第4話:戦場のラブレター
風が、泣いていた。
草木一本生えない荒野。かつて数万の兵士が命を落としたという古戦場は、昼間でも薄暗い雲に覆われていた。
肌を刺すような冷気。それは気温の低さではなく、死者たちの怨念が放つ冷たさだった。
「……すごい数だ」
アルト師匠が呻くように言った。
彼の顔色は悪い。御使い鳥のマロンも、怯えたように彼の襟元に潜り込んでいる。
無理もない。ここにあるのは、これまでの旅で出会ったような個人の悩みではない。
『死にたくない』『痛い』『帰りたい』――。
無数の死者の絶叫が、黒い嵐となって渦巻いているのだ。
彼らは死してなお、この牢獄世界に縛り付けられ、成仏を許されていない。
「反省が足りない」という理由で。管理者は、彼らに永遠の苦しみを強いている。
「引き返しましょう、アルト師匠。ここは危険すぎます」
私はローブの裾を握りしめた。
私の「空白の本」は、まだ開いてもいないのに、周囲の怨念に共鳴して熱く脈打っている。
これだけの量を一度に吸い込めば、本が耐えきれない。いや、私の精神が崩壊する。
私はただの執行官だ。英雄ではない。これほどの業を背負うことはできない。
「ダメだよ。放っておいたら、この黒い霧が麓の村まで降りていく」
アルト師匠は一歩も引かなかった。
18歳の少年とは思えない、戦士のような瞳で嵐を睨んでいる。
その横顔に、私は息を呑んだ。
怖い。彼が遠くへ行ってしまいそうで。
かつて私が殺した、あの幽霊王のように。
「俺が歌う。ココロンは、その隙に核となる『言葉』を抜いてくれ」
「ですが……!」
「行くぞ!」
彼は私の制止を聞かず、荒野の中心へと駆け出した。
黒い風が彼を襲う。
アルト師匠は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
♪――
歌声が響く。
それは、いつもの優しく包み込むような歌ではない。
嵐を切り裂き、怨念をねじ伏せるような、力強く激しいレクイエム。
「お前たちは自由だ!」「帰れ!」という命令コードを含んだ、魂のハッキング。
黒い霧が悲鳴を上げて散っていく。
その隙間から、地面に突き刺さった一本の剣が見えた。
そこだ。あそこに、この場の怨念を統べる「王」のような言葉がある。
私は走った。
風が肌を切り裂く。恐怖で足がすくむ。
けれど、背後から響くアルト師匠の歌声が、私を支えてくれる。
『大丈夫だ』『俺がいる』
彼の歌が、そう叫んでいる。
剣の前にたどり着く。
そこには、錆びついた鎧の幻影が立っていた。
『死にたくない』『まだ何もしていない』『母さん』
無数の声が頭の中に直接響く。
「うっ……!」
私は膝をつきそうになる。
重い。あまりにも重い。
本を開く手が震える。視界が黒く染まっていく。
ダメだ、意識が持っていかれる――。
その時、歌声が変わった。
激しさを増し、喉が張り裂けんばかりの絶唱。
振り返ると、アルト師匠が血を吐いていた。
口元を赤く染めながら、それでも彼は歌うのを止めない。
彼の命が、歌に乗って削られていくのがわかる。
彼は自分の魂を燃料にして、私を守るための結界を維持しているのだ。
「やめて……!」
私は叫んだ。
嫌だ。もう嫌だ。
私のために、誰かが傷つくのは。愛する人が死ぬのは。
「もういい! 逃げて、アルト!」
初めて、彼の名前を呼んだ。
師匠ではない。ただの少年として、愛する人として。
死なせたくない。もう二度と、私の目の前で彼を失いたくない。
けれど、アルトはニカッと笑った。
血に濡れた歯を見せて、不敵に。
「逃げるかよ! 約束しただろ!」
彼は叫ぶように歌う。
「ハッピーエンドにするって、決まってるんだよおおお!」
その咆哮と共に、マロンが金色の光を放って飛び立った。
アルトの歌とマロンの光が合わさり、巨大な光の柱となって天を突く。
その光の中で、私は見た。
鎧の幻影が、穏やかな青年の顔に戻っていくのを。
『ありがとう』
そう聞こえた気がした。
私は最後の力を振り絞り、詠唱する。
**戦場に 散りし命の 花びらは**
**風に抱かれて 故郷へ帰る**
黒い嵐が、一瞬にして光の粒子となって空へ昇っていく。
雲が割れ、夕日が荒野を照らした。
静寂が戻る。
アルト師匠が、糸が切れたように崩れ落ちた。
「アルト!」
私は駆け寄り、彼を抱き起こす。
体は熱く、呼吸は荒い。けれど、心臓は力強く動いている。
生きている。
「……へへ。見たかよ、ココロン」
彼は薄目を開けて、掠れた声で笑った。
「俺、かっこよかっただろ?」
「……ええ。バカで、無茶で、世界一かっこいい師匠です」
私は涙を流しながら、彼の汗ばんだ額に額を押し当てた。
マロンが心配そうに「チチッ……」と鳴き、アルト師匠の頬に寄り添う。
「チチッ……『死ヌカトオモッタ……デモ、ココロンガ名前呼ンデクレタカラ、頑張レタ』」
マロンの小さな呟きに、アルト師匠は「うるせえ」と返す気力もなく、安らかに目を閉じた。
私はその寝顔を見つめながら、強く誓った。
この命に代えても、彼を守り抜くと。
もう二度と、彼を死なせたりはしない。




