぬ声で尋ねる。男爵はハッとして、背後の使用人たちに合図を送った。


「もちろんでございます、聖女様! すぐに、我が領地自慢の『七種ハーブの丸焼きチキン』を!」


 運ばれてきたのは、大皿に鎮座した見事な若鶏の丸焼きだった。立ち昇る湯気と共に、バジル、タイム、ローズマリーといった芳醇な香りが部屋いっぱいに広がる。皮はこんがりと黄金色に焼き上げられ、滲み出た肉汁がソースと絡んで艶やかに光っている。

 アリの瞳に、この日一番の輝きが戻った。


「さあ、あんたたちは出て行って。さっきも言ったでしょ、私は一人で食べる主義なの。レオナール、あんたは扉の前で見張ってなさい。これは全部私のもの」


 ウフフと笑い、シッシッと手を外へと払う。

 男爵たちは深々と頭を下げ、逃げるように去っていった。レオナールもまた、苦笑いを浮かべて扉の外へと退席する。

 部屋に一人残されたアリは、ナイフとフォークを手に取るのももどかしく、まずは手近なパンをちぎってソースに浸し、口へ運んだ。


「……っ、おいしい……」


 濃厚な脂の甘みと、ハーブの爽やかな香りが口内を支配する。血液と共に失われた熱が、胃の奥からじわじわと全身へ広がっていくのを感じる。次にナイフを入れ、しっかり焼き上げられたモモ肉を切り出す。溢れ出す肉汁を余さず絡め、大きな塊を頬張った。

 彼女が強欲なまでに食事を求めるのは、単なる食い意地ではない。神力として消費される血液を再生するためには、常人の数倍の栄養を摂取しなければならないからだ。彼女にとって食べることは、明日へ命を繋ぐための、泥臭い「儀式」だった。

 チキン三人前、山盛りのポテト、さらには追加で持ち込ませた濃厚な赤ワインのゼリー。それらを一時間足らずで平らげると、アリの頬にはようやく微かな赤みが差した。


「……ふう。ごちそうさま」


 アリが合図を送ると、レオナールが静かに入室してきた。彼は空になった皿の山を見て、驚きを通り越して感心したような表情を見せる。


「相変わらずの見事な食べっぷりですね、アリアンナ様。その細い体のどこにそれだけの量が収まるのか、未だに不思議でなりません」

「生きてる実感を得るには、これくらい食べなきゃダメなのよ。……レオナール、報酬の確認は?」

「はい。バルトロメウス男爵より、金貨三千枚、および土地の権利書の一部を預かりました。これらは明朝、ボア枢機卿の指定する口座へ送金の手配をいたします」

「……そう。それだけあれば、あと数ヶ月は村の連中も腹いっぱい食べられるわね」


 アリは窓の外、暮れなずむ空を見つめた。

 彼女が金を稼ぎ続ける理由。それは、かつて瘴気に飲まれ、魔物に蹂躙された故郷、チェリーの香りが漂っていたあの村を再生するためだ。

 神は魔王を封印したが、その綻びを直すことは人間に委ねた。神の力を宿す「器」として選ばれた孤児のアリには、拒否権などなかった。ならばせめて、その呪いのような力を最高値で売り払い、幼い頃両親と過ごした人生で最も幸せだった、失われた景色を買い戻してやる。それが彼女の誰にでもない復讐であり、生きる意味だった。


「アリアンナ様。……少し、お顔の色が良くなりましたね」


 レオナールが歩み寄り、膝をついて彼女の目線に合わせる。その声には、騎士としての忠誠だけでなく、一人の女性を案じる温かさが混じっていた。


「当然でしょ。あんなに高いチキンを食べたんだもの。……レオナール、次の行き先は?」

「中央教会の聖地、エリュシオンです。ルルティア様が主導される『五穀豊穣の祈祷祭』に、護衛および補助として出席せよとの命が出ております」


 その名を聞いた瞬間、アリの表情がわずかに曇った。

 聖女ルルティア。貴族の血を引き、非の打ち所のない美貌と気品を備え、民衆から絶大な人気を誇る「光と清廉の聖女」。

 だがアリは知っている。ルルティアには、瘴気を浄化する神力など一滴も備わっていないことを。彼女が「浄化」を行うたびに、その裏でアリが血を吐き、黄金の光を振りまいていることを。


「……またあの傲慢なお嬢様の尻拭いか。今度は何をご馳走してもらおうかなぁ。王都の最高級パイ専門店のチェリーパイ……ううん、まだ早いか。あれは、最後にとっておかないとね」


 アリは立ち上がり、レオナールが差し出した手を取った。

 二十歳まで、あと三年。

 命の残高を削りながら、彼女の強欲な旅は続いていく。


「行くわよ、レオナール。次の獲物が待ってるわ」

「はい、アリアンナ様」


 夕闇の中、二人の影が領主の館を後にする。

 その背中を追うように、遠くの森から魔物の遠吠えが聞こえた。魔王の鼓動は確実に強まっており、世界が真の「浄化」を求めて悲鳴を上げている。

 黄金の血を流す聖女の物語は、まだ始まったばかりだった。


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