第7話:15年前の忘れ物
その街の門をくぐる時、私の足は鉛のように重かった。
宿場町リグレット。
10年ほど前、私が詩篇姫として旅を始めて間もない頃に訪れた場所だ。
そして、ヴァイオレット様が「未回収の大物がいる」と告げた場所でもある。
「どうしたの、ココロン? 顔色が悪いよ」
アルト師匠が心配そうに私の顔を覗き込む。
私は無理やり笑顔を作った。
「いえ、少し昔のことを思い出してしまって」
街並みは変わっていない。
けれど、私の記憶の中にあるこの街は、もっと暗く、冷たい雨が降っていた。
あの日、私は一人の少年を救えなかった。
親を亡くし、絶望していた少年。彼の心の「言葉」はあまりに重く、鋭く、当時の私の未熟な本では受け止めきれなかったのだ。
私は恐怖に震え、彼を残して逃げ出した。
その罪悪感が、今も胸の奥に棘として刺さっている。
そして今、私はその「ツケ」を払わされに来たのだ。
「……おい、あんた」
広場のベンチに座っていた男が、ふらりと立ち上がった。
無精髭を生やし、荒んだ目をした30代半ばの男。
けれど、その瞳の奥にある暗い光に見覚えがあった。
「まさか……詩篇姫か?」
男の声が憎悪に歪む。
間違いない。あの時の少年だ。
「よくも……よくも俺の前に顔を出せたな!」
男が掴みかかろうとする。
アルト師匠が素早く私の前に割って入った。
「やめろ! 何するんだ!」
「どけ! その女はな、俺を見捨てたんだ! 『助けてあげる』なんて甘い言葉を吐いておきながら、俺の絶望を見て怖気づいて逃げたんだよ!」
アルト師匠が息を呑み、振り返って私を見る。
私は否定できなかった。
男の言う通りだ。私は彼を見捨てた。
「……申し訳ありませんでした」
私が頭を下げると、男は嘲笑った。
「謝って済むかよ。俺はこの10年、ずっとこの苦しみと生きてきたんだ。毎晩、死にたいと願いながら!」
男の喉元には、10年前よりもさらに巨大化した、どす黒い塊が脈打っていた。
今の私なら抜けるだろうか?
いや、もしまた失敗したら? 今度こそ彼の心を完全に壊してしまうかもしれない。
それに、もし失敗すれば、ヴァイオレット様は私だけでなく、アルト師匠にも危害を加えるだろう。
手が震える。本を取り出す勇気が出ない。
その時、温かい手が私の震える手を包み込んだ。
「ココロン」
アルト師匠だった。
彼は男を睨みつけたまま、私に力強く言った。
「顔を上げて。今のココロンは、10年前とは違うだろ?」
「でも……」
「俺がいる」
彼は私の手を強く握りしめた。
「俺たちは二人で『詩篇姫と吟遊詩人』だ。ココロンが受け止めきれない分は、全部俺が歌って吹き飛ばしてやる。だから信じろよ。俺を、そして自分を」
その言葉に、ハッとした。
そうだ。私はもう一人じゃない。
逃げ出したあの頃の、無力な少女ではないのだ。
ヴァイオレット様の脅しも、過去のトラウマも、彼と一緒なら乗り越えられる。
私は深呼吸をし、男に向き直った。
「……もう一度、チャンスをください。今度こそ、あなたを救います」
男は鼻で笑ったが、拒絶はしなかった。彼もまた、限界だったのだ。
私は本を開く。
10年分の絶望。その重圧が風圧となって襲いかかる。
けれど、隣にはアルト師匠がいる。
彼がリュートを構える真似をして、軽やかにリズムを刻み始めた。
♪――
彼の歌声が、私の周りに光の結界を作る。
恐怖が消えていく。
私は男の瞳を見つめ、静かに、けれど力強く詠唱した。
**置き去りの 痛み抱えて 十年**
**今こそ解かん 氷の鎖**
男の口から、巨大な黒い蛇のような塊が飛び出した。
それは暴れ回り、私に噛みつこうとする。
しかし、アルト師匠の歌声がそれを許さない。
♪――
長い夜 一人震えて 泣いた日々
朝は来るから もう離さない
君の痛みは 僕らが背負う
さあ行こう 光の射す方へ
マロンも「ピルルッ! ガンバレ!」と叫ぶ。
歌声の檻に閉じ込められた黒い蛇は、やがて白い鳩へと姿を変え、本の中へと吸い込まれていった。
回収ではない。浄化だ。
ヴァイオレット様の望む「反省文」にはならなかったけれど、これでいい。
男が崩れ落ちる。
私は慌てて彼を支えた。
その顔からは、険しい憎悪が消え、子供のように安らかな寝顔になっていた。
「……やったな、ココロン」
アルト師匠が汗を拭いながら笑いかける。
私は男をベンチに寝かせ、師匠に向き直った。
そして、こらえきれずに彼の胸に飛び込んだ。
「ありがとう……アルト師匠……!」
「うわっ!?」
彼は驚いて硬直したが、やがておずおずと私の背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いてくれた。
「……へへ。どういたしまして」
マロンが「チチッ(ヨカッタネ)」と鳴く。
10年前の忘れ物は、こうしてようやく、あるべき場所へと還っていった。




