第3話:鏡の国の嘘つき少女
霧の深い朝だった。
私とアルト師匠は、山間の小さな村「ミロワール」を歩いていた。
この村には奇妙な特徴がある。家の窓、水瓶、ショーウィンドウ……あらゆる「反射するもの」が布で覆われているのだ。
「ねえココロン、なんか不気味じゃない? 誰も鏡を見てないなんてさ」
アルト師匠がマントの襟を立てながら呟く。
その時、甘く、そして冷たい香水の匂いが漂ってきた。
私の背筋が凍りつく。この匂いは――。
「あら、奇遇ね。こんな辺鄙な場所で会うなんて」
霧の中から、一人の女性が現れた。
紫色のドレスに身を包み、扇子を手にした妖艶な美女。
上級執行官、ヴァイオレット様。私の上司だ。
「ヴァイオレット様……どうしてここに」
「どうして? 決まっているでしょう。あなたの仕事ぶりが心配で、視察に来たのよ」
彼女は扇子で私の顎を持ち上げた。
冷たい瞳が、私を値踏みするように見下ろす。
「今月のノルマ、まだ達成できていないようね? このままじゃ、あなた自身の『処分』も考えなくてはならないわ」
「申し訳ありません……すぐに回収します」
私は震えながら答えた。
逆らえない。彼女は管理者の代行者であり、私を生かすも殺すも彼女次第なのだ。
「あら、そちらの可愛いワンちゃんは?」
ヴァイオレット様の視線が、アルト師匠に向けられた。
彼女は興味深そうに彼に近づき、その頬に触れようとする。
「吟遊詩人? ふうん、美味しそうな魂ね」
バシッ!
アルト師匠が、彼女の手を乱暴に払いのけた。
「触んな。……あんた、嫌な匂いがする」
アルト師匠は私を背に庇い、ヴァイオレット様を睨みつけた。
まるで野生動物が天敵を威嚇するように、全身の毛を逆立てている。
「あら、威勢がいいこと。……まあいいわ。ココロン、この村には上質な『自己否定』が渦巻いている。根こそぎ回収しなさい。一滴も残さずにね」
彼女はそう言い残し、霧の中へと消えていこうとする。
しかし、アルト師匠が呼び止めた。
「待てよ! なんでそんなことさせるんだ! 悲しみを集めて、何になるんだよ!」
ヴァイオレット様は足を止め、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、哀れな子供を見るように冷ややかだった。
「あら、知らないの? この世界の理を」
彼女は扇子を開き、霧の空を指差した。
「この世界は軽すぎる。だから『悲しみ』という重り(アンカー)で、世界を地面に繋ぎ止めている……。そんな理屈は、もちろん知っているわね?」
「……ああ、聞いたことあるよ。くだらねえ理屈だ」
アルト師匠が吐き捨てる。
しかし、ヴァイオレット様は冷たく笑った。
「ええ、そうね。でもね、それは**表向きの理由**なのよ」
「……は?」
「本当はね、あなたたちを成長させて、天界にふさわしい『精錬された魂』にするために必要な作業なのよ」
彼女の声は、氷のように冷たく、そして絶対的だった。
「痛みを知らない魂など、脆くて使い物にならない。傷つき、悩み、反省し、絶望の淵を這いずり回ってこそ、魂は磨かれる。……私たちは、あなたたちを『選別』してあげているのよ。感謝なさい」
彼女は残酷な真実を、さも慈悲のように語った。
幸せは停滞。悲しみこそが進化。
それが、管理者の正義なのだ。
「ふざけんな……! そんなの、ただの実験動物扱いじゃねえか!」
「ええ、そうよ。だから、せいぜい良い声で鳴きなさい」
彼女は冷たく微笑み、霧の中へと消えていった。
残されたのは、重苦しい沈黙と、私の焦燥感だけ。
「……ココロン。あいつ、何者だ?」
「私の上司です。……行きましょう、アルト師匠。仕事をしなければ」
私は逃げるように歩き出した。
アルト師匠は納得いかない顔をしていたが、黙ってついてきてくれた。
***
村の広場には、一人の少女がうずくまっていた。
ボロボロのフードを被り、足元の水たまりを泥で濁している。
「……見るな。見ると呪われるぞ」
少女は私たちに気づくと、鋭い声で威嚇した。
「呪い?」
「そうだ。私は醜い魔女なんだ。神様が私に罰を与えたんだ!」
少女は叫ぶが、私には見える。
彼女の喉元に、棘だらけの黒い塊が詰まっているのが。
それは「自己否定」という名の反省文だ。
ヴァイオレット様が言っていた「上質な獲物」とは、この子のことだ。
私は静かに歩み寄った。
彼女を救いたいのではない。ノルマを達成しなければならない。
自分の保身のために、この子の心を空っぽにするのだ。
「お嬢さん。その『罰』、私がいただきましょうか」
私は彼女の前に膝をつき、本を開く。
事務的に、冷徹に。
「待てよ、ココロン」
アルト師匠が私の腕を掴んだ。
「顔色が悪いぞ。……あいつに言われたから、無理してるんじゃないか?」
「関係ありません。これは私の仕事です」
「仕事? 違うだろ。君は泣いてるじゃないか」
彼の言葉に、ハッとした。
私は泣いている?
頬に触れると、冷たい雫が伝っていた。
「……嫌なんです。本当は、こんなことしたくない」
本音が漏れた。
アルト師匠は優しく私の手を離し、代わりに少女の前にしゃがみ込んだ。
「へえ、罰なのか。そいつは怖いな」
彼は少女のフードをめくり、その顔を見た。
顔の半分を覆う大きな火傷の痕。
「見たな! お前も不幸になるぞ!」
「ならないよ。俺は運命の恋人を探してる途中だから、こんなところで死ねないんだ」
アルト師匠はあっけらかんと笑う。
「でもさ、君の声は綺麗だよ。魔女にしては可愛すぎるんじゃない?」
少女が呆気にとられる。
アルト師匠は立ち上がり、大きく息を吸った。
「ココロン。君がやりたくないなら、俺がやる。俺のやり方でな」
彼は歌い出した。
♪――
ガラスの破片 拾い集めて
君は泣くけど 顔を上げて
傷跡ひとつ それさえ君の
生きた証の 飾り文字
綺麗だよ 誰より君は 綺麗だよ
マロンが「ピルルッ! キラキラ!」と合いの手を入れる。
師匠の歌は、彼女のコンプレックスを「個性」へ、「生きた証」へと肯定していく。
それは、ヴァイオレット様の命令に対する、そしてこの世界のルールに対する、鮮やかな反逆だった。
歌が終わると、少女は呆然とアルト師匠を見つめていた。
そして、おずおずと水たまりを覗き込む。
泥が沈殿し、澄んだ水面に、彼女の顔が映る。
「……変な顔」
彼女は泣き笑いのような表情で呟いた。
「でも、まあ……魔女ってほどじゃない、かな」
少女の喉元から、黒い塊が消えていた。
回収されたのではない。浄化され、光となって消えたのだ。
これではノルマにならない。ヴァイオレット様に叱られる。
けれど。
「……ふふ。完敗ですね、アルト師匠」
私は笑った。
叱責への恐怖よりも、目の前の少女の笑顔が、何倍も尊く感じられたからだ。
霧の晴れた道を、私たちは歩く。
アルト師匠の背中が、また少し大きくなった気がした。
そして、どこかで見ているはずのヴァイオレット様の視線が、背中に冷たく突き刺さっていた。




