第31話:エピローグ・世界で一番騒がしい朝
小鳥のさえずりで目が覚めた。
窓から差し込む日差しが、まぶたをくすぐる。
私は大きく伸びをして、隣を見た。
いない。
ベッドの半分は空っぽで、シーツにはまだ温もりが残っていた。
「……アルト?」
キッチンの方から、カチャカチャという音と、鼻歌が聞こえてくる。
私はガウンを羽織り、リビングへと向かった。
そこには、エプロン姿のアルト(夫)がいた。
彼はフライパンを片手に、軽快なステップを踏んでいる。
「おはよう、ココロン! よく眠れた?」
彼が振り返り、ニカッと笑う。
その笑顔は、世界を救った英雄の顔ではなく、ただの幸せな新婚夫の顔だった。
「おはようございます、あなた。……いい匂いですね」
「だろ? 今日は俺が朝飯当番だからな。特製フレンチトーストだ!」
彼が得意げに皿を差し出す。
そこに乗っていたのは、見事に黒焦げになったパンの塊だった。
「……あら。独創的な焼き加減ですね」
「うっ……火力が強すぎたかも。でも、味は保証するぜ! 愛が隠し味だからな!」
彼はウィンクしてみせる。
私は吹き出しそうになるのを堪え、席に着いた。
世界は変わった。
女神様がシステムを書き換えてから、空から黒い雨が降ることはなくなった。
人々は自由に笑い、泣き、そして愛し合っている。
「反省文」の提出義務もなくなり、詩篇姫という職業も廃止された。
私は今、ただのココロンとして、彼と一緒に暮らしている。
「いただきます」
焦げたフレンチトーストを一口食べる。
苦い。でも、甘い。
かつて第2話で、パン屋の老人が言っていた「愛の味」とは、こういうことだったのかもしれない。
「どう? うまい?」
アルトが心配そうに覗き込んでくる。
「ええ。世界で一番美味しいです」
「よっしゃあ!」
彼がガッツポーズをする。
その無邪気な笑顔が愛おしくて、私は立ち上がり、彼の頬にそっとキスをした。
「……っ!」
アルトが真っ赤になる。
彼は周りをキョロキョロと見回した。
「だ、大丈夫か? マロンはまだ寝てるよな?」
「ええ、きっと。あの子は朝が弱いですから」
「よし、今のうちに……」
彼は安心したように、私の腰に手を回し、今度は唇にキスをしようと顔を近づけてきた。
二人の距離が縮まる。
吐息が触れ合う距離。
その時。
テーブルの上のフルーツバスケットから、茶色い影がぬっと現れた。
「チチッ! 『オハヨウ! 朝チュッ! 朝チュッ! 見テルゾ~!』」
マロンだ。
彼はリンゴの陰に隠れて、バッチリ見ていたのだ。
「うわあああっ!!」
アルトが飛び上がった。
あまりの驚きに、椅子から転げ落ちそうになる。
「マ、マロン! お前、いつからそこに!?」
「『ズットイタ! イチャイチャ見テタ! ヒューヒュー!』」
マロンは翼をパタパタさせて囃し立てる。
アルトは顔を真っ赤にして、必死に弁解しようとする。
「ち、違うんだ! これはその、挨拶というか、スキンシップというか……!」
私はクスクスと笑いながら、コーヒーを啜った。
別に隠すことなんてないのに。私たちは夫婦なのだから。
「あら、いいじゃありませんか。マロンも仲間に入れてあげましょうか?」
「ダメだ! 教育に悪い!」
アルトが叫ぶ。
しかし、彼はふと真顔になり、ため息をついた。
「……ていうかさ。こいつ、こう見えて俺より年上なんだぜ?」
「えっ?」
私は驚いてマロンを見た。
愛らしい小鳥。どう見ても子供にしか見えないけれど。
「実はこいつ、俺が孤児院に来る前から住み着いてるんだ。シスターが言ってた。『あの鳥は私が子供の頃からいるわよ』って」
「ええっ!?」
シスター・クララは50代だ。ということは、マロンは少なくとも……。
「チチッ! 『敬エ! 若造! 人生ノ先輩ダゾ!』」
マロンがふんぞり返る。
その姿が、急に貫禄ある長老のように……は見えず、やっぱりただの可愛い小鳥だ。
「……なるほど。では、マロン『さん』とお呼びした方がいいかしら?」
「『ウム! ……デモ、ナデナデハシテ! エサモ欲シイ!』」
威厳を保とうとしたのは一瞬で、すぐに甘えん坊に戻ってしまった。
やっぱりマロンはマロンだ。
「調子に乗るな! ほら、リンゴやるから!」
アルトがリンゴの一切れを差し出すと、マロンは「ワーイ!」と飛びついた。
年上だろうが何だろうが、この食い意地だけは変わらないらしい。
リビングは朝から大騒ぎだ。
私は新しい詩集(今は日記帳として使っている)を開き、今日の日付を書き込んだ。
『今日も、世界は騒がしくて、最高に幸せです』
ペンを置き、私は彼らを追いかけた。
私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
ハッピーエンドのその先へ。
愛の歌を響かせながら、どこまでも歩いていこう。
(全31話 完)




